評価点:73点/2013年/アメリカ/98分
監督・脚本:ウッディ・アレン
すべてを失っても失えない女の業とは。
ジャスミンと名乗るジャネット(ケイト・ブランシェット)は、大富豪の夫ハル(アレック・ボールドウィン)と暮らしていたが、夫の不正取引が発覚し、一文無しになった。
夫は自殺、ジャスミンも大半の財産を差し押さえられて、義妹のジンジャーの元(サリー・ホーキンス)へやってきた。
それまでまともに働いたことがなかったジャスミンは、西部の一般の暮らしになじめない。
プライドだけ高い、いつまでも過去の自慢を話す彼女に周りは辟易していた。
再起のためインテリア・デザイナーを目指そうとする彼女は、ネット教室に通い始めるが……。
ウッディ・アレンほど映画への情熱を忘れずにコンスタントに作品を発表している監督も珍しい。
しかも、なんと80歳手前。
彼が次に選んだ題材は、何とも悲しい女の転落劇だった。
オスカーで主演女優賞に輝いたのは、ジャスミン役のケイト・ブランシェット。
様々な役を射止めてきた彼女は、オスカーも納得の「かわいそうな女」を演じている。
さすがウッディ・アレンという作品で、上映時間もさることながら、非常に小気味良い。
あまり多くの映画館でやっているわけではないが、一見の価値はある作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を見にいこうと決めたきっかけは、前田有一氏の「超映画批評」で「今週のおすすめ」になっていたからだ。
ネタバレ無しのこのサイトはよく私もチェックするのだが、その記事に惹かれたからだ。
読んだ人は分かるが、その記事を読んでしまったからこそ、この映画を見るときに彼が書いていた「あまりにショッキングな落ちに圧倒される」という内容が気になっていた。
だから、この映画は残念ながら、かなり「構えて」見ていた。
彼の批評が逆に私の読みをミスリードしていたことは間違いない。
そんなつもりはなくても、その「ちゃぶ台返し」といわれた真相を解き明かそうという文章になっているかもしれないが、それはそういう理由である。
物語は失う前と失った後のジャスミンについて描かれている。
転落する前と転落した後。
具体的には夫が捕まり、土地家財道具すべてが差し押さえられてしまい、無一文になる前と後、である。
自然と物語の収束点は、ジャスミンが全てを失った後どうなるのか、ではなく「なぜ失ってしまったのか」というきっかけであることが分かってくる。
夫はロープで自殺をして首の骨を折り、裁判になり、全てのものが差し押さえられて、仕方がないのでロスの妹の広くない部屋に転がり込む。
彼女はパニック障害を患い人が多いところや狭いところを極端に避けるようになる。
しかし、浪費癖は納まっておらず、かつての生活を取り戻したくて周りを見下している。
どう考えてもイタイ女であるのだが、外堀が埋まっていけばいくほど、「なぜ失ったのか」という点が黒い闇のように残ってしまう。
そしてラストにそれが明かされる。
彼女は夫が自分以外の人間と恋に落ち、本気で離婚を決意していることを知った。
そこで、それまで黙っていた夫の不正行為を全てFBIにぶちまけたのだ。
妻名義(ジャスミン)の口座も複数あったのに、なぜ彼女だけ捕まらなかったのだろう。
なぜ彼女だけ無一文とはいえ、法に裁かれることがなかったのか。
それは、彼女がすべて夫を売ったことにある。
彼女はずっと夫がどんな悪事を働いてお金を稼いでいたのか、知っていたのだ。
「私には金融はさっぱりなの」と良いながら、ジンジャーのお金を返ってくるはずのない投資につぎ込ませて自分たちがたらふく儲けることを推奨していた。
彼女は「おバカなかわいそうなセレブ」ではなく、彼女こそが「欲望にまみれた守銭奴」そのものだったのだ。
ジャスミンは、夫が真剣に別れることを決意していることを知り、自分が全ての富を失うことを知った。
そこで、夫を売ることで、自分を守ろうとしたのだ。
全て無くすくらいなら、すべて壊してやろうと。
彼女はそれ以来、「あのときはこんなにすばらしかった」とつぶやきながら、自分がしてしまった取り返しの付かないことに対して逃げ続ける。
なるほど、彼女は後悔はしているだろう。
夫の告白によって決意したあの電話をせずに、うまく別れた方がお金を引き出せたかも知れない。
彼女にはその程度の後悔しかない。
だから、すぐに下院議員を狙っている新しいセレブに抱かれるのだ。
彼女の病は、パニック障害では決してない。
彼女の病は、お金が好きすぎてどうしようもない、という底なしの欲望のほうである。
笑えないのは、息子の告白だ。
息子は心を病み、大学を辞めて家を出る。
病んだ理由は「父親の仕事」のせいではない。
母親が「母親ではなかった」という事実だ。
父親との愛情のかけらもなく、ましてや母親として立ち振る舞おうという素振りしか見せなかった。
その絶望とはどれほどのものだろうか。
尊敬していた父親は仕事を失い、母親はそのことを陥れたのだ。
挙げ句の果てに、「私にはあなたが必要だったのよ」と母親に詰問される始末だ。
そう訴える母親は、美しい同情を買うだろうか。
それとも、どこまで「自分がかわいいのだ」と冷徹に軽蔑するだろうか。
この映画の残酷なところは、彼女は全く変わらないということだ。
彼女はいくらか後悔しながら、強烈に嫌われながら、それでも彼女は生き方を変えることはできない。
しがない歯科医に言い寄られるくらいが、彼女相応の出会いなのに、彼女はそれを見つめられない。
彼女が失ったのは夫ではなく、息子でもなく、お金だからだ。
この映画、過去も現在もどのシークエンスもどきどきさせられる。
どの人物もどこか危うさをもった人々ばかりだからだ。
パンフレットの解説ではラストのジャスミンに対して「ウッディ・アレンは温かく見守る」というような事を書いてあったが、真逆だろう。
これほど怖いサスペンスも、そうはない。
監督・脚本:ウッディ・アレン
すべてを失っても失えない女の業とは。
ジャスミンと名乗るジャネット(ケイト・ブランシェット)は、大富豪の夫ハル(アレック・ボールドウィン)と暮らしていたが、夫の不正取引が発覚し、一文無しになった。
夫は自殺、ジャスミンも大半の財産を差し押さえられて、義妹のジンジャーの元(サリー・ホーキンス)へやってきた。
それまでまともに働いたことがなかったジャスミンは、西部の一般の暮らしになじめない。
プライドだけ高い、いつまでも過去の自慢を話す彼女に周りは辟易していた。
再起のためインテリア・デザイナーを目指そうとする彼女は、ネット教室に通い始めるが……。
ウッディ・アレンほど映画への情熱を忘れずにコンスタントに作品を発表している監督も珍しい。
しかも、なんと80歳手前。
彼が次に選んだ題材は、何とも悲しい女の転落劇だった。
オスカーで主演女優賞に輝いたのは、ジャスミン役のケイト・ブランシェット。
様々な役を射止めてきた彼女は、オスカーも納得の「かわいそうな女」を演じている。
さすがウッディ・アレンという作品で、上映時間もさることながら、非常に小気味良い。
あまり多くの映画館でやっているわけではないが、一見の価値はある作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を見にいこうと決めたきっかけは、前田有一氏の「超映画批評」で「今週のおすすめ」になっていたからだ。
ネタバレ無しのこのサイトはよく私もチェックするのだが、その記事に惹かれたからだ。
読んだ人は分かるが、その記事を読んでしまったからこそ、この映画を見るときに彼が書いていた「あまりにショッキングな落ちに圧倒される」という内容が気になっていた。
だから、この映画は残念ながら、かなり「構えて」見ていた。
彼の批評が逆に私の読みをミスリードしていたことは間違いない。
そんなつもりはなくても、その「ちゃぶ台返し」といわれた真相を解き明かそうという文章になっているかもしれないが、それはそういう理由である。
物語は失う前と失った後のジャスミンについて描かれている。
転落する前と転落した後。
具体的には夫が捕まり、土地家財道具すべてが差し押さえられてしまい、無一文になる前と後、である。
自然と物語の収束点は、ジャスミンが全てを失った後どうなるのか、ではなく「なぜ失ってしまったのか」というきっかけであることが分かってくる。
夫はロープで自殺をして首の骨を折り、裁判になり、全てのものが差し押さえられて、仕方がないのでロスの妹の広くない部屋に転がり込む。
彼女はパニック障害を患い人が多いところや狭いところを極端に避けるようになる。
しかし、浪費癖は納まっておらず、かつての生活を取り戻したくて周りを見下している。
どう考えてもイタイ女であるのだが、外堀が埋まっていけばいくほど、「なぜ失ったのか」という点が黒い闇のように残ってしまう。
そしてラストにそれが明かされる。
彼女は夫が自分以外の人間と恋に落ち、本気で離婚を決意していることを知った。
そこで、それまで黙っていた夫の不正行為を全てFBIにぶちまけたのだ。
妻名義(ジャスミン)の口座も複数あったのに、なぜ彼女だけ捕まらなかったのだろう。
なぜ彼女だけ無一文とはいえ、法に裁かれることがなかったのか。
それは、彼女がすべて夫を売ったことにある。
彼女はずっと夫がどんな悪事を働いてお金を稼いでいたのか、知っていたのだ。
「私には金融はさっぱりなの」と良いながら、ジンジャーのお金を返ってくるはずのない投資につぎ込ませて自分たちがたらふく儲けることを推奨していた。
彼女は「おバカなかわいそうなセレブ」ではなく、彼女こそが「欲望にまみれた守銭奴」そのものだったのだ。
ジャスミンは、夫が真剣に別れることを決意していることを知り、自分が全ての富を失うことを知った。
そこで、夫を売ることで、自分を守ろうとしたのだ。
全て無くすくらいなら、すべて壊してやろうと。
彼女はそれ以来、「あのときはこんなにすばらしかった」とつぶやきながら、自分がしてしまった取り返しの付かないことに対して逃げ続ける。
なるほど、彼女は後悔はしているだろう。
夫の告白によって決意したあの電話をせずに、うまく別れた方がお金を引き出せたかも知れない。
彼女にはその程度の後悔しかない。
だから、すぐに下院議員を狙っている新しいセレブに抱かれるのだ。
彼女の病は、パニック障害では決してない。
彼女の病は、お金が好きすぎてどうしようもない、という底なしの欲望のほうである。
笑えないのは、息子の告白だ。
息子は心を病み、大学を辞めて家を出る。
病んだ理由は「父親の仕事」のせいではない。
母親が「母親ではなかった」という事実だ。
父親との愛情のかけらもなく、ましてや母親として立ち振る舞おうという素振りしか見せなかった。
その絶望とはどれほどのものだろうか。
尊敬していた父親は仕事を失い、母親はそのことを陥れたのだ。
挙げ句の果てに、「私にはあなたが必要だったのよ」と母親に詰問される始末だ。
そう訴える母親は、美しい同情を買うだろうか。
それとも、どこまで「自分がかわいいのだ」と冷徹に軽蔑するだろうか。
この映画の残酷なところは、彼女は全く変わらないということだ。
彼女はいくらか後悔しながら、強烈に嫌われながら、それでも彼女は生き方を変えることはできない。
しがない歯科医に言い寄られるくらいが、彼女相応の出会いなのに、彼女はそれを見つめられない。
彼女が失ったのは夫ではなく、息子でもなく、お金だからだ。
この映画、過去も現在もどのシークエンスもどきどきさせられる。
どの人物もどこか危うさをもった人々ばかりだからだ。
パンフレットの解説ではラストのジャスミンに対して「ウッディ・アレンは温かく見守る」というような事を書いてあったが、真逆だろう。
これほど怖いサスペンスも、そうはない。
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