評価点:81点/2012年/アメリカ/138分
監督:ロバート・ゼメキス
なんでそこに酒置いとくねん!
飛行機のベテランパイロット、ウィップ・ウィトカー(デンゼル・ワシントン)は三日連続での長距離フライトの三日目の朝を二日酔いで迎えた。
隣には客室乗務員のカテリーナが寝ていた。
気付けにマリファナを吸った後、飛行機に搭乗した。
離陸した飛行機は約30分後に急変し、コントロールを失ってしまう。
いわずと知れた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの監督、ロバート・ゼメキスの実写最新作である。
オスカーにも、主演男優賞と脚本賞とにノミネートされている。
あるいは作品賞にもノミネートされるのではないか、とうわさされていたほどだった。
そういうこともあって、やはりこれは見に行かなければならないと思って、映画館に足を運んだ。
話の筋はとても分かりやすいし、万人受けしやすい話だろう。
ただし予告編はちょっとミスリードしていそうな印象を受ける。
感動の話ではあるけれど、「上空で何が起こったのか」というような「隠された真実」があるような話の展開ではない。
とはいえ、アメリカの深刻な現状をいくつか垣間見ることもできる、面白い作品だ。
若い人向けというよりは、40代以降の世代に受けそうな、そんな話である。
▼以下はネタバレあり▼
この脚本を見て、ゼメキスとワシントンの二人は、「この脚本なら撮りたい、出たい」と思ったらしい。
確かに、この映画の肝は、優れた脚本にある。
しかし、アメリカ映画をあまり見ない人やアメリカの実情を予備知識として知らない人はちょっとわかりにくい話かもしれない。
アメリカの依存症は深刻な状況にある。
それはアメリカだけではないのだろうが、アメリカは麻薬も手に入りやすい状況にあり、様々な依存症が認知され、その治療に取り組んでいる。
日本では依存症ということを病気としてではなく、「意志の弱さ」のようなパーソナリティの問題としているところがあるため、問題化していないだけなのかもしれない。
特にアメリカのアルコール依存症について多くの映画やドラマでも取り上げられている。
(「リービング・ラスベガス」なんかが有名ですね)
アメリカではこうした依存症を克服しようという会も珍しくない。
だから、この映画の題材となっているアルコール依存症とその克服をめぐっての話はそれほど「特別」なものではない。
ウィップのような姿をみると「なんて意志の弱い人間なんだ」と思ってしまうが、依存症はそんなに軽いものではない。
「自分の意志で風邪やインフルエンザを意志の力で治せるか」といわれれば、その重さが分かるはずだ。
日本人にとってはこのあたりが感情移入しにくい要因になりうるかもしれない。
この映画は本当に脚本がすばらしい。
この物語は、単なるパニック映画でも、単なる法廷ものでも、単なるドラマでもない。
また、依存症というモティーフだけではなく、飛行機が「墜落する」という9.11の光景もどうしても二重写しになる。
非常に危ういながら、非常に巧みなシナリオになっているわけだ。
細かい話はすっ飛ばそう。
先に結論から書きたい。
なぜこんなにこの映画がすばらしいのか、という点だ。
それを言い換えるなら、なぜウィップは公聴会での最後の質問に嘘がつけなかったのか、という点に集約されると思う。
それまで「酒についてのウソは何度もついてきたから、大丈夫だ」と言い張る彼は、最後に「俺がジン二本を飲んだのだ」と話してしまう。
なぜなのだろうか。
彼自身が言うように、「最後の最後にうそをつけば、助かったかもしれないのにウソがつけなかった」と言っていた。
最後に、「カテリーナは飲んでいない。私が飲んだのだ」と言ってしまう。
読めるか読めないかは読解力の問題として、なぜ彼は真実を言ってしまったのだろうか。
この映画の面白いところは、そこにあるような気がしてならない。
この映画で、彼に酒を飲んだという真実を言うように求めるのは二人しかいない。
それ以外は口で様々なことを言っているが、結局「飲んでいないことにしてくれ」と願っている。
弁護士にしても、パイロット組合の友人も、FBIの捜査官エレン・ブロックだって、きっと飲んでいたことを証明したかったわけではない。
けれども、二人だけ、たった二人だけ、彼に正直に飲んでいたことを認めさせようとした人がいる。
それが、死んでしまったカテリーナと、自身も依存症から抜け出せないでいるケリーである。
この二人には共通点がある。
それは、自分もまたウィップと同じように依存症に悩んでいたということだ。
ウィップは依存症に「悩んで」はいなかった。
だが、同じ痛みを背負っていた。
自分をだまして生きるのか、それとも弱さと向き合うのか。
質問は確かこうだった。
「2本のジンのビンは誰が飲んだものでしょうか。あなたはカテリーナだと信じていますか?」
同じ痛みを背負っていたカテリーナとは、恋人以上の関係だった。
あのフライトの朝、ウィップはカテリーナに結婚したいというようなことを嘯く。
確かに冗談なのだが、しかし、それは一つの本心でもある。
ウィップにとって彼女は、妻以上に自分の痛みを知っている存在だったのだ。
唯一といってもいい。
その彼女を悪者にして、「彼女がジンを飲んだ」とは言えなかった。
どれだけ彼女がアルコール依存症で苦しんでいたのか、戦おうとしていたのかを知っていたから。
彼女を悪者にして、英雄として生きていくことは自分を足元から崩すのと同じことなのだ。
彼が逡巡していたのは、実は英雄か刑務所行きかではなかった。
カテリーナという自分の存在を認めてくれる人を探していたのだ。
それが見事に浮かび上がるのは、ケリーが現れたことだ。
彼女と肉体関係を得るために彼女を救ったのではない。
彼女もまた同じような痛みをもった人であることを知ったからだ。
だから、彼女を「一緒に逃げよう」と誘うのだ。
彼女と一緒にいることは、カテリーナと一緒にいることと同じことだからだ。
刑務所で彼女の写真を見つめているのもこれで説明できるだろう。
彼の行動原理が、あの公聴会の最後の質問で見事に浮かび上がる。
周りは自分を英雄として演じろと要求する。
弁護士たちが、酒を飲むな、薬やるな、そういうのは、「英雄」であってほしいと考えていたから。
それはウィップ・ウィトカーという個人を見ていたのではない。
航空会社のベテランパイロットとしての役割を演じさせようとしていたのだ。
そのギャップが大きくなり、彼は妻からも子どもからも、パイロットからも逃げ出したくなる。
逃げ出すために、酒におぼれた。
酒だけが自分を取り戻すためのよりどころだったのだ。
しかし、その英雄は必要ない、ありのままの自分を見つめなおせ、うそをつくな、と親身になって語ったのはカテリーナの命と、ケリーの態度だった。
この映画が面白いのは、きちんとそこに集約されるように描かれている。
誰一人悪人はいない。
皆、自分の仕事をしているだけだし、自分の願いを叶えようと必死になっているだけだ。
皆自分を偽り、演じながら生きている。
この映画が重いのは、この映画を見ているアルコール依存症のパイロットは少ないが、外部からの要求で自分を偽っている人間は観客全員であるということだ。
だから、この映画は「安全に面白い」映画ではない。
もっと、自分の存在を揺るがすような、危険な映画だ。
私たちを用意にスクリーンの向こう側に連れて行く。
そして、自分の弱さとは何か、自分の醜い本当の姿は何か、何を演じ、何を求められているのかと「探り」を入れてくる。
すばらしい映画だと思う。
監督:ロバート・ゼメキス
なんでそこに酒置いとくねん!
飛行機のベテランパイロット、ウィップ・ウィトカー(デンゼル・ワシントン)は三日連続での長距離フライトの三日目の朝を二日酔いで迎えた。
隣には客室乗務員のカテリーナが寝ていた。
気付けにマリファナを吸った後、飛行機に搭乗した。
離陸した飛行機は約30分後に急変し、コントロールを失ってしまう。
いわずと知れた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの監督、ロバート・ゼメキスの実写最新作である。
オスカーにも、主演男優賞と脚本賞とにノミネートされている。
あるいは作品賞にもノミネートされるのではないか、とうわさされていたほどだった。
そういうこともあって、やはりこれは見に行かなければならないと思って、映画館に足を運んだ。
話の筋はとても分かりやすいし、万人受けしやすい話だろう。
ただし予告編はちょっとミスリードしていそうな印象を受ける。
感動の話ではあるけれど、「上空で何が起こったのか」というような「隠された真実」があるような話の展開ではない。
とはいえ、アメリカの深刻な現状をいくつか垣間見ることもできる、面白い作品だ。
若い人向けというよりは、40代以降の世代に受けそうな、そんな話である。
▼以下はネタバレあり▼
この脚本を見て、ゼメキスとワシントンの二人は、「この脚本なら撮りたい、出たい」と思ったらしい。
確かに、この映画の肝は、優れた脚本にある。
しかし、アメリカ映画をあまり見ない人やアメリカの実情を予備知識として知らない人はちょっとわかりにくい話かもしれない。
アメリカの依存症は深刻な状況にある。
それはアメリカだけではないのだろうが、アメリカは麻薬も手に入りやすい状況にあり、様々な依存症が認知され、その治療に取り組んでいる。
日本では依存症ということを病気としてではなく、「意志の弱さ」のようなパーソナリティの問題としているところがあるため、問題化していないだけなのかもしれない。
特にアメリカのアルコール依存症について多くの映画やドラマでも取り上げられている。
(「リービング・ラスベガス」なんかが有名ですね)
アメリカではこうした依存症を克服しようという会も珍しくない。
だから、この映画の題材となっているアルコール依存症とその克服をめぐっての話はそれほど「特別」なものではない。
ウィップのような姿をみると「なんて意志の弱い人間なんだ」と思ってしまうが、依存症はそんなに軽いものではない。
「自分の意志で風邪やインフルエンザを意志の力で治せるか」といわれれば、その重さが分かるはずだ。
日本人にとってはこのあたりが感情移入しにくい要因になりうるかもしれない。
この映画は本当に脚本がすばらしい。
この物語は、単なるパニック映画でも、単なる法廷ものでも、単なるドラマでもない。
また、依存症というモティーフだけではなく、飛行機が「墜落する」という9.11の光景もどうしても二重写しになる。
非常に危ういながら、非常に巧みなシナリオになっているわけだ。
細かい話はすっ飛ばそう。
先に結論から書きたい。
なぜこんなにこの映画がすばらしいのか、という点だ。
それを言い換えるなら、なぜウィップは公聴会での最後の質問に嘘がつけなかったのか、という点に集約されると思う。
それまで「酒についてのウソは何度もついてきたから、大丈夫だ」と言い張る彼は、最後に「俺がジン二本を飲んだのだ」と話してしまう。
なぜなのだろうか。
彼自身が言うように、「最後の最後にうそをつけば、助かったかもしれないのにウソがつけなかった」と言っていた。
最後に、「カテリーナは飲んでいない。私が飲んだのだ」と言ってしまう。
読めるか読めないかは読解力の問題として、なぜ彼は真実を言ってしまったのだろうか。
この映画の面白いところは、そこにあるような気がしてならない。
この映画で、彼に酒を飲んだという真実を言うように求めるのは二人しかいない。
それ以外は口で様々なことを言っているが、結局「飲んでいないことにしてくれ」と願っている。
弁護士にしても、パイロット組合の友人も、FBIの捜査官エレン・ブロックだって、きっと飲んでいたことを証明したかったわけではない。
けれども、二人だけ、たった二人だけ、彼に正直に飲んでいたことを認めさせようとした人がいる。
それが、死んでしまったカテリーナと、自身も依存症から抜け出せないでいるケリーである。
この二人には共通点がある。
それは、自分もまたウィップと同じように依存症に悩んでいたということだ。
ウィップは依存症に「悩んで」はいなかった。
だが、同じ痛みを背負っていた。
自分をだまして生きるのか、それとも弱さと向き合うのか。
質問は確かこうだった。
「2本のジンのビンは誰が飲んだものでしょうか。あなたはカテリーナだと信じていますか?」
同じ痛みを背負っていたカテリーナとは、恋人以上の関係だった。
あのフライトの朝、ウィップはカテリーナに結婚したいというようなことを嘯く。
確かに冗談なのだが、しかし、それは一つの本心でもある。
ウィップにとって彼女は、妻以上に自分の痛みを知っている存在だったのだ。
唯一といってもいい。
その彼女を悪者にして、「彼女がジンを飲んだ」とは言えなかった。
どれだけ彼女がアルコール依存症で苦しんでいたのか、戦おうとしていたのかを知っていたから。
彼女を悪者にして、英雄として生きていくことは自分を足元から崩すのと同じことなのだ。
彼が逡巡していたのは、実は英雄か刑務所行きかではなかった。
カテリーナという自分の存在を認めてくれる人を探していたのだ。
それが見事に浮かび上がるのは、ケリーが現れたことだ。
彼女と肉体関係を得るために彼女を救ったのではない。
彼女もまた同じような痛みをもった人であることを知ったからだ。
だから、彼女を「一緒に逃げよう」と誘うのだ。
彼女と一緒にいることは、カテリーナと一緒にいることと同じことだからだ。
刑務所で彼女の写真を見つめているのもこれで説明できるだろう。
彼の行動原理が、あの公聴会の最後の質問で見事に浮かび上がる。
周りは自分を英雄として演じろと要求する。
弁護士たちが、酒を飲むな、薬やるな、そういうのは、「英雄」であってほしいと考えていたから。
それはウィップ・ウィトカーという個人を見ていたのではない。
航空会社のベテランパイロットとしての役割を演じさせようとしていたのだ。
そのギャップが大きくなり、彼は妻からも子どもからも、パイロットからも逃げ出したくなる。
逃げ出すために、酒におぼれた。
酒だけが自分を取り戻すためのよりどころだったのだ。
しかし、その英雄は必要ない、ありのままの自分を見つめなおせ、うそをつくな、と親身になって語ったのはカテリーナの命と、ケリーの態度だった。
この映画が面白いのは、きちんとそこに集約されるように描かれている。
誰一人悪人はいない。
皆、自分の仕事をしているだけだし、自分の願いを叶えようと必死になっているだけだ。
皆自分を偽り、演じながら生きている。
この映画が重いのは、この映画を見ているアルコール依存症のパイロットは少ないが、外部からの要求で自分を偽っている人間は観客全員であるということだ。
だから、この映画は「安全に面白い」映画ではない。
もっと、自分の存在を揺るがすような、危険な映画だ。
私たちを用意にスクリーンの向こう側に連れて行く。
そして、自分の弱さとは何か、自分の醜い本当の姿は何か、何を演じ、何を求められているのかと「探り」を入れてくる。
すばらしい映画だと思う。
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