評価点:79点/2012年/アメリカ/165分
監督:クエンティン・タランティーノ
オマージュたっぷりのエンターテイメント作品
1858年、アメリカにまだ奴隷制度があった開拓時代。
歯科医だったキング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、賞金首ブリトル兄弟を殺すため、その顔を知る奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)を探していた。
身体能力に優れていたジャンゴの素質を見抜き、シュルツは一緒に賞金稼ぎにならないかと誘う。
妻を売られたジャンゴは、妻を取り返すという条件をのみ、賞金稼ぎになることを選ぶ。
我らがタランティーノの最新作は西部劇だった。
アメリカでは黒人差別が当たり前だった西部劇を描くのを、自主規制する傾向にある。
だから、最近ではまともな西部劇はない。
だからこそ、今回タランティーノが描いてくれた西部劇は、まさに胸がすくような思いだろう。
アカデミー賞にも注目されたのは、ヴァルツの怪演だけが理由ではない。
上映時間が非常に長いので、見られる可能性が若干低くなっているのがつらいところだ。
けれども、多くの人は納得する出来だろう。
特に、西部劇が好きな人には、満足できるはずだ。
音響が大事な演出の映画である。
できれば劇場で鑑賞したいところだ。
▼以下はネタバレあり▼
クエンティン・タランティーノといえば、「キル・ビル」で日本でも話題になったあの監督である。
どうしてもヲタクというイメージをいまだ払拭しきれていないが(払拭する必要があるのかどうかは別問題か)、彼は物語の作り方をよく知っている。
だから、売れる映画監督でもある。
アカデミー賞にちょこちょこ顔をのぞかせるくらい、彼は映画としての完成度も低くない。
日本のヲタクとは違って、きちんと市民権を得たレベルを保った、エンターテイメントを忘れていない、ヲタクなのだ。
だから、タランティーノってちょっと……と思いながら見た人は予想以上の出来に驚いたかもしれない。
ただいたずらに長い映画ではなく、この165分にはきちんと意味がある。
面白い、映画になっている。
それでも、しかし、この映画はいつものように、タランティーノ色が前面に打ち出されている。
西部劇が好きな人には、思わずにやりとしたくなるシークエンスがちりばめられている。
ヲタクであることは間違いない。
そもそも、ジャンゴというタイトル自体が、過去の作品のオマージュである。
私は残念ながら、その元ネタがほとんどわからない。
けれども、面白いのだ。
物語は、アメリカ映画の中のアメリカ映画ともいえるほど、王道の王道だ。
巨大な権力を握る、奴隷商人に対して、復讐していくという典型的なアメリカ映画だ。
繰り返し訴えられる「自由人」という言い方も、これまた、アメリカ人の食指を動かす。
妻を取り戻すラブストーリーでもあるわけだから、これで面白くならないはずはない。
差別が横行した開拓時代であっても、黒人が差別を打ち砕いていくという話なら、その暗黙のタブーは関係ない。
少々残酷描写がすぎるが、それはタランティーノのアイデンティティであって、それは仕方がない。
ここまで「王道」をそろえられて、当たらないはずがない。
ヲタクであるタランティーノでも、王道を撮ったのだから面白くないはずがないのだ。
この映画の特徴は、まさにそこであり、「面白く撮った必然のエンターテイメント作品」なのだ。
狙ったように、面白い作品が撮れてしまうのだから、彼の才能の非凡さが表れている。
特にこの映画が面白く仕上がっているところは、感情のコントロールである。
差別が横行するアメリカ開拓時代において、黒人が家畜のように扱われているのは不思議なことではない。
けれども、それを現代のアメリカ人(日本人も含めて)が見ると、どうしても違和感(怒り)が生まれる。
その怒りや違和感を、きちんとシュルツを通じて描いている。
端的なところは、使えなくなった黒人奴隷を、犬に食わせるというシークエンスだ。
残酷すぎる描写を執拗に丁寧に描くことで、ふつふつと耐えがたい怒りが生み出される。
目的達成のために我慢しなければならないとわかっていながらも、その緊張感は大きくなっていく。
次いで、妻のブルームヒルダが脱走の罰から引き揚げられるところ。
こっそりとジャンゴが妻と再会を果たすところ。
奴隷売買にかこつけて、ブルームヒルダを買いたたこうとするところ。
この一連の感情の起伏、やりとりはどうしようもなく緊張感を生み出す。
怒りや緊張、不安などの感情がどんどんたまっていくのだ。
そして、アメリカでもっとも重要だとされている「法」を犯すほどまでその感情が爆発する。
友好の握手を求められて、シュルツは暴発してしまう。
そこには、ここまでさんざんため込んできた感情が一気に爆発するというカタルシスがある。
その脚本と演出は見事というほかない。
その怒りと爆発は、日ごろ私たちが抱えている問題とどこか二重写しになる。
法律という絶対の理性によって管理されているはずが、なぜか強者にだまされたり、理不尽な扱いを受けたりすることが多い。
その怒りを、法を超えたところにある絶対の「正しい怒り」を振りかざすことができる、その快感はなにものにも代えがたいカタルシスがあるのだ。
この映画はアメリカ国民の心をがっちりと鷲掴みにする。
それほど、すべてが王道の作りをしている。
だからこそ、この映画は物足りない。
王道であるがゆえに、それ以上の面白さはない。
大衆映画であることの領域を超えるほどの、驚きやゆさぶりはない。
タランティーノがヲタクといわれる所以である。
当然のように、シュルツがなぜ黒人差別を嫌うのか、といった「歴史性」もない。
だから、個別性はなく、物語はどうしても薄っぺらくなる。
余談だが、この作品の予告編はひどいと思う。
ストーリーの説明にしても、誤謬が含まれているし、一つ一つのセリフも予告用に意訳しすぎている。
これだと、予告編から期待させる内容と、実際の内容が違っている可能性がある。
英語が聞きとれない日本人が多すぎることが問題なのだろうけれど、もうちょっと良心的な、誤解を生まないような予告編を作ってほしい。
こういうことが横行すると、これから見る人間は「この映画の内容は本当のところどうなのだろう」と疑わざるを得ない。
何ことを言っているのかは、見た人なら理解してくれるはず。
監督:クエンティン・タランティーノ
オマージュたっぷりのエンターテイメント作品
1858年、アメリカにまだ奴隷制度があった開拓時代。
歯科医だったキング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、賞金首ブリトル兄弟を殺すため、その顔を知る奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)を探していた。
身体能力に優れていたジャンゴの素質を見抜き、シュルツは一緒に賞金稼ぎにならないかと誘う。
妻を売られたジャンゴは、妻を取り返すという条件をのみ、賞金稼ぎになることを選ぶ。
我らがタランティーノの最新作は西部劇だった。
アメリカでは黒人差別が当たり前だった西部劇を描くのを、自主規制する傾向にある。
だから、最近ではまともな西部劇はない。
だからこそ、今回タランティーノが描いてくれた西部劇は、まさに胸がすくような思いだろう。
アカデミー賞にも注目されたのは、ヴァルツの怪演だけが理由ではない。
上映時間が非常に長いので、見られる可能性が若干低くなっているのがつらいところだ。
けれども、多くの人は納得する出来だろう。
特に、西部劇が好きな人には、満足できるはずだ。
音響が大事な演出の映画である。
できれば劇場で鑑賞したいところだ。
▼以下はネタバレあり▼
クエンティン・タランティーノといえば、「キル・ビル」で日本でも話題になったあの監督である。
どうしてもヲタクというイメージをいまだ払拭しきれていないが(払拭する必要があるのかどうかは別問題か)、彼は物語の作り方をよく知っている。
だから、売れる映画監督でもある。
アカデミー賞にちょこちょこ顔をのぞかせるくらい、彼は映画としての完成度も低くない。
日本のヲタクとは違って、きちんと市民権を得たレベルを保った、エンターテイメントを忘れていない、ヲタクなのだ。
だから、タランティーノってちょっと……と思いながら見た人は予想以上の出来に驚いたかもしれない。
ただいたずらに長い映画ではなく、この165分にはきちんと意味がある。
面白い、映画になっている。
それでも、しかし、この映画はいつものように、タランティーノ色が前面に打ち出されている。
西部劇が好きな人には、思わずにやりとしたくなるシークエンスがちりばめられている。
ヲタクであることは間違いない。
そもそも、ジャンゴというタイトル自体が、過去の作品のオマージュである。
私は残念ながら、その元ネタがほとんどわからない。
けれども、面白いのだ。
物語は、アメリカ映画の中のアメリカ映画ともいえるほど、王道の王道だ。
巨大な権力を握る、奴隷商人に対して、復讐していくという典型的なアメリカ映画だ。
繰り返し訴えられる「自由人」という言い方も、これまた、アメリカ人の食指を動かす。
妻を取り戻すラブストーリーでもあるわけだから、これで面白くならないはずはない。
差別が横行した開拓時代であっても、黒人が差別を打ち砕いていくという話なら、その暗黙のタブーは関係ない。
少々残酷描写がすぎるが、それはタランティーノのアイデンティティであって、それは仕方がない。
ここまで「王道」をそろえられて、当たらないはずがない。
ヲタクであるタランティーノでも、王道を撮ったのだから面白くないはずがないのだ。
この映画の特徴は、まさにそこであり、「面白く撮った必然のエンターテイメント作品」なのだ。
狙ったように、面白い作品が撮れてしまうのだから、彼の才能の非凡さが表れている。
特にこの映画が面白く仕上がっているところは、感情のコントロールである。
差別が横行するアメリカ開拓時代において、黒人が家畜のように扱われているのは不思議なことではない。
けれども、それを現代のアメリカ人(日本人も含めて)が見ると、どうしても違和感(怒り)が生まれる。
その怒りや違和感を、きちんとシュルツを通じて描いている。
端的なところは、使えなくなった黒人奴隷を、犬に食わせるというシークエンスだ。
残酷すぎる描写を執拗に丁寧に描くことで、ふつふつと耐えがたい怒りが生み出される。
目的達成のために我慢しなければならないとわかっていながらも、その緊張感は大きくなっていく。
次いで、妻のブルームヒルダが脱走の罰から引き揚げられるところ。
こっそりとジャンゴが妻と再会を果たすところ。
奴隷売買にかこつけて、ブルームヒルダを買いたたこうとするところ。
この一連の感情の起伏、やりとりはどうしようもなく緊張感を生み出す。
怒りや緊張、不安などの感情がどんどんたまっていくのだ。
そして、アメリカでもっとも重要だとされている「法」を犯すほどまでその感情が爆発する。
友好の握手を求められて、シュルツは暴発してしまう。
そこには、ここまでさんざんため込んできた感情が一気に爆発するというカタルシスがある。
その脚本と演出は見事というほかない。
その怒りと爆発は、日ごろ私たちが抱えている問題とどこか二重写しになる。
法律という絶対の理性によって管理されているはずが、なぜか強者にだまされたり、理不尽な扱いを受けたりすることが多い。
その怒りを、法を超えたところにある絶対の「正しい怒り」を振りかざすことができる、その快感はなにものにも代えがたいカタルシスがあるのだ。
この映画はアメリカ国民の心をがっちりと鷲掴みにする。
それほど、すべてが王道の作りをしている。
だからこそ、この映画は物足りない。
王道であるがゆえに、それ以上の面白さはない。
大衆映画であることの領域を超えるほどの、驚きやゆさぶりはない。
タランティーノがヲタクといわれる所以である。
当然のように、シュルツがなぜ黒人差別を嫌うのか、といった「歴史性」もない。
だから、個別性はなく、物語はどうしても薄っぺらくなる。
余談だが、この作品の予告編はひどいと思う。
ストーリーの説明にしても、誤謬が含まれているし、一つ一つのセリフも予告用に意訳しすぎている。
これだと、予告編から期待させる内容と、実際の内容が違っている可能性がある。
英語が聞きとれない日本人が多すぎることが問題なのだろうけれど、もうちょっと良心的な、誤解を生まないような予告編を作ってほしい。
こういうことが横行すると、これから見る人間は「この映画の内容は本当のところどうなのだろう」と疑わざるを得ない。
何ことを言っているのかは、見た人なら理解してくれるはず。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます