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ただの日記

「駄目なものはだめ!」、じゃ、ダメだろう。 (後)

2020年06月16日 | 日々の暮らし
2014.10/02 (Thu)

 で、特に私の引っ掛かった言葉。「駄目なものはだめ!」

 何だか
 「高飛車に短い言葉で、ピシリ、と言い切る。小気味いいじゃないか!」
 「女王様とお呼び!みたいでカッコいい!」
 と、マスメディア、思ったかどうかは知らないけれど、当時、流行語大賞なんてものがあったら、きっと上位に入っていたことでしょう。
 しかし、これはおかしい。

 以前に書いた日記に引き合いとして出したことがあるんですが、会津の「什」で教えられたという「什の掟」の
 「ならぬことはならぬものです」
 に、似てはいるけれど、これ、全く違ったものです。正反対と言って良いでしょう。

 「什」では「~してはなりませぬ」が列挙されて、最後の最後に
 「ならぬことはならぬものです」
 、と教える。
 子供に、所属する社会の決まりを教え込み、最後の総まとめとして
 「社会を守り、維持していくために」
 「ならぬことはならぬもの(いけないことはいけない)」
 と、する。
 これは人間が「社会の中に生まれ、社会の中で育ち、社会に参加し、社会を発展させていく」
 、(ということをする)からこそ、そこに存在が許され、存在意義も生まれるのだと教えているのですが、
 「(いきなり)駄目なものはだめ」
 、は、そうではない。
 これは一個人である大人が、現実社会に対して一方的に主張している言葉です。
 土井氏が憲法学者だから、ということになると、そこには「憲法という定規」で可否を判定する、という立場ができることになる。

 土井氏は護憲論者で尚且つ社会主義者なわけだから、占領憲法(占領国統治法)で以て新しい社会をつくろう、という考え方なわけです。敗戦によって降ってわいたような「日本国憲法」という新しい定規で、現実社会を一刀両断する。
 そこには、これまでの国の在り方から学ぼうという姿勢は微塵もないわけでしょう?
 そんな姿勢で、日本を今後百年は立ち直らせないようにしようとした占領統治法で、二千六百年以上も続いて来たとされている我が国を「駄目なものはだめ」、と切り捨てられるのか。将に噴飯ものです。風車に挑むドン・キホーテの方がはるかに地に足が着いている。
 
 彼女の思い込みは激しいものでした。
 「北朝鮮が拉致なんかする筈がない。何故なら社会主義による建国(地上の楽園)を実現させている国なんだから。」
 だから拉致被害者の手紙の真偽を、すぐに朝鮮に問い合わせた。
 ところが
 「そんなことを我々がする筈がない!」
 と返答され、すぐさま信じてしまう。安心して、終結させてしまう。

 では、後に拉致が事実だと分かってから彼女はどうすべきだったのか。
 そして現実にはどうしたのか。

 罪を暴こうというのではありません。これは河野談話と同じことです。
 事実を本人が認め、謝罪する、のは初めの一歩でしかないんですから。大事なのは後始末です。自身が自身のやったことを、どう処分するか、です。
 自身で処分できないうちに亡くなったのなら、関係者が当人の名誉のために後始末をすることです。間違っても墓を暴いて死者を糾弾したり、責任者を吊し上げて事足れり、としてしまってはいけない。孔子の墓を暴いたり、諸悪の根源はナチスにあるとするのは、どう考えたっておかしいでしょう。

 彼女のやってきたことを、感情的にだけ捉え、
 「総理大臣の指名を、『君』づけから『さん』づけに変えた。これは政治を男女平等に見ようとする姿勢のあらわれだった」
 、などと、上っ面だけで簡単に結論付けて欲しくないのです。
 一体、氏のどこが、日本の発展のためになった言動だったのか。

 什の掟「ならぬことはならぬものです」
 と、
 土井たか子氏の「駄目なものはだめ」。

 似ているけれどその内容には雲泥の差があります。



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