梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

IR(カジノ)法

2018-07-14 08:02:25 | 雑記
与党のみが賛成する法案が目白押しでどう反対されても形だけの審議で強引に成立させる、
選挙の結果だという事だが国民の意思とはかけ離れて見える、
確かに政権運営と言う能力では野党にその力があるのかと言えば現在の野党では頼りないことは確かではある、
しかしだからと言って世論が納得しない法案を審議未了のまま数の理論で押し切るというのは国民を馬鹿にしているし将来に禍根を残す、
「世論はマスコミの操作だ」と言う様な事を菅官房長官はよく言っているがマスコミがそんな操作をするメリットはないだろう、
それで新聞の発行部数が増えるという事も無いし第一殆ど全紙の論調が同じなら意味もない、それでも与党の支持率は野党に比べるとダントツだ、
それを見越しての「単純増6議席」だろうが戦後ずっと続いている定数削減、世界でも異例なほど国民当たりの議員の数をさらに増やすというのは税金で支えている納税者にとって納得のできる話のわけはない、
しかし少し前に仕事で鳥取に行ったとき仕事関係の何人かの人達と飲む機会があったのだが年齢の関係上飲んでいるうちに政治の話になったら「自民党」支持者が圧倒的に多い、
無論酒の席であり商売先なので私も調子を合わせていたがどうも自分以外は本当に「保守派」で自民党以外の政党は全く信頼していない、一連の強引可決も納得の支持である、
この選挙区が今回の純増合区である、しかも比例代表だ、
確実に自民党議席を6議席増やせる、この法案が次の選挙までに成立すれば現在より強い「単独過半数」と言う事になりかねない、
働き方補法案も通過して次は「IR法」いわゆる「カジノ法」だがトランプに言われたとたん、100平米の制限撤廃と掛金の融資もあっさりと飲んでしまう、
ある学者が「人口減少と経済の低下に観光資源として重要だ」と言う様な趣旨の発言をしていたが日本にはカジノ運営のノウハウはない、
となれば間違いなくアメリカのノウハウと言う事で殆どのカジノ経営はラスベガスの会社になることは目に見えている、
その為の布石として先の2法案を呑ませてきた事も間違いないだろう、何せトランプ氏はラスベガスにカジノホテルを持つオーナーなのだ、
国内なら自己利益にかかわる法案だから提出すらできないがアメリカの利益であるが日本の規制はかかわらない、
日本には公営ギャンブルが幾つかある、庶民もできるが今その人口も下がってきている、
おそらくラスベガスは巧妙に取り入れるだろうが一般では「ノミ行為」である、
日本のカジノには大手の金融関連が乗り出すだろうがおそらく共同出資かもしくはコンサルタントとしてアメリカに吸い上げられる分法が多くなる、
それでも「投資に見合った利益があれば」金は出すだろう、しかし利益があるという事はその利益を提供する対象があるという事でそれは日本国民の「努力しても上に行けない」層が泥沼に落ちるか大金をかけごとに回しても生活に何の支障もない一部の金持ちだろうがカジノのようなギャンブルはは手元の少ない方は絶対に勝てない、
掛金がなくなればそこで終わりのはずだが掛金融資ができれば持ち金だけでなく予審限界まで吸い上げられる、
この法案に不安を覚える意見があるがそのことに関してとても論理を尽くしているとは思えない
この法案で誰がどういう利益を得るのか、法で利益を得るのは国民全体であることが不可欠だ、
法は国民全体の利益である事が基本だろう

村八分→「ハブ」と「はばちょ」と「おんぞう」の話

2018-07-11 10:54:50 | 昭和の頃
村八分と言う言葉がある、
1 江戸時代以降、村落で行われた私的制裁。村のおきてに従わない者に対し、村民全体が申し合わせて、その家と絶交すること。「はちぶ」については、火事と葬式の二つを例外とするところからとも、また「はずす」「はねのける」などと同義の語からともいう。
2 仲間はずれにすること。
となっているが今一般的に使われているのは2の方だ、
村八分→八分→ハブ→動詞化してはぶるとなる、
苛めの子供達が「あいつを“はぶる”」或いは「はぶれ」と使うそうだ、
もっと縮めて「はぶ」とだけ言うらしい、
飲み仲間ではこれを「はばちょ」と使っていた、飲み会に漏れた奴が「なんだよ、はばちょかよ!」みたいに使う、
悪意も無ければ根に持つ話ではないが「苛め」の世界では陰険そのものだ、反対すれば次の標的になる、
何の利得もない、唯々根拠のない優越感、冷静に考えれば自分が上位になったわけでもなく
対象を苛める事での自己満足で卑劣な精神状況でしかない
武士道では一番恥ずべき行動で陰に隠れての苛め行動は人間として認められない者だ
日本だけでなくイギリス、フランス、プロシャあたりで言う「騎士道」の考え方も同じようなものだ、決して「武士・騎士」だけの話ではなくあらゆる人々は人間として守るべき最低の規範として持っていたはずだがなんでこんなに情けない社会になった?
独断と偏見だがアメリカは歴史の醸成がない、数字が正義の未熟な社会だ、確かに経済は力だが人間の根本はこれから望むしかない、
若者が言う「中二病」が一番金を持っていると言う状況は将来に暗雲が掛かる、
それを絵にかいたような大統領ではアメリカも世界も堪ったもんではない、
生まれ育った村に「村八分」の家があった、
平地が終わり山の水を集めた川の形が沢になるすぐ手前に朽ち果てた藁葺の家が有ってそこに「おんぞう」と呼ばれる年の解らない男がすんでいた、
なんで「村八分」になったのかは覚えていないが誰かが「あいつはエタだ」言っていたのを聞いた気がするが聞いた事も実際もエタだったかも定かではない、
掛川には結構有名な非民があったがそうだとしたらなぜこんな山奥に住んでいたのか、
大きさはかなりの広さがあったが障子は紙も無くいつも雨戸が立てられていた、
幼児の自分には年齢は皆目わからない男性が一人で住んでいて時折漫画の様なぼろを纏って杖を突いて歩いている事が有ったが子供は決して近寄る事は無かった、
今考えると何をして食事をしていたのか不明だが田を持っている様子も畑を耕している様子も無かった気がする、
戦後未だ10年足らずの事なので生活保護と言うより「配給米」が未だ有ったのでそれだけで生きていたのかもしれない、
いつ頃だったか村人が「おんぞうが死んだらしい」と言う噂が流れ誰かが訪れたら既に死後数日の「おんぞう」の遺体を見つけた、
葬式はどうしたのかは解らないがその頃村で仏が出た場合は村の焼場でその年の当番が火葬する事になっていた、
この火葬場は我が家の向かい側の山にあって炭焼き窯のような窪地が有り此処に木を井桁に組んでお棺をのせて夕方から朝まで一昼夜で焼く、
この火が我が家の庭先から木の間からちろちろと一晩中見える、
物心ついた自分から火葬を見たのは一回だけだったからこの時がおんぞうの火葬だったのかもしれない、
この時の当番は私の親父だった、差し入れの一升瓶を煽り続けてもう一人の当番と骨になるまで火の面倒を見る、
「お棺が焼け落ちると仏さんが直に見える、井桁に組んだ薪が崩れるのでそれを木の棒で仏を動かして骨にするまでやらなきゃいけんが本当に二度とやりたくないな」
と言っていたのを覚えている、
明け方うっすらと煙が上がっているのをお袋が見ながら「私が死んだらあそこでああやって焼くんだね、そうすれば村の人が“ああ、はるちゃんが焼かれている”と言ってくれるんだね」と言っていたがお袋は火葬されたこの村で最初に市の火葬場での火葬になった、

カルトと宗教、救いは心

2018-07-09 08:37:55 | 雑記
オウム真理教をカルト集団と表現する報道が多い、「カルト」の意義はWikiでは下記の様に書かれている、
“悪しき集団であることを明確にするために用いられる通俗用語である。良い意味ではなく、反社会的な団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着し、犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して使用される。元来は、「儀礼・祭祀」の意味を表す、否定的・批判的なニュアンスを持たない宗教用語であった”
つまり宗教用語だった様だが現在では「中身が分からないが良くない集団」と言う事だろう、
オウム真理教はあらためて「カルト宗教」と言う怪しい団体が危険であると言う意識を定着させた、
死刑になった教団幹部の大半は高学歴のエリート(だった)連中だ、
改めて「知識と知恵は比例しない」と言う事を確認した、
安倍政権下の高級官僚、次官級と言えば相当の高学歴で且つ高知識の集団だが次々起きる逮捕劇は正しく「知識が世間の良識と乖離している」と言う事だろう、
多くの知識を蓄えた彼らがオウム真理教と言う処に何を見て何を求めたのか、
事件は宗教とはかなりかけ離れた行動だと言える、
原始宗教は恐らく抗えない自然や共同社会の中で他人と擦り合わせるストレス等に祈りとして発生し、社会の接着剤としての役割、法律、警察、裁判、医療、などを統括する形で発達し、他の社会を併呑するにつれて大きくなってきたのだろう、
それがやがて精神的な救い、慈悲の部分が分離されて国や人種を超えて広がっていったのが大宗教になったのだろうと思う、
キリスト教も仏教も根本的な経典は現生利益ではなく生きて死ぬことまでの苦を如何に受け入れ、他の悲しみを自らの悲しみに置き換えて穏やかに生き、穏やかに死ぬと言う事が主になっている、
イスラム教のコーランは良く解らないが内容は近いものらしい、
そのストイックな生活経典はその世界に納得して生きているならそれで問題は無いのだがそこに生まれた女性達には納得の出来ない所があるのだろうし世界的にも問題視され寛容になりつつある様だがそこに「原理主義者」と言う過激な宗派が現れて国家の問題と絡み紛争が繰り返されているのだが宗教と言うのは寛容と慈悲が根本にあるおうな気がする。
しかしオウム真理教と言う団体は反論する者に容赦なく攻撃を加え、兵器を集め更に一般社会にまで牙をむいた、
宗教として認定されているのだから教義はある筈だがいったいどういう教義が書かれているのだろうか、
あの知識人たちが教化され妄信したと言うオウム真理教の教義と言うものを白日の下に表してもらいたい、
名前を変えた「アレフ」もいまだに麻原彰晃を神格化していると言う、
Wikiに出ている協議ではその様な事は当然ながら書かれていない、しかし神格化した麻原影晃と幹部たちはマスコミに一般人に危害を加えた、
何のために?そうする事でどうなると考えたのか、
今の日本社会構造は望ましいとは全く思えないが救いは他の考えを消去すると言う方法では何の解決にもならない
過去の歴史で宗教は為政者の道具として利用され続けてきたが今では分離独立して人一人づつの精神を救う役割を担っている、
エスタブリュッシュメント達の心は救いようがない様だ、心から思う「地獄に落ちろ!」

オウム真理教死刑執行と死刑制度

2018-07-07 08:16:03 | 雑記
オウム真理教事件の死刑執行が行われた、
結局松本は何も話さないまま執行されたが詐病だという疑いはずっと続いたままの執行だった、
しかし詐病なら宗教家としては情けないし逮捕されたことで精神に異常をきたしていたならさらに情けない、
死刑に関してはEUから「人道に悖る残酷な制度」だとして廃止勧告が出ている、
経済的先進国ではアメリカと日本くらいだがアメリカの属国主義の自民党では変わる事はあるまい、
無論アメリカが廃止に動けば賞賛して右に倣えにはなるだろうが。
死刑存続の理由は「犯罪抑制効果」と消極的には犯罪者を養い続けるコストの問題もある、
しかし最近の犯罪には「自殺をしたいが自分では死ねないから」とか「ただ死ぬのは嫌だから自分を認めない社会に復讐する」と言うような犯罪が現れ、しかも増加の一途である、
新幹線障害殺人の様に「出せばまたやる」と言う事もあったし奈良の幼児強姦殺人の犯人の様に「この性癖は自分では治せないから死刑を望む」と言うのも神戸殺人事件も「死刑になりたかったから」と言うのも死刑が抑止効果になっていないどころか寧ろそれが事件の動機にすらなっている感がある、
死刑廃止に関してはEUで言う様な「人道的関知」ではなく実質的に犯罪抑止効果を考えてなら廃止し終身刑にする方が抑制効果はありそうな気がする、
交番警官殺人では21歳の犯人は「何もしないで何もお考えずに生活出来るから人を殺して刑務所に入りたかった」という趣旨の供述をしているらしい、
ここには確かに「死刑」ではなく働かないで他人と接触しないで生きられる」」と言う様なあまりに身勝手な犯罪動機だからこれは「死刑存続」になるかもしれないがおそらく「死刑でもいいや」と言う心は見ええる。
刑罰が犯罪の抑止を狙っているなら死刑はすでにその機能を失っているといえるだろう
コストがかかるのは当然犯罪者に負担をさせるしかない、まさか「タコ部屋」や「蟹工船」と言うわけにもいかないが何らかの経済効果のあるペナルティを考えて終身刑が良い、
それでもおそらく人権派と言う連中からはクレームは出るだろうが代替法を示してもらい考慮する事で一緒に考えてゆけばいいだろう、
しかしこのタイプの犯罪にはは原初てきな動機を防止するのが原則になるだろう、
安倍政権の言う「美しい日本の精神」は重要だ「が世を儚んで」自殺か自暴自棄はの社会を変えるのが重要だろう、
それは「人の心」にすべて押っ付けるのではなく「生きる希望を持たせられる」社会が重要であり
間違いなく「政治で変えられる」事だ
それをしない連中にこそ「美しい日本人の心」が必要不可欠だがそれがいかに難しいかを今の政財官が端的に表しているだろう

歌丸師匠が亡くなった

2018-07-03 10:07:13 | 雑記
歌丸師匠が亡くなったね、
前のブログで触ったんだがその日に亡くなったとは本当にシャレにならない、
笑点を何度も休んでも病を押しての出演だったが本当にお疲れさまでした、
一昨年高座を見に行って居たのは本当に良かった、
昭和の落語家が次々と世を去った、歌丸師匠が最後の昭和の噺家になった、
残念だが今残っている落語家には高座を見てみようと言う噺家は居ないな
もっとも全て聞いたわけではないので偉そうな事は言えないのだがラジオやテレビを聞く限りそういう気持ちになれる噺家は居ない、
しかし最近テレビでは殆ど落語は見られないな、「お笑い」と言う名前のタレント番組がほとんどでその内容は再三書いたが小学生以下の笑いが主で大人と言うより歳をくった小学生みたいな連中しか見ていないんじゃないかとしか思えない、
確かにMCとか称される人達の司会の妙は認めるのだがその他大勢のひな壇を廻すと言う芸で自らの話術や話の妙は見られない、
「落語」には話の内容が全て解っていてそれでも何度も笑えると言う話だけではない「噺家」の芸が有った、
今笑点に出ている落語屋さんの高座を見たいと言う気持ちは殆ど無いが一度は画面でなくて高座を聞きに行ってみようかとも今考えている、
家庭に沁み込んだテレビと言う媒体はどうしても子供中心の内容になるのは仕方ないが
大人の笑いを脇で見聞きしその内容を徐々に理解するのは学校の勉強以上の教育になるんじゃないかと思う、
人情噺の理屈ではない心の動きを、涙を理屈で説明する教科書ではなく沁みとおる様に見につけて貰いたいものだ、
他人の心の動きを自分のものとして悲しむ、慈悲と言う言葉の「慈しんで悲しむ」と言う事を家庭と言う基本的社会で自然に身に着けて貰えば今の様な苛めも、金の為なら同じ人間をも情け容赦ない鬼畜の心情もこんなに広く広がらなかったんじゃないのかと思うな
落語から随分大げさな話になって来たがニュースを見ていると「日本人の心はどうなったんだ」とつくづく情けなくなっているのでつい愚痴ってしまうな