評価点:81点/2019年/アメリカ/122分
監督:トッド・フィリップス
仮面をつけることで、〈仮面〉を外す男:ジョーカー。
不況に陥ったゴッサムシティでは18日連続で街の清掃員がストライキに入った。
街はゴミのにおいにあえいで、貧困はますます進んでいた。
市長選を控え、医師で実業家のトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)は街を救いたいと訴えていた。
ピエロのバイトをしながら生計を立てていたアーサー(ホワキン・フェニックス)は、コメディアンになることを夢見ていた。
しかし彼は精神病棟に入院にしていた経緯があり、緊張すると急に笑い出してしまう疾患を持っていた。
アーサーがピエロで閉店セールの売り込みをしているとき、若者達に襲われケガをしてしまう。
「バットマン」で最も有名なヴィランの一人であるジョーカーの生い立ちを描いた作品。
他のシリーズとの関連性はなく、バットマンも登場しない。
しかし、アカデミー賞最有力とも言われ、アメリカの各劇場では厳戒態勢の中で公開された。
かつて絶賛されてきた映画は多いが、「社会的な影響力を持った作品」としてこれほど話題になった作品は少ない。
しかもこれはフィクションである。
これほどまでにナーバス(神経質)になる意味はどこにあるのか。
それは映画を見れば分かる。
バットマンシリーズを何も知らなくても楽しめるだろう。
むしろバットマンとの関連性を知らない方が、この映画を「正しく」評価できるかもしれない。
私はこの映画を絶賛する気にはとうていならない。
この映画を陳腐なことばで表現することはできない。
良い映画、悪い映画という評価軸ではあまりに安直なものになってしまうだろう。
ただ、この映画は劇場で見るべきだ。
厳密に言えば、今という時代に見るべきだ。
「ああ、こんな時代もあったね」と懐かしめる時代がくればいいと思う。
「ああ、この時代にもうすでにこんな指摘があったのか」という未来予想の映画にならないことを祈る。
▼以下はネタバレあり▼
ほとんど予備知識なしで見に行ったが、トレーラーと前田有一の超映画批評は確認していた。
前田有一が言う〈分断〉が頭にありながら見たことは重要だった。
私の読みに多少なりとも影響を与えたことは間違いない。
となりの席のカップルが「全くわからん」と言っていたのにも無理はないのかもしれない。
この映画はいわゆるコミック映画とは少し違う。
コミック映画の「エンドゲーム」に感化されて劇場に足を運んだのなら、きっと驚く事になっただろう。
物語はそれでも単純だ。
アーサーという人間が、仮面をかぶることで「ジョーカー」になる物語である。
逆説的だが、アーサーは仮面をかぶることで本来の自分を覚醒させる。
この映画の重要な部分だ。
だから、トーマス・ウェインが殺人事件のコメントで「仮面をかぶらなければ何もできない卑怯者だ」という批判を展開するが、全くの的外れだ。
彼は仮面をかぶることで社会的な自分という抑圧された役割から解放されて、むしろ本来の自分を取り戻す。
演じることがなくなったアーサーはだから奇妙な笑いを克服してしまう。
彼の症状は、社会的な役割を彼に外圧的に求めることからくる社会的な病だったわけだ。
この映画の根底が、支配者層と被支配者層の〈分断〉にあるのは間違いないだろう。
支配者層の代表であるトーマス・ウェインは、市民を救いたいという高い志を持ちながら、しかし、彼らに救済の意図は全く伝わらない。
完全に齟齬を起こしてしまっている。
彼らに必要なのは具体的な施策であり、福祉であり、さらにはその苦しみを理解することなのだ。
しかし支配者層がやろうとしていることは、わかったふりをして机上の空論ばかり。
結果彼らは社会からどんどん取り残されてしまう。
〈分断〉が象徴的なのは、ピエロのデモ行進を行なっている横で、支配者層たちはタキシードを着て映画を鑑賞しているシークエンス(場面)だ。
ヴィジュアル的にも明らかなように、その落差は決定的なものだ。
この〈分断〉を〈理解〉という観点から考えるとさらに違った見方ができる。
この映画で分断されているのは、支配者層と被支配者層という階層の〈分断〉だけではないということだ。
最下層にいるものたちは、ピエロの面をつけてデモ行進に参加する。
しかし、些細なことでピエロ同士が喧嘩を始めてしまう。
彼らは同じ最下層にいる人間同士であっても理解し合うことがない。
厳密にいえば、彼らはデモ隊ではない。
一つの目的をもった集団でさえない。
ただ、抑圧された自分というパッションを爆発させているに過ぎない。
彼らに目的はない。
何どうすればいいのかというヴィジョンもない。
隣にいる人間を理解しようというような共通の態度もない。
アーサーが繰り返し、「話しても理解できないさ」と言うのは絶望の中にある台詞だ。
彼らどうしさえも、〈分断〉されているのだ。
だからジョーカーの孤独は深刻だ。
ジョーカーはアーサーという人間ではない。
真の意味で彼はシンボルになってしまう。
アーサーが死んでも、ジョーカーは死なない。
すべての社会的なつながり、役割を断ち切った彼に、死が訪れることはない。
誰からも理解されずに蹂躙されている人間たち。
いないのと同じように扱われてしまう人間たち。
そこには悪事を働こうとか、怠惰によって堕落させたといった悪人たちはいない。
むしろ一生懸命生きようとして、それでも誰からも理解されなかった社会から断絶されてしまった善良な市民達ばかりだ。
ピエロたちに救い出されたアーサーは、ジョーカーとなる。
ジョーカーはトランプに象徴されるように、すべての序列から超越する存在であり、何もかもを破壊してしまうトリックスターでもある。
そして、我々自身が、いつジョーカーになってもおかしくない普遍性を呈示する。
なぜなら、私たちとて強固だと思っていたつながりがいつ絶たれるのかわからないからだ。
長くなっているがジョーカーになっていく過程を押さえておこう。
アーサーは子どもの頃虐待されて育つ。
それが原因なのか、緊張したときに笑ってしまうという強迫症を患っている。
唯一のよりどころである血縁者の母親は、実は実子ではないことが明らかになる。
仕事も失い、社会的役割も剥奪される。
トーマス・ウェインが父親であればまだ救いがあったのかもしれない。
しかし、そこで突きつけられる事実は、気狂いの母親と、養子で虐待されてネグレクトだった自身の過去だった。
彼に残されたコメディアンになるという夢も、見事に潰される。
私の読みでは、彼が「殺人の告白」に至ったのは予定調和ではなく、そのときの思いつきなのではないかと思う。
コメディアンとしてテレビに出たとき、高揚感によって殺人の告白と、マレー(ロバート・デ・ニーロ)の殺害に至ったのではないか。
私は彼があの舞台に立つまで、自分が笑いものにされるために呼ばれたのだ、という意識を持っていなかった気がする。
あの舞台で、ネタを披露としようとする自分に、マレーがちゃちゃを入れてくることを知り、自分がどういう人間としてここに呼ばれているのかを直観した。
いや、あの告白をはじめて話すことで、むしろ自分を発見していったような気がする。
何度もリハーサルを自宅でして、そこでは死んでやろうかと思っていたのだろう。
けれども、本当に「笑える」のは、自分が死ぬことではない。
何もかもを失った自分が、何もかもを破壊する人間になる。
そのことに気づいたのではないだろうか。
それは夢だったテレビと、テレビの向こう側にいた現実とが奇妙な形で一致した瞬間でもある。
ぞっとするほど説得力があるのは、私たちの中にも、彼と同じ何かが巣くっているからだろう。
《ダークナイトとの連続性》
私にはこの映画を、どうしても「ダークナイト」との連続性の中で見てしまうということが払拭できなかった。
理由は一つではないだろう。
だが、ノーランが出した「ダークナイト」という解答と、トッドが出した「ジョーカー」という解答が表裏一体の答えになっているような気がして仕方がなかったらかだ。
「ダークナイト」では、理解されなくても奉仕する、誰からも知られなくても人(他者)を救うという強い意志が描かれていた。
一方、「ジョーカー」では、誰にも理解されないことの憤怒、悲哀が描かれている。
奇しくも、「ドント・ウォーリー」でホアキン・フェニックスが見せた解答とは真逆の解答を、「ジョーカー」は見せつけた。
私たちはどちらの未来を描こうとしているのだろうか。
自分の利益よりも、相手の利益。
殴られても握手を求める勇気。
自分の利益と相手の利益が一致するのだという理性。
「礼など必要ない」と言うブルースのようになるのか。
それとも全てをなげうって仮面を外して、ジョーカーのようになるのか。
この映画が社会的に大きな影響力をもっているのは疑いない。
あまりにも私たちに突きつけられている現実が、酷だからだ。
この話は、アメリカの過去を描いたものではなく、未来を描いたものかもしれない。
私は、この映画の続編を、現実で、他者への関心を高めるところから描きたいと思う。
そうでなければ、私たちはピエロになるしかない。
監督:トッド・フィリップス
仮面をつけることで、〈仮面〉を外す男:ジョーカー。
不況に陥ったゴッサムシティでは18日連続で街の清掃員がストライキに入った。
街はゴミのにおいにあえいで、貧困はますます進んでいた。
市長選を控え、医師で実業家のトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)は街を救いたいと訴えていた。
ピエロのバイトをしながら生計を立てていたアーサー(ホワキン・フェニックス)は、コメディアンになることを夢見ていた。
しかし彼は精神病棟に入院にしていた経緯があり、緊張すると急に笑い出してしまう疾患を持っていた。
アーサーがピエロで閉店セールの売り込みをしているとき、若者達に襲われケガをしてしまう。
「バットマン」で最も有名なヴィランの一人であるジョーカーの生い立ちを描いた作品。
他のシリーズとの関連性はなく、バットマンも登場しない。
しかし、アカデミー賞最有力とも言われ、アメリカの各劇場では厳戒態勢の中で公開された。
かつて絶賛されてきた映画は多いが、「社会的な影響力を持った作品」としてこれほど話題になった作品は少ない。
しかもこれはフィクションである。
これほどまでにナーバス(神経質)になる意味はどこにあるのか。
それは映画を見れば分かる。
バットマンシリーズを何も知らなくても楽しめるだろう。
むしろバットマンとの関連性を知らない方が、この映画を「正しく」評価できるかもしれない。
私はこの映画を絶賛する気にはとうていならない。
この映画を陳腐なことばで表現することはできない。
良い映画、悪い映画という評価軸ではあまりに安直なものになってしまうだろう。
ただ、この映画は劇場で見るべきだ。
厳密に言えば、今という時代に見るべきだ。
「ああ、こんな時代もあったね」と懐かしめる時代がくればいいと思う。
「ああ、この時代にもうすでにこんな指摘があったのか」という未来予想の映画にならないことを祈る。
▼以下はネタバレあり▼
ほとんど予備知識なしで見に行ったが、トレーラーと前田有一の超映画批評は確認していた。
前田有一が言う〈分断〉が頭にありながら見たことは重要だった。
私の読みに多少なりとも影響を与えたことは間違いない。
となりの席のカップルが「全くわからん」と言っていたのにも無理はないのかもしれない。
この映画はいわゆるコミック映画とは少し違う。
コミック映画の「エンドゲーム」に感化されて劇場に足を運んだのなら、きっと驚く事になっただろう。
物語はそれでも単純だ。
アーサーという人間が、仮面をかぶることで「ジョーカー」になる物語である。
逆説的だが、アーサーは仮面をかぶることで本来の自分を覚醒させる。
この映画の重要な部分だ。
だから、トーマス・ウェインが殺人事件のコメントで「仮面をかぶらなければ何もできない卑怯者だ」という批判を展開するが、全くの的外れだ。
彼は仮面をかぶることで社会的な自分という抑圧された役割から解放されて、むしろ本来の自分を取り戻す。
演じることがなくなったアーサーはだから奇妙な笑いを克服してしまう。
彼の症状は、社会的な役割を彼に外圧的に求めることからくる社会的な病だったわけだ。
この映画の根底が、支配者層と被支配者層の〈分断〉にあるのは間違いないだろう。
支配者層の代表であるトーマス・ウェインは、市民を救いたいという高い志を持ちながら、しかし、彼らに救済の意図は全く伝わらない。
完全に齟齬を起こしてしまっている。
彼らに必要なのは具体的な施策であり、福祉であり、さらにはその苦しみを理解することなのだ。
しかし支配者層がやろうとしていることは、わかったふりをして机上の空論ばかり。
結果彼らは社会からどんどん取り残されてしまう。
〈分断〉が象徴的なのは、ピエロのデモ行進を行なっている横で、支配者層たちはタキシードを着て映画を鑑賞しているシークエンス(場面)だ。
ヴィジュアル的にも明らかなように、その落差は決定的なものだ。
この〈分断〉を〈理解〉という観点から考えるとさらに違った見方ができる。
この映画で分断されているのは、支配者層と被支配者層という階層の〈分断〉だけではないということだ。
最下層にいるものたちは、ピエロの面をつけてデモ行進に参加する。
しかし、些細なことでピエロ同士が喧嘩を始めてしまう。
彼らは同じ最下層にいる人間同士であっても理解し合うことがない。
厳密にいえば、彼らはデモ隊ではない。
一つの目的をもった集団でさえない。
ただ、抑圧された自分というパッションを爆発させているに過ぎない。
彼らに目的はない。
何どうすればいいのかというヴィジョンもない。
隣にいる人間を理解しようというような共通の態度もない。
アーサーが繰り返し、「話しても理解できないさ」と言うのは絶望の中にある台詞だ。
彼らどうしさえも、〈分断〉されているのだ。
だからジョーカーの孤独は深刻だ。
ジョーカーはアーサーという人間ではない。
真の意味で彼はシンボルになってしまう。
アーサーが死んでも、ジョーカーは死なない。
すべての社会的なつながり、役割を断ち切った彼に、死が訪れることはない。
誰からも理解されずに蹂躙されている人間たち。
いないのと同じように扱われてしまう人間たち。
そこには悪事を働こうとか、怠惰によって堕落させたといった悪人たちはいない。
むしろ一生懸命生きようとして、それでも誰からも理解されなかった社会から断絶されてしまった善良な市民達ばかりだ。
ピエロたちに救い出されたアーサーは、ジョーカーとなる。
ジョーカーはトランプに象徴されるように、すべての序列から超越する存在であり、何もかもを破壊してしまうトリックスターでもある。
そして、我々自身が、いつジョーカーになってもおかしくない普遍性を呈示する。
なぜなら、私たちとて強固だと思っていたつながりがいつ絶たれるのかわからないからだ。
長くなっているがジョーカーになっていく過程を押さえておこう。
アーサーは子どもの頃虐待されて育つ。
それが原因なのか、緊張したときに笑ってしまうという強迫症を患っている。
唯一のよりどころである血縁者の母親は、実は実子ではないことが明らかになる。
仕事も失い、社会的役割も剥奪される。
トーマス・ウェインが父親であればまだ救いがあったのかもしれない。
しかし、そこで突きつけられる事実は、気狂いの母親と、養子で虐待されてネグレクトだった自身の過去だった。
彼に残されたコメディアンになるという夢も、見事に潰される。
私の読みでは、彼が「殺人の告白」に至ったのは予定調和ではなく、そのときの思いつきなのではないかと思う。
コメディアンとしてテレビに出たとき、高揚感によって殺人の告白と、マレー(ロバート・デ・ニーロ)の殺害に至ったのではないか。
私は彼があの舞台に立つまで、自分が笑いものにされるために呼ばれたのだ、という意識を持っていなかった気がする。
あの舞台で、ネタを披露としようとする自分に、マレーがちゃちゃを入れてくることを知り、自分がどういう人間としてここに呼ばれているのかを直観した。
いや、あの告白をはじめて話すことで、むしろ自分を発見していったような気がする。
何度もリハーサルを自宅でして、そこでは死んでやろうかと思っていたのだろう。
けれども、本当に「笑える」のは、自分が死ぬことではない。
何もかもを失った自分が、何もかもを破壊する人間になる。
そのことに気づいたのではないだろうか。
それは夢だったテレビと、テレビの向こう側にいた現実とが奇妙な形で一致した瞬間でもある。
ぞっとするほど説得力があるのは、私たちの中にも、彼と同じ何かが巣くっているからだろう。
《ダークナイトとの連続性》
私にはこの映画を、どうしても「ダークナイト」との連続性の中で見てしまうということが払拭できなかった。
理由は一つではないだろう。
だが、ノーランが出した「ダークナイト」という解答と、トッドが出した「ジョーカー」という解答が表裏一体の答えになっているような気がして仕方がなかったらかだ。
「ダークナイト」では、理解されなくても奉仕する、誰からも知られなくても人(他者)を救うという強い意志が描かれていた。
一方、「ジョーカー」では、誰にも理解されないことの憤怒、悲哀が描かれている。
奇しくも、「ドント・ウォーリー」でホアキン・フェニックスが見せた解答とは真逆の解答を、「ジョーカー」は見せつけた。
私たちはどちらの未来を描こうとしているのだろうか。
自分の利益よりも、相手の利益。
殴られても握手を求める勇気。
自分の利益と相手の利益が一致するのだという理性。
「礼など必要ない」と言うブルースのようになるのか。
それとも全てをなげうって仮面を外して、ジョーカーのようになるのか。
この映画が社会的に大きな影響力をもっているのは疑いない。
あまりにも私たちに突きつけられている現実が、酷だからだ。
この話は、アメリカの過去を描いたものではなく、未来を描いたものかもしれない。
私は、この映画の続編を、現実で、他者への関心を高めるところから描きたいと思う。
そうでなければ、私たちはピエロになるしかない。
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