懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺民家 岡山県大佐町の民家

2012年10月10日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県大佐町(現在は新見市)

大佐町は新見市の東側、ハンググライダーやパラグライダーが出来る大佐山がある。
鉄道も姫新線が通っていて高速道路も中国自動車道がある。
郊外にでると茅葺民家も残っていた。
昔と大きく変わらない民家が残っていた。
民家を撮影していてうれしいのは昔のままの暮らしが残っている事、材料も新建材やアルミサッシが使われていないのがうれしい。
他人の家の撮影に来て注文を付けるのが叱られそうである。
この家は石垣積みの上に立っているのがまた良い。
物干し竿も木の柱のままだし茅葺民家に下屋がないのもよい。





日本茅葺紀行  その4 マキノ町在原

2012年10月09日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 滋賀県マキノ町在原

在原は人里離れた隠れ里である。冬は一メートルの雪が降る、在原業平の生地とも言われているが定かではない。
人家の全くない山中を走っていると平らな土地に集落が現れる。十軒余りの茅葺民家が残っている。
以前訪れた時は朽ちかけた茅葺民家も多くこの集落の茅葺民家もいずれ姿を消すかと思われた。
しかし、三年ほど前に行ったら茅葺民家が増えているし屋根も葺き替え綺麗に維持管理されている。維持して保存地域の指定を受けようとしているのか
観光資源として見直されているのかもしれない。
従来から住んでいる人、以外によそから移住している人もいるようだ。
過疎地の復活には「若者、よそ者、馬鹿者」が必要といわれている。

同じマキノ町に剣熊というところがあった。ここも在原に匹敵するほど茅葺民家が残っていた。こちらは山から下った平坦な土地でため茅葺民家はほとんど姿を消していた。
剣熊は今は地図に載っていない。マキノ町はいくつから村が合併して生まれた。
そのひとつに剣熊村があったようだ。剣熊には関所があったそうだ。マキノ町野口に剣熊関所があったと書かれている。 





古い町並み  佐用町平福

2012年10月08日 | 古い町並み
撮影場所 兵庫県佐用町平福

昔、因幡(いなば)街道の宿場町であった平福、川を挟んで建物が並ぶ風景は旅行ガイドブックに載っている。
この一帯に茅葺民家が無いか立ち寄ったが茅葺民家はなく平福の町並みとシャクナゲ園に立ち寄った。フィルムには八枚しか撮影されていない。カラーで撮影すると平成が写り込むので白黒で撮影した。川沿いの写真は趣があるが町並み自体はあまり良くなかったのか二枚しか撮っていない。
板塀の家があったので撮影している。
天然の塀や建物は味わいがある。
古い町並みでもアルミサッシだったりブロック塀では撮る気になれない。






蒸気機関車  案山子と蒸気機関車

2012年10月07日 | 蒸気機関車
撮影場所  岡山県倉敷市 伯備線倉敷郊外

伯備線も倉敷駅を一キロも走ると田園地域に出る。
秋の案山子と蒸気機関車を一緒に撮ろうと出かけた。
写真の右側にクラレ(この頃は倉敷レーヨンと呼ばれレーヨンを製造していた)の煙突と研究所の建物が見える。
このクラレの工場も市街地にあるため工場移転した。
撮影した場所がどのあたりだったか探すが道路もよくなり民家が立ち並び田圃など全く姿を消している。
倉敷の北側は道路も悪く商業施設もなく北側には駅の改札口も無かったので開発が遅れていた。
私はただ蒸気機関車が走る風景を撮っただけであるが経過した時間が語ってくれる。
これが写真のもつ力でもあろう。
先週のテレビ東京系の「美の巨人」で木村伊兵衛氏の代表的な作品「板塀」を取りり上げた。秋田県秋田市金足の豪農、奈良家の外塀を馬の後ろだけ写つた写真である。
奈良家は秋田の大地主であったが農地解放で衰退していく。
写真の解説者が次のように言った。
写真は「未来を見て未来に向けてシャッターを切るのが写真の本質である」といった。
実際は未来が見えたら誰でも写真を撮り残す、評論家だからこんな結果論的な事を言えると聞いていた。しかし、私も昭和の写真を整理しながら過去を振り返りよくそのように思う事がある。
過去には戻れないしこれからの老い先を考えても私にはこれから取り組むには難しい課題である。

未来を見る事は難しい携帯電話やインターネットが普及しコンビニや大型スーパーが町の商店を食いつぶす事は想定できなかった。
未来は想定できなくても風景には1.大きく変わるもの、2.変化が小さなもの、3.ほとんど変わらないものがある。
撮影記録するものは大きく変わるものを見つけ出してテーマとすることである。
大きく変化するには理由がある。現在使われていないもの、機能していないもの、前時代のもの時代に合わない物、人手がかかるもの、効率の悪い物、老朽化したものや劣化しやすい物、不便な物、見た眼が古いもの、補修や改修、維持する人がいない物等

茅葺民家 棚田の茅葺民家

2012年10月06日 | 茅葺き民家
撮影場所 二枚とも岡山県建部町(現在は岡山市

岡山県には棚田が多い、浸食により谷になっているところに石垣を積みテラス状に田を作ってきた。
土地の少ない中山間地域の苦悩の歴史でもある。
岡山には棚田百選に選ばれていないところでも素晴らし棚田が存在する。
岡山で多いのは吉備高原と呼ばれる五百メートルくらいの高度で岡山県の中央部に多い。
石垣は垂直の力には強いが内部からの膨らみには弱い。
棚田は内部の土がしっかりささえる。しかし、土が大量の水を含むと抗力は著しく弱くなる。
棚田は粘土層で水が浸透しないようにすることと水はけをよくする事で崩れるのを防いでいる。
棚田が多い分、棚田での茅葺民家を見る事ができた。
棚田に茅葺民家があるところは少なくなった。あの棚田の多い新潟県でも棚田に茅葺民家のあるところは見掛けない。

東北は冷害という厳しい気象条件はあるが土地か広いのでこんな劣悪な地形では耕作をしていない。岡山のような棚田に出合う事はない。


日本茅葺紀行 その3

2012年10月05日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 兵庫県宝塚市

宝塚市に茅葺民家などあるのですかと聞かれる。
宝塚といえば宝塚歌劇場のあるところでしょうといわれる。
宝塚の街には茅葺民家はないけれども少し入れば山間部、平野部が少ないので住宅地は山間部に造成しなければならない。
このを撮影した時は宝塚の街から背後の山へ分け入った。
急な勾配の山道が続く、上に出れば田畑も広がるどこにでもありそうな田舎の風景にであう。
母屋と倉の農家の造り、神社が大切に管理され点在する風景
こんな地域には茅葺民家が残っていそうな匂いがする。
私は茅葺民家が無くても三時間は走って見る事にしている。「石の上にも三時間」と呪文を唱えながら走る。走っているうちに集落の特徴や暮らしぶりが見えてくる。
ここには茅葺あれそうな場所か無いが感覚的に判別できるようになる。
しかし、それは茅葺民家の残っていた時代のはなし。今はそんな感性が通用しなくなった。

木の半鐘

2012年10月04日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県倉敷市

いつも会社に行く道沿いにあった木の半鐘、よく見ると陸軍二等兵の石碑が横にあった。
いつしかこの石碑も映画のポスターもお堂もなくなりゴミ置き場になっていた。
それでもまだ木の半鐘だけは残っていた。
私が会社勤めをしていた4年前まで頑張って立っていたようにおもう。
周りが新しい洒落たマンションが立ち並ぶようになり新しい建物が入るため撮れる風景でなくなった。いつまでも撤去しない訳を聞きたかったものだ。





蒸気機関車 飯山線C56と貨車

2012年10月03日 | 蒸気機関車
撮影場所 長野県飯山市

飯山線にはC56型蒸気機関車が走っていた。
ひなびたローカル鉄道である。
途中で撮影する時間的余裕もなく長野から飯山にきた。
飯山で停車しているC56を撮影した。無蓋車(トラ)がいたのでC56と一緒に撮影する。
木造の庫があり信号は腕木信号機であった。
豪雪地帯なのにあんなに低い信号機でいいのかと思った。
駅前でそばを食べた。駅前もひなびた風景であったが撮影していない。
駅舎も待合室も構内も撮影していない。10枚ほどフィルムを使い撮っておけばいいのにそれもやっていない。途中移動する駅の風景も撮影していない。気動車だったので撮らなかったのであろう。
鉄道の写真を撮るにしても何を撮影するのかを決めていないからこんな事になる。
行き当たりばったりではなく撮影方針や撮影対象を書面に書き残して撮影に取り組むべきだった。昭和40年代には二度と戻れない。

飯山にはその後、茅葺民家の撮影や野沢温泉や新潟に行った時に何度か立ち寄った。
飯山線沿いにも茅葺もあった、千曲川沿いに走る飯山線の風景は素晴らしい。



茅葺民家 京都府京北町

2012年10月02日 | 茅葺き民家
撮影場所 京都府京北町

京北町は京都らしい民家が残っている。
周囲は山に囲まれ山間に開けた狭い地区に集落が点在する。
訪れた集落はそんな集落から更に狭い山道を入った行き止まりの集落
そこに茅葺民家が何軒かあった。
家の周りをぐるりと撮影させてもらう。
昔ながらの茅葺民家の暮らしが残っていた。
奥さんと話をした。
ここまで撮影にくる人はいますかと聞いた。ここまで撮影に来る人はいないだろうとの思いもあり聞いてみた。
ところが「ぎょうさん来まっせ」「大阪や西宮などから写真の先生が生徒を15人ほど連れて撮影にきよりますでぇ、年に3回はきますな」というではないか
ここは私だけが知っている茅葺民家の聖地と思っていただけにがっかりする。
この時代はもうAFカメラになっていて自動カメラの時代、年寄りや女性がカメラに興味を持ち飛躍的に写真をやる人が増えた時代
写真教室が増えて生徒をつれて撮影会を月々やっていたようだ。
わたしもそれを聞いて写真教室の人に負けないようにこんな人も来ない聖地を探そうと思ったものだ。






日本茅葺紀行 その2 

2012年10月01日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 広島県神石高原町

神石高原町は400m程度の山間地
農地は少ない谷沿いの集落はダムの建設でいくつか消えた。
人口構成は高齢者80歳代がピークである。
将来の人口減少の大幅減の地域でもある。
農地も少なく産業もすくなく厳しい地域である。
観光地としては紅葉の名所、帝釈峡がある。
この地域に降った雨の一部は高梁川にそそぎ倉敷から瀬戸内海に流れ出る。
そんな高原の頂部に茅葺民家があった。地元の人と話していたら教えてくれた。
もう茅葺民家を少なくなっていて聞かないと発見は難しい。

茅葺民家の横は茅場になっている。