評価点:85点/2012年/フランス・ドイツ・オーストリア/127分
監督:ミヒャエル・ハネケ
人を愛するということ。
夫ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)と妻アンヌ(エマニュエル・リヴァ)はパリ近くに住む音楽家だった。
いつものように、弟子の演奏会にいった朝、ジョルジュはアンヌの異変に気づく。
病院に行くと、「脳腫瘍」だと言われ、簡単な手術で終わるはずだった。
しかし、手術は失敗し、右半身に麻痺が残ってしまった。
妻に「二度と入院させないでほしい」と言われた夫は、二人だけの介護生活が始まる。
「ファニーゲームUSA」や「白いリボン」のミヒャエル・ハネケ監督の最新作。
アカデミー賞の外国語部門でも受賞したことで有名になった。
そうでなければ、おそらく大きな劇場で公開されることはなかっただろう。
映画館は、平日だというのに半分近くは埋まっていた。
やはり年配の観客が多いだろうか。
この映画は、おそらく見る人で大きく印象が異なる映画の1つだろう。
若い観客であればきっと何も残らない。
短い映画、テンポの良い映画が多くなった現代において、127分は長い。
その長さをどのように捉えるか、個人の体験に大きく左右される。
だから、誰にでも勧められる映画ではない。
けれども、これくらいの映画が、世の中でもっと脚光を浴びてもいいのに、と思ってしまう。
▼以下はネタバレあり▼
私は母方の祖母を亡くしている。
2年近く、介護を要する状況で生活していた。
鴛鴦夫婦と言われた祖父も、体の自由がきかなくなっていた時期だった。
だから、親戚の間で、輪番制によって介護していた。
もし、これが夫婦2人だけだったら、と思うと想像を絶する。
また、私はつい先日、結婚式を挙げたばかりだった。
そんな私が見た、「愛、アムール」なわけだ。
愛とはどのような形があるだろう。
手を繋いで、カラオケに行って、フェイスブックで「愛してる」というプリクラ画像をアップして。
それも「愛」なのかもしれない。
けれども、究極の形の愛は、そんな生ぬるいものではないだろう。
時には自分の身を削ることが「愛」となりうる。
この映画は、どこにも劇的なところはない。
介護して、「痛い」とうわごとのように話す妻を、衝動的に殺してしまう。
日本でも、そんな話は珍しくなくなってきた。
そこには、「安楽死」なんていう言葉でも表現できる一般性があるかもしれない。
この映画はその一般性と、ジョルジュとアンヌという個別性(特殊性)をも含んでいる。
だから、この映画はすごい。
この映画のすごいところは、常に現在と過去を二重写しに描くところだ。
かつて美しかった母と父の姿を語る娘。
大きく成長し大成した弟子。
美しい音色を奏でていたはずの妻の幻。
歴史のないアメリカ映画には、こんな描写にいきつかないだろう。
あの、美しかった妻は、どこにもいない。
あの、自由だった私は、どこにもいない。
愛する者を失う悲しみは計り知れないくらい大きいが、愛する者を現在進行形で「失っていく」悲しみはどれくらいだろうか。
それが象徴的なのは、介護士を一人解雇してしまうシークエンスだろう。
人間的に扱わない、敬意のない介護士は、なぜ自分が解雇されるのか最後まで理解出来ない。
「最強の二人」にも似たようなシークエンスがあったが、こちらはもっと残酷だ。
「あなたも将来同じように扱われることを望むよ」というジョルジュの台詞は、残酷に耳に残る。
2人の関係に、誰も踏みいることが出来ないのだ。
2人の愛は、ギブ・アンド・テイクのような、契約の愛ではない。
まして、依存し合った関係でもない。
切実ともいえるほど、強固な意志がある。
ジョルジュは、アンヌを殺してしまう。
それは一般化できない、愛の形である。
介護に疲れたのだろうか。
変わっていく妻を見かねたのだろうか。
愛する者の手で殺されること、愛する者をこの手で殺すこと、どちらも強い愛がある。
物語は、閉じ込められた2人の空間がこじ開けられるところから始まり、2人の空間が完結するところで終わる。
いわゆる円環の物語になっている。
その空隙にいるはずのジョルジュはどこへいったのだろう。
花葬された妻は、匂いを放ちすでに数日たっていた。
ジョルジュもまた、アンヌを追っていったのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
大切なのは、2人の愛に他の誰も入る余地のない時間と空間があった。
それが「愛する」ということなのかもしれない。
監督:ミヒャエル・ハネケ
人を愛するということ。
夫ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)と妻アンヌ(エマニュエル・リヴァ)はパリ近くに住む音楽家だった。
いつものように、弟子の演奏会にいった朝、ジョルジュはアンヌの異変に気づく。
病院に行くと、「脳腫瘍」だと言われ、簡単な手術で終わるはずだった。
しかし、手術は失敗し、右半身に麻痺が残ってしまった。
妻に「二度と入院させないでほしい」と言われた夫は、二人だけの介護生活が始まる。
「ファニーゲームUSA」や「白いリボン」のミヒャエル・ハネケ監督の最新作。
アカデミー賞の外国語部門でも受賞したことで有名になった。
そうでなければ、おそらく大きな劇場で公開されることはなかっただろう。
映画館は、平日だというのに半分近くは埋まっていた。
やはり年配の観客が多いだろうか。
この映画は、おそらく見る人で大きく印象が異なる映画の1つだろう。
若い観客であればきっと何も残らない。
短い映画、テンポの良い映画が多くなった現代において、127分は長い。
その長さをどのように捉えるか、個人の体験に大きく左右される。
だから、誰にでも勧められる映画ではない。
けれども、これくらいの映画が、世の中でもっと脚光を浴びてもいいのに、と思ってしまう。
▼以下はネタバレあり▼
私は母方の祖母を亡くしている。
2年近く、介護を要する状況で生活していた。
鴛鴦夫婦と言われた祖父も、体の自由がきかなくなっていた時期だった。
だから、親戚の間で、輪番制によって介護していた。
もし、これが夫婦2人だけだったら、と思うと想像を絶する。
また、私はつい先日、結婚式を挙げたばかりだった。
そんな私が見た、「愛、アムール」なわけだ。
愛とはどのような形があるだろう。
手を繋いで、カラオケに行って、フェイスブックで「愛してる」というプリクラ画像をアップして。
それも「愛」なのかもしれない。
けれども、究極の形の愛は、そんな生ぬるいものではないだろう。
時には自分の身を削ることが「愛」となりうる。
この映画は、どこにも劇的なところはない。
介護して、「痛い」とうわごとのように話す妻を、衝動的に殺してしまう。
日本でも、そんな話は珍しくなくなってきた。
そこには、「安楽死」なんていう言葉でも表現できる一般性があるかもしれない。
この映画はその一般性と、ジョルジュとアンヌという個別性(特殊性)をも含んでいる。
だから、この映画はすごい。
この映画のすごいところは、常に現在と過去を二重写しに描くところだ。
かつて美しかった母と父の姿を語る娘。
大きく成長し大成した弟子。
美しい音色を奏でていたはずの妻の幻。
歴史のないアメリカ映画には、こんな描写にいきつかないだろう。
あの、美しかった妻は、どこにもいない。
あの、自由だった私は、どこにもいない。
愛する者を失う悲しみは計り知れないくらい大きいが、愛する者を現在進行形で「失っていく」悲しみはどれくらいだろうか。
それが象徴的なのは、介護士を一人解雇してしまうシークエンスだろう。
人間的に扱わない、敬意のない介護士は、なぜ自分が解雇されるのか最後まで理解出来ない。
「最強の二人」にも似たようなシークエンスがあったが、こちらはもっと残酷だ。
「あなたも将来同じように扱われることを望むよ」というジョルジュの台詞は、残酷に耳に残る。
2人の関係に、誰も踏みいることが出来ないのだ。
2人の愛は、ギブ・アンド・テイクのような、契約の愛ではない。
まして、依存し合った関係でもない。
切実ともいえるほど、強固な意志がある。
ジョルジュは、アンヌを殺してしまう。
それは一般化できない、愛の形である。
介護に疲れたのだろうか。
変わっていく妻を見かねたのだろうか。
愛する者の手で殺されること、愛する者をこの手で殺すこと、どちらも強い愛がある。
物語は、閉じ込められた2人の空間がこじ開けられるところから始まり、2人の空間が完結するところで終わる。
いわゆる円環の物語になっている。
その空隙にいるはずのジョルジュはどこへいったのだろう。
花葬された妻は、匂いを放ちすでに数日たっていた。
ジョルジュもまた、アンヌを追っていったのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
大切なのは、2人の愛に他の誰も入る余地のない時間と空間があった。
それが「愛する」ということなのかもしれない。
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