CubとSRと

ただの日記

ぼんやり

2025年02月02日 | 日々の暮らし
 1月27日(月)

 4時過ぎに起き、5時に散歩に出る。5時35分帰宅。
 散歩の道すがら、住宅街ならではの道路両側の駐車スペースが目に入る。
 シャッターの下りているガレージは僅かで、カーポート型式の屋根も少なく、ほとんどは駐車用に整備されただけのスペース。
 シャッターの下りているガレージは車があるかどうかも分からない。愛想がない。絵でも描いてくれてたら面白いかもしれないが、賛否両論が巻き起こって却ってややこしくなるか。

 まあ、ただの散歩で通り過ぎるだけの者がとやかく言うようなことじゃないけど。自分の家だって愛想のないグレーのシャッターだし、「絵でも描いてみたら」なんて考えたこともない。

 今朝はそれなりに冷え込んだようで、散歩時の道沿いの車はみんなボンネットに真っ白に霜が降りている。
 或る家ではちょうど主人らしい人がボンネットに水を掛けていた。
 が、冷え込んだわりに今は思ったほどは寒くない。

 夜が明けてから冷え込みが強くなったように感じる。普段、冷え込みというのは夜明けの前がピークで、日が上れば風さえなければ気温は急上昇する。
 ところが今日みたいに夜明け前が曇り空だと、夜明け前にはそうでもないのに夜が明けても気温が上がらない。
 加えて風がなければ低いままで一日が推移する。気鬱な一日になる。
 当然、外に出る気は全く湧かない。

 で、家でゴロゴロしていた。
 オープンカーに対する「世間の偏見」というか「誤解」について日記を書こうと思いつつ、ガレージを閉めて玄関の鍵を開けるまでにいつも忘れている。
 今日もそうだった。
 昼過ぎに思い出し、「今日は家に居るんだから書こうか」と思いついて、気が付いたら夜になっていた。
 風呂が沸いたから先に入ろう。
 風呂に入ったらきっとまた忘れてしまうんだろう。
 その確信は、ある。

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醤油一本

2025年02月01日 | 日々の暮らし
 1月26日(日)

 昨晩の酒は定量(でもないか。少し多め)で早くに酔いも醒めていたのだが、またもや寝るのが遅くなって起きたのは8時半近く。
 当然のこととして散歩をサボる。

 今年は新年早々散歩を能くサボっている。カレンダーへの記入を見るとほぼ週に一回のペースで寝過ごしたり行かなかったり。
 「キリがいいから今年は週に一回休息日を設けることにした」、なんて誤魔化しをやる気はない。

 起きてからもラジオを聞きながらゆっくりしていたら、10時半を回ってしまう。慌てて朝食を摂る。
 朝食を摂らなきゃ。「薬だけ飲む」ってのは「食後服用」の注意書きが泣く。

 醤油を買いに行きたいのだが、あまり遠くまではいきたくない。何より資源ごみが袋に一杯だから、まずは近くの生協へ行かなきゃならない。
 そのついでにホームセンターで台所用の使い捨てシートを買おう。
 昨日、蛍光灯を買いに行ったのだから一緒に買えばよかったのだが、蛍光管を買わなきゃとなると、緊急でないものは忘れる。そういう時に限ってメモすらしないで出てしまう。

 色々考えて、まずは生協、次にホームセンター。最後にドラッグストア、とした。
 本来なら隣市のドラッグストアに行くのだが、もう昼過ぎてからそれなりの時間が経っている。
 醤油一本、チェーン店なんだから近くのドラッグストアでも同じものがあるだろうから問題はない。
 既に2時前だ。今日は隣市までこのカブで行く気にはなれない。

 計画通り買い物を続け、最後は主目的の醤油だけとなった。ドラッグストアへ。
 行ったら、なかった。品切れではなく「置いてない」。
 何年も通っているのにまさか店によって置いてあるものが違っているなんて、考えたこともなかった。
 だがチェーン店だって店舗の規模に大小はある。品揃えが違っていたって別に不思議じゃない。近くの店には小豆島の醤油があるが、隣市の店には大分の醤油が置かれている。

 しょうがない。日を改める?いやいや、そういう時に限って必要になる。 
 そして、止むを得ずいつもとは違ったものを使う。
 当然思ったのと違う出来になる。「失敗したな~」と思う。食べ物であろうが作品や道具であろうが、いつもそうだとは言い切れないが、大半は使い終わる迄「失敗したなぁ~」と繰り返し思う。愛着がわく頃になっても、心の隅に「失敗したなぁ~」は残っている。成功の感激は薄れていくが記憶の美化が進んでも失敗の記憶自体は消えない。まあ、だからこそ向上を目指し続けるのだけれど。
 日を改めて出直すよりも、と行くことにした。
 
 やはり隣市のドラッグストアにはいつも買っている醤油が当たり前のようにしてあった。
 帰って来たのは4時半過ぎ。
 衝原辺りから急に気温が下がり始める。えらい目に遭った。

 
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「雑木」という名の木はない。

2025年01月31日 | 日々の暮らし
 5時前に起きる。
 昨日ほどではないが、今朝も今の時期にしては寒くない。
 5時50分から6時25分まで散歩。帰ってきた時もまだ暗かった。
 感覚としては、やはり2月11日が新年(日が長くなり始める日)のような気がする。

 今日はとにかく麦を買いに行かなくては、と思っていたのだが昨夕から台所の蛍光灯が瞬き始めたので今朝早くに取り外す。これを買いに行くことが麦より優先事項になった。

 生協。ホームセンター。ひよどり台。衝原湖。
 どの順で回ったら効率が良いだろう。各店への進入経路から考えてみる。
 進入経路を考えておくことは、間違いなく事故の起きる可能性を抑えることになる。
 右折が不安なら左折を多用する。その結果、どうしても避けられない右折時には安全確認に使うエネルギーが左折時と違い、平常に倍するものになる。
 それが事故発生率を抑える。

 結局生協に行き、次にホームセンター、衝原湖、最後がひよどり台ということに。
 生協で麦2袋。麦が1キロではなく800グラム入りだったことを今日初めて知った。
 続けてホームセンター。円形の蛍光管30形2本、32形1本。
 もう昼を過ぎていたので、衝原湖には数人ずつ来ているらしい見知らぬバイク乗りばかり。
 いずれにせよ今日はコペンで来ているからバイク乗りと話すことはない。 

 「雑木」と言う名前の木はない。「雑草」「雑誌」も同じ。それぞれにそれぞれの在り方があって固有の名前がある。「雑事」も然り。
 それぞれに正面から向き合い、丁寧に対処することは「丁寧に生きる」ということでもある。

 いつも忘れるが、明日こそ醤油を買いに行かねば。

 今日は焼酎一合、酒一合。

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進行中

2025年01月30日 | 日々の暮らし
 1月22日(水)

 5時から5時35分まで散歩。
 8時を過ぎて朝食を摂り、9時15分からのFMの「音楽遊覧飛行」を聞くつもりだったが、気が付いたら10時半を回っている。既に二つ先の番組が流れている。眠っていたらしい。
 朝食後、温かい炬燵の中で音楽を聴こうという姿勢が間違っている?
 でも、空腹のまま寒い台所で音楽を、というのは根本的におかしい。「ターフェル・ムジーク」「テーブル・ミュージック」。食事やお茶の時間は暖かい空間あってこそ。音楽は自然界の音と同じく、その背景となって暖かい空間を作る。
 「懐石料理」だって出発点は温めた石を懐に入れて冷えた心と体を温めるところから始まったんだろうから。

 食事の後、ついウトウトしてしまうのは身体のために良くないらしいが、自然界を見ると、大方の生き物は食後転寝をしている。ヘビなどは獲物を丸のみ込みした後は消化するまで何日もじっとしているらしい。眠っているようなもんだ。

 昨夕帰宅した時、朝出掛けに干した洗濯物が目に入った。
 着替えてすぐ洗濯物を取り入れなきゃ。もうそろそろ湿ってしまう頃だ。

 今朝、散歩から帰ってギョッとした。洗濯物を取り入れるのをすっかり忘れていた。「日が陰ったら湿ってしまう」どころの話じゃない。一晩経っている。小雨でも降っていたら湿るどころかバリバリに凍っている筈だ。
 触ればどうなっているか分かるけれど、怖くて触る気になれない。
 まあ、どちらにしたって今日一日そのままにしておけばセーフだろう。
 一日半干すことになるが、まあしょうがない。二日半になる事は何が何でも阻止しなければ。
 ボケが進んではいるが、洗濯物の取り込みを忘れたのは初めてだ。
 ・・・?以前にもやったような。

 ま、進むものはしょうがない。要は生き死にに関係のないことは右から左へ受け流せばいい、ということ。
 そして、用事を作ってバイクに乗ること。
 
 
   
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「正史」の伝統とは歴史の創作である。

2025年01月29日 | 心の持ち様
書評 BOOKREVIEW 
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  中国史が四千年というのは誰が考えた大嘘なのか? 
   中国が誕生したのは1949年でしかない。
  ♪
 宮脇淳子『歴史から観る中国の正体』(徳間書店)
 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 中国4000年の歴史などというのはすばらしい捏造技術で、でっちあげられた出鱈目だが、多くの日本人は漫然と信じてきた。
 本当の「中国」なる国家は辛亥革命の翌年、つまり1912年に誕生し、中国のナショナリズムは1919年から始まった。評者(宮崎)は「辛亥革命」とは『心外革命』だと比喩してきたが、建国の父とかいわれる孫文はハワイで遊んでいた。
 習近平主席は、「中華民族の偉大なる復興」というスローガンを掲げている。チンギスハンもモンゴル族なのに「中華民族」でごっちゃにし、鮮卑系の隋唐も一緒くたにして中国史に埋め込んでしまった。「正史」の伝統とは歴史の創作である。客観性がないというより史実を尊重しない。したがって日本軍と戦った中華民国軍は「偽軍」、満州は「偽満州国」という。
 この場合、中国語の「偽」は日本流に言えば、「本物」という意味である。
「中華民族」なるものは明らかな「創作」である。
 中国は日清戦争の敗戦を契機として、多くの清国の学生が日本に留学し、その歴史は独立性を失い、「日本によって東アジア文化圏に組み込まれたのである」と宮脇さんは言う。

 もう一度重要な歴史的転換点を確認しておこう。
 中国は「日本によって東アジア文化圏に組み込まれた」のだ。これが宮脇史観の真骨頂にある。
 1949年に誕生した中華人民共和国は、中華民国とは別の国家だが「略称」が同じ中国だから中国と中国人は昔から存在したかのように馴致されているだけなのだ。
 中国暦代皇帝の四分の三は、非漢人である。
 日本人に正確に理解されていない中国の歴史を、いったん根源に立ち返って、「中国というキメラのように捻じれてしまった国家イメージをただすべきだろう。歴史を知らずに、中国という国家の本質は理解できない。そのために 必要なえりすぐりの歴史知識が本書には詰まっている」と著者はいう。

 かくして「漢人(中国人)は、そもそも歴史の始まりから、血統や生業や言語を同じくする民族であったことはなく、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことだった」
 つまり漢字を学べば漢人となる、「文化上の観念」であって、人種的には夷狄の裔である。
 もやもやがすっきりする簡潔な中国史、その解釈を逐条論じつつ、曖昧模糊だった中国史の闇のヴェールが剥がされる。
 漫画が大ベストセラーとなった『三国志』は創作、それもスパイと裏切りの興亡劇だから奇想天外にして面白さ抜群、日本人は本当にあったこととしているが、正史が『三国志』、日本人がしっている三国志とは『三国志演義』のことである。
 後者は幸田露伴訳を皮切りに吉川英治が現代語になおし、近年では北方謙三、宮城谷昌光らが小説にした。一番売れたのは横山光輝の漫画である。
 中国史を論じる場合、文献は粉飾されているし、証拠は焼却されているし、後世の解釈は殆どが自己正当化、他者悪魔化の基本姿勢がある。そもそも『魏志倭人伝』にしても、伝聞ばかりで実際に使節が来たのは対馬から伊都までである。
 かくして中国なる国家の正体が白日の下に晒された。
 頭がすっきりする愉快な書物である。


 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和七年(2025年)1月28日(火曜日)弐
        通巻第8625号 より

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 成程、つい「正史」とは「正しい歴史」のこと、と思ってしまうけれど、以前に書いたように「正とは一を以て止む」、「それしかない」と言う意味だ。
 それ以外は民間伝承や噂話をまとめた「稗史(小説)」とか「外史(民間で書かれた)」だから、信憑性に欠ける。民間伝承や噂話は史実かどうか分からないんだから。

 「史実をまとめ上げた『正史』こそが本物」。
 そう思ってしまうけれど、官のまとめた「正史」は「一つしかない」と言うだけのことで、そこに書かれているものだって史実かどうかは分からないんだ。何故なら「国家の正統性」を主張するためにだけ「正史」はあるのだから。
 【「正史」の伝統とは歴史の創作である。客観性がないというより史実を尊重しない。】   
 
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