村八分と言う言葉がある、
1 江戸時代以降、村落で行われた私的制裁。村のおきてに従わない者に対し、村民全体が申し合わせて、その家と絶交すること。「はちぶ」については、火事と葬式の二つを例外とするところからとも、また「はずす」「はねのける」などと同義の語からともいう。
2 仲間はずれにすること。
となっているが今一般的に使われているのは2の方だ、
村八分→八分→ハブ→動詞化してはぶるとなる、
苛めの子供達が「あいつを“はぶる”」或いは「はぶれ」と使うそうだ、
もっと縮めて「はぶ」とだけ言うらしい、
飲み仲間ではこれを「はばちょ」と使っていた、飲み会に漏れた奴が「なんだよ、はばちょかよ!」みたいに使う、
悪意も無ければ根に持つ話ではないが「苛め」の世界では陰険そのものだ、反対すれば次の標的になる、
何の利得もない、唯々根拠のない優越感、冷静に考えれば自分が上位になったわけでもなく
対象を苛める事での自己満足で卑劣な精神状況でしかない
武士道では一番恥ずべき行動で陰に隠れての苛め行動は人間として認められない者だ
日本だけでなくイギリス、フランス、プロシャあたりで言う「騎士道」の考え方も同じようなものだ、決して「武士・騎士」だけの話ではなくあらゆる人々は人間として守るべき最低の規範として持っていたはずだがなんでこんなに情けない社会になった?
独断と偏見だがアメリカは歴史の醸成がない、数字が正義の未熟な社会だ、確かに経済は力だが人間の根本はこれから望むしかない、
若者が言う「中二病」が一番金を持っていると言う状況は将来に暗雲が掛かる、
それを絵にかいたような大統領ではアメリカも世界も堪ったもんではない、
生まれ育った村に「村八分」の家があった、
平地が終わり山の水を集めた川の形が沢になるすぐ手前に朽ち果てた藁葺の家が有ってそこに「おんぞう」と呼ばれる年の解らない男がすんでいた、
なんで「村八分」になったのかは覚えていないが誰かが「あいつはエタだ」言っていたのを聞いた気がするが聞いた事も実際もエタだったかも定かではない、
掛川には結構有名な非民があったがそうだとしたらなぜこんな山奥に住んでいたのか、
大きさはかなりの広さがあったが障子は紙も無くいつも雨戸が立てられていた、
幼児の自分には年齢は皆目わからない男性が一人で住んでいて時折漫画の様なぼろを纏って杖を突いて歩いている事が有ったが子供は決して近寄る事は無かった、
今考えると何をして食事をしていたのか不明だが田を持っている様子も畑を耕している様子も無かった気がする、
戦後未だ10年足らずの事なので生活保護と言うより「配給米」が未だ有ったのでそれだけで生きていたのかもしれない、
いつ頃だったか村人が「おんぞうが死んだらしい」と言う噂が流れ誰かが訪れたら既に死後数日の「おんぞう」の遺体を見つけた、
葬式はどうしたのかは解らないがその頃村で仏が出た場合は村の焼場でその年の当番が火葬する事になっていた、
この火葬場は我が家の向かい側の山にあって炭焼き窯のような窪地が有り此処に木を井桁に組んでお棺をのせて夕方から朝まで一昼夜で焼く、
この火が我が家の庭先から木の間からちろちろと一晩中見える、
物心ついた自分から火葬を見たのは一回だけだったからこの時がおんぞうの火葬だったのかもしれない、
この時の当番は私の親父だった、差し入れの一升瓶を煽り続けてもう一人の当番と骨になるまで火の面倒を見る、
「お棺が焼け落ちると仏さんが直に見える、井桁に組んだ薪が崩れるのでそれを木の棒で仏を動かして骨にするまでやらなきゃいけんが本当に二度とやりたくないな」
と言っていたのを覚えている、
明け方うっすらと煙が上がっているのをお袋が見ながら「私が死んだらあそこでああやって焼くんだね、そうすれば村の人が“ああ、はるちゃんが焼かれている”と言ってくれるんだね」と言っていたがお袋は火葬されたこの村で最初に市の火葬場での火葬になった、
1 江戸時代以降、村落で行われた私的制裁。村のおきてに従わない者に対し、村民全体が申し合わせて、その家と絶交すること。「はちぶ」については、火事と葬式の二つを例外とするところからとも、また「はずす」「はねのける」などと同義の語からともいう。
2 仲間はずれにすること。
となっているが今一般的に使われているのは2の方だ、
村八分→八分→ハブ→動詞化してはぶるとなる、
苛めの子供達が「あいつを“はぶる”」或いは「はぶれ」と使うそうだ、
もっと縮めて「はぶ」とだけ言うらしい、
飲み仲間ではこれを「はばちょ」と使っていた、飲み会に漏れた奴が「なんだよ、はばちょかよ!」みたいに使う、
悪意も無ければ根に持つ話ではないが「苛め」の世界では陰険そのものだ、反対すれば次の標的になる、
何の利得もない、唯々根拠のない優越感、冷静に考えれば自分が上位になったわけでもなく
対象を苛める事での自己満足で卑劣な精神状況でしかない
武士道では一番恥ずべき行動で陰に隠れての苛め行動は人間として認められない者だ
日本だけでなくイギリス、フランス、プロシャあたりで言う「騎士道」の考え方も同じようなものだ、決して「武士・騎士」だけの話ではなくあらゆる人々は人間として守るべき最低の規範として持っていたはずだがなんでこんなに情けない社会になった?
独断と偏見だがアメリカは歴史の醸成がない、数字が正義の未熟な社会だ、確かに経済は力だが人間の根本はこれから望むしかない、
若者が言う「中二病」が一番金を持っていると言う状況は将来に暗雲が掛かる、
それを絵にかいたような大統領ではアメリカも世界も堪ったもんではない、
生まれ育った村に「村八分」の家があった、
平地が終わり山の水を集めた川の形が沢になるすぐ手前に朽ち果てた藁葺の家が有ってそこに「おんぞう」と呼ばれる年の解らない男がすんでいた、
なんで「村八分」になったのかは覚えていないが誰かが「あいつはエタだ」言っていたのを聞いた気がするが聞いた事も実際もエタだったかも定かではない、
掛川には結構有名な非民があったがそうだとしたらなぜこんな山奥に住んでいたのか、
大きさはかなりの広さがあったが障子は紙も無くいつも雨戸が立てられていた、
幼児の自分には年齢は皆目わからない男性が一人で住んでいて時折漫画の様なぼろを纏って杖を突いて歩いている事が有ったが子供は決して近寄る事は無かった、
今考えると何をして食事をしていたのか不明だが田を持っている様子も畑を耕している様子も無かった気がする、
戦後未だ10年足らずの事なので生活保護と言うより「配給米」が未だ有ったのでそれだけで生きていたのかもしれない、
いつ頃だったか村人が「おんぞうが死んだらしい」と言う噂が流れ誰かが訪れたら既に死後数日の「おんぞう」の遺体を見つけた、
葬式はどうしたのかは解らないがその頃村で仏が出た場合は村の焼場でその年の当番が火葬する事になっていた、
この火葬場は我が家の向かい側の山にあって炭焼き窯のような窪地が有り此処に木を井桁に組んでお棺をのせて夕方から朝まで一昼夜で焼く、
この火が我が家の庭先から木の間からちろちろと一晩中見える、
物心ついた自分から火葬を見たのは一回だけだったからこの時がおんぞうの火葬だったのかもしれない、
この時の当番は私の親父だった、差し入れの一升瓶を煽り続けてもう一人の当番と骨になるまで火の面倒を見る、
「お棺が焼け落ちると仏さんが直に見える、井桁に組んだ薪が崩れるのでそれを木の棒で仏を動かして骨にするまでやらなきゃいけんが本当に二度とやりたくないな」
と言っていたのを覚えている、
明け方うっすらと煙が上がっているのをお袋が見ながら「私が死んだらあそこでああやって焼くんだね、そうすれば村の人が“ああ、はるちゃんが焼かれている”と言ってくれるんだね」と言っていたがお袋は火葬されたこの村で最初に市の火葬場での火葬になった、