評価点:50点/2017年/アメリカ/135分
監督:アンディ・ムスキエティ
制作陣はこの原作の魅力を理解していない。
大雨の日、ジョージィはインフルエンザの兄ビル・デンブロウ(ジェイデン・リーバハー)に作ってもらった小舟を、家の前の水の流れにそっと浮かべた。
みるみるうちに流れに沿って走る小舟を追っていくと、下水の穴に入り込んだ。
のぞき込むとそこにはピエロがいた。
ジョージィはそのピエロ(ペニーワイズ:ビル・スカルスガルド)に話しかけて返して欲しいと訴える。
差し出したその手を引きずり込み、側溝の中にジョージィは消えた。
ビルはどもり(吃音)があり、うまく発声できない少年だった。
そして、デニーにも夏休みがやってくる。
ビルは友人達とともに、ジョージィが消えたはずの場所を探そうと提案する。
言わずと知れたスティーヴン・キングの名作ホラー「it」の映像化作品である。
私はこの映画化を知る前に、「it」を読み始めていた。
どこを探しても在庫がなく、増版の予定もないことから、手に入らない状態が続いていた。
オークションで競り落とし、なんとか全巻そろったところで読み始めた。
そうこうしているときに、映画化の話が話題となり、本屋に平積みされるようになった。
俺が先に目をつけていたのに。
とはいえ、読もうとしたきっかけは佐藤優が読むべき本として紹介していたことなのだが。
それはともかく1年ちかくもちまちまこの話とともに生活していた私としては、この映画は生ぬるい。
この映画がこの物語のきっかけになるのは残念でならない。
そうじゃないんだ、という思いが鑑賞中ずっと頭をかけめぐっていた。
続編が公開されることもあって、レンタルすることにしたが、私は原作を読んで欲しいと思う。
まあ、世間の評価は「めっちゃ怖かった!」ということらしいので、これで満足してくれるのかもしれないが。
ということで、私はこの映画をおすすめはしない。
▼以下はネタバレあり▼
見終わったとき、「これ、本当に絶賛されて観客動員すごかったの?」というハテナマークが沢山並んだ。
私としては、全く「it」にあるべきはずのものが欠落しているように感じたからだ。
いうならば、オレンジジュースを飲んでオレンジを食べたと言い張っているような印象。
カップ麺を食べて、ラーメンを食べた気になっているという印象。
確かにそれはオレンジであり、ラーメンであるけれど、そこにあるべきはずの深さや雰囲気を全然味わえていない……というもどかしさ。
これだと単なる「鬼ごっこ」じゃん。
まずこの映画は前後半の二部作になっていて、前半で少年時代、後半で大人になってからのitとの闘いを描いている。
だから大人になってからの闘いは全くこの映画では描かれていない。
これが致命的にまずかった。
itとの闘いは、大人になって失われてしまった「あの輝き」こそが、対決に不可欠な要素であることを突きつけられるものだからだ。
その記憶をたぐり寄せながら、大人と子どもを往還する物語であるからこそ、itの存在が浮かび上がってくる。
それは、itとしか呼びようのない、「何か」なのだ。
この映画では、itは完全に子どもを蹂躙する大人の象徴として描かれている。
ルーザーズクラブと呼ばれる7人は、ともに大人達から虐げられている。
その点だけが浮かび上がってくるように描かれている。
よって、その7人が対峙するitもその記号、象徴として捉えられることになる。
子どもの自立を妨げる者=大人達=itという構図だ。
そうなると大人となった彼らは何と対峙することになるのだろうか。
不思議と消えてしまったあの記憶、デリーから離れitと対峙したことじたいを忘れてしまったビルたちは、既に大人になってしまっている。
大人と子どもという対立にまで単純化されてしまったとき、最も大切だった〈何か〉までも捨象されてしまう。
典型的なのは、決戦の舞台となる廃屋だ。
あそこだけ不自然なくらい古びて異様な雰囲気を与えられている。
もっと言えば、映画として画が浮いている。
それは、この映画が「説明しがたい何か」を「簡単に説明しようとした」帰結なのではないかと思えるのだ。
結果、物語は極度に単純化され、軽薄なホラー映画となってしまった。
文庫本で4冊もある物語をすべて映像化できるかどうかはわからない。
けれども、もっとも大切だった言葉で綴られているのに言葉で綴ることができない〈何か〉を捨象しては、物語として別物となってしまったと言わざるを得ない。
ビルはなぜこれほどリスクの高い闘いに仲間を巻き込んだのだろう。
6人たちは武器も何も勝ち目もなさそうな戦いになぜ挑もうと思ったのだろう。
彼らは予定調和の中で物語を突き進む、トロッコに乗った子ども達のように、ほとんど疑いなくitとの闘いに身を投じていく。
周りの少年達は、その闘いに負けていく(=行方不明になってしまう)。
にもかかわらず、彼だけは勝ちたいと思って闘いを挑む。
その特殊性が見えてこない。
そうだから、そうだ、としか言いようのないキャラクターしか与えられていない。
だから、観客としては、(勝てる条件を備える前に)勝てないはずの相手に勝ってしまった少年達というような、置き去りにされてしまったような印象を受ける。
話題になったこともあって、私の期待値は非常に高かった。
だから「THE END」は見に行きたいと思って、レンタルした。
これだったら、わざわざ時間を割いて見に行く必要があるのか、それならもう一度本を読み直した方がよいのではないか、そう思ってしまった。
原作がおそらくスティーヴン・キングの作家人生においても代表作となるほどすばらしいからこそ、とても残念だ。
監督:アンディ・ムスキエティ
制作陣はこの原作の魅力を理解していない。
大雨の日、ジョージィはインフルエンザの兄ビル・デンブロウ(ジェイデン・リーバハー)に作ってもらった小舟を、家の前の水の流れにそっと浮かべた。
みるみるうちに流れに沿って走る小舟を追っていくと、下水の穴に入り込んだ。
のぞき込むとそこにはピエロがいた。
ジョージィはそのピエロ(ペニーワイズ:ビル・スカルスガルド)に話しかけて返して欲しいと訴える。
差し出したその手を引きずり込み、側溝の中にジョージィは消えた。
ビルはどもり(吃音)があり、うまく発声できない少年だった。
そして、デニーにも夏休みがやってくる。
ビルは友人達とともに、ジョージィが消えたはずの場所を探そうと提案する。
言わずと知れたスティーヴン・キングの名作ホラー「it」の映像化作品である。
私はこの映画化を知る前に、「it」を読み始めていた。
どこを探しても在庫がなく、増版の予定もないことから、手に入らない状態が続いていた。
オークションで競り落とし、なんとか全巻そろったところで読み始めた。
そうこうしているときに、映画化の話が話題となり、本屋に平積みされるようになった。
俺が先に目をつけていたのに。
とはいえ、読もうとしたきっかけは佐藤優が読むべき本として紹介していたことなのだが。
それはともかく1年ちかくもちまちまこの話とともに生活していた私としては、この映画は生ぬるい。
この映画がこの物語のきっかけになるのは残念でならない。
そうじゃないんだ、という思いが鑑賞中ずっと頭をかけめぐっていた。
続編が公開されることもあって、レンタルすることにしたが、私は原作を読んで欲しいと思う。
まあ、世間の評価は「めっちゃ怖かった!」ということらしいので、これで満足してくれるのかもしれないが。
ということで、私はこの映画をおすすめはしない。
▼以下はネタバレあり▼
見終わったとき、「これ、本当に絶賛されて観客動員すごかったの?」というハテナマークが沢山並んだ。
私としては、全く「it」にあるべきはずのものが欠落しているように感じたからだ。
いうならば、オレンジジュースを飲んでオレンジを食べたと言い張っているような印象。
カップ麺を食べて、ラーメンを食べた気になっているという印象。
確かにそれはオレンジであり、ラーメンであるけれど、そこにあるべきはずの深さや雰囲気を全然味わえていない……というもどかしさ。
これだと単なる「鬼ごっこ」じゃん。
まずこの映画は前後半の二部作になっていて、前半で少年時代、後半で大人になってからのitとの闘いを描いている。
だから大人になってからの闘いは全くこの映画では描かれていない。
これが致命的にまずかった。
itとの闘いは、大人になって失われてしまった「あの輝き」こそが、対決に不可欠な要素であることを突きつけられるものだからだ。
その記憶をたぐり寄せながら、大人と子どもを往還する物語であるからこそ、itの存在が浮かび上がってくる。
それは、itとしか呼びようのない、「何か」なのだ。
この映画では、itは完全に子どもを蹂躙する大人の象徴として描かれている。
ルーザーズクラブと呼ばれる7人は、ともに大人達から虐げられている。
その点だけが浮かび上がってくるように描かれている。
よって、その7人が対峙するitもその記号、象徴として捉えられることになる。
子どもの自立を妨げる者=大人達=itという構図だ。
そうなると大人となった彼らは何と対峙することになるのだろうか。
不思議と消えてしまったあの記憶、デリーから離れitと対峙したことじたいを忘れてしまったビルたちは、既に大人になってしまっている。
大人と子どもという対立にまで単純化されてしまったとき、最も大切だった〈何か〉までも捨象されてしまう。
典型的なのは、決戦の舞台となる廃屋だ。
あそこだけ不自然なくらい古びて異様な雰囲気を与えられている。
もっと言えば、映画として画が浮いている。
それは、この映画が「説明しがたい何か」を「簡単に説明しようとした」帰結なのではないかと思えるのだ。
結果、物語は極度に単純化され、軽薄なホラー映画となってしまった。
文庫本で4冊もある物語をすべて映像化できるかどうかはわからない。
けれども、もっとも大切だった言葉で綴られているのに言葉で綴ることができない〈何か〉を捨象しては、物語として別物となってしまったと言わざるを得ない。
ビルはなぜこれほどリスクの高い闘いに仲間を巻き込んだのだろう。
6人たちは武器も何も勝ち目もなさそうな戦いになぜ挑もうと思ったのだろう。
彼らは予定調和の中で物語を突き進む、トロッコに乗った子ども達のように、ほとんど疑いなくitとの闘いに身を投じていく。
周りの少年達は、その闘いに負けていく(=行方不明になってしまう)。
にもかかわらず、彼だけは勝ちたいと思って闘いを挑む。
その特殊性が見えてこない。
そうだから、そうだ、としか言いようのないキャラクターしか与えられていない。
だから、観客としては、(勝てる条件を備える前に)勝てないはずの相手に勝ってしまった少年達というような、置き去りにされてしまったような印象を受ける。
話題になったこともあって、私の期待値は非常に高かった。
だから「THE END」は見に行きたいと思って、レンタルした。
これだったら、わざわざ時間を割いて見に行く必要があるのか、それならもう一度本を読み直した方がよいのではないか、そう思ってしまった。
原作がおそらくスティーヴン・キングの作家人生においても代表作となるほどすばらしいからこそ、とても残念だ。
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