何となし、我々戦後生まれの日本人には、難しい話は「難しい言葉を遣わず、できるだけ分かりやすく噛み砕いて説く」または、たとえ話のようなつもりで、「言い換えて、感じが伝わるようにする」という、最善の策ならぬ次善の策に力を注ぐ傾向があります。
初めから難しいことは分かる筈がないから、と諦めて、何でもかんでも「ほどほどが良い」で、納得してしまう。
難しいことは、時が来れば、習練を積めば、分かるようになります。それを初めから簡単にしてしまえば、誰もそれを進めようとはしなくなる。「円周率を3とする」ようなものです。
そんな考え方が、「新嘗祭」を拡大解釈したら「勤労感謝の日」となった、というような妙な納得の仕方を、現日本の常識にしてしまっている。
そういうこともたまには考えてみる。
~2012年11月23日の日記から~
初めから難しいことは分かる筈がないから、と諦めて、何でもかんでも「ほどほどが良い」で、納得してしまう。
難しいことは、時が来れば、習練を積めば、分かるようになります。それを初めから簡単にしてしまえば、誰もそれを進めようとはしなくなる。「円周率を3とする」ようなものです。
そんな考え方が、「新嘗祭」を拡大解釈したら「勤労感謝の日」となった、というような妙な納得の仕方を、現日本の常識にしてしまっている。
そういうこともたまには考えてみる。
~2012年11月23日の日記から~