波乱万丈 乳がん転移ライフ!

39歳で乳がん ステージⅢ告知。術後1年経たずに肝臓、骨に転移。そこから始まる長い転移ライフ!

応援いただいた皆様への感謝と「アッピアへの感謝状」byアッピア夫&アッピア息子

2013-11-24 18:46:30 | ごあいさつ
☆アッピアの夫です。初めて登場いたします。(しかもこれが最後かも知れません)

これまで応援していただいた皆様に、本日アッピアの葬儀が無事に終わったことのご報告と、感謝を申し上げたく、更新をいたしました。

義弟の話によると、アッピアはブログの更新を断ったようですが、さすがに視力がない中での更新はきついと思ったのでしょう。息子と病院に行くと、「ねえ、お願いがあるんだけど・・・ ブログの代筆と更新をしてくれる?」と聞かれました。「もちろん、いいよ。」と答えたところ、息子が「俺がやる。俺にやらして。」と言い、それを聞いたアッピアは嬉しそうにウンウンとうなづいていました。(今から思うと、家族3人で交わした最後の会話だったかも・・・)

これまでアッピアを応援し続けて頂いた皆様、本人の最後の更新後、励ましや応援のコメントを寄せていただいた皆様、アッピアの闘病に看護師として、また友人としてずっと彼女のそばに寄り添っていただき、多忙な私の代わりにアッピアの訃報コメントをしていただいた助さん、アッピアの遠慮のない議論に忍耐強く付き合い、常に一緒に最善策を考えて頂いた格さん、本当にどうも有難うございました。

アッピアが乳がんを発病してからちょうどまる10年。この10年間は、本人も家族としても決して辛い10年ではありませんでした。この10年は皆様もご存じの通り、病気と闘いながらも、子育てを楽しみ、色々なところに遊びに行き、旅行にも何度も出かけ、子供と一緒に幼稚園生活や小学校生活、ボーイスカウト活動など、生活を楽しんできました。

この10年、毎週のように通院し、何度も入院し、手術も3度行いました。その中で、皆様からのコメント通り、彼女は決してあきらめず、常に最新の薬や治療を勉強し、医師とは対等の立場で議論し、患者会やセミナーなどにもどんどん出かけて情報収集し、そして患者仲間との交流を楽しんでいました。

彼女と生活を共にし、一緒に子育てをしながら、「人間はいかに生きるのか」ということを身を持って教えられたように思います。
そんな彼女の生き方をずっと見てきた息子も、これからの人生を素晴らしいものとするべく生きていってくれることと思います。

親交のあった方々に訃報の連絡をする中で、本当に多くの励ましをいただきました。その中で私の心に一番響いた言葉を紹介いたします。
ボーイスカウト仲間であり、彼女のブログへも頻繁にコメントをいただいていた方からの言葉です。

「○○さんも色々とお疲れ様でした。これからも大変なこといっぱいあると思いますが、○○ちゃんが天国で見張っていると思いますので、頑張ってね!」

私の心に響いたのは、「見張っている」という言葉です。アッピアはこれから私と息子を見守ってくれるだけではなく、良い意味で見張ってくれてもいるんですよね。

「ちゃんと栄養のある食事つくってる?」「そろそろ掃除しないとほこりが溜まってるよ!」「バスタオルはせめて週に2回位は洗濯してね!」・・・

ちょっと怠けていると、そういう言葉が聞こえそうです。この言葉で、「見守ってくれていると甘えている場合ではない。」と、自分に気合いのスイッチが入りました。

最後に、本日の葬儀の出棺時の挨拶を皆様にもお伝えし、感謝の言葉に代えさせて頂きます。

『本日は、ご多忙の中、また遠いところを妻、○○のためにご会葬いただきまして、どうもありがとうございました。

奇しくも○○が乳がんを発病したのが、10年前の同じ11月でした。その後、ちょうどまる10年間病気と闘ってきたことになります。
何度も再発・転移を繰り返す中で、○○は「とにかくあきらめない」「何か対策があるはず」「常に最善の策を考える」という姿勢で臨み、彼女にとっては病気との闘いは仕事そのものでした。

○○のもう一つの目標は、1年でも2年でも長く息子の成長に関わることでした。
当初の目標は息子と幼稚園生活を楽しむこと、その次の目標が小学校生活を楽しむことでした。

その目標も達成し、現在息子は10才、小学校4年生となり、ずいぶん手がかからないようになりました。ここまで息子を成長させてくれたことに心から感謝しています。

息子には、「家のお母さんはいなくなったけど、君の周りにはお母さん代わりの人がたくさんいるよ」と話しています。
これからも○○の代わりに息子の成長を見守って頂けると有難いです。

最後に、○○らしいエピソードをご紹介いたします。

○○が息を引き取った2~3日後に、南伊豆の弓が浜にあるホテルより、「大人2名と子供1名で(昨日の)23日に宿泊の予約が入っていますので、確認のご連絡をしました」と電話がありました。
私も息子もそのことは全く知らされておらず、ビックリしたのですが、○○は退院をしたら家族3人でゆっくり遊びに行こうと密かに計画をしていたようです。

それは今や実現不可能となってしまいましたが、何か楽しみを用意しておいて、それを目標に頑張ると言う生き方を貫いてきた「○○らしいな」と思いました。

これからは、○○が身を持って教えてくれた「決してあきらめない」生き方と行動力を私と息子の2人でしっかり受け継いでいきたいと思います。

これからも母親代わりとして私達のことを見守り、時々○○のことを思い出して頂けたら幸いです。

本日は本当にどうも有難うございました。』


ブログは残しておきますが、さすがに父子二人の生活を続けていく上で、ブログを更新していく余裕がありませんので、ひとまずこの更新にて最後とさせていただきたいと思います。

いずれ、「波乱万丈 男二人のドタバタライフ!」というタイトルで、日本ブログ村に登場するかも知れませんので、その時はよろしくお願いいたします。

最後にどなたかがコメントにも書いて頂いていましたが、下記にアクセスしていただければアッピアの生の声が下記で聞けますので、アッピアに会いたい方は是非アクセスしてみてください。
今となっては、私と息子にとっても貴重な記録となりました。

DIPEx Japan


本当に長い間アッピアを応援していただき、感謝しております。
また、同じ病気と闘っている皆さんも生活を大切に、皆様がそれぞれ皆様らしい生き方をしていただけることを願っております。


★アッピアの息子です。

おかげ様で、アッピアにとってこのブログは、本人の生きる希望にもなっていたようです。
家庭での、アッピアの様子をお伝えします。

お母さんは、左腕が蜂窩織炎で腫れているにも関わらず、「右手が意志を持ったぞ~」と、普通の母親にも負けないぐらい、僕の相手をしてくれました。

そんなお母さんも、今年4月に入院し力も弱まった中で、今年の8月に僕との一泊旅行を考え、実現してくれました。他にも、僕が小1の遠足の後、「江の島楽しかったよ!」と言ったら、江の島にも連れて行ってくれるなど、本当に旅行が大好きで、優しく、明るく、面白く、勉強やピアノも熱心に教えてくれる、ウルトラスーパーハイパーママでした。

5か所以上転移したにも関わらず、10年間も頑張ってくれたのは、ギネスだと思います。

ここまで頑張ってくれたお母さんの分も、人生を満喫して、僕の夢[弁護士]をかなえようと思います。
この乳がんブログで、応援コメント、アッピアのことを自分のブログにまで書いてくれた皆さん、本当にありがとうございました。


☆★最後に二人より、このブログを借りてアッピアに感謝状を送ります。

【感謝状】
アッピア殿

あなたは、10年に亘り病気と闘い、子育てをし、生活を楽しみ、家族二人と多くの患者仲間に生きる道標として、多大な貢献をされました。
一緒にアッピアと楽しく過ごしてきた家族として、アッピア夫とアッピア息子より、ここに感謝をいたします。これからも家族二人のこと、患者の仲間達のことを見守って、勇気を与えてください。

2013年11月24日 アッピア夫・アッピア息子より

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アッピアを応援し続けてくださった皆様へ

2013-11-21 22:56:25 | ごあいさつ
はじめまして。
アッピアの実弟です。
これまで,姉のアッピアを励まし,勇気付け,見守って頂いた皆様に深く感謝しています。

姉の最後の入院の様子をお伝えしたくて,義兄の了解を得て書き込みさせて頂きます。
最初にお伝えしたいのは,アッピアは最後まであきらめず治療をやり抜いたという事です。
助さんがおっしゃられていた様に,120%の力で病気と向き合っていたと思います。
当然120%の力を出すためには,家族のサポートがあるからこそ出来た訳で,
今は義兄と甥っ子にも感謝の気持ちでいっぱいです。

常に一緒に居たわけではないので情報は断片的ですが記憶に残っている事を
時系列でまとめてみます。

10月19~末(母談)
19日に入院し,精密検査を繰り返して数日後には髄膜転移がわかりました。
その頃はすでに両目の視力をほとんど失っており,
介添えがないとベットから下りることも難しくなっていました。
すぐに放射線治療が始まりましたが,同時に吐き気やだるさ,
食欲不振等の副作用と戦う日々も始まったのです。
それでも弱音を吐く事はなく,視力が戻る事を信じて放射線治療と向き合いました。
しかし,治療の効果が劇的に現われるような事は無く,
早く効果が出るといいのにと話していました。

11月1日
夕方に病院に着くと,吐き気が酷く苦しんでいる姿に直撃しました。
食事は1人で摂れないので,可能な限り母が病院を訪ねて介添えをしていました。
その際,母お手製の野菜スープを持参し食べさせていました。
本人はそのスープを食べると元気が出るようでした。
(その後も母は1日おきに野菜スープを運び続けました)
気持ちが悪くても,栄養を摂らないと体力が落ちると言って頑張って食べていました。
病院から自宅に電話し,息子と会話している時はさすがに楽しそうで
一緒に点字を覚えよう,お母さんに教えてねと頼んでいました。
この人の向上心には本当に頭が下がります。
前日の日本シリーズのTV中継は音だけで楽しんだそうですが,
テレビの解説は画面を観ている事が前提の解説なので,
状況が判りにくいとラジオの差し入れを要求されました。
またブログの書き込みが増えている事も伝えました。
コメントを言ってくれれば,私が更新しても良いと持ちかけましたが
復活してから自分で更新する!
と力強い反応だったのでその意思を尊重しました。

11月2日
私の家族と母で病院を訪れました。来てくれた事をとても喜んでくれて
プチパーティーだと言って私の娘にお気に入りのゼリーを振る舞い
自分でもおいしそうに食べていました。
前日要求されたラジオを早速持って行くと,これで別の世界が広がるぞ!と喜んで
早速日本シリーズ第6戦の中継を聞き始めました。
土日は放射線治療が無く,副作用から解放されるので調子は良さそうでした。
目が見えないながらも介添え付きでベットから下りて椅子に座りながらストレッチをするなど
行動は相変わらず前向きです。

11月5~10日前後(母談)
放射線治療が続くも,副作用だけが目立ち視力の回復や症状の改善は
見られなかったようです。
いつもの野菜スープを食べると元気が出るようでした。
この頃は,治療の効果が見られない事に母も参っていたようで,
先が見えないとぼやいていました。

11月14日(母談)
記憶力が下がったのではないか?と。。。(私は少し前から気付いていましたが)
まず,時間感覚が曖昧になる事です。視力を失った事も大きいですが
今,朝なのか昼なのか夜なのかがわからなくなります。
なので,良く時間を聞くようになりました。
昼の2時だよ!と答えても,5分後に今何時?と・・・
また,話が長くなると途中で何を話しているかがわからなくなり,
ちょっと休憩!と言って話を止めてしまいます。
夕飯はいつもの様にお手製の野菜スープを鳥の唐揚げと一緒においしいと言って食べました。

11月15日(夫談)
急に体力が落ち,ベットから下りるのがやっとです。
トイレに自力で行く事も出来ず。
この辺りから症状が一気に悪い方に進みます。

11月16日(母談)
ベットから下りる事が出来ず,カテーテルが付けられました。
会話もあまり成り立たず,母が病室に居る事も分かっていなかったかもしれないとの事。
本人はベットから下りて椅子に座る事を懇願しているようですが,
それさえ上手く伝えられない状況です。
食事も摂ることができず,心配が深まる。

11月17日(夫談)
薬で半分眠らされている状態。
主治医から,状況が急変する事があり得る事を伝えられ,家族に連絡取れるように
しておく事を告げられる。
苦しそうな感じはない。

11月18日
呼吸が安定しなくなったと,午前3時過ぎに病院から一報あり。
その一報を受けて,病院に駆けつけるも間に合わず午前4時05分に永眠しました。


振り返ると,11月14日からの症状悪化のスピードが速かったと感じます。
というよりも,視覚異常が出てからの進行スピードがすごく速かったのでしょうか。
あまりの急展開についていけない自分が居ましたが,
最後まで波乱万丈の転移ライフだったと思います。

書き慣れていないので,単なる長文でまとまりがない文章ですが
少しでもアッピアの最後をお伝え出来ればと思い書き綴りました。

最後になりましたが,皆さんから頂いた励ましのお言葉にどんなに勇気付けられ
パワーを頂いていたことか,アッピア自身も感謝しておりました。
本当にありがとうございました。


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