CubとSRと

ただの日記

竹島のこと

2020年03月04日 | 重箱の隅
2015.02/21 (Sat)

 呉善花、黄文雄、石平、三氏による鼎談三部作の中、
 「日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の心の闇」
 と題する一冊で、呉氏がこんなことを話されています。

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 P124より
 「中国も韓国も海洋・島には全く関心がなかった」

 呉善花氏)
 小さな島一つ防衛できないという以前に、最も大切な国土だという認識がまるで薄いわけです。
 (注。 「小さな島」→英国に占領された多島海諸島の巨文島のことを指す。) 
 韓国で最大の島である済州島についてもそうです。1876年に日朝修好条約が結ばれて対日開港となってからのことですが、古くからそうだったように済州島付近の漁場では日本と朝鮮の漁民が入り混じって操業していました。それに対して金玉均(キム・オッキュン)という高級官僚が抗議していますが、その時彼は「済州島はどこの道にも属していない」と述べています。済州島は行政的には全羅道に属している島の筈ですが、この金玉均の主張からすると、はっきりしていなかったんじゃないかと思います。
 そういうわけですから、朝鮮半島の諸国はずっと無人の小さな島なんか、まるで眼中になかったんです。韓国が竹島にあれだけ執拗にこだわるのは、竹島は「韓国が実力で日本から奪還した領土」だと位置付け、反日のシンボルにしているからです。
 北朝鮮は「対日武力戦争によって独立を戦い取った」と誇っていますが、韓国の独立は「日本から戦い取った」ものでないことが、韓国には悔しくて仕方がない。
 そこで一方的に李承晩ラインを引いて竹島を軍事的実効支配下に置くことで「日本から領土を戦い取った」実績をつくったわけです。
 ですから、竹島を領有していることは、韓国にとってはきわめて大きな誇りなんです。韓国の場合は中国とは違って、海洋への関心から竹島領有にこだわっているのではないんですね。

                     (転載了)

   ~日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の「心の闇」より~

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 「島を国土だという認識がまるで薄い。済州島にしても国土だ、という意識を強く持っては、いない。」
 なるほど。だからこそ済州島ほどの大きさだって「島」なんだから、「流刑地」としてだけ、「白丁の島」としてだけ認め、蔑視し、永らくほったらかしにしていたわけですね。
 それ以前に、実は以下のような、単純な理由からなんじゃないでしょうか。
 「半島は大陸の一部だ。しかし、島は島でしかない。大陸ではない。拠って国土とは言えない。」
 「事大主義」、「小中華思想」ならば、こうなってもちっとも不思議ではありません。
 日本なんかは「島の寄せ集め」でしかないんですから、「島『国』、だなんてちゃんちゃらおかしい。」・・・・・ということなんでしょうね、きっと。

 じゃあ、なぜ竹島に関してはあんなに拘るのか。
 それはシナからの独立を記念して建立した「独立門(ドンニンムン)」を、いかにも「日本からの独立を記念して」、みたいに言ってることと直接係わっているんじゃないでしょうか。「誇り高き独立国である」と言いたいのだけれど、シナ、ソ連ではなくアメリカが来てくれたおかげで、再び「自力」でなく、独立国に(成った、のではなく)、「なれた」。でもそれは口惜しくて言えない。
 何しろ二度が二度ともお人好しの日本が絡んでいるわけです。(絡むどころか、日本のおかげというしかない。)何しろただの「島」に住む「蛮族」の日本です。

 お節介で、お人好しな日本が、清からの独立を、わざわざ下関条約の最初の項に明文化してくれた。そして、二回目は日本が敗れることによって自動的に「独立できた!」でも、そんなこと、絶対に認めたくない。
 だから何とか「自力で独立した」という証が欲しい。それで、一回目の「清からの独立」は「迎恩門(ヨンウンムン)」を破壊し、「独立門(ドンニンムン)を「日本からの独立の証し」として新たに建てた、みたいな風に教え込んだ。
 二回目、「併合からの独立」でなく、「戦って独立を勝ち取った」と言いたい。
 だから、李承晩が「対馬は我が領土!」とアメリカに頼み込んだけれど、一蹴された、というか、一笑に付されてしまった。(第一次対馬侵攻作戦はこの時にあった、ということになります)
 それならば、と引いた、妙に折れ曲がった線が李承晩ライン。
 それで人の住まない絶海の島を、韓国領と宣言した。対馬は駄目だったけど、竹島は「自力で手に入れた(奪還した)」「領土」、というわけです。
 「自力で手に入れた(奪還した)のは、我が国が独立国だからである」。
 不自然に折れ曲がった線を引いて、対馬ははずして、竹島だけ引っ掛けている。こんな小さな島、朝鮮時代には見向きもしなかったのに。地図上の線をちょっと引き違えただけなのに「自力で奪還した!」線一本で「島を戦って取った」。
 中華思想の真骨頂ここにあり、です。「せこい」とか「姑息」という言葉で形容することすらためらわれる。
 でも、これ、
《「百人斬り」という名称が世に出た以上、その名の下で、一人でも死者が出たならば「百人斬り」は「あった」、ということであり、百人斬殺されたかどうかは大して意味はない。つまり(?)、「百人斬殺されたのである!」と似ています。
 「数千であろうが数万であろうが、虐殺という事実があったことが、問題なのであって、我々の心には三十万人が虐殺されたという記憶が事実となって残っているのだ。今は四十万人となっても、虐殺されたという事実(?)は消えない!」(2010年2月10日の日記) 》
 、と同じ理屈です。

 これで「竹島(独島)は独立の象徴」という意味が分かります。
 領土であることに、なんら生産的な価値はない。ただ、あの島を、線を曲げて引いただけであっても、とにかく「自国の領土」と主張することで「独立国である」、と言える。
 
 「共同管理にしたら良い」「あんな島、くれてやったら?」なんて言うのは、実は彼らの持っている後ろめたさを嘲笑していることになるのです。そして、だから実際に領有権を放棄することは、何の解決にもなりません。それどころかそれに味を占めて、「次は対馬を」と言ってくるのは目に見えています。
 やはり「そんなやり方は、独立国として実に恥ずかしいことなのだ」と彼らに教え続けるべきだ、と思います。
 彼らに迷惑を掛けられ続けるのが嫌ならば、彼らを成長させるしか手はないのですから。

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 「我々は独立したのである。『独島』を『自力で奪還した』のが、その証拠である。」

 この大嘘の元には、当時朝鮮には存在しなかった(重慶にあった)「大韓民国臨時政府」を継承して、「大韓民国」が建国された、というさらに大きな嘘があります。
 「言ったもの勝ち」みたいなもんです、「~臨時政府」と言ったって、世界が認めたものではありません。

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 「大韓民国臨時政府」は、一九一九年に起きた三・一独立運動を契機として、李承晩、金九など、当時中国にいた反日独立運動家たちによって設立された政治団体です。この一政治団体に過ぎない「大韓民国臨時政府」を、正統政府として認めて継承した国家が今の韓国です。彼らは国内で活動していたわけではなく、長らく外国に住んでいた一握りの知識人たちですから、いうまでもなく韓国内で影響力をもっていたわけではありません。(呉善花氏)
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 「反日運動家の思想を基に建てた国が、日本から領土を奪い返し、独立国としての存在を示した。」
 事実はウソだけど、筋は通ってますよね。中華民国の資金援助により重慶で存続していた革命運動(?)懇話会が、日本の敗戦により帰国することができた。米国から保護領とされたが、三年間の内乱の後、その反日を主目的とする(いわゆる)「大韓民国臨時政府」が主導権を握ったので、米国はそれを「政府」として承認した。
 だから李承晩ラインは米国にお伺いを立てた結果のもの。
 でも日本から武力で奪還した、と言わなければ、独立国の証は何一つない。
 ウソにウソを重ねるわけですが、ちゃんと「避諱」の精神は守られています。

 彼らにとって竹島は、国の存亡に係わる大問題。手放したら「戦って領土を奪い返したから独立国となった」と主張するただ一つの根拠がなくなるわけです。
 ここは一番、腕によりをかけてウソを吐き続けなければ、ということになります。

  ・・・・・・寒い・・・・・。

 追・
 李承晩ラインは対馬のところで不自然に曲がってるでしょう?
 あの線、まっすぐに伸ばしていくと、竹島は・・・・。
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