緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

真冬の丸の内パークビル:三菱一号館と丸の内ブリックスクエア PART1

2014年01月10日 08時00分00秒 | 東京駅周辺


12月下旬の平日、JR有楽町駅の北側のオフィスビル街を通り抜けてしばらく歩くと、赤レンガの建物と高層オフィスビルの複合施設「丸の内パークビルディング」が見えてきました。この建物周辺を散策していきます。




2009年4月末に竣工した丸の内パークビルディングを見上げて撮影しました。地上34階地下4階建て、高さ170メートルの高層ビルで、設計者と建築主は三菱地所、施工主は竹中工務店となっています。




丸の内パークビルの低層階として復原された「三菱一号館」の赤レンガ壁の建物です。建物内には商業施設や広場、美術館などが併設されている「丸の内ブリックスクエア」として整備されていて、後ほど散策していきます。




地下1階から4階までは商業ゾーンとして、それより上の階はオフィスとして利用されていて、新日鐵住金、三菱商事、三菱商事マシナリ、森・濱田松本法律事務所などの本社・本部が入居しています。




「三菱村」と呼ばれている丸の内といえば、丸ビルや新丸ビルがその象徴になっています。しかし戦前の三菱財閥をルーツとする現在の「三菱グループ」の総本山にふさわしい丸の内パークビルなのですが、あまり話題にならないですね。




丸の内パークビル内の入居企業の中核「三菱商事本社」は三菱グループの総合商社であり、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅と共に、いわゆる五大商社の一つであり、三菱東京UFJ銀行、三菱重工業と並んで「三菱グループ御三家」の一角を占めています。




色鮮やかな赤レンガ壁が綺麗な三菱一号館、すぐ近くにある東京駅の丸の内駅舎にもデザインが共通している個所が多いですね。




日本の総合商社の中でトップを誇る「三菱商事株式会社」、2013年3月期の売上高は20兆2072億円、2位の伊藤忠商事の12兆5516億円を引き離して、ダントツの規模を誇る総合商社なのです。




2009年4月に丸の内パークビルが建設される以前のこの場所には「丸の内八重洲ビル」という古いビルが建っていました。再開発工事のために全て取り壊されたのですが、その旧ビルの一部が高層オフィスビルの一角に保存されています。




復原・保存されているという「丸の内八重洲ビル」の地上部ファサードの部分をズームで撮影しました。後ほど庭園内を散策した後に、保存壁周辺を観て回ることにします。




馬場先門通りを回り込んで、丸の内ブリックスクエアの広場へ向かいます。三菱商事株式会社のルーツは、日本で初めての株式会社といわれる坂本龍馬の海援隊が近江屋事件後に後藤象二郎に委ねられ、その後岩崎弥太郎に受け継がれて九十九商会となった企業の流れを汲んでいます。




丸の内パークビルの高層オフィスビルを見上げて撮影しました。ウェイブを描いている街壁面のデザインが美しいと思いました。建物のデザインも一流、入居企業の「格」も世界一と、文句のつけようがない高層ビルですね。




現在の大阪市中央区の堀江地区に本社を置いていた「九十九商会」は、後に、三菱商会、三菱蒸汽船会社(後に郵便汽船三菱会社として現在の日本郵船が分離)、三菱社と変遷していきます。




東京国際フォーラム前から見上げて撮影した丸の内パークビルディングの全景です。




江戸時代からの歴史を持つ三井や住友と違い、明治時代に入って誕生した「三菱商会」は、明治政府との結びつきを深めて急速に成長していくことになります。三菱財閥の社訓は「三菱は国家なり」、まさに三菱の発展こそが国家の発展に結びついていきます。




大正時代に入ってから第一次世界大戦にかけて、取り扱い品目数の飛躍的向上をみたため、小弥太は各事業部門を独立させ、三菱合資営業部は「立業貿易」の方針に則り、1918年(大正7年)に総合商社である「三菱商事」として独立した経緯があります。



第二次世界大戦後は財閥解体によって解散し、多数の会社に分裂したのですが、1954年(昭和29年)に大合同を果たして復活して現在に至ります。南側から見上げて撮影した丸の内パークビルディングです。



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