評価点:92点/2005年/アメリカ
監督・原案・脚本:ポール・ハギス
偶然と必然が生み出すドラマ。
クリスマスのロサンゼルス。
刑事は事件現場に急ぐ。
若者が殺されたといわれ、刑事が死体を見つけると、その刑事は表情を豹変させた。
その一日前、若い二人の黒人、アンソニー(リュダクリス)とピーター(ランツ・テイト)は、前を通りかかった白人の夫婦が、自分たちを避けて通ろうとしたことに逆上、その白人の車を盗んでしまう。
一方、雑貨店を経営するペルシャ人のファハド(ショーン・トーブ)は、護身用の拳銃を買おうとすると、あからさまに店員の態度が悪いこと腹を立てる。
娘が父を抑えて、どうにか拳銃を購入するが、ガンショップの店主は二人をイラク人と勘違いしていた。
そして、数多くの人間を巻き込んで、偶然と必然の物語が始まる――。
2006年度のオスカーの作品賞、脚本賞、編集賞を受賞した作品。
今回はオスカー作品があまり日本で話題になっていない作品で、しかも発表当時、公開していなかったこともあり、日本での話題性はイマイチだったようだ。
かくいう僕も、まったくニュースやそのほかで情報を仕入れていなかったために、どんな映画かも知らずに観に行った。
社会的な話が好きなオスカーの審査員たちのストライクゾーンを直球でえぐるような作品である。
ただし、軽い話ではないし、わかりやすい話でもない。
人種差別が一つのモティーフになっているため、日本人にはちょっとわかりづらい面もある。
社会的な問題をはらんでいる作品であるが、それはともかくとして、良質の人間ドラマが展開されていることは間違いない。
僕のように、「アメリカン・ビューティー」あたりが好きな人は、けっこうイケルのではないか。
いわゆる群像劇だが、それほど複雑ではない。
言葉にすると複雑な人間関係になっているが、すんなり見ることが出来るので、その点に心配はいらないだろう。
僕としては、ぜひ、多くの人に観に行ってほしい。
▼以下はネタバレあり▼
【この映画は現実そのものか】
この映画は非常に多角的な視座を持つ映画である。
だから、一言で言い切ることはできないし、どこを中心に観ようとするかによって、見えてくるものが違うだろう。
観た後、仲の良い友達などで議論をしたくなるような、そんな映画だ。
それはもちろん、出来不出来の議論ではない。
間違いなく完成度は高い。
その完成度故に、「ああでもない」「こうでもない」と言いたくなるのである。
アメリカが深刻な人種差別を抱えていることは、おそらくご存じだろう。
アメリカは自由の国だ、と言われている一方、その自由さが手伝って、多種多様な民族を抱える国でもある。
原住民、白人、黒人、アジア人、中東……。
大きな国土をもっているが、それと同時に、これだけ入り組んだ人種を抱える国もない。
実際にはニューヨークやロスなどの、大都市だけが人種の入り乱れた都市であり、あとは棲み分けが結構できているようだ。
(藤原新也「アメリカ」による)
それでも、アメリカ大統領には絶対に黒人はなれないだろうし、女性が大統領になることもない。(注※)
生まれながらにして決定的に生き方を強要されるのは、他の多くの国と同じである。
その意味で、日本ほど、「平等」を実践している国はないだろう。
自由や平等を掲げる国だが、実際にはそんなことはない。
アメリカのGNPが伸びている現実があるのは、経済格差(賃金格差)があり、賃金の安い労働者がアメリカ国内に大量にいるからだ。
映画で言えば、かならず黒人と白人が登場する。
しかも、黒人だけが悪役や白人だけが善玉という対立になっていない。
それは人種差別に敏感なメディアが、配慮しているからである。
そんなアメリカの現実を真っ向から描こうとしたのが、この「クラッシュ」なのである。
いまから、映画について触れていくが、一つだけ注意点がある。
それは、「クラッシュ」 = アメリカの現実というのも、また違う、と言うことだ。
この映画一作をもってしてアメリカの現実を描いているとはとうてい言えない。
もっとひどい一面もあるだろうし、もっと差別の少ない地域もあるだろう。
この映画を観ただけで、「アメリカってひどいな~」などという一元的な見方はしないほうが無難だ。
やはりこの映画は映画に携わった人々の心にある「現実」を描いた作品であって、それがイコール現実の「アメリカ」ではないということだ。
当たり前のようだが、こういった思考に陥りやすいのが無知な人間なのだ。
もちろん、アメリカに行ったこともないのに、こんなに知ったかぶりで語る僕も、含まれている。
【クラッシュする必然】
この映画が、単なる差別批判の映画になっていないのは、描かれる差別、被差別が、ともに、その人物の根幹に関わるものであるからだ。
LAに住む人々は、みな差別に苦しんでいる。
しかし、それが単なる差別に留まらず、その人が生きていく上でのアイデンティティを形成しているのだ。
それが見事に描かれているため、人種差別という問題が、非常に深い根のある、決定的なものであることが、示されるのである。
登場人物が多いため、非常に複雑な物語になっているが、大きく分けて三つのドラマがある。
一つは、車泥棒の二人と、被害者のプロット。
もう一つは、差別主義者の警官とその相棒のプロット。
そして最後にペルシャ人の親娘のプロット。
複雑だが、大きく分けて三つのプロットが微妙に関わっているだけである。
人物の多さの割には、観ていて大きなとまどいはなかったはずだ。
多くの人物がすっきりとした形でとらえられるのは、プロットの単純さだけではなく、人物の描き分けがしっかりしているからである。
それは、先に書いた差別とアイデンティティというつながりが、明確であることとも共通する。
例えば、差別主義者のライアン巡査。
彼は観客に嫌悪感さえ抱かせるほどの差別主義者である。
しかし、それには彼の根幹をなす理由がある。
父親が黒人達を白人並みの給料で雇っていたのにもかかわらず、政府の政策によって会社が倒産してしまう。
惨めに病気に悩む父親の姿を見ることで、「黒人達によくしてやった見返りがこれなのか」と怒りと悲しみを覚えるのだ。
彼も、頭ではわかっている。
黒人を恨むことが、最善ではないことはわかっているのだろう。
しかし、それでも尊敬する父親の惨めな姿を見るたびに、無邪気に笑う黒人や黄色人種たちが許せなくなるのだ。
しかも、黒人達は、ただ差別される対象というだけではない。
差別されることから、どんどん悪い方向へ抜け出せなくなっていく。
つまり、警官をしているライアンにとって、黒人がいかに犯罪に手を染めて、白人を陥れているか、知っているのだ。
だから、怒りは増幅されていく。
そんなことをしても、何も状況は変わらないだろ、と無責任な博愛主義者は言うだろう。
しかし、それが彼の「アイデンティティ」そのものなのだ、という反論に、一体どんな「正論」が通用するだろうか。
黒人達も同様だ。
彼らは差別されることに疲れてる。
そして、何よりそこから抜け出すことができない。
車を盗んでしまうアンソニーも例外ではない。
最下層に位置づけられるであろう彼も、白人に差別され続ける人間の一人だ。
しかし、一方的に差別されることで、白人への犯罪という「反発」を起こす人間だ。
こうしたことで、さらに大きな差別を生むことは目に見えている。
「だから黒人は差別されても仕方がないんだ」
「おまえらが差別的な扱いをしなければ黒人だって、マトモに生きていくことができるのに」
両者の対立は、非常に激しいものでありながら、それが既成事実化している。
そんな彼らには、お高くとまっている白人をみると、許せなくなるのだ。
地方知事の車を盗んでしまうのは、怒りと悲しみ、そして憎しみの衝動だろう。
「あいつ俺をみて避けようとしやがった!」
しかし、犯罪 = 黒人の町で、黒人を避ける白人を責められるだろうか。
ここにも根深い日常的差別意識がある。
ペルシャ人なのに、イラク人と間違われる雑貨店の親娘も、また、根深い。
白人からすれば、肌の色が近い、顔の造形が似ている、それだけであの「9・11」のテロを思い出すのだ。
明らかに間違った知識だが、あのテロの影響は小さくない。
ペルシャ人でありながら、テロリストと同列に扱われるファハドは、護身用の銃もマトモに購入できない。
ささいな喧嘩からドアの修理を怠ったため、店をめちゃめちゃに壊されてしまう。
ファハドからすれば、その店は最後の砦だったのだ。
冷たい世間から、守り抜くべき最も具体的な財産であり、生きる場所――アイデンティティとも言える店だったのだ。
怒りの矛先は当然、ドアを修理しなかった男へと向かう。
彼らは、「人種差別」という状況の中で、必死に生きている。
それは、彼らの出生や血統、生きる全てを包括した問題なのだ。
まさに、あってはならない「必然」の中で暮らしているのである。
だが、彼らもまた生き物だ。
様々な「偶然」の中を生きていることもまた事実なのだ。
【クラッシュする偶然】
怒りをため込んだ銃を、ファハドは修理工のダニエル個人に向けてしまう。
買ったばかりの銃。自分を守るための銃で、ほとんど罪のない男を殺そうとする。
飛び出してきた幼いダニエルの娘に、銃口が向けられ、発砲される。
このシークエンスは、いくつかの偶然によって空砲に終わる。
まず、ファハドの娘が買った弾が空砲だったこと。
それまでその銃が発砲されることがなかったこと。
そして、ダニエルが娘に、透明なマントを授けていたこと。
あまりにできすぎた偶然であるが故に、ちょっと映画的な作為を感じるが、それまでの「必然」が完璧であるため、「偶然」に感動してしまう。
かくも人は弱いのか。
そして、どれだけ人が人を憎んでいたとしても、やはり「人間」なのだ、ということである。
愛も、憎しみも、おなじ心の器に同居させているのだ、ということを、示してくれるのだ。
偶然はそれだけではない。
交通事故が起こり、その現場に駆けつけたのはあのライアン巡査。
状況は悲惨であり、漏れたガソリンがいつ引火するかわからない危険な状況。
被害者は、数時間前高圧的で、陵辱的な取り調べをした黒人女性。
ライアンは、助けなければならないという衝動から、嫌がる女性を無理矢理説得し、助け出そうとする。
引火し、爆発するかもしれない状況の中で、あれほど嫌がっていた黒人を、命がけで助け出す。
息を切らしたライアンが助け出したクリスティンを見つめる目は、安堵ではなかった。
明らかに「戸惑い」だった。
なぜ俺は命がけで、黒人なんかを助けたのだろうか。
後悔しているという意味での疑問ではない。
あれほど嫌っていたのに、見捨てたとしても誰にもその過失を問われることのない状況なのに、なぜ助けたのだろう。
僕にはそのように見えた。
そこから僕は想像する。
ライアンは警官であることを誇りに思っている、そんな人間だった。
しかし、父親への理不尽な仕打ちを目の当たりにし、ゆがんでしまう。
ゆがんでしまったのも、強い正義感が元々あったからなのかもしれない。
信じていた正義では何も出来ないことを、知ってしまったのだ。
それから差別主義者になり、強い正義感が向かっていたベクトルを、真逆に向けてしまう。
だから、クリスティンを助けたのだ。
助けてしまったのだ。
おそらく、勝手に体が動いたのだろう。
衝動的に、助け出そうと思ったのだろう。
彼にも、偶然が舞い降りたのだ。
僕が想像するに、この後、ライアンは再び差別主義者へと戻っていくだろう。
現実はそれほど甘くはない。
けれども、何かの変化をもたらしたのだ、と僕は信じたい。
しかし、良い「偶然」ばかりではない。
偶然は最も残酷な形でも訪れる。
差別主義者の相棒ライアンがどうしても我慢できなかった警官ハンセンは、仕事の帰り、ヒッチハイクしていた黒人を乗せる。
乗せたのは黒人に対して差別しないぞ、という宣言だったのだろう。
黒人との会話がうまくいかなくなっていき、
黒人がポケットから何かを取り出そうとした瞬間、ハンセンは銃の引き金を引く。
完全に勘違いの過失である。
しかも、警官の制服を着ていない。
公務執行妨害の類の殺人ですらない。
彼が殺してしまった背景が、まさにアメリカに影を落とす差別意識そのものなのだろう。
ハンセンは努めて差別したくないと考えていた。
しかし撃ち殺してしまったのだ。
頭ではない。
感覚的に、黒人が怖いと思ってしまう自分がいたのだ。
その意識そのもの、無意識そのものが、差別なのである。
人種差別に最も嫌悪を感じていた若者が、ささいな不安から殺してしまう。
これが、人の心の怖さであり、現実なのである。
登場人物が多いので、全部を「解体」することはできない。
このあたりで閉じよう。
この映画が目指しているところは、人種差別への批判ではないだろう。
もちろん、差別をなくしたいという思いはあるに違いない。
しかし、主題は、むしろ、「人間」への希望ではないか、と思うのだ。
あまりに残酷で、あまりに不純で、あまりに醜悪。
けれど、なんと素晴らしいのか。
そのことを伝えるための映画ではなかったか、と思う。
とにかく、無駄なシーンは一瞬もない。
完成度は高い。
(2006/4/6執筆)
※僕はこれを書いた三年前、黒人が大統領になれるなんてつゆほども思っていなかった。
オバマが、混血ではあれ、大統領に就任できたということは、一つの歴史の変革を感じる。
アメリカがそれほどまで切羽詰まった状況に追い込まれているのだということでもある。
彼が大統領になることで、黒人への差別はなくなったのか。
僕はそこまで甘いものではないと思う。
アメリカが真価を発揮するのは、これからだ。
監督・原案・脚本:ポール・ハギス
偶然と必然が生み出すドラマ。
クリスマスのロサンゼルス。
刑事は事件現場に急ぐ。
若者が殺されたといわれ、刑事が死体を見つけると、その刑事は表情を豹変させた。
その一日前、若い二人の黒人、アンソニー(リュダクリス)とピーター(ランツ・テイト)は、前を通りかかった白人の夫婦が、自分たちを避けて通ろうとしたことに逆上、その白人の車を盗んでしまう。
一方、雑貨店を経営するペルシャ人のファハド(ショーン・トーブ)は、護身用の拳銃を買おうとすると、あからさまに店員の態度が悪いこと腹を立てる。
娘が父を抑えて、どうにか拳銃を購入するが、ガンショップの店主は二人をイラク人と勘違いしていた。
そして、数多くの人間を巻き込んで、偶然と必然の物語が始まる――。
2006年度のオスカーの作品賞、脚本賞、編集賞を受賞した作品。
今回はオスカー作品があまり日本で話題になっていない作品で、しかも発表当時、公開していなかったこともあり、日本での話題性はイマイチだったようだ。
かくいう僕も、まったくニュースやそのほかで情報を仕入れていなかったために、どんな映画かも知らずに観に行った。
社会的な話が好きなオスカーの審査員たちのストライクゾーンを直球でえぐるような作品である。
ただし、軽い話ではないし、わかりやすい話でもない。
人種差別が一つのモティーフになっているため、日本人にはちょっとわかりづらい面もある。
社会的な問題をはらんでいる作品であるが、それはともかくとして、良質の人間ドラマが展開されていることは間違いない。
僕のように、「アメリカン・ビューティー」あたりが好きな人は、けっこうイケルのではないか。
いわゆる群像劇だが、それほど複雑ではない。
言葉にすると複雑な人間関係になっているが、すんなり見ることが出来るので、その点に心配はいらないだろう。
僕としては、ぜひ、多くの人に観に行ってほしい。
▼以下はネタバレあり▼
【この映画は現実そのものか】
この映画は非常に多角的な視座を持つ映画である。
だから、一言で言い切ることはできないし、どこを中心に観ようとするかによって、見えてくるものが違うだろう。
観た後、仲の良い友達などで議論をしたくなるような、そんな映画だ。
それはもちろん、出来不出来の議論ではない。
間違いなく完成度は高い。
その完成度故に、「ああでもない」「こうでもない」と言いたくなるのである。
アメリカが深刻な人種差別を抱えていることは、おそらくご存じだろう。
アメリカは自由の国だ、と言われている一方、その自由さが手伝って、多種多様な民族を抱える国でもある。
原住民、白人、黒人、アジア人、中東……。
大きな国土をもっているが、それと同時に、これだけ入り組んだ人種を抱える国もない。
実際にはニューヨークやロスなどの、大都市だけが人種の入り乱れた都市であり、あとは棲み分けが結構できているようだ。
(藤原新也「アメリカ」による)
それでも、アメリカ大統領には絶対に黒人はなれないだろうし、女性が大統領になることもない。(注※)
生まれながらにして決定的に生き方を強要されるのは、他の多くの国と同じである。
その意味で、日本ほど、「平等」を実践している国はないだろう。
自由や平等を掲げる国だが、実際にはそんなことはない。
アメリカのGNPが伸びている現実があるのは、経済格差(賃金格差)があり、賃金の安い労働者がアメリカ国内に大量にいるからだ。
映画で言えば、かならず黒人と白人が登場する。
しかも、黒人だけが悪役や白人だけが善玉という対立になっていない。
それは人種差別に敏感なメディアが、配慮しているからである。
そんなアメリカの現実を真っ向から描こうとしたのが、この「クラッシュ」なのである。
いまから、映画について触れていくが、一つだけ注意点がある。
それは、「クラッシュ」 = アメリカの現実というのも、また違う、と言うことだ。
この映画一作をもってしてアメリカの現実を描いているとはとうてい言えない。
もっとひどい一面もあるだろうし、もっと差別の少ない地域もあるだろう。
この映画を観ただけで、「アメリカってひどいな~」などという一元的な見方はしないほうが無難だ。
やはりこの映画は映画に携わった人々の心にある「現実」を描いた作品であって、それがイコール現実の「アメリカ」ではないということだ。
当たり前のようだが、こういった思考に陥りやすいのが無知な人間なのだ。
もちろん、アメリカに行ったこともないのに、こんなに知ったかぶりで語る僕も、含まれている。
【クラッシュする必然】
この映画が、単なる差別批判の映画になっていないのは、描かれる差別、被差別が、ともに、その人物の根幹に関わるものであるからだ。
LAに住む人々は、みな差別に苦しんでいる。
しかし、それが単なる差別に留まらず、その人が生きていく上でのアイデンティティを形成しているのだ。
それが見事に描かれているため、人種差別という問題が、非常に深い根のある、決定的なものであることが、示されるのである。
登場人物が多いため、非常に複雑な物語になっているが、大きく分けて三つのドラマがある。
一つは、車泥棒の二人と、被害者のプロット。
もう一つは、差別主義者の警官とその相棒のプロット。
そして最後にペルシャ人の親娘のプロット。
複雑だが、大きく分けて三つのプロットが微妙に関わっているだけである。
人物の多さの割には、観ていて大きなとまどいはなかったはずだ。
多くの人物がすっきりとした形でとらえられるのは、プロットの単純さだけではなく、人物の描き分けがしっかりしているからである。
それは、先に書いた差別とアイデンティティというつながりが、明確であることとも共通する。
例えば、差別主義者のライアン巡査。
彼は観客に嫌悪感さえ抱かせるほどの差別主義者である。
しかし、それには彼の根幹をなす理由がある。
父親が黒人達を白人並みの給料で雇っていたのにもかかわらず、政府の政策によって会社が倒産してしまう。
惨めに病気に悩む父親の姿を見ることで、「黒人達によくしてやった見返りがこれなのか」と怒りと悲しみを覚えるのだ。
彼も、頭ではわかっている。
黒人を恨むことが、最善ではないことはわかっているのだろう。
しかし、それでも尊敬する父親の惨めな姿を見るたびに、無邪気に笑う黒人や黄色人種たちが許せなくなるのだ。
しかも、黒人達は、ただ差別される対象というだけではない。
差別されることから、どんどん悪い方向へ抜け出せなくなっていく。
つまり、警官をしているライアンにとって、黒人がいかに犯罪に手を染めて、白人を陥れているか、知っているのだ。
だから、怒りは増幅されていく。
そんなことをしても、何も状況は変わらないだろ、と無責任な博愛主義者は言うだろう。
しかし、それが彼の「アイデンティティ」そのものなのだ、という反論に、一体どんな「正論」が通用するだろうか。
黒人達も同様だ。
彼らは差別されることに疲れてる。
そして、何よりそこから抜け出すことができない。
車を盗んでしまうアンソニーも例外ではない。
最下層に位置づけられるであろう彼も、白人に差別され続ける人間の一人だ。
しかし、一方的に差別されることで、白人への犯罪という「反発」を起こす人間だ。
こうしたことで、さらに大きな差別を生むことは目に見えている。
「だから黒人は差別されても仕方がないんだ」
「おまえらが差別的な扱いをしなければ黒人だって、マトモに生きていくことができるのに」
両者の対立は、非常に激しいものでありながら、それが既成事実化している。
そんな彼らには、お高くとまっている白人をみると、許せなくなるのだ。
地方知事の車を盗んでしまうのは、怒りと悲しみ、そして憎しみの衝動だろう。
「あいつ俺をみて避けようとしやがった!」
しかし、犯罪 = 黒人の町で、黒人を避ける白人を責められるだろうか。
ここにも根深い日常的差別意識がある。
ペルシャ人なのに、イラク人と間違われる雑貨店の親娘も、また、根深い。
白人からすれば、肌の色が近い、顔の造形が似ている、それだけであの「9・11」のテロを思い出すのだ。
明らかに間違った知識だが、あのテロの影響は小さくない。
ペルシャ人でありながら、テロリストと同列に扱われるファハドは、護身用の銃もマトモに購入できない。
ささいな喧嘩からドアの修理を怠ったため、店をめちゃめちゃに壊されてしまう。
ファハドからすれば、その店は最後の砦だったのだ。
冷たい世間から、守り抜くべき最も具体的な財産であり、生きる場所――アイデンティティとも言える店だったのだ。
怒りの矛先は当然、ドアを修理しなかった男へと向かう。
彼らは、「人種差別」という状況の中で、必死に生きている。
それは、彼らの出生や血統、生きる全てを包括した問題なのだ。
まさに、あってはならない「必然」の中で暮らしているのである。
だが、彼らもまた生き物だ。
様々な「偶然」の中を生きていることもまた事実なのだ。
【クラッシュする偶然】
怒りをため込んだ銃を、ファハドは修理工のダニエル個人に向けてしまう。
買ったばかりの銃。自分を守るための銃で、ほとんど罪のない男を殺そうとする。
飛び出してきた幼いダニエルの娘に、銃口が向けられ、発砲される。
このシークエンスは、いくつかの偶然によって空砲に終わる。
まず、ファハドの娘が買った弾が空砲だったこと。
それまでその銃が発砲されることがなかったこと。
そして、ダニエルが娘に、透明なマントを授けていたこと。
あまりにできすぎた偶然であるが故に、ちょっと映画的な作為を感じるが、それまでの「必然」が完璧であるため、「偶然」に感動してしまう。
かくも人は弱いのか。
そして、どれだけ人が人を憎んでいたとしても、やはり「人間」なのだ、ということである。
愛も、憎しみも、おなじ心の器に同居させているのだ、ということを、示してくれるのだ。
偶然はそれだけではない。
交通事故が起こり、その現場に駆けつけたのはあのライアン巡査。
状況は悲惨であり、漏れたガソリンがいつ引火するかわからない危険な状況。
被害者は、数時間前高圧的で、陵辱的な取り調べをした黒人女性。
ライアンは、助けなければならないという衝動から、嫌がる女性を無理矢理説得し、助け出そうとする。
引火し、爆発するかもしれない状況の中で、あれほど嫌がっていた黒人を、命がけで助け出す。
息を切らしたライアンが助け出したクリスティンを見つめる目は、安堵ではなかった。
明らかに「戸惑い」だった。
なぜ俺は命がけで、黒人なんかを助けたのだろうか。
後悔しているという意味での疑問ではない。
あれほど嫌っていたのに、見捨てたとしても誰にもその過失を問われることのない状況なのに、なぜ助けたのだろう。
僕にはそのように見えた。
そこから僕は想像する。
ライアンは警官であることを誇りに思っている、そんな人間だった。
しかし、父親への理不尽な仕打ちを目の当たりにし、ゆがんでしまう。
ゆがんでしまったのも、強い正義感が元々あったからなのかもしれない。
信じていた正義では何も出来ないことを、知ってしまったのだ。
それから差別主義者になり、強い正義感が向かっていたベクトルを、真逆に向けてしまう。
だから、クリスティンを助けたのだ。
助けてしまったのだ。
おそらく、勝手に体が動いたのだろう。
衝動的に、助け出そうと思ったのだろう。
彼にも、偶然が舞い降りたのだ。
僕が想像するに、この後、ライアンは再び差別主義者へと戻っていくだろう。
現実はそれほど甘くはない。
けれども、何かの変化をもたらしたのだ、と僕は信じたい。
しかし、良い「偶然」ばかりではない。
偶然は最も残酷な形でも訪れる。
差別主義者の相棒ライアンがどうしても我慢できなかった警官ハンセンは、仕事の帰り、ヒッチハイクしていた黒人を乗せる。
乗せたのは黒人に対して差別しないぞ、という宣言だったのだろう。
黒人との会話がうまくいかなくなっていき、
黒人がポケットから何かを取り出そうとした瞬間、ハンセンは銃の引き金を引く。
完全に勘違いの過失である。
しかも、警官の制服を着ていない。
公務執行妨害の類の殺人ですらない。
彼が殺してしまった背景が、まさにアメリカに影を落とす差別意識そのものなのだろう。
ハンセンは努めて差別したくないと考えていた。
しかし撃ち殺してしまったのだ。
頭ではない。
感覚的に、黒人が怖いと思ってしまう自分がいたのだ。
その意識そのもの、無意識そのものが、差別なのである。
人種差別に最も嫌悪を感じていた若者が、ささいな不安から殺してしまう。
これが、人の心の怖さであり、現実なのである。
登場人物が多いので、全部を「解体」することはできない。
このあたりで閉じよう。
この映画が目指しているところは、人種差別への批判ではないだろう。
もちろん、差別をなくしたいという思いはあるに違いない。
しかし、主題は、むしろ、「人間」への希望ではないか、と思うのだ。
あまりに残酷で、あまりに不純で、あまりに醜悪。
けれど、なんと素晴らしいのか。
そのことを伝えるための映画ではなかったか、と思う。
とにかく、無駄なシーンは一瞬もない。
完成度は高い。
(2006/4/6執筆)
※僕はこれを書いた三年前、黒人が大統領になれるなんてつゆほども思っていなかった。
オバマが、混血ではあれ、大統領に就任できたということは、一つの歴史の変革を感じる。
アメリカがそれほどまで切羽詰まった状況に追い込まれているのだということでもある。
彼が大統領になることで、黒人への差別はなくなったのか。
僕はそこまで甘いものではないと思う。
アメリカが真価を発揮するのは、これからだ。
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