評価点:41点/2011年/アメリカ
監督:ミシェル・ゴンドリー
あまりにもセンスが悪い。
大手新聞社の社長を父に持つブリット・リード(セス・ローゲン)は、自由奔放で父親に反発していた。
しかし父親は突然ハチに刺されて発作で死んでしまう。
何も経営について分からない彼は突然社長の座についてしまう。
ある朝起きたときコーヒーがまずいことに気付き、担当者を呼ぶと、カトー(ジェイ・チョウ)という東洋人だった。
彼と交流しているうちにブリットは面白い考えにいたる。
「グリーン・ホーネット」といえば詳しい人ならすぐにブルース・リーを思い出すだろう。
テレビシリーズにもなったこの作品は元祖ヒーローものといえるほどの古典だ。
それが今回「エターナル・サンシャイン」で監督をしたミシェル・ゴンドリーが監督しリメイクされた。
期待はしつつ、それでも「キック・アス」とどうしても比較せざるを得ない状況で鑑賞した。
3Dで鑑賞した。
映画館は日曜にも関わらずガラガラだったことが、映画を見る前の僕を不安にさせる……。
▼以下はネタバレあり▼
どうしても「キック・アス」と比較してしまう。
あまりにも鮮烈だったからだ。
そうでなくても、アメリカン・ヒーローは嫌と言うほど映画化されていて、その差異化が明瞭でなければ映画館まできた観客を楽しませて帰らせることはできない。
たとえブルース・リーのファンが多い日本であっても同じ事だ。
残念ながら、この映画はどこを切ってもセンスが悪いという金太郎飴のような映画になってしまった。
まずキャラクター設定がひどすぎる。
主人公のブリット・リードがどのような人物なのか最後までつかめない。
父親が死ぬ前も、死んだ後も、ホーネットになった後も、父親が置かれていた真相に気づいた後も、何を大切にしていて、どういう人物なのかつかめない。
だから感情移入が全然できない。
ミーハーにしても、なぜホーネットになろうとしたのか、いまいち見えてこない。
それならまだ何人か分からないカトーのほうがましだ。
金持ちの道楽で人を助けるのがだめだとか、そういうレベルの話ではない。
モティベーションがぎんぎんに高かったキック・アスに比べて全然熱くなれないのはそのためだ。
熱くない、憧れられないヒーローのどこに魅力があるのだろうか。
そもそもの発想である「悪人のふりをして人を助ける」という思考回路自体が「?」である。
表の顔である新聞社の社長というのも解せない。
なぜ全くの素人である彼がそのまま世襲してしまっているのだろう。
どんな会社だ。
いまどきそんな無茶な新聞社はホーネットがいてもいなくてもつぶれているだろう。
カトーもたいがいだ。
なぜ武術がやたらとできるのか、なぜ機械全般だけではなく武器にもやたら詳しいのか、設定がブラック・ボックスすぎる。
上海で路上生活をしたらカンフーの達人になったというのは飛躍しすぎているだろう。
やたらと中国や日本を思わせる舞台やアイテムが出てくるが、そこに必然性めいたものもない。
カトーという訳の分からない名前をつける当たりからも、一昔前のアジアと日本の違いも分かっていないような人たちが設定したのかと疑わしくなる。
敵も敵で、怖さがない。
間抜けなレッド・ミストのような悪役もありだが、ブラッドノフスキーは中途半端で笑いも怖さもない。
片目の部下が「気が狂ったのかと思われます」と言っていたが、本当にその通りだ。
そう、この映画には笑いのセンスもないのだ。
笑えるシークエンスは一つもない。
ブラックさを出そうとしているのだろうけれども、空回りも良いところで失笑すら買えない。
アクションのセンスもない。
3Dにしたにもかかわらず、中盤のカーチェイスではあまりにぶれてなにがどうなっているのかつかめない。
スローモーションのアクションはそれなりに楽しめるが、それだってなぜ3Dなのか300円の価値がない。
今まで未経験のミシェル・ゴンドリーという監督がアクションのセンスがあるとは思えない。
そんなこと誰だって分かるだろう。
それでも、唯一の見所がこのアクションなのだから、ここで満足するしかない。
シナリオに至っては目も当てられないほどのセンスのなさだ。
真相を明かすときに、ダイジェストでネタ明かしをしてしまうのが象徴的だ。
なぜその複雑な真相を、きちんとサスペンス仕立てにしなかったのか。
もう脚本がお手上げですと宣言しているようなものだ。
見せ方の下手さに閉口するしかない。
どんな脚本家がこんなしょうもない映画を企画したのだろうと思ってパンフを見ると、セス・ローゲン。
なんと今回の主人公を演じているではないか。
劇中の主人公とおなじ、無計画無鉄砲無教養なわけである。
もうちょっとまともな人はいなかったのかと悔やまれる。
監督:ミシェル・ゴンドリー
あまりにもセンスが悪い。
大手新聞社の社長を父に持つブリット・リード(セス・ローゲン)は、自由奔放で父親に反発していた。
しかし父親は突然ハチに刺されて発作で死んでしまう。
何も経営について分からない彼は突然社長の座についてしまう。
ある朝起きたときコーヒーがまずいことに気付き、担当者を呼ぶと、カトー(ジェイ・チョウ)という東洋人だった。
彼と交流しているうちにブリットは面白い考えにいたる。
「グリーン・ホーネット」といえば詳しい人ならすぐにブルース・リーを思い出すだろう。
テレビシリーズにもなったこの作品は元祖ヒーローものといえるほどの古典だ。
それが今回「エターナル・サンシャイン」で監督をしたミシェル・ゴンドリーが監督しリメイクされた。
期待はしつつ、それでも「キック・アス」とどうしても比較せざるを得ない状況で鑑賞した。
3Dで鑑賞した。
映画館は日曜にも関わらずガラガラだったことが、映画を見る前の僕を不安にさせる……。
▼以下はネタバレあり▼
どうしても「キック・アス」と比較してしまう。
あまりにも鮮烈だったからだ。
そうでなくても、アメリカン・ヒーローは嫌と言うほど映画化されていて、その差異化が明瞭でなければ映画館まできた観客を楽しませて帰らせることはできない。
たとえブルース・リーのファンが多い日本であっても同じ事だ。
残念ながら、この映画はどこを切ってもセンスが悪いという金太郎飴のような映画になってしまった。
まずキャラクター設定がひどすぎる。
主人公のブリット・リードがどのような人物なのか最後までつかめない。
父親が死ぬ前も、死んだ後も、ホーネットになった後も、父親が置かれていた真相に気づいた後も、何を大切にしていて、どういう人物なのかつかめない。
だから感情移入が全然できない。
ミーハーにしても、なぜホーネットになろうとしたのか、いまいち見えてこない。
それならまだ何人か分からないカトーのほうがましだ。
金持ちの道楽で人を助けるのがだめだとか、そういうレベルの話ではない。
モティベーションがぎんぎんに高かったキック・アスに比べて全然熱くなれないのはそのためだ。
熱くない、憧れられないヒーローのどこに魅力があるのだろうか。
そもそもの発想である「悪人のふりをして人を助ける」という思考回路自体が「?」である。
表の顔である新聞社の社長というのも解せない。
なぜ全くの素人である彼がそのまま世襲してしまっているのだろう。
どんな会社だ。
いまどきそんな無茶な新聞社はホーネットがいてもいなくてもつぶれているだろう。
カトーもたいがいだ。
なぜ武術がやたらとできるのか、なぜ機械全般だけではなく武器にもやたら詳しいのか、設定がブラック・ボックスすぎる。
上海で路上生活をしたらカンフーの達人になったというのは飛躍しすぎているだろう。
やたらと中国や日本を思わせる舞台やアイテムが出てくるが、そこに必然性めいたものもない。
カトーという訳の分からない名前をつける当たりからも、一昔前のアジアと日本の違いも分かっていないような人たちが設定したのかと疑わしくなる。
敵も敵で、怖さがない。
間抜けなレッド・ミストのような悪役もありだが、ブラッドノフスキーは中途半端で笑いも怖さもない。
片目の部下が「気が狂ったのかと思われます」と言っていたが、本当にその通りだ。
そう、この映画には笑いのセンスもないのだ。
笑えるシークエンスは一つもない。
ブラックさを出そうとしているのだろうけれども、空回りも良いところで失笑すら買えない。
アクションのセンスもない。
3Dにしたにもかかわらず、中盤のカーチェイスではあまりにぶれてなにがどうなっているのかつかめない。
スローモーションのアクションはそれなりに楽しめるが、それだってなぜ3Dなのか300円の価値がない。
今まで未経験のミシェル・ゴンドリーという監督がアクションのセンスがあるとは思えない。
そんなこと誰だって分かるだろう。
それでも、唯一の見所がこのアクションなのだから、ここで満足するしかない。
シナリオに至っては目も当てられないほどのセンスのなさだ。
真相を明かすときに、ダイジェストでネタ明かしをしてしまうのが象徴的だ。
なぜその複雑な真相を、きちんとサスペンス仕立てにしなかったのか。
もう脚本がお手上げですと宣言しているようなものだ。
見せ方の下手さに閉口するしかない。
どんな脚本家がこんなしょうもない映画を企画したのだろうと思ってパンフを見ると、セス・ローゲン。
なんと今回の主人公を演じているではないか。
劇中の主人公とおなじ、無計画無鉄砲無教養なわけである。
もうちょっとまともな人はいなかったのかと悔やまれる。
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