評価点:85点/2008/イギリス
監督:ダニー・ボイル
完璧なシナリオに、最高のサウンド、そして何より人生の両極端がある。
ムンバイのスラムで育った野良犬、スラムドッグであったジャマール(デーヴ・パテル)はクイズ番組で正答を連発する。
疑われたジャマールは警察から拷問をうけ、いきさつを説明するよう脅される。
彼の話はまさにクイズを正解するためのような壮絶な半生だった。
ダニー・ボイルといえば「トレインスポッティング」があまりにも有名だ。
と書きながら、実はまだ観ていないのがいかにも僕らしい。
ともかくスタイリッシュな映像と社会的な視座を持ち合わせた稀有なイギリス人監督だ。
それは「28日後…」でも明らかだ。
その彼が低予算ながらインドでなにやらすごい映画を撮ったらしい。
勢いは凄まじく、オスカーをさらうまでに至った。
この映画のみどころは、洗練されたストーリーもさることながら、彼らが立たされている現状だ。
あまりにも残酷な現実は、僕たちの頭を金槌でどつかれるような衝撃を覚えるだろう。
だが、インドを知らなさすぎる僕たちにとって、それは必要な衝撃なのだと思う。
ぜひ観て欲しい映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
【完璧な脚本】
原作は「ぼくと1ルピーの神様」という本だ。
それを脚色してこの作品が生まれた。
オスカーの脚色賞を手中にしたことからわかるように、この映画の脚本はまさに完璧だと思わせる。
アイデアとしては単純なのかもしれないが、完成度があまりにも高い。
時間軸が二重になっている。
一つは現在、つまりクイズ番組「クイズ・ミリオネア」に出た後、イカサマなのではないか、と疑いをかけられて取り締まりを受けている時間。
一つは、その語られる過去の時間である。
クイズ番組のVTRを観ながら、語ることになるので、三重といえるかもしれない。
とにかく、この二つの時間が、完全に重なる。
クイズを一つ正解することは、一つ人生のひもを一つ解いていくことに他ならない。
彼はインドのスラムのまっただ中に生まれた。
母と子三人(兄・サリーム)で貧しいけれど、幸せに暮らしていた。
トップスターの写真にサインをもらうために、肥だめに飛び込んだり、私有地で遊んでいて警官にどやされたり。
彼らは間違いなくこの世界の底辺で、意味を失わずに生きる人々だった。
だがそんな幸せな生活も、長くは続かない。
ヒンドゥーとイスラムの宗教抗争に巻き込まれ、母親が殺されてしまう。
イスラム教徒であった彼らは、生きる場を追われてしまう。
途中でであったラティカ(フリーダ・ピント)とともに、路上生活をしているところを一人の男に拾われる。
彼は三人に腹一杯食べさせ、物乞いとして働かせる。
だが、彼も単なる善人ではなく、より「稼げるように」子どもたちを意図的に障害者にしていく。
残忍な裏側を見せられた兄は、弟と自分の人生を天秤にかけるように要求される。
弟を売ることができなかった兄は、ついにその場を逃げ出し、列車に飛び乗る。
列車でたくましく生きる彼らは、ナンを盗むところを見つかり、タージマハールのそばで捨てられる。
タージマハールでも彼らは必死に働く。
半ば詐欺の観光案内と、盗みを繰り返し、彼らは食うに困らない生活を送れるようになる。
彼らの生き方はまさに世界の最低ラインがどんなものかを教えてくれるようなものだ。
未だ差別を肯定し続けるインドでは、貧富の差は単なる競争の勝者と敗者ではない。
それは人間という普遍的に見える存在をも根底から覆すような、アプリオリにある階級制度だ。
子どもたちが目をつぶされるとき、僕たちはどんな思いを抱くだろうか。
それを一つ一つ語っていくジャマールは、非常に力強いまなざしをしている。
一つ正解を出すことは、一つ、ジャマールが課題を解決していく、まさに人生そのものなのだ。
離ればなれになったラティカを探すために、兄弟はタージマハールを後にしてムンバイに戻る。
ムンバイでは少年少女を奴隷として働かせる商売は、一大勢力だった。
運良くラティカを発見し、奪い返した兄弟に残されている選択肢はそう多くない。
サリームはジャマールを裏切り、ラティカを奪ってしまう。
この選択は、兄自身のためだったのか、それともジャマールのためだったのか。
僕はどちらとも判断がつかないような気がしている。
このあたりからストーリーは一気に運命めいたものになっていく。
ラティカと、兄弟と、そしてクイズ番組。
警部から「なぜクイズ番組に出たのか」と問われ、「ラティカを探すために」という動機は、この映画が収束される地点を示している。
長くなるので話をすっとばそう。
ラストはこれ以上ないハッピーエンドとなる。
どん底でも見ることができる夢を僕たちに提示する。
ラティカとの再会と、ミリオネア。
その代価として、兄を失い、多くの苦難があったわけだ。
ダニー・ボイルらしからぬほど、ロマンティックな終幕だ。
完璧なシナリオだ、とうならずにはいられない。
【僕たちに何を投げかけるのか】
この映画は対比の映画だ、と僕は見ながら思っていた。
どん底に生きている過去と、これから億万長者になるという未来の物語。
もしくは逆接の物語だ。
どん底に生きているのに、億万長者になるという物語。
だが、そうではないのかもしれない、という気がしてくる。
順接もしくは、動作の並行の物語、なのかもしれない。
この映画はものすごくパワフルな映画だと思う。
観るものに勇気と希望を与えてくれる。
それはハッピーエンドであったからではない。
それはアメリカンドリームを実現したからでもない。
この映画は、「どん底に生きているからこそ、億万長者になる物語」であり、
「どん底に生きながら、億万長者になる物語」なのだ。
この映画に登場するものたちは、誰もがパワフルだ。
生きる意味を疑ったり、現状に不満を漏らしたりすることはない。
誰かをうらやんだり、心を病んだりすることがない。
すべての人間がパワフルに、前向きに生きている。
主人公だけが、一途なのではない。
再会した奴隷の子どもが「仕方ないさ、君は運が良かったんだ。僕はそうでなかっただけ」と自分の運命の中で生きることを否定しない。
ジャマールは特別な存在だが、特別ではないのだ。
先進国では、生きることについて意味や自分の存在を確立することが命題となりつつある。
それは潜在的にであれ、顕在的にであれ、抱えている問題だ。
物語で、アイデンティティの確立が、大きなテーマであることがそれを照射している。
だが、インドではそうではない。
生きることそのものが目的なのだ。
逆に言えば、人生における意味を問う必要もないほど壮絶な世界なのだ。
なぜジャマールは大金と運命の人と出会ったのだろうか。
A:インチキだった(虚構だから)
B:ついていた
C:天才だった
D:運命だった
僕たちがこの映画から得るのは、信じていれば救われるとか、努力は報われるとか、そういった現代における夢を標榜する可能性ではない。
むしろ、生きることそのものへの問いかけだ。
生きるとはそんなに心病むことなのか。
生きるとはそんなに悩ましいことなのか。
生きるとはそんなに〈苦しい〉ことなのか。
この映画の真の鋭さは、そこにあるのだと思う。
監督:ダニー・ボイル
完璧なシナリオに、最高のサウンド、そして何より人生の両極端がある。
ムンバイのスラムで育った野良犬、スラムドッグであったジャマール(デーヴ・パテル)はクイズ番組で正答を連発する。
疑われたジャマールは警察から拷問をうけ、いきさつを説明するよう脅される。
彼の話はまさにクイズを正解するためのような壮絶な半生だった。
ダニー・ボイルといえば「トレインスポッティング」があまりにも有名だ。
と書きながら、実はまだ観ていないのがいかにも僕らしい。
ともかくスタイリッシュな映像と社会的な視座を持ち合わせた稀有なイギリス人監督だ。
それは「28日後…」でも明らかだ。
その彼が低予算ながらインドでなにやらすごい映画を撮ったらしい。
勢いは凄まじく、オスカーをさらうまでに至った。
この映画のみどころは、洗練されたストーリーもさることながら、彼らが立たされている現状だ。
あまりにも残酷な現実は、僕たちの頭を金槌でどつかれるような衝撃を覚えるだろう。
だが、インドを知らなさすぎる僕たちにとって、それは必要な衝撃なのだと思う。
ぜひ観て欲しい映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
【完璧な脚本】
原作は「ぼくと1ルピーの神様」という本だ。
それを脚色してこの作品が生まれた。
オスカーの脚色賞を手中にしたことからわかるように、この映画の脚本はまさに完璧だと思わせる。
アイデアとしては単純なのかもしれないが、完成度があまりにも高い。
時間軸が二重になっている。
一つは現在、つまりクイズ番組「クイズ・ミリオネア」に出た後、イカサマなのではないか、と疑いをかけられて取り締まりを受けている時間。
一つは、その語られる過去の時間である。
クイズ番組のVTRを観ながら、語ることになるので、三重といえるかもしれない。
とにかく、この二つの時間が、完全に重なる。
クイズを一つ正解することは、一つ人生のひもを一つ解いていくことに他ならない。
彼はインドのスラムのまっただ中に生まれた。
母と子三人(兄・サリーム)で貧しいけれど、幸せに暮らしていた。
トップスターの写真にサインをもらうために、肥だめに飛び込んだり、私有地で遊んでいて警官にどやされたり。
彼らは間違いなくこの世界の底辺で、意味を失わずに生きる人々だった。
だがそんな幸せな生活も、長くは続かない。
ヒンドゥーとイスラムの宗教抗争に巻き込まれ、母親が殺されてしまう。
イスラム教徒であった彼らは、生きる場を追われてしまう。
途中でであったラティカ(フリーダ・ピント)とともに、路上生活をしているところを一人の男に拾われる。
彼は三人に腹一杯食べさせ、物乞いとして働かせる。
だが、彼も単なる善人ではなく、より「稼げるように」子どもたちを意図的に障害者にしていく。
残忍な裏側を見せられた兄は、弟と自分の人生を天秤にかけるように要求される。
弟を売ることができなかった兄は、ついにその場を逃げ出し、列車に飛び乗る。
列車でたくましく生きる彼らは、ナンを盗むところを見つかり、タージマハールのそばで捨てられる。
タージマハールでも彼らは必死に働く。
半ば詐欺の観光案内と、盗みを繰り返し、彼らは食うに困らない生活を送れるようになる。
彼らの生き方はまさに世界の最低ラインがどんなものかを教えてくれるようなものだ。
未だ差別を肯定し続けるインドでは、貧富の差は単なる競争の勝者と敗者ではない。
それは人間という普遍的に見える存在をも根底から覆すような、アプリオリにある階級制度だ。
子どもたちが目をつぶされるとき、僕たちはどんな思いを抱くだろうか。
それを一つ一つ語っていくジャマールは、非常に力強いまなざしをしている。
一つ正解を出すことは、一つ、ジャマールが課題を解決していく、まさに人生そのものなのだ。
離ればなれになったラティカを探すために、兄弟はタージマハールを後にしてムンバイに戻る。
ムンバイでは少年少女を奴隷として働かせる商売は、一大勢力だった。
運良くラティカを発見し、奪い返した兄弟に残されている選択肢はそう多くない。
サリームはジャマールを裏切り、ラティカを奪ってしまう。
この選択は、兄自身のためだったのか、それともジャマールのためだったのか。
僕はどちらとも判断がつかないような気がしている。
このあたりからストーリーは一気に運命めいたものになっていく。
ラティカと、兄弟と、そしてクイズ番組。
警部から「なぜクイズ番組に出たのか」と問われ、「ラティカを探すために」という動機は、この映画が収束される地点を示している。
長くなるので話をすっとばそう。
ラストはこれ以上ないハッピーエンドとなる。
どん底でも見ることができる夢を僕たちに提示する。
ラティカとの再会と、ミリオネア。
その代価として、兄を失い、多くの苦難があったわけだ。
ダニー・ボイルらしからぬほど、ロマンティックな終幕だ。
完璧なシナリオだ、とうならずにはいられない。
【僕たちに何を投げかけるのか】
この映画は対比の映画だ、と僕は見ながら思っていた。
どん底に生きている過去と、これから億万長者になるという未来の物語。
もしくは逆接の物語だ。
どん底に生きているのに、億万長者になるという物語。
だが、そうではないのかもしれない、という気がしてくる。
順接もしくは、動作の並行の物語、なのかもしれない。
この映画はものすごくパワフルな映画だと思う。
観るものに勇気と希望を与えてくれる。
それはハッピーエンドであったからではない。
それはアメリカンドリームを実現したからでもない。
この映画は、「どん底に生きているからこそ、億万長者になる物語」であり、
「どん底に生きながら、億万長者になる物語」なのだ。
この映画に登場するものたちは、誰もがパワフルだ。
生きる意味を疑ったり、現状に不満を漏らしたりすることはない。
誰かをうらやんだり、心を病んだりすることがない。
すべての人間がパワフルに、前向きに生きている。
主人公だけが、一途なのではない。
再会した奴隷の子どもが「仕方ないさ、君は運が良かったんだ。僕はそうでなかっただけ」と自分の運命の中で生きることを否定しない。
ジャマールは特別な存在だが、特別ではないのだ。
先進国では、生きることについて意味や自分の存在を確立することが命題となりつつある。
それは潜在的にであれ、顕在的にであれ、抱えている問題だ。
物語で、アイデンティティの確立が、大きなテーマであることがそれを照射している。
だが、インドではそうではない。
生きることそのものが目的なのだ。
逆に言えば、人生における意味を問う必要もないほど壮絶な世界なのだ。
なぜジャマールは大金と運命の人と出会ったのだろうか。
A:インチキだった(虚構だから)
B:ついていた
C:天才だった
D:運命だった
僕たちがこの映画から得るのは、信じていれば救われるとか、努力は報われるとか、そういった現代における夢を標榜する可能性ではない。
むしろ、生きることそのものへの問いかけだ。
生きるとはそんなに心病むことなのか。
生きるとはそんなに悩ましいことなのか。
生きるとはそんなに〈苦しい〉ことなのか。
この映画の真の鋭さは、そこにあるのだと思う。
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