懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

徳島ラーメン  

2018年10月29日 | グルメ

故郷の徳島の畑に柿とりに帰る。

家内の持っている畑に柿の木が二本ある。

高速道路代とガソリン代を考えると柿を取って帰っても割が合わない。

年寄りにはそんなにいらないので買った方が安い。家内には土地に愛着があり柿が鳥の餌になるのが気にくわぬ様子だ。

甘い物を摂りすぎて血糖値が上がるのも怖い。

しかし孫はいくら甘い物を食べてもエネルギーが足りず腹減ったが口癖た。

私が付いて行っても役に立たないが渋柿を吊るせるように枝き切りを手伝だった。

結局は渋柿はダンボール4箱と甘柿100個取って帰る。

ジジババも孫のためにがんばっているのだ。

私など車椅子生活で孫と遊んでもやれないし金を出すのは家内だし影の薄いジィサンがいたなあくらいの記憶にしか残っていないだろう。

墓参りをして徳島に住む姪から徳島ラーメンの美味しいところを聞いていたので立ち寄る。徳島市鮎喰町の名東軒(みょうどうけん)

余りの人気店では車椅子では迷惑が掛かる。段差のある店には入れない。

最近は身障者もくるので段差はないようにしている。

徳島のラーメンは黒い汁.黄色い汁.白い汁の三通りがあるそうだ。

行った店は黒い汁系だった。ラーメン並550円 徳島はラーメンと御飯を一緒に食べる。年寄りはラーメン並みで腹一杯 美味しかった。

私が子供の頃は支那ソバといっていた。白い白濁のスープだった。50円を持って支那ソバを一人で食べに行くのが中学の頃の楽しみだった。

私が故郷を離れて半世紀以上になる。 いつしか昔の支那ソバに代わり黒いスープの徳島ラーメンになっていた。徳島ラーメンが知られるようになったのは1999年の新横浜ラーメン博に出店してからだそうだ。

この前 チコチャンに叱られてで何でラメン―ていうかをやっていた。

諸説あるが北海道の札幌の中華料理店で中国人のいうラオミェンやラーミュエンから来ている説がある。支那ソバがその当時の呼び名であったが支那は日本の支配下の呼び名 いまでは禁止用語でもある。台湾や中国からの留学生が支那そばの言葉に嫌な顔をしたので女主人がラーメンに変えたという説が一般的か

全国にラーメンの言葉が広まったのは日清食品が発売したチキンラーメンだそうだ。昭和33年

ラーメン 餃子 辛子明太子は戦後生まれの食べ物で言葉でもある。


懐かしい物 ミゼット

2018年10月29日 | 懐かしい物

撮影場所 岡山県早島町

なまこ壁の蔵の通りで来る人をカメラを構えて待っていた。

ミゼットが来た本来はこんな現代の車などは避けて撮らなかった。

しかし三菱自工のミゼットは三輪車だったしいずれ消える運命だろうとシャッターを押す。

ミゼットは360CCで小さな荷物も積める。

こんな車を持てるだけでもステータスだった。

今の自動二輪の免許を持っていたら360ccの車に乗れる時代もあった。二輪とと四輪は運転が違うのに排気量で免許が決まっていた。

我々の同僚でも給料が二万円の頃に免許を取りにいくものがいた。教習所がなく練習場で練習して試験場で試験を受けた。

何度か落ちても諦めずに挑戦した。こんな給料で車を持つのは夢と自分は諦めていた。早々と免許を取った者は先が見えていたのか。こんなところにも人生を積極的に生きて行くか流されるままかがでてくる。

家内の実家は建具屋だった。建具や木材の運搬に小型のトラックをもっていた。

子供の頃に親が忙しく遊園地や祭りに連れて行ってもらった記憶がないという。

父親の助手席に乗りお客さんの家まで行くのが唯一の楽しみであった。時にはフェリーに乗り泊りがけの事もあったようだ。・