評価点:76点/2006年/メキシコ
監督・原案:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
人間の罪は。罰は。
モロッコの農民アブドゥラは知人からジャッカルを撃つための銃を買う。
息子二人にヤギの放牧を任せていたところ、兄が銃を試し撃ちしはじめる。
下手な兄から銃をとり、弟がバスを狙って射撃する。
当たらなかったと思ったバスは急停車する。
日本。聾唖者のチエコ(菊池凛子)は、母親を失い自分の心うちを表現できずに悩んでいた。
友達に誘われるままに遊びに出かけると、そこはドラックにまみれた世界だった。
モロッコに旅行に来ていたアメリカ人のリチャード(ブラッド・ピット)は、ツアーバスに揺られているところにいきなり妻(ケイト・ブランシェット)が狙撃される。
手当てを望むが近辺に病院がないことを告げられ……。
何度聞いても覚えることができないこの監督の名前。
僕は「21グラム」の監督としか覚えられない。
ブラッド・ピットが目当てで、もしくは話題になった菊池凜子が目当てで気軽に見に行く人が多そうだ。
話題になってしまった性(さが)と言えばその通りだが、僕としては不本意だ。
この映画は初心者お断りという張り紙を出したくなる映画だ。
それは単純に難解だということではない。
むしろ、結構話は単純だ。
だが、それでも安易に良い悪いを語るべきでない映画だと思う。
映画の作り手に覚悟があるように、こちらも覚悟して観に行く必要がある。
そういう種類の映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
「バベル」とは、バベルの塔のことだ。
神に近づこうとした人間たちが築いたバベルの塔は、神の怒りに触れ、人間たちの言葉をバラバラにしてしまった、という聖書の話がモチーフになっている。
かなり有名なので知っている人の方が多いだろう。
その意味で、この映画のテーマは「コミュニケーションの困難さ」が基底に流れていることは容易に想像がつく。
だが、僕はこの映画をそれほど安易に考えたくはない。
結論から言って、この映画の完成度は決して高くない。
僕は好きな映画だが、それは完成度が高いからではない。
この映画を観て、小難しい、言いたいことがわからないという人は、もっと映画を勉強すべきだ(数多く観るべきだ)と思うし、この映画を単純に良い映画だとひれ伏すのも、結局的を射た感想だとも思えない。
実験的で、今までのストーリーや文化・セオリーを壊そうとあえいでいる、そんな映画だと僕の目には映った。
(※ もちろん、どんなふうに感じるかは個人の自由なので、あなたの感性を否定する気は全くないのですが。)
映画は大きく四つのパートに別れている。
モロッコ、日本、メキシコ。モロッコは加害者と被害者の両側から描く為、結局計四つのプロットが絡み合うということだ。
一つの映画である以上、もちろん共通項はあるのだが、この四つのパートはほとんどかみ合わない。
同じテーマの元に描かれているという点だけで、直接的な関係性はほとんどない。
「ほとんど」ないだけで、実はあるのだが、それは後に触れよう。
CMや予告などでは仰々しく一丁のライフルが物語をつなげると言っていたが、そういう一貫性はむしろ薄いのではないかと思う。
四者に貫いているのは、やはりコミュニケーションがいかに困難であるかということだ。
だが、そのコミュニケーションというのは、話したり、つながりをもったりするという単純な意味での、広義のコミュニケーションではない。
この映画のコミュニケーションはもっと限定してしまったほうがよりわかりやすい。
それは「自分の弱さを伝えることができない」という種類のコミュニケーションである。
最もわかりやすいのは日本のチエコのパートだ。
彼女は母親を目の前で自殺した光景が心に焼き付いている。
彼女の母親がなぜ死んでしまったのか、劇中では明かされないが、彼女は自分の責任だと感じている。
彼女は自分の考えを口に出しすことができず、また、相手の考えを耳で聞くことが出来ない。
彼女は聾唖者であり、そのことで自分を出すことが出来ず、コンプレックスを抱いている。
チエコは母親が死んだところを目撃したことに加えて、自分の障害故に、母親の死から立ち直れない。
自分は女で恋もしたいのに、自分は不安で仕方がないのに、それを表現するすべを持たない。
だから彼女は友達の連れとともに退廃的な世界にあこがれる。
だが、彼女を支えているのは紛れもなく家族であり、その退廃的な世界にさえ一歩踏み出すことが出来ない。
友達とチエコの差は、彼女が母親の死という逃げられないトラウマを持つからだろう。
そして彼女は何とか自分を認めさせようと刑事の前でハダカになり、自分が女であることを自他ともに証明しようとするのだ。
そこには言葉が伝わらない、声に出来ないという悲痛な叫びがある。
母親に対する気持ちを処理できず、父親に当たることも出来ず、誰かと共有することも出来ない。
彼女はハダカになるより他なかったのだ。
モロッコの遊牧民アブドゥラは、ジャッカルを狩るための銃を、息子アフメッドとユセフに渡す。
兄のアフメッドは弟ユセフと姉の奇妙な関係に苛立っていた。
だが、兄の弟への怒りは、姉との関係ではない。
弟は何でも器用にこなし、姉にも好かれている。
だが、自分は銃も上手く撃てない。
つまり、器用な弟に対し、兄はコンプレックスを抱いていたのだ。
そして銃の試し撃ちをするうちに、狙いがいつのまにか走る車になっていた。
ユセフの持っていたライフルは観光バスに命中してしまう。
ここからはチエコと同じだ。
結局自分の弱さを相手に伝えることが出来ない兄弟は、ドツボにはまっていく。
ライフルを持つことが強さだということにさえ気づかず、その自分の弱さに気づき、自分の弱さを示すには、兄アフメッドの犠牲が必要だった。
ユセフは叫ぶ。
「兄を助けてあげてほしい」
だが、それは全てが遅すぎたのだ。
弱みを見せることができなかった家族には不幸な結末が待っている。
観光客のリチャードは、三子目のサムの死を受け止められず家庭を顧みなかった。
(劇中では具体的にはわからないが、おそらく不倫か仕事に逃げただろう)
その話し合いをするためにモロッコに来る。
だが、妻のスーザンはリチャードを許すことが出来ずにいた。
その妻のスーザンは突然移動中に銃で撃たれてしまう。
近くの病院まで四時間の距離。急遽現地の村に助けを求めたが、獣医かいなかった。
救急車を要請するがなかなか来ない。
リチャードは焦りと怒りで観光客仲間に八つ当たりしてしまう。
結局自分は何も出来ないのだと、思い知らされるのだ。
同じように応急処置しようとする獣医を必死に拒絶するスーザンもまた、自分の弱みを誰とも共有できないという人間である。
彼らが分かり合うのは、互いに弱みを見せ合ったときだった。
彼女の命が助かったのは、アメリカ政府が動いてくれたからではない。
両者が弱みを見せることができたからなのだ。
リチャード・スーザン夫妻の子どもを預かるシッターのアメリアは、息子が結婚式だというので代わりのシッターを探すが見つからない。
仕方なくメキシコまで連れて行くことにしたアメリアは、盛大な息子の結婚式に参加することができる。
しかし、帰りに飲酒運転の甥サンチャゴが越境の際に国境警備員に疑われ、逃亡してしまう。
二人の子どもとアメリアを下ろしたサンチャゴは三人を置いて車で去る。
荒野をさまよい歩いた三人は翌日ようやく捜索していた警官に発見され保護される。
荒野を歩く三人があまりに痛々しく描写されるのは、その弱さを伝えるすべを持たないチエコたちと二重写しになる。
そして、捕まるかもしれないことを承知で助けを求めると、彼らは保護されるのだ。
結局アメリアは強制送還されることになる。
なぜだろう。
この映画はアメリカ政府を批判するために撮られたものではない。
まして、日本の異常な社会風景をカメラに収めたかったわけでもない。
世界の貧富の差を浮き彫りにしたかったのでもないだろう。
そういった社会的背景を捨象することは出来ないとしても、この映画に流れる本流とは違う。
問題にするべきなのは、舞台の国々が、欧米社会にとってすべて「辺境」であるということだ。
すなわち、政府や国際情勢を批判したいなら、きっとアメリカなどの欧米人が、よく知る国々を舞台にしただろう。
日本なんて絶対に相手にしないはずだ。
それでもあえて日本を描いたのは、「生きている全ての人間に共通している業(ごう)」をテーマにしているからだ。
全然知らない様な国でも、どんな人種でも、僕たち、私たちは、こんなにも自分の弱さを伝えるすべをなくしているのだという訴えである。
それは辺境の国であればあるほど、中央の人々(欧米人)にとっては身に迫るものがあるだろう。
なぜなら、自分たちも同じだということを客観的に、淡々と見せつけられるからだ。
アメリアは、アメリカ政府によって強制送還されたのではない。
弱さを見せることのできる故郷にしか生きる〈場所〉はないから、強制送還される他ないのだ。
因果応報というような、そんな単純な結末ではないだろう。
ここで、この映画のキーワードとなるライフルについて触れておこう。
この映画の物理的な唯一のつながりは綿谷がハンティングのガイドに譲ったライフルだ。
では、このライフルの持つ意味は何だろうか。
結論から言えば、ライフルは「弱さ」そのものだ。
綿谷にとってこのライフルは、妻を殺したというトラウマの象徴である。
おそらく同じライフルではないし、時間的に前後するかもしれないが、それでも綿谷にとってライフルは、単なる趣味ではもはやない。
それは自分が妻を助けることが出来なかったという弱さの象徴そのものなのだ。
苦い、払拭したいがしきれないという出来事そのものなのだ。
その弱さが今度はモロッコでの悲劇につながっていく。
ライフルは武器だが、それは弱さそのものであるという意味づけがされている。
チエコがハダカになる。
それはただ物理的な衣を取り去ったと言うことではない。
それまでにまとっていた自分を守るものを取り除くことにより、自分の弱さを見つめ、また父親に見せたのである。
それはことばでは伝えられない、弱さそのものだったはずだ。
それぞれの物語は一応の解決をみる。
だが、本当にそれは解決なのだろうか。
少なくとも、監督は解答は用意しなかったのだと思う。
この映画は正直、良い映画だとは思えない。
わかりにくくはないが、もっとダイレクトに表現すべきだったと思えるところもある。
完成度はあまり高くはないだろう。
魂の叫びとして、なんとか捻り出そうとした苦悩が伝わる、そんな映画だ。
この映画で最も完成度が高いのは、音楽だ。
魂の旋律かと思わせる弦楽器(ギター?)は、本当に心を打つ。
また、音の全景化と後景化の出し入れがすばらしい。
これほど表情豊かな音楽は稀だろう。
(2007/5/14執筆)
監督・原案:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
人間の罪は。罰は。
モロッコの農民アブドゥラは知人からジャッカルを撃つための銃を買う。
息子二人にヤギの放牧を任せていたところ、兄が銃を試し撃ちしはじめる。
下手な兄から銃をとり、弟がバスを狙って射撃する。
当たらなかったと思ったバスは急停車する。
日本。聾唖者のチエコ(菊池凛子)は、母親を失い自分の心うちを表現できずに悩んでいた。
友達に誘われるままに遊びに出かけると、そこはドラックにまみれた世界だった。
モロッコに旅行に来ていたアメリカ人のリチャード(ブラッド・ピット)は、ツアーバスに揺られているところにいきなり妻(ケイト・ブランシェット)が狙撃される。
手当てを望むが近辺に病院がないことを告げられ……。
何度聞いても覚えることができないこの監督の名前。
僕は「21グラム」の監督としか覚えられない。
ブラッド・ピットが目当てで、もしくは話題になった菊池凜子が目当てで気軽に見に行く人が多そうだ。
話題になってしまった性(さが)と言えばその通りだが、僕としては不本意だ。
この映画は初心者お断りという張り紙を出したくなる映画だ。
それは単純に難解だということではない。
むしろ、結構話は単純だ。
だが、それでも安易に良い悪いを語るべきでない映画だと思う。
映画の作り手に覚悟があるように、こちらも覚悟して観に行く必要がある。
そういう種類の映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
「バベル」とは、バベルの塔のことだ。
神に近づこうとした人間たちが築いたバベルの塔は、神の怒りに触れ、人間たちの言葉をバラバラにしてしまった、という聖書の話がモチーフになっている。
かなり有名なので知っている人の方が多いだろう。
その意味で、この映画のテーマは「コミュニケーションの困難さ」が基底に流れていることは容易に想像がつく。
だが、僕はこの映画をそれほど安易に考えたくはない。
結論から言って、この映画の完成度は決して高くない。
僕は好きな映画だが、それは完成度が高いからではない。
この映画を観て、小難しい、言いたいことがわからないという人は、もっと映画を勉強すべきだ(数多く観るべきだ)と思うし、この映画を単純に良い映画だとひれ伏すのも、結局的を射た感想だとも思えない。
実験的で、今までのストーリーや文化・セオリーを壊そうとあえいでいる、そんな映画だと僕の目には映った。
(※ もちろん、どんなふうに感じるかは個人の自由なので、あなたの感性を否定する気は全くないのですが。)
映画は大きく四つのパートに別れている。
モロッコ、日本、メキシコ。モロッコは加害者と被害者の両側から描く為、結局計四つのプロットが絡み合うということだ。
一つの映画である以上、もちろん共通項はあるのだが、この四つのパートはほとんどかみ合わない。
同じテーマの元に描かれているという点だけで、直接的な関係性はほとんどない。
「ほとんど」ないだけで、実はあるのだが、それは後に触れよう。
CMや予告などでは仰々しく一丁のライフルが物語をつなげると言っていたが、そういう一貫性はむしろ薄いのではないかと思う。
四者に貫いているのは、やはりコミュニケーションがいかに困難であるかということだ。
だが、そのコミュニケーションというのは、話したり、つながりをもったりするという単純な意味での、広義のコミュニケーションではない。
この映画のコミュニケーションはもっと限定してしまったほうがよりわかりやすい。
それは「自分の弱さを伝えることができない」という種類のコミュニケーションである。
最もわかりやすいのは日本のチエコのパートだ。
彼女は母親を目の前で自殺した光景が心に焼き付いている。
彼女の母親がなぜ死んでしまったのか、劇中では明かされないが、彼女は自分の責任だと感じている。
彼女は自分の考えを口に出しすことができず、また、相手の考えを耳で聞くことが出来ない。
彼女は聾唖者であり、そのことで自分を出すことが出来ず、コンプレックスを抱いている。
チエコは母親が死んだところを目撃したことに加えて、自分の障害故に、母親の死から立ち直れない。
自分は女で恋もしたいのに、自分は不安で仕方がないのに、それを表現するすべを持たない。
だから彼女は友達の連れとともに退廃的な世界にあこがれる。
だが、彼女を支えているのは紛れもなく家族であり、その退廃的な世界にさえ一歩踏み出すことが出来ない。
友達とチエコの差は、彼女が母親の死という逃げられないトラウマを持つからだろう。
そして彼女は何とか自分を認めさせようと刑事の前でハダカになり、自分が女であることを自他ともに証明しようとするのだ。
そこには言葉が伝わらない、声に出来ないという悲痛な叫びがある。
母親に対する気持ちを処理できず、父親に当たることも出来ず、誰かと共有することも出来ない。
彼女はハダカになるより他なかったのだ。
モロッコの遊牧民アブドゥラは、ジャッカルを狩るための銃を、息子アフメッドとユセフに渡す。
兄のアフメッドは弟ユセフと姉の奇妙な関係に苛立っていた。
だが、兄の弟への怒りは、姉との関係ではない。
弟は何でも器用にこなし、姉にも好かれている。
だが、自分は銃も上手く撃てない。
つまり、器用な弟に対し、兄はコンプレックスを抱いていたのだ。
そして銃の試し撃ちをするうちに、狙いがいつのまにか走る車になっていた。
ユセフの持っていたライフルは観光バスに命中してしまう。
ここからはチエコと同じだ。
結局自分の弱さを相手に伝えることが出来ない兄弟は、ドツボにはまっていく。
ライフルを持つことが強さだということにさえ気づかず、その自分の弱さに気づき、自分の弱さを示すには、兄アフメッドの犠牲が必要だった。
ユセフは叫ぶ。
「兄を助けてあげてほしい」
だが、それは全てが遅すぎたのだ。
弱みを見せることができなかった家族には不幸な結末が待っている。
観光客のリチャードは、三子目のサムの死を受け止められず家庭を顧みなかった。
(劇中では具体的にはわからないが、おそらく不倫か仕事に逃げただろう)
その話し合いをするためにモロッコに来る。
だが、妻のスーザンはリチャードを許すことが出来ずにいた。
その妻のスーザンは突然移動中に銃で撃たれてしまう。
近くの病院まで四時間の距離。急遽現地の村に助けを求めたが、獣医かいなかった。
救急車を要請するがなかなか来ない。
リチャードは焦りと怒りで観光客仲間に八つ当たりしてしまう。
結局自分は何も出来ないのだと、思い知らされるのだ。
同じように応急処置しようとする獣医を必死に拒絶するスーザンもまた、自分の弱みを誰とも共有できないという人間である。
彼らが分かり合うのは、互いに弱みを見せ合ったときだった。
彼女の命が助かったのは、アメリカ政府が動いてくれたからではない。
両者が弱みを見せることができたからなのだ。
リチャード・スーザン夫妻の子どもを預かるシッターのアメリアは、息子が結婚式だというので代わりのシッターを探すが見つからない。
仕方なくメキシコまで連れて行くことにしたアメリアは、盛大な息子の結婚式に参加することができる。
しかし、帰りに飲酒運転の甥サンチャゴが越境の際に国境警備員に疑われ、逃亡してしまう。
二人の子どもとアメリアを下ろしたサンチャゴは三人を置いて車で去る。
荒野をさまよい歩いた三人は翌日ようやく捜索していた警官に発見され保護される。
荒野を歩く三人があまりに痛々しく描写されるのは、その弱さを伝えるすべを持たないチエコたちと二重写しになる。
そして、捕まるかもしれないことを承知で助けを求めると、彼らは保護されるのだ。
結局アメリアは強制送還されることになる。
なぜだろう。
この映画はアメリカ政府を批判するために撮られたものではない。
まして、日本の異常な社会風景をカメラに収めたかったわけでもない。
世界の貧富の差を浮き彫りにしたかったのでもないだろう。
そういった社会的背景を捨象することは出来ないとしても、この映画に流れる本流とは違う。
問題にするべきなのは、舞台の国々が、欧米社会にとってすべて「辺境」であるということだ。
すなわち、政府や国際情勢を批判したいなら、きっとアメリカなどの欧米人が、よく知る国々を舞台にしただろう。
日本なんて絶対に相手にしないはずだ。
それでもあえて日本を描いたのは、「生きている全ての人間に共通している業(ごう)」をテーマにしているからだ。
全然知らない様な国でも、どんな人種でも、僕たち、私たちは、こんなにも自分の弱さを伝えるすべをなくしているのだという訴えである。
それは辺境の国であればあるほど、中央の人々(欧米人)にとっては身に迫るものがあるだろう。
なぜなら、自分たちも同じだということを客観的に、淡々と見せつけられるからだ。
アメリアは、アメリカ政府によって強制送還されたのではない。
弱さを見せることのできる故郷にしか生きる〈場所〉はないから、強制送還される他ないのだ。
因果応報というような、そんな単純な結末ではないだろう。
ここで、この映画のキーワードとなるライフルについて触れておこう。
この映画の物理的な唯一のつながりは綿谷がハンティングのガイドに譲ったライフルだ。
では、このライフルの持つ意味は何だろうか。
結論から言えば、ライフルは「弱さ」そのものだ。
綿谷にとってこのライフルは、妻を殺したというトラウマの象徴である。
おそらく同じライフルではないし、時間的に前後するかもしれないが、それでも綿谷にとってライフルは、単なる趣味ではもはやない。
それは自分が妻を助けることが出来なかったという弱さの象徴そのものなのだ。
苦い、払拭したいがしきれないという出来事そのものなのだ。
その弱さが今度はモロッコでの悲劇につながっていく。
ライフルは武器だが、それは弱さそのものであるという意味づけがされている。
チエコがハダカになる。
それはただ物理的な衣を取り去ったと言うことではない。
それまでにまとっていた自分を守るものを取り除くことにより、自分の弱さを見つめ、また父親に見せたのである。
それはことばでは伝えられない、弱さそのものだったはずだ。
それぞれの物語は一応の解決をみる。
だが、本当にそれは解決なのだろうか。
少なくとも、監督は解答は用意しなかったのだと思う。
この映画は正直、良い映画だとは思えない。
わかりにくくはないが、もっとダイレクトに表現すべきだったと思えるところもある。
完成度はあまり高くはないだろう。
魂の叫びとして、なんとか捻り出そうとした苦悩が伝わる、そんな映画だ。
この映画で最も完成度が高いのは、音楽だ。
魂の旋律かと思わせる弦楽器(ギター?)は、本当に心を打つ。
また、音の全景化と後景化の出し入れがすばらしい。
これほど表情豊かな音楽は稀だろう。
(2007/5/14執筆)
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