3月22日に京都造形芸術大学で、日本文教出版(株)から出版された副読本の刊行セミナーが開催されますが、その前に、自校で実践した雪舟の「慧可断臂図」の実践をお伝えしたくてUPします。
今週はレポートが続々と届きまして、毎日のようにUPしていますが、今日のもぜひ読んでほしいと思います。そして、皆さん!!京都で会いましょう!!
今年度最後の対話型鑑賞を2年生と行いました。作品は雪舟の「恵可断臂図」です。
作品鑑賞中に、恵可の持っている手は切れた手であることに気付きました。「誰の手なのか?」で様々な意見が出ましたが、「恵可の手であること」「恵可自身が切ったこと」を情報として与えました。また、二人は宗教関係者であるという意見が集約されたので「白い衣の僧侶の方が位が高い」ことも伝えました。そして、この作品からとこれらの情報を踏まえて「そこからどう思うか?」ということで「二人の関係」と「手を切った理由」について生徒各自が考えたことを最後のまとめとして記述させました。また、「なぜこの絵が今まで残っているのか」についても考えさせました。
そして、36人の生徒のうち、なんと2名がこの「恵可断臂図」のエピソードと同じ読み取りをしたのです。これにはちょっと、いや、かなり、読みながら、心が震えました。読み取った生徒2名は、前回の「解放」同様に、そんなに知的レベルが高いといえる子どもではないからです。読み取った文章を掲載します。
※記述は原文のままです。
【生徒①女子】
わたしは左下のお坊さんは右上のお坊さんの弟子になりたくて手をさしだしていると思います。理由は、右上のお坊さんは誰もいないようなどうくつにいるから、位は高くても、弟子とかはいないんじゃないかなと思いました。でも、左下のお坊さんはどうしてもその人の弟子になりたかったから、自分の手をきって、「私はこんなにするほどあなたの弟子になりたいんだよ。」という気持ちを表しているんだと思います。この絵がなぜ今まで残っているのかというと、人に本気でたのむのはここまでしないと伝わらないというのを描いているから残ってるんだと思います。
今日授業をして、自分の意見は話すことができなかったけど、人の意見をしっかりきいて考えを深めることができました。
【生徒②男子】
あそこはどうくつだと考えて、位の高いおぼうさんがそこでしゅぎょうをしていて、位の低いおぼうさんが位の高いおぼうさんにでし入りしようとしたけどだめで、最後の最後に自分の腕まで切って、でし入りをせがんでいるシーンだと思いました。
今日の鑑賞をして、しっかりと絵を見れてよかったと思いました。そして、人の考えを聞いて、この人はこの絵をこう思ったんだなと深く自分の考えにつなげることができてよかったです。もっと、鑑賞をしたいなと思いました。
また、この授業にはスクールヘルパーさんが参加しておられ、偶然この方は実家が曹洞宗のお寺だということで(このことは実践後に知りましたが)、この鑑賞活動中ずっと驚きの連続だったようです。そして、最後には鳥肌が立ったと、授業の終わりにお話ししてくださいました。そして、そのことについて感想を寄せてくださったので、それも紹介します。
【スクールヘルパー:女性】原文のまま
予備知識を持たずに作品と対峙することで心の奥の本能に近い部分が垣間見えたように思いました。場所の薄暗さ、奥行き、人を飲み込むような不気味さから魂の宿る場所を感じ、切断された手から示される何事か重大な理由を想像し、達磨大師に「何か(鳥になりたい)を望み、極めようとする姿」を見ることができ、それらを共感する姿に驚きました。
古来から変わることなく伝わる仏教の教えが、日本人の日々の生活に深く根差し、精神や人格の形成にも影響を与えていると感じました。
この文章を読ませて頂いて、思いは伝わってくるのですが、誤解があってはいけないと思い、本人にいろいろと確認をさせてもらいました。そのことに触れながら、ヘルパーさんの思いをもう少しわかりやすく伝えたいと思います。
対話型鑑賞の方策である「情報をあらかじめ与えない」ことで、あの作品に無心で生徒たちは向き合っていました。洞窟の岩の描き方が「顔」に見えるという発言や、そこから「霊力」を感じたり「魂」が宿っているのではないかという推察をする姿を見かけて、宗教説話に基づいて描かれた場面であることを、何の情報も持たないのに感じ取っていることにまず驚きました。
そして達磨大師が一心に修行する姿を「鳥になりたくて、腕を落とした。」など何かを欲し、極めようとする姿勢であると感じ、それに共感する発言が次々に出てくることにも驚きました。
何かを求めて修行をする、一心に打ち込む、例えば、部活動でのトレーニングを黙々と行う、などという姿勢は日本人の風土の中に根差しているように感じられます。それは仏教の教えによるものではないかという思いを強く受けました。自分が曹洞宗の寺に育ち、達磨大師の逸話を当たり前のように知っているよりも、もっと深いところで、子どもたちは、この絵の持つ仏教観や宗教観を理解していたように感じ、私は今まで何を見ていたのだろうと、目からうろこでしたし、子どもの発言に鳥肌が立ちました。寺を継いでいる兄にも話して伝えたいです。
鑑賞会の初めは、作品を見て笑いが起きました。おそらく奇妙な光景だったからだと思います。でも、じっくり静かにみた後に挙手して発言する生徒はすぐにはいませんでした。しばらく待ちました。(昨年の生徒はすぐに挙手がありましたが、今年の生徒は、やや口が重たいので仕方ないかとは思いました。)指名しようかとも思いましたが、最初から指名にすると、ずっと指名に流れるので、沈黙を破る生徒の出現を生徒を見回しながら待ちました。やがて沈黙に耐えられなくなった(?)男子生徒が挙手し、「顔に見える」と言いました。たぶん背景の岩のことだと思いましたが、確認しました。目に見えるところ、口、大きく開けた口が、白い服の男を飲み込もうとしていると語りました。それからも手はポツポツと挙がりました。左下の人は服装からお坊さんだと思うとか、白い服の人は人相やひげの濃さから日本人ではない。などと人物に会話が進んでいきました。
やがて、手が切れていることに気付いた生徒が出て、場の雰囲気は一気に高まりました。ざわめきも起き、少しひそひそ話しも聞こえてきましたが、手を挙げて話すように促しました。「誰の手か?」「何のために切ったのか?」「何にしようとしている手か?」など「手」にまつわる話しと、そこから二人の関係についての発言も色々と出てきたので、「二人は僧侶」であることを伝えました。でも、「弟子入しようとしているところなので」、二人の関係については「白い服の人の方が位が高い」ことは伝え、でも、「師匠と弟子という関係かどうかはどう思うか?」と話しました。友だち説や師匠・弟子説など色々出ました。そこで時間が来たので、「あの手はどうして切られたのか?」「あの二人の関係は?」「どうしてこの絵が今まで残っているのか」(この絵が室町時代くらいに描かれた水墨画だと発言した生徒がいたので)を、みえているものを根拠に自分の考えを記述するように伝えたところ、上記のような読み取りが生まれたわけです。
この鑑賞をしていつも思うことは、作品の持つ力です。「絵力」と言ってもいいでしょうか。よくみて考えていくと作品の本質に迫っていけること。そういう作品だけがやはり後生に残っているのだと強く感じます。そしてその力がみる者の心を強く惹き付けるのだと思います。そして、無心に向き合う生徒の姿にも感動です。
今週はレポートが続々と届きまして、毎日のようにUPしていますが、今日のもぜひ読んでほしいと思います。そして、皆さん!!京都で会いましょう!!
今年度最後の対話型鑑賞を2年生と行いました。作品は雪舟の「恵可断臂図」です。
作品鑑賞中に、恵可の持っている手は切れた手であることに気付きました。「誰の手なのか?」で様々な意見が出ましたが、「恵可の手であること」「恵可自身が切ったこと」を情報として与えました。また、二人は宗教関係者であるという意見が集約されたので「白い衣の僧侶の方が位が高い」ことも伝えました。そして、この作品からとこれらの情報を踏まえて「そこからどう思うか?」ということで「二人の関係」と「手を切った理由」について生徒各自が考えたことを最後のまとめとして記述させました。また、「なぜこの絵が今まで残っているのか」についても考えさせました。
そして、36人の生徒のうち、なんと2名がこの「恵可断臂図」のエピソードと同じ読み取りをしたのです。これにはちょっと、いや、かなり、読みながら、心が震えました。読み取った生徒2名は、前回の「解放」同様に、そんなに知的レベルが高いといえる子どもではないからです。読み取った文章を掲載します。
※記述は原文のままです。
【生徒①女子】
わたしは左下のお坊さんは右上のお坊さんの弟子になりたくて手をさしだしていると思います。理由は、右上のお坊さんは誰もいないようなどうくつにいるから、位は高くても、弟子とかはいないんじゃないかなと思いました。でも、左下のお坊さんはどうしてもその人の弟子になりたかったから、自分の手をきって、「私はこんなにするほどあなたの弟子になりたいんだよ。」という気持ちを表しているんだと思います。この絵がなぜ今まで残っているのかというと、人に本気でたのむのはここまでしないと伝わらないというのを描いているから残ってるんだと思います。
今日授業をして、自分の意見は話すことができなかったけど、人の意見をしっかりきいて考えを深めることができました。
【生徒②男子】
あそこはどうくつだと考えて、位の高いおぼうさんがそこでしゅぎょうをしていて、位の低いおぼうさんが位の高いおぼうさんにでし入りしようとしたけどだめで、最後の最後に自分の腕まで切って、でし入りをせがんでいるシーンだと思いました。
今日の鑑賞をして、しっかりと絵を見れてよかったと思いました。そして、人の考えを聞いて、この人はこの絵をこう思ったんだなと深く自分の考えにつなげることができてよかったです。もっと、鑑賞をしたいなと思いました。
また、この授業にはスクールヘルパーさんが参加しておられ、偶然この方は実家が曹洞宗のお寺だということで(このことは実践後に知りましたが)、この鑑賞活動中ずっと驚きの連続だったようです。そして、最後には鳥肌が立ったと、授業の終わりにお話ししてくださいました。そして、そのことについて感想を寄せてくださったので、それも紹介します。
【スクールヘルパー:女性】原文のまま
予備知識を持たずに作品と対峙することで心の奥の本能に近い部分が垣間見えたように思いました。場所の薄暗さ、奥行き、人を飲み込むような不気味さから魂の宿る場所を感じ、切断された手から示される何事か重大な理由を想像し、達磨大師に「何か(鳥になりたい)を望み、極めようとする姿」を見ることができ、それらを共感する姿に驚きました。
古来から変わることなく伝わる仏教の教えが、日本人の日々の生活に深く根差し、精神や人格の形成にも影響を与えていると感じました。
この文章を読ませて頂いて、思いは伝わってくるのですが、誤解があってはいけないと思い、本人にいろいろと確認をさせてもらいました。そのことに触れながら、ヘルパーさんの思いをもう少しわかりやすく伝えたいと思います。
対話型鑑賞の方策である「情報をあらかじめ与えない」ことで、あの作品に無心で生徒たちは向き合っていました。洞窟の岩の描き方が「顔」に見えるという発言や、そこから「霊力」を感じたり「魂」が宿っているのではないかという推察をする姿を見かけて、宗教説話に基づいて描かれた場面であることを、何の情報も持たないのに感じ取っていることにまず驚きました。
そして達磨大師が一心に修行する姿を「鳥になりたくて、腕を落とした。」など何かを欲し、極めようとする姿勢であると感じ、それに共感する発言が次々に出てくることにも驚きました。
何かを求めて修行をする、一心に打ち込む、例えば、部活動でのトレーニングを黙々と行う、などという姿勢は日本人の風土の中に根差しているように感じられます。それは仏教の教えによるものではないかという思いを強く受けました。自分が曹洞宗の寺に育ち、達磨大師の逸話を当たり前のように知っているよりも、もっと深いところで、子どもたちは、この絵の持つ仏教観や宗教観を理解していたように感じ、私は今まで何を見ていたのだろうと、目からうろこでしたし、子どもの発言に鳥肌が立ちました。寺を継いでいる兄にも話して伝えたいです。
鑑賞会の初めは、作品を見て笑いが起きました。おそらく奇妙な光景だったからだと思います。でも、じっくり静かにみた後に挙手して発言する生徒はすぐにはいませんでした。しばらく待ちました。(昨年の生徒はすぐに挙手がありましたが、今年の生徒は、やや口が重たいので仕方ないかとは思いました。)指名しようかとも思いましたが、最初から指名にすると、ずっと指名に流れるので、沈黙を破る生徒の出現を生徒を見回しながら待ちました。やがて沈黙に耐えられなくなった(?)男子生徒が挙手し、「顔に見える」と言いました。たぶん背景の岩のことだと思いましたが、確認しました。目に見えるところ、口、大きく開けた口が、白い服の男を飲み込もうとしていると語りました。それからも手はポツポツと挙がりました。左下の人は服装からお坊さんだと思うとか、白い服の人は人相やひげの濃さから日本人ではない。などと人物に会話が進んでいきました。
やがて、手が切れていることに気付いた生徒が出て、場の雰囲気は一気に高まりました。ざわめきも起き、少しひそひそ話しも聞こえてきましたが、手を挙げて話すように促しました。「誰の手か?」「何のために切ったのか?」「何にしようとしている手か?」など「手」にまつわる話しと、そこから二人の関係についての発言も色々と出てきたので、「二人は僧侶」であることを伝えました。でも、「弟子入しようとしているところなので」、二人の関係については「白い服の人の方が位が高い」ことは伝え、でも、「師匠と弟子という関係かどうかはどう思うか?」と話しました。友だち説や師匠・弟子説など色々出ました。そこで時間が来たので、「あの手はどうして切られたのか?」「あの二人の関係は?」「どうしてこの絵が今まで残っているのか」(この絵が室町時代くらいに描かれた水墨画だと発言した生徒がいたので)を、みえているものを根拠に自分の考えを記述するように伝えたところ、上記のような読み取りが生まれたわけです。
この鑑賞をしていつも思うことは、作品の持つ力です。「絵力」と言ってもいいでしょうか。よくみて考えていくと作品の本質に迫っていけること。そういう作品だけがやはり後生に残っているのだと強く感じます。そしてその力がみる者の心を強く惹き付けるのだと思います。そして、無心に向き合う生徒の姿にも感動です。