波乱万丈 乳がん転移ライフ!

39歳で乳がん ステージⅢ告知。術後1年経たずに肝臓、骨に転移。そこから始まる長い転移ライフ!

コメントのお陰で改めて思い返す「『アッピア』との日々」

2017-05-20 13:27:38 | アッピアとの思い出
☆アッピア夫です。

「ハナ」さん、温かいコメントをいただきどうも有難うございました。
こうやって、新しい方との出会いが本当に嬉しいですし、
久し振りにアッピアへのコメントをいただいて、改めて当時の日々を思い返しています。

アッピアは、ご指摘の通り最期まで冷静でしたし、どんどん強くなって行ったように思います。
最初に病気だと分かった時は、触ると火傷しそうな程大変でした。
それが、1年後に転移が分かった時には、もう私よりしっかりしていましたね。

転移が分かった時は私の方がダメで、精神的にドーンと来て社会不安症になりました。
回復するのにも時間がかかりましたが、回復したのはアッピアの強さのお陰・・・
アッピアの方が余程大変なのに、アッピアが強くなってくれたお陰で自分も良くなりました。

自分の回復のために、普段はあまりアッピアの病状のことを考えないようにしていたのですが、
そうしていることが、「こんなに大変なのに無視している」と言われて、
自分がどうすれば良いのかよく分からなくなった時期もありましたね。

今となっては全てが貴重な思い出です。
長い間アッピアも私も苦しみましたが、子供がいたお陰で前向きになれましたし、
自分自身も、以前よりも随分精神的に強くなったように思います。

人間、誰でも辛い思いはしたくないですし、「幸せに暮らしたい」・・・
だけど、「幸せに暮らす」・・・ってどういうことだろうと時々考えます。

病気や身体・精神の不調がなく、毎日元気に楽しく暮らしてさえいれば「幸せ」なのか?
「平凡な毎日を過ごせるのが一番幸せ」・・・と良く言いますが、果たして本当にそう言い切れるのかな?
人によっては、「大変だけど忙しい毎日が幸せ」「刺激的で変化のある生活が幸せ」・・・
そう言う人もいるでしょうね。

縁あってアッピアと出会い、アッピアとの12年半の結婚生活の内10年間は病気との闘いの毎日・・・
それでも不幸だと思ったことはなく、アッピアの最期がいつ訪れるかも分からないと言う思いの中で、
決して穏やかではないけれど、家族3人で濃密な毎日を過ごせたことが「幸せ」でした。

そして、今は親子二人の生活ですが、特に寂しさを感じることもなく、
二人ともそれぞれ割と自由に生活していて、今も「幸せ」だと感じます。

「幸せ」かどうかは人が決めることではなく、自分が決めるもの・・・
皆がそれぞれの境遇の中で、自分にとっての「幸せ」な状態であればいいのでしょうね。

アッピアはこのブログを本当に「励み」にしていました。
記事を書くことも、コメントをいただくことも・・・
このブログに向かっている時、アッピアは一番「幸せ」を感じていたように思います。

今回は「家入レオのコンサート」のことを書こうと思っていましたが、全然違う話になりました。
コンサートはまた次回に・・・

2017年5月20日 アッピア夫


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「伊勢志摩の思い出」~アッピアの行動力で出会えた素晴らしい夕焼け

2016-05-28 00:38:15 | アッピアとの思い出
☆アッピア夫です。
2日間の「伊勢志摩サミット」が無事に終わりましたね。「オバマ大統領の広島訪問」と言う歴史的でビッグなおまけまでついて・・・テレビで「厳重な警備を突破した黒猫」が紹介されていました。強面のSPも思わず笑顔・・・というのがなかなか楽しかったです。

私は紀伊半島で三重県と繋がっている和歌山の出身と言うこともあり、伊勢志摩には4回行ったことがあります。懐かしい思い出がたくさんあるので、このタイミングで書いておこうと思います。

初めて「伊勢志摩」に行ったのは、仲の良かった友人10人で行った高校の卒業旅行・・・「伊勢志摩鳥羽」の3市を周りましたが、最近は「伊勢志摩」と言う言い方が一般的で、「鳥羽」の影が薄いのが残念です。多分「ミキモトの真珠=伊勢志摩」と言うイメージをお持ちの方も多いと思いますが、ミキモト真珠の養殖場があるのは実は鳥羽市にある「真珠島」。そして、私が初めてイルカと直に触れ合ったのも鳥羽市の「イルカ島」・・・更に「鳥羽水族館」と言う日本でも有数の水族館もあります。伊勢市と志摩市に挟まれた鳥羽市は、一日たっぷりと楽しめる良いところなのですが、先日の「ブラタモリ~伊勢志摩編」でも真珠がかなり取り上げられていたのに「鳥羽」と言う言葉すら出て来なかったのが残念でした。

2回目に行ったのは、社会人になって初給料を元手に買った車で3日かけたドライブ旅行に出かけた時・・・「紀伊半島一周」が目的でしたが、高野山の麓の自宅~紀ノ川沿いに和歌山港に出て海沿いを南下~紀伊半島突端の潮岬を過ぎて三重県に入り、志摩・鳥羽・伊勢を通って、最後は和歌山と三重の間に位置する奈良県を突っ切って帰るというコース・・・途中、車を方向転換しようとして下り坂と思いバックしたら階段になっていて、ガガガ・・・と車が階段をずり落ちてしまい、その場に居合わせた10数人の方々の協力を得て階段の上まで戻し、手伝っていただいた皆さんに土下座しまくり・・・

3回目に行ったのは、伊勢市に住む大学時代の友人の結婚式。友人の自宅が伊勢神宮と目と鼻の先にあり、結婚式よりも次の日に「伊勢神宮」や賑やかで風情のある「おかげ横丁」を堪能したことの方が印象に残っています。しかも地元民としての友人の詳しい解説付で・・・

そして、最後に行ったのが、息子がまだ3歳の頃のアッピアも一緒の家族旅行・・・伊勢神宮の前に着いたバスを降りたとたんに息子が片方の靴を履いていないことが判明し、そのバスが再び戻って来るまで時間つぶしをしたことを思い出します。そして、その旅行は前回友人の結婚式で行ってからたったの1週間後・・・

地元の友人のお陰で伊勢神宮に詳しくなった私が、結婚式から戻り仕入れた話をアッピアに披露していると、ちょうど次の週末が3連休で季節が良かったこともあり、アッピアはこの3連休に伊勢神宮参拝と英虞湾の風光明媚な景色が見たいと言い出し、思い立ったら行動を起こさずにはいられないアッピアは、すぐにホテルを予約し旅行を決めてしまいました。

「なぜ俺は2周続けてここにいる訳・・・?」と思いつつ、3人で眺めたその日の英虞湾の夕焼けは、これまで見た中でも断トツで最高に素晴らしいものでした。

「そうか。これに出会うための旅行だったんだね・・・」

2016年5月27日 アッピア夫


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「同じ気持ちを持ち続け、傍にいる」と言うこと~『気持ちの共有』の続き

2015-02-27 23:34:05 | アッピアとの思い出
☆アッピア夫です。主役の欠けた結婚記念日は、私は仕事、息子は塾で二人とも帰りが遅く、結局ケーキだけ食べて終わりました。前回、アッピアが求めていたと思われる『気持ちの共有』のことを書きましたが、これについてはまだまだ書き足りないことがありますので、今回は少しその続きを書きたいと思います。

まず、病気になってからのアッピアの気持ちと私の気持ちの変化ですが、初発と再発に分けると概ね以下のような過程を辿ったように思います。

<初発>【アッピア】否認→不安→もがき・苦しみ→抑うつ・不安定→受容→模索→再発の覚悟
       【私】不安→受容→模索→楽観

<再発>【アッピア】受容→不安→抑うつ・不安定→模索→抑うつ・不安定→模索→覚悟と挑戦
       【私】不安→受容→模索→覚悟

このように並べてみるとお互いの気持ちが微妙にずれて変化していくことが分かります。家族としての気持ちの変化はシンプルですが、アッピアの気持ちの変化は当然のごとく複雑です。敢えてこのように書いてみると、お互いの心の状態が微妙に異なる中で気持ちを共有していくことの難しさが見えてきますね。

最初に診断結果を告げられた日、病院から駅まで二人で歩きながら何も話せなかったことをよく覚えています。「これからどうなる?」「これから何をしなければならない?」「子供の世話は?」「もしアッピアがいなくなったら?」そう言ったことが頭の中でグルグルしていた時に、「何か話してよ・・・」と言うアッピアの言葉で、ハッと我に返りました。「考えることが多過ぎて、何を話していいのか分からない・・・」などと答えたように思いますが、後になって、あの時は『これからの不安なこと』で頭がいっぱいで、アッピアの気持ちに思いが至っていなかったことに気づきました。「あの時に何でもっとアッピアの気持ちに寄り添ってあげられなかったのだろう」と後悔したことを覚えています。

冷静に考えられるようになってやっと、「他のことは何とでもなる。それよりもアッピアのことを考えなければ・・・」と思えるようになるのですが、しばらくはアッピアが現状を受け入れていくまでのとても不安定な状態と向き合うことになります。前回書いたように、その中でアッピアから容赦のない難問を次から次へと突きつけられるのですが、彼女は、突然背負うことになった運命にもがき苦しみながら、「病気とどう向き合えばいいのか」「この運命をどう受け止めれば良いのか」「これから自分はどう生きていけば良いのか」ということの答えを探していて、私にも『同じ立場に立って考え、そして感じて欲しい』と言う思いだったのだと思います。

そして、再発を告げられた瞬間に診察室で倒れ込んだアッピアは、その後は気持ちの揺れを何度か繰り返しながらも、最後は覚悟を決め、「諦めずにより長く生きる」ことに挑戦していくことになります。ユメさんよりコメントを頂いたように、「真摯に病気に対峙していく」ことになる訳ですね。

これはあくまでも我が家の例であり、十人十色・・・十家族十色・・・家族も色々ですのでどの家庭も同じだとは思いませんが、私自身はアッピアと一緒に病気というものに向き合うことによって、『共感する』(同じ感情・気持ちを感じる)と言うことの先に、『気持ちを共有する』(同じ気持ちを持ち続け、傍にいる)と言う、家族としてとても大事なことがあるのだと考えるようになりました。

おさるさん、コメント有難うございます(この場でのリコメで失礼します)。ご自身の気持ちも手術を受けられたばかりの彼女の気持ちもよく分かります。宜しければこのブログ、特にアッピアが存命中に書いていたブログ(「8年前シリーズ」などが特に参考になるかと・・・)を彼女と読んでじっくり話をしてみてはどうでしょうか?人は本当に辛い状態にある時、いくら相手のことを思って励まそうとしても心に響かないと思います。まずは彼女の気持ちをじっくり聴いてあげて、彼女の気持ちを一緒に感じることから始めてみてはどうでしょうか。・・・と今は偉そうなことを言っている私も、当時は随分同じような経験をしたものです・・・

2015年2月27日 アッピア夫


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「気持ちの共有」~アッピアが家族に求めていたと思うこと

2015-02-21 00:16:22 | アッピアとの思い出
☆アッピア夫です。2月24日に14年目の結婚記念日を迎えます。どう祝うかは、この週末に息子と相談したいと思いますが、この機会に、病気と向き合いながらアッピアとどう生活して来たのかを少し振り返ってみようと思います。

病気が発覚した直後のアッピアは、まるで反抗期で手がつけられない女子高生のようでした。すぐに対応しなければならない入院・手術のことや、その時はまだ生後半年だった息子のこともあり、親族で今後どうするかを話し合っていると、「何よ。まるで私をやっかいもののようにして!」と当たり散らしたかと思えば、突然ワーッと泣き出す・・・こちらもどう対応していいのか分かりませんでしたが、今考えると、突然降って湧いた過酷な運命を背負うには何の心の準備も出来ておらず、情緒不安定になるのも無理のないことでした。

最初の手術も無事に終わり「やっと気持ち的にも少し受け入れられて来たかな?」と思ったのもつかの間。手術後の治療に当たって別の医師の意見も訊きたいと、セカンドオピニオンの病院に向かう道すがら、見てはならない主治医から渡されたデータを覗き見したアッピアは、リンパ節に飛んでいる癌細胞の数の多さに動転。その日仕事でどうしても一緒に行けなかった私に、泣きながら電話をして来ました。「もう私は生きられない。ぜったいに無理。子供もまだ小さくこれからなのに・・・いったいどうすればいいの?」

それから、アッピアが子供を抱っこしながら、一方で過酷な運命を背負うと言う日々が始まる訳ですが、再発が避けられないことを悟った彼女は、ありとあらゆる方法で自分の気持ちの落とし所を探っていたように思います。それから1年後に再発転移するのですが、もうその時には私よりも彼女の方が落ち着いていて、「この人には勝てない」と思わされ、「この強さがあればきっと乗り越えられる」と確信させられました。

その後の揺れ動く気持ちや気持ちの変化などは本人もブログに書いていますが、家庭においては、様々な場面で「もしもこれが自分だったらどうする?」「私はこう思うけどあなたは?」と、常にこちらの考えを問いかけられました。私が自分の考えを言うと、「それは自分が病気じゃないからそう言えるんだよね。」「本当に自分が病気だったらどうするかを考えて!」・・・これは数学の微分積分よりも難しい・・・

難しい質問にこちらも真剣に考えざるを得ませんでしたが、なかなか彼女の納得する答えを出せなかったような気がします。今思うと、彼女が家族に一番望んでいたことは「気持ちの共有」だったのでしょうね。

まだ物心がつくかどうかの幼稚園生の息子に、「お母さんはもう長く生きられないからね。いつかいなくなるんだよ。」と話すことがあり、「それは幼い子供にとってはとても酷なことだから、絶対に言うな。」と話したことがありますが、彼女にしてみれば、家族であるからこそ相手が私であれ息子であれ、「自分の気持ちを聞いてもらいたい」「気持ちを共有したい」ということの表われだったのでしょうね。

アッピアが旅立ち、今冷静にその頃を振り返る中で思うのは、病気を抱える家族として大切なことは、『常に寄り添うこと』『話を聞いて共感すること』、そして最も大事なのは『気持ちを共有すること』なのではないかと思います。

『気持ちを共有する』・・・偉そうに書いていますが、実はそう簡単に出来るものではないことも身にしみて感じています。完全に出来なかったとしても、「相手の気持ちを理解しよう」とすることは誰でも出来るし、そう思うよう努力することが大切なのでしょうね。

2015年2月21日 アッピア夫


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アッピアがいなくなって我が家から消えたもの

2014-12-06 21:35:00 | アッピアとの思い出
☆アッピア夫です。アッピアがいなくなって我が家から消えたものがいくつかあります。
例えば草花、ラタトゥイユ、お好み焼き、UNO、夫婦喧嘩(これは当たり前か・・・)

≪ラタトゥイユ≫は、アッピアが好きでよく作ってくれました。よく似た「カポナータ」もですが・・・どちらも美味しかったです。私もいずれ作りたいと思っていますが、食材も多いし何となく面倒でまだ作っていません。アッピアのお陰でトマト料理が好きになりましたし、今でもよく作ります。

≪お好み焼き≫は、私が関西出身ということもあり子供の頃から大好きです。休みの日にはよく作りました。しかし二人だけになった今は、下準備をしてホットプレートで焼いて食べ終わるまで何かと時間がかかるため、これも何となく面倒で作らなくなりました。

≪UNO≫は、寝る前に三人でよくやっていましたが、これも二人だとやる気がしなくなりました。

≪夫婦喧嘩≫は、今となっては良い思い出です。議論好きのアッピアと私は日常的によく議論をしました。建設的な議論で終わればいいのですが、白熱すると喧嘩に発展しました。お互いに言いたいことを言い、どちらも引かない性格なのでなかなか落とし所が見えません。そんな二人に助け舟を出してくれるのが息子でした。しばらく黙って二人のやり取りを聞いていた息子は、「ちょっといい?今の話だけど、僕はお○○さんの方が正しいと思う。」と突然判決を下します。勝った方は「そうだろ!そうだろ!」と上機嫌。負けた方は「くそっ!」・・・これが日常だったから息子は弁護士になろうと思ったのでしょうか?私は「リーガルハイ」の影響だと思っているのですが・・・

≪草花≫については語り始めるときりがないので、取り敢えず最後にしました。アッピアは本当に草花が好きでした。アッピアが亡くなった後、ベランダや家の中に10鉢程あった草花は1鉢消え、2鉢消え・・・1年経った今は残念ながらほとんど消え去りました。唯一残っているのが「パキラ」ですが、今は葉を落としているため幹のみで、しかも触ると幹が朽ちかけているのか、フニャフニャします。「もしかしたら春になっても葉が出てこないのでは・・・」と、本気で心配しています。

草花が大好きだったアッピアのお陰で、毎年よく草花観賞に連れて行かれました。<2月>の梅から始まり、<3月~4月>は桜、<5月>はチューリップ、つつじ、<6月~7月>は新緑、あじさい、バラ、<秋>は紅葉・・・。草花鑑賞は毎年恒例のレジャーでした。マンションに入居当時、突然ベランダガーデニングに目覚めたアッピアは、すぐ近くに花屋さんがあったこともあり、毎日のように新しい草花を買って来て、ベランダガーデニングがいつの間にかジャングルガーデニングになっていました。「これじゃあ洗濯物も干せないじゃん!」と言う私に、アッピアは平然と「洗濯物より草花の方が大事だから・・・」と言いました。いつか鉢の数を数えたら70鉢近くもありました。「この人はいったいどこまでやるのだろう・・・」何でもやり始めたら気が済むまで止めない、いかにもアッピアらしい出来事です。

「そう言えばパキラに水をやらないと・・・」と今思い立ちました。これを書き終えたら水をやります。パキラだけは何としてでも守らないと・・・どうか男どもの不精をお許しください。

P.S.「まめたぬさん、全ての更新にコメントをいただき有難うございます。」1年振りの更新を始めてから、たくさんの方々からコメントや励ましを頂き、本当に感謝しております。なかなか皆様にリコメ出来ませんが、息子と一緒にしっかり読ませていただいております。どうかこれからも二人を見守りながらお付き合いください。

2014年12月6日 アッピア夫


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葬送までの7日間~byアッピア夫

2014-11-29 23:07:27 | アッピアとの思い出
☆アッピア夫です。今回は、アッピアが永眠してから葬儀までのことを書こうと思います。

アッピアが永眠したのが11月18日、葬儀が11月24日でしたので、18日も含めて1週間あったことになります。昔は葬儀まで3日前後だったように思いますが、高齢化の影響で今は火葬場が混んでいるので、葬儀のタイミングが長くなるようです。当時はかなり時間があるなと思いましたが、今思うとちょうど良い時間でしたね。葬儀まで2~3日しかなければ、気持ちの整理をする間もなく葬儀を迎えることになりますが、お陰で充分な時間があったことに感謝しています。また、週末に葬儀が出来たことも助かりました。

<11月18日>
アッピアの永眠後、家族三人で病院の霊安室でお迎えの車を待っていました。当然のことながら、アッピアは眠りについていますので、私と息子が霊安室で待機していたことになります。霊安室は、二人とも初めて経験する場所でしたが、まるで教会にでも居るような静かで厳かな空間でした。1時間ほど居たでしょうか。場所柄大きな声で話すのも憚られ、二人で静かにアッピアの思い出話をしていましたが、今思い返しても、まるで家族三人でくつろいでいるような、不思議に落ち着いた時間でした。

その後、お迎えが到着し、助さん格さんを始め、病院でお世話になった方々が集まって見送ってくれました。その時に助さんから、『内緒にしていたもののブログをずっと見ていたこと』と、これから忙しくなるこちらのことを気遣っていただき『報告のコメントを書いても良いか』などの話がありました。最後に息子を抱きしめ、「お母さんとの約束を守って立派な大人になるんだよ」と泣きながら話す助さんの姿に、私も涙ボロボロでした。

一旦自宅に戻り遅めのお昼を摂った後、打合せのために葬儀場に行きました。息子はさすがに朝も早く、色々なことがあったので疲れたのでしょう、『自宅で留守番したい』とのことで、息子だけ残して行きました。そして、ちょうど打合せを始めようとしていたところに「一人になったら急に悲しくなってきた」と大泣きしながら息子から電話が入りました。『意外に落ち着いていて大したものだなあ』と思っていましたが、そこはさすがに小学生・・・大人と同じように気持ちの整理をするのはまだ難しいですよね。

<11月19日~11月22日>
葬儀まではご多分に漏れず目まぐるしい日が続きました。息子には「2~3日学校を休んでもいいんだよ」と言っていたのですが、「学校に行っている方が、気が紛れるから・・・」と翌日から学校に行きました。担任の先生もまさかもう学校に出てくるとは思ってなかったので、ビックリしたようですが・・・。息子なりに気持ちを整理しようと頑張っているんだなと感心していましたが、さすがに夜になると急に寂しさが襲って来るようで、19日と20日の夜は大泣きしました。何とか息子も気持ちの整理が出来るかと、この4日間は息子が学校から帰って来るのを待って、毎日葬儀場に眠るアッピアに会いに行きました。今から思うと、この4日間アッピアに会いに行ったことは、息子だけではなく私も含めて、気持ちを整理するために必要なことだったなと思っています。

息子は、安置室でアッピアに会うと、必ず「お母さんと二人だけにして」と言い出しました。その間、私は安置室の外に出て待っていましたが、何やら小声でボソボソとアッピアに話しているのが聞こえてきました。しばらくすると扉が開き、「お父さんも二人だけで話しなよ」と言って二人にしてくれました。息子が何を話していたのかは訊いていませんし、息子も私に訊くことはなかったものの、今思うに、この4日間のそれぞれのアッピアとのやりとりが、二人が別れの覚悟をするための大事な儀式となりました。

<11月23日>
この日はお通夜でしたが、たくさんの方に来ていただき、つくづく様々な人との関わりの中で生きているんだなと認識させられました。『アッピアのように早く旅立ってしまう人もいるし、長く関係を続けていく人もいるけれど、それが誰であれ永遠に変わらぬ関係を続けていくのは無理なこと・・・諸行無常。だから、今の関係を大事にしよう。』そういう当たり前のことを考えながら、お通夜に来ていただいた方々に頭を下げていたことを思い出します。

<11月24日>
アッピアの告別式の日ですが、この日のことは一年前のブログに書いた通りです。この日が終わるまでは本当に大変な毎日でしたが、親しい方々に見守られながらアッピアを送り出し、永遠の別れの儀式をすることは、家族がきっちり気持ちを整理して、新しい生活に向かっていくために本当に大事なことでしたね。また、その夜にブログに初投稿したことも、気持ちを整える助けになりました。息子は、告別式が始まる前にアッピアの祭壇を写真撮影したり、告別式でもほとんど泣かなかったので、すっかり気持ちの整理が出来ているなと思いましたが、さすがにアッピアが火葬に送られる時にはダメで、泣きながら私にしがみついて来たことを思い出します。

以上、葬儀までのことを思い出しながら書いてみました。月曜日から師走ですね。『祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』・・・何となく切ないけれど、平家物語の始まりのこの言葉が大好きです。特に年末が近くなると、なぜかこの言葉が頭に浮かんで来ます。さて、一年前のことを振り返るのはこれ位にして、また色々なことを書いていきます。(今日は息子の投稿はありません。さすがにもう寝ていますので・・・)私も寝ます。おやすみなさい。

2014年11月29日 アッピア夫


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アッピアの最期を思い起こして~byアッピア夫&アッピア息子

2014-11-23 22:50:28 | アッピアとの思い出
☆アッピアの夫です。1年ぶりの更新にたくさんの方に訪れていただき、また温かいコメントをいただき本当に有難うございます。思いもよらない反響に驚くと同時に、アッピアがいかに皆様に愛されていたか、また今でも愛されているかと言うことを感じ、強く心を動かされました。

色々と考えた末、このブログを私がアッピアから引き継いで更新を続けて行くことが、アッピア本人、またアッピアがお世話になった皆様への恩返しになるのではと思い、これからは週に一度程度の無理のない範囲で更新をしていくことに決めました。(リコメは難しいと思いますが、しっかりと読ませていただいております。)

私が皆様のお役に立てるとすれば、やはりアッピアと生活を共にし、いかに病気と向き合ってきたのか、何を話し、何を感じ、何を考えてきたのか、アッピアが逝った後何を思うのか・・・そう言ったことを自然体で綴って行ければと思います。その中で息子とのドタバタライフなどもお伝えして行きます。

さて、今回はアッピアの最期において、お伝えしきれなかったことを書こうと思います。義弟の書いてくれたアッピアの病院での様子の通り、アッピアは視力を失っても本当に前向きに過ごしていました。視力を失ってから行動範囲が極端に狭くなっていましたので、私が病院に行くと廊下を散歩(?)に連れ出されました。当然、私が介助しながらそろりそろり手探りで10分程歩いては戻ってくる程度なのですが、それでも動ける喜びを感じているようでした。

亡くなる三日前の金曜日に病院に行くと、「もっと来られないの?もっと来て欲しいんだよね!」「分かった。来週からもう少し時間を取るようにするよ。」と言う話をしました。当時はちょうど仕事が忙しい時で、週に1~2日何とか早く切り上げて夕方に病院に入っても、家では息子が一人で留守番をしているので、それ程長くは居られませんでした。次の土曜日に息子と病院に行くと、「昨日、私何か変なこと言った?」「いや、別に変なことは言ってないよ」「何か変なことを言ったような気がするんだよね」という会話をしました。やはり記憶力が落ちている様子でした。週末は苦しい治療もないし、なかなか会えない息子とも会えることが嬉しいのでしょう・・・とても死期が近づいているとは思えない程、楽しそうに話をしていたことを思い出します。その日の多分最後に交わしたのが、前にも書いた「ブログの代筆と更新してくれる?」の会話です。アッピアは視力がないためそう言っていたのですが、私は今でもその言葉が忘れられず、言外に「私がいなくなってもだよ!」という意味が含まれていたようにも思えます。それが今回、更新を引き継ぐことを決めた一つの理由でもあります。

その次の日曜日はアッピアが亡くなる前日ですが、ずっと眠ったままで会話は全く出来ませんでした。夜に眠っていないので薬で眠っていることを看護師から聴き、「もしかしたら厳しいのかな」と感じつつ、アッピアが眠っている横で、息子と二人でずっとクロスワードパズルをやっていました。アッピアとは何の話も出来ませんでしたが、本当に久し振りの家族三人での穏やかなひとときでした。その日の夕方にドクターに呼ばれ、急変する可能性を告げられました。そして、次の月曜日の朝3時位に病院から電話が入り駆けつけた時にはもう息を引き取った直後でした。

結局、最期に「有難う」を言うことも出来ずアッピアは旅立ちましたが、良く一人旅に出ていたこともあり、今でも『一人旅に出たっきりまだ帰って来ない』ような感じですし、多分本人もそういう感覚かも知れません。今頃お墓で「あれ!私こんなところに旅行に来たんだっけ?」と言っているのかも知れませんね。最期に言えなかった言葉をこの場所を借りて・・・「今までどうも有難う!ブログ引き継ぐことを決めたよ!」


★アッピアの息子です。今日は、亡くなる2日前の土曜日、アッピアと話していたことをお伝えしようと思います。10月25日のmusic stationで、嵐が、『P・A・R・A・D・O・X』という新曲を歌っていました。当時、アッピアは嵐に夢中でした。土曜日に、アッピアに新曲のことを教えたら、アッピアは『帰ったら聴きたい!』と言っていました。しかし、その願いは叶わぬものとなりました。僕は、命日にアッピアケータイにその曲を落とし、アッピアの仏壇の前で流しました。アッピアは、天の下で楽しく曲を聴いている事でしょう。こらからも嵐を応援します。

2014年11月23日 アッピア夫&アッピア息子

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