(最初のおしゃべりはカットして再掲)
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2013.02/09 (Sat)
何を今さら・・・ですが。(「建国記念の日」こぼれ話)
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何を今さら・・・ですが。(「建国記念の日」こぼれ話)
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(略)
色々な問題に行き当たった時、その分野の専門知識なんか持ってないのが大方の人でしょう。持っていたって、専門の人からすれば小学生以下の僅かなものしか持ち合わせていないのが普通。
だからと言って、その都度、万巻の書物、大量の情報を収集して猛勉強をし、判断に臨む、なんてこと、できる能力も時間もない。
じゃ、どうする。
そりゃもう、これまでに培って来た(?)「教養」にすがるしかない。
「三つ子の魂」、で育まれて来た感性と、自身の知識、習った考え方、が綜合され、醸成されたものが「教養」ですから、「教養が邪魔をする」ことがあっても、やっぱり教養に頼らざるを得ない。そうやって、「彼(問題)の言動に筋が通っているか否か」、を見る。
もし、「論理が破綻している」と感じたなら、「言動が一致しているか否か」と照合してみればよい。
また、「心変わりをしたか、それとも狂ったか」、と見えたならば、当方の把握に問題がなかったか省みる必要がある。「己の理解能力の範囲内でしか対象を把握することはできない」からです。
皇室を中心とした国体、歴史の捉え方を「皇国史観」と言うのですが、それは世間で解釈されるような「皇国を美化した」史観ではなく、精確には「皇国護持史観」とでも言うべきもので、敗戦まで、東大史学会の一方の雄となっていたのだそうです。一方の雄、と言うより「主流」、と言った方が良いでしょうか。
中心人物は平泉澄(ひらいずみ きよし)博士。
単純に言えば、日本は皇室を中心として国の形が作られ、それは連綿と今に至るまで続いている、という考え方です。
政権が武士に移ったり、成り上がりの、何者か分からない者が実権を握ったような場合でも、「皇統」が途絶えたことは一度もない。皇室が消失されたことも、当然、ない。
実権を握った為政者であっても、勅命を拝して初めて、国民を従わせることができる。それは建国の日からずっとそうだった。日本という国は、皇室・皇統を中心として成り立つ国であり続けようとしてきた。
つまり「皇国を護持しようとしてきた歴史を持つ国」なんだから、その捉え方で歴史を見、継承するのが、正統なのではないか。
大まかに言うとこういう考え方のようです。これを、平泉史学と言い慣わしているようです。
田中卓博士は平泉博士の晩年の弟子で、後継者と目される人物です。
御存知のこととは思いますが、敗戦時、GHQの占領政策の一つに、「公職追放」という、「各分野で戦争に協力した者を処分すること」、がありました。
軍事裁判にはかからない人々を、公職から追放する。追放された人もあり、それを潔しとせず、辞職した人もあり、で、教育界も様相が一変しました。
平泉博士は敗戦と同時に東大史学科主任教授の職を辞し、それでも、昭和23年から27年まで、公職追放されています。
以前に日記に書きましたが、当然、残ったのは、唯物史観(大半は社会主義思想)の持ち主。残りは、言うまでもない、日和見主義。
主流だった「皇国史観」は見事に切り捨てられ、払拭されてしまった。
だから、教育界は一変するわけです。アサヒ新聞の変身(変心)と同じです。
GHQの後ろ盾によって行われたこれは一種の革命とも言えるでしょう。
田中卓博士は、同20年卒業。平泉史学を継承して学究生活を続けたため、論文の発表の場である史学会からは完全に無視される。だから当時から多くの論文を書きながら、その研究成果はなかなか日の目を見ることができないままだった、ということです。
その弟子にあたるのが、所功氏。
さらに、田中博士が皇學館の学長だった時、博士の推薦という形で、早稲田政経出身の新田均氏が、皇學館に奉職したのだそうです。
こうやって書いても、ここまで読まれた人の中にだって
「ああ、田中卓!小林よしのりの漫画に出てきた女系天皇推進論者だな!心変わりをしたBKDか!」
なんて思われた方もあるでしょうね、きっと。
判断は個人の自由。
しかし初めに書いた通り、私は伝聞でなく、何か本人の言なり、文なり、の実例に当たって、自分で分からないなりに考えて、それから、判断したいと思います。そして、「彼(問題)の言動に筋が通っているか否か」、を見ようと思います。
氏が巷間言われるように心変わりをした、ただのBKDならば、これまでの氏の業績は全く認められるものではないことになります。
転向するということは「神勅が歴史を動かし、歴史が神勅を実証する」と説く、氏の言葉が、そのままブーメランとなって氏に返ってくるということです。
歴史に「間違い」は存在しないのですから。それこそ歴史の歯車に、氏が世間に周知させた「万世一系」の言葉や「神武天皇実在論」と共に踏み潰されることになります。
氏の文章を読む限り、氏の論は、そして学問に対する生きる姿勢は、終始一貫しています。少なくとも現時点での私にはそう見えます。
今回、田中博士の評論集を入手することができたので、読後、私の感想を、と目論んでいたのですが、先に書いたとおり、「己の理解能力の範囲内でしか対象を把握することはできない」。博士の文は私如きの中途半端な考えで、気軽にまとめられるようなものではありませんでした。
色々考えた結果、「やはりこれは相当に気合を入れて、何度も読み返すしかない、すぐに感想なんてやってしまうと、とんでもなく低劣なことを書いてしまうに違いない」との結論に至りました。
というわけで、今回は「建国記念の日」制定に関する事実を2,3。
①学界が2月11日とすることに反対していたこと。
②考古学者でもあられた三笠宮(崇仁親王)殿下がそれ(学会の意向)を支持され、「日の決定は時期尚早」、つまり有名無実、永久に制定しない、となるところだった。
③田中博士を編集者として「神武天皇紀元論ー紀元節の正しい見方ー」の出版が為され、ここから流れが変わってきた。
もう一つ。
「建国の日(建国記念日)」といえば、歴史事実としての年月日を指す。そうなると、明らかになるまで祝日は設けられない。しかし、法律の示すところは「建国記念の日」であるから、最もふさわしい記念日を定めれば良い。
(記念の日は事実と直接の関係はなくてもいいでしょう?)
これは、自・社・民社の共同提案の修正案。見事な「摺り合わせ」です。
「の」一文字が入ったため、社会党は賛成した。(実は、社会党には次の一手があったんです。だから賛成した。)
2012年2月12日の日記
部分再掲
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②にも書きましたが、国民の大半は「紀元節」の復活に賛成だったようです。
しかし、自民党と政界を二分するほどの大勢力だった社会党は当然のこと、他の政党も「紀元節」という名称では頷きません。
戦前の国家体制を無条件に受け入れることになる、それでは新生日本の意思表示にはならない、というわけです。
それならば、という事で実を取る。「建国記念日」でいこう、となったのですが、これまで書いてきたとおり、「建国記念日」ということになると、それは「紀元節」とは違った意味で採ろうとする。それが各政党の、それなりに一理ある制定候補日でした。
しかし、それでは「紀元節」という言葉に惹起される国体(國體)への思いも、歴史への思いも全て捨て去られてしまう。「紀元節」という名称への抵抗が大きい中、どうしても譲れないのが日付、2月11日だった、というわけです。
だからと言って、その都度、万巻の書物、大量の情報を収集して猛勉強をし、判断に臨む、なんてこと、できる能力も時間もない。
じゃ、どうする。
そりゃもう、これまでに培って来た(?)「教養」にすがるしかない。
「三つ子の魂」、で育まれて来た感性と、自身の知識、習った考え方、が綜合され、醸成されたものが「教養」ですから、「教養が邪魔をする」ことがあっても、やっぱり教養に頼らざるを得ない。そうやって、「彼(問題)の言動に筋が通っているか否か」、を見る。
もし、「論理が破綻している」と感じたなら、「言動が一致しているか否か」と照合してみればよい。
また、「心変わりをしたか、それとも狂ったか」、と見えたならば、当方の把握に問題がなかったか省みる必要がある。「己の理解能力の範囲内でしか対象を把握することはできない」からです。
皇室を中心とした国体、歴史の捉え方を「皇国史観」と言うのですが、それは世間で解釈されるような「皇国を美化した」史観ではなく、精確には「皇国護持史観」とでも言うべきもので、敗戦まで、東大史学会の一方の雄となっていたのだそうです。一方の雄、と言うより「主流」、と言った方が良いでしょうか。
中心人物は平泉澄(ひらいずみ きよし)博士。
単純に言えば、日本は皇室を中心として国の形が作られ、それは連綿と今に至るまで続いている、という考え方です。
政権が武士に移ったり、成り上がりの、何者か分からない者が実権を握ったような場合でも、「皇統」が途絶えたことは一度もない。皇室が消失されたことも、当然、ない。
実権を握った為政者であっても、勅命を拝して初めて、国民を従わせることができる。それは建国の日からずっとそうだった。日本という国は、皇室・皇統を中心として成り立つ国であり続けようとしてきた。
つまり「皇国を護持しようとしてきた歴史を持つ国」なんだから、その捉え方で歴史を見、継承するのが、正統なのではないか。
大まかに言うとこういう考え方のようです。これを、平泉史学と言い慣わしているようです。
田中卓博士は平泉博士の晩年の弟子で、後継者と目される人物です。
御存知のこととは思いますが、敗戦時、GHQの占領政策の一つに、「公職追放」という、「各分野で戦争に協力した者を処分すること」、がありました。
軍事裁判にはかからない人々を、公職から追放する。追放された人もあり、それを潔しとせず、辞職した人もあり、で、教育界も様相が一変しました。
平泉博士は敗戦と同時に東大史学科主任教授の職を辞し、それでも、昭和23年から27年まで、公職追放されています。
以前に日記に書きましたが、当然、残ったのは、唯物史観(大半は社会主義思想)の持ち主。残りは、言うまでもない、日和見主義。
主流だった「皇国史観」は見事に切り捨てられ、払拭されてしまった。
だから、教育界は一変するわけです。アサヒ新聞の変身(変心)と同じです。
GHQの後ろ盾によって行われたこれは一種の革命とも言えるでしょう。
田中卓博士は、同20年卒業。平泉史学を継承して学究生活を続けたため、論文の発表の場である史学会からは完全に無視される。だから当時から多くの論文を書きながら、その研究成果はなかなか日の目を見ることができないままだった、ということです。
その弟子にあたるのが、所功氏。
さらに、田中博士が皇學館の学長だった時、博士の推薦という形で、早稲田政経出身の新田均氏が、皇學館に奉職したのだそうです。
こうやって書いても、ここまで読まれた人の中にだって
「ああ、田中卓!小林よしのりの漫画に出てきた女系天皇推進論者だな!心変わりをしたBKDか!」
なんて思われた方もあるでしょうね、きっと。
判断は個人の自由。
しかし初めに書いた通り、私は伝聞でなく、何か本人の言なり、文なり、の実例に当たって、自分で分からないなりに考えて、それから、判断したいと思います。そして、「彼(問題)の言動に筋が通っているか否か」、を見ようと思います。
氏が巷間言われるように心変わりをした、ただのBKDならば、これまでの氏の業績は全く認められるものではないことになります。
転向するということは「神勅が歴史を動かし、歴史が神勅を実証する」と説く、氏の言葉が、そのままブーメランとなって氏に返ってくるということです。
歴史に「間違い」は存在しないのですから。それこそ歴史の歯車に、氏が世間に周知させた「万世一系」の言葉や「神武天皇実在論」と共に踏み潰されることになります。
氏の文章を読む限り、氏の論は、そして学問に対する生きる姿勢は、終始一貫しています。少なくとも現時点での私にはそう見えます。
今回、田中博士の評論集を入手することができたので、読後、私の感想を、と目論んでいたのですが、先に書いたとおり、「己の理解能力の範囲内でしか対象を把握することはできない」。博士の文は私如きの中途半端な考えで、気軽にまとめられるようなものではありませんでした。
色々考えた結果、「やはりこれは相当に気合を入れて、何度も読み返すしかない、すぐに感想なんてやってしまうと、とんでもなく低劣なことを書いてしまうに違いない」との結論に至りました。
というわけで、今回は「建国記念の日」制定に関する事実を2,3。
①学界が2月11日とすることに反対していたこと。
②考古学者でもあられた三笠宮(崇仁親王)殿下がそれ(学会の意向)を支持され、「日の決定は時期尚早」、つまり有名無実、永久に制定しない、となるところだった。
③田中博士を編集者として「神武天皇紀元論ー紀元節の正しい見方ー」の出版が為され、ここから流れが変わってきた。
もう一つ。
「建国の日(建国記念日)」といえば、歴史事実としての年月日を指す。そうなると、明らかになるまで祝日は設けられない。しかし、法律の示すところは「建国記念の日」であるから、最もふさわしい記念日を定めれば良い。
(記念の日は事実と直接の関係はなくてもいいでしょう?)
これは、自・社・民社の共同提案の修正案。見事な「摺り合わせ」です。
「の」一文字が入ったため、社会党は賛成した。(実は、社会党には次の一手があったんです。だから賛成した。)
2012年2月12日の日記
部分再掲
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
②にも書きましたが、国民の大半は「紀元節」の復活に賛成だったようです。
しかし、自民党と政界を二分するほどの大勢力だった社会党は当然のこと、他の政党も「紀元節」という名称では頷きません。
戦前の国家体制を無条件に受け入れることになる、それでは新生日本の意思表示にはならない、というわけです。
それならば、という事で実を取る。「建国記念日」でいこう、となったのですが、これまで書いてきたとおり、「建国記念日」ということになると、それは「紀元節」とは違った意味で採ろうとする。それが各政党の、それなりに一理ある制定候補日でした。
しかし、それでは「紀元節」という言葉に惹起される国体(國體)への思いも、歴史への思いも全て捨て去られてしまう。「紀元節」という名称への抵抗が大きい中、どうしても譲れないのが日付、2月11日だった、というわけです。