恥ずかしい話だが、「こころ」は幾度となく読んできたが、「三四郎」は今回はじめて読んだ。
石原千秋「近代という教養」を読んだ後、これは読んでおくべきだなと今更ながら思ったからだ。
彼以外の論考を読んでいないので、読みを深めるためにももう少し読むべきかもしれない。
「こころ」よりも筋がわかりにくく、教科書教材に向かないのだろうと思うが、私はこちらのほうをむしろ広く日本人が読むべきではないかと思う。
それくらい、「よくできた」小説だ。
いや、ほんとうに今更で申し訳ないのだが。
読んでいない人で、しかも私なんかに勧められて読もうとする人が皆無なのはわかっているが、あえて言おう。
読んでいないなら、読むべきだ、と。
九州出身の三四郎は大学進学のために上京し、都会の風を吸った。
そのときたまたま出会った女性、美彌子に一目惚れする。
しかし、度胸も女性との関係の経験もなかったウブな三四郎にはどうすることもできない。
大学が始まっても授業に集中できない三四郎は、あるとき与次郎という男に昼食をおごられて、彼から「授業なんて受けている場合じゃない。世間を見ろ」とそそのかされる。
▼以下はネタバレあり▼
どうせ明治文学だろ、と思って読み始めると痛い目にあう。
言文一致もままならなかった時代に、これほど緻密なプロットを仕組んでいたことには驚きがある。
映像化したら、おそらく一流の現代映画が仕上がる。
それほどプロットが複雑であり、多層的な読みが可能な作品になっている。
やたらと無用な描写があると思ったら、重要な部分においてかなりの省略がある。
最後の美彌子の結婚の、披露宴に出席できなかったくだりなどは、野暮な小説家なら丁寧に説明したくなるところだ。
しかし、御光との結婚という裏のプロットを隠すために、そこはあえて触れられない。
人間関係もわかりやすく提示されたりしない。
ただ三四郎が狂言回しのように、視点人物として利用しながら、いびつな本郷文化圏の世界を描き出している。
詳しいことは、私から言及するまでもなく、多くの論考が出ている。
そちらに譲ろう。
そもそも一読しただけで語れるほど、この小説は単純明瞭なものではない。
言えることは、これほどの複雑な物語を、必然とも思える筆致で、新聞小説として発表されたというその特異性だ。
どこまで漱石は仕組んで小説を書いていたのだろう。
物語が多様に、そして多用に消費される今においても、この小説は一流の面白さ、余白、間隙、味わいをもっている。
言文一致にわく明治の文学界にあって、彼は一人、すでに100年先の物語を構築していた。
タイムマシンが成り立たない理由を、未来から来た人をまだ見たことがないからだ、という論証がある。
私には、現代から明治時代に漱石がタイムスリップしたとしても、こんな小説は誰にも書けないと思う。
それくらい時代を超越した、古くならない新しさが「三四郎」のなかには潜んでいる。
人が死ぬ物語だけが、推理小説なのではない。
これほどのミステリは、現代でも書けない。
石原千秋「近代という教養」を読んだ後、これは読んでおくべきだなと今更ながら思ったからだ。
彼以外の論考を読んでいないので、読みを深めるためにももう少し読むべきかもしれない。
「こころ」よりも筋がわかりにくく、教科書教材に向かないのだろうと思うが、私はこちらのほうをむしろ広く日本人が読むべきではないかと思う。
それくらい、「よくできた」小説だ。
いや、ほんとうに今更で申し訳ないのだが。
読んでいない人で、しかも私なんかに勧められて読もうとする人が皆無なのはわかっているが、あえて言おう。
読んでいないなら、読むべきだ、と。
九州出身の三四郎は大学進学のために上京し、都会の風を吸った。
そのときたまたま出会った女性、美彌子に一目惚れする。
しかし、度胸も女性との関係の経験もなかったウブな三四郎にはどうすることもできない。
大学が始まっても授業に集中できない三四郎は、あるとき与次郎という男に昼食をおごられて、彼から「授業なんて受けている場合じゃない。世間を見ろ」とそそのかされる。
▼以下はネタバレあり▼
どうせ明治文学だろ、と思って読み始めると痛い目にあう。
言文一致もままならなかった時代に、これほど緻密なプロットを仕組んでいたことには驚きがある。
映像化したら、おそらく一流の現代映画が仕上がる。
それほどプロットが複雑であり、多層的な読みが可能な作品になっている。
やたらと無用な描写があると思ったら、重要な部分においてかなりの省略がある。
最後の美彌子の結婚の、披露宴に出席できなかったくだりなどは、野暮な小説家なら丁寧に説明したくなるところだ。
しかし、御光との結婚という裏のプロットを隠すために、そこはあえて触れられない。
人間関係もわかりやすく提示されたりしない。
ただ三四郎が狂言回しのように、視点人物として利用しながら、いびつな本郷文化圏の世界を描き出している。
詳しいことは、私から言及するまでもなく、多くの論考が出ている。
そちらに譲ろう。
そもそも一読しただけで語れるほど、この小説は単純明瞭なものではない。
言えることは、これほどの複雑な物語を、必然とも思える筆致で、新聞小説として発表されたというその特異性だ。
どこまで漱石は仕組んで小説を書いていたのだろう。
物語が多様に、そして多用に消費される今においても、この小説は一流の面白さ、余白、間隙、味わいをもっている。
言文一致にわく明治の文学界にあって、彼は一人、すでに100年先の物語を構築していた。
タイムマシンが成り立たない理由を、未来から来た人をまだ見たことがないからだ、という論証がある。
私には、現代から明治時代に漱石がタイムスリップしたとしても、こんな小説は誰にも書けないと思う。
それくらい時代を超越した、古くならない新しさが「三四郎」のなかには潜んでいる。
人が死ぬ物語だけが、推理小説なのではない。
これほどのミステリは、現代でも書けない。
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