(これまでのも含む)去年の日記を再掲します。
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2024年02月11日 | 心の持ち様
2月11日。「建国記念」の「日」。
あまり昔のことで「建国された日」は分からないから、昔々の太陰暦の正月一日にした。
事実としての建国の日時なんか分からなくても、確かに厳として「日本」はある。
じゃ「今日は何の日?」と同じことで、強引だってこじつけだってそれと同じレベルで「建国記念の日」を決めたって全く問題ないと思いますけどね。ほら、11月22日は「いい夫婦の日」だとか、11月11日は「ポッキーの日」だとか、と何が違う?
例によってこんなこと書くと頭から湯気立てて怒る人がいるかもしれないけど、怒るより諸手を挙げて建国を寿ぐ方が百万倍も良い。
少なくとも「日本国憲法が発布された日」とか「サンフランシスコ平和条約が締結された日」なんてふざけたことを言うよりは。あんなのは「被占領から独立した日」でしかないのであって、「建国」とは意味が違う。
では、昨年の日記(もっと前の日記)を再掲。
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「紀元節」と言っても、「建国記念日」「建国記念の日」等と言っても、右からも左からも猛批判を食らいます。生まれ育った国の建国されたことを祝うのに何の問題があるのだろうかと思うのですけれど・・・。
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紀元節を主張すると「右翼だ」と言われ、「建国記念日じゃない、建国記念の日だ」、というと「この軟弱者が!」と言われます。
「皇紀二千六百~年。ちゃんと言えなきゃ日本人にあらず!」
まさかね。
大体、二千数百年も前に遡って、の正月一日を、「めでたい日」「新年」なんだから、これを「建国記念の日」にしよう、「紀元」節、つまり「祭」、「祭日」にしようというだけのことであって、そこら辺の国の「独立記念日」なんかとは謂れが全く違うのだ。
今朝、「正義のミカタ」で所先生が「聖徳太子の時から遡ること1260年を紀元としよう、ということになった」という話をされていた。
これ、暦が一回り60年で、二十一回(つまり1260年)毎に、大きな変転がある、というシナの「讖緯説(しんいせつ)」からの計算だ。
「神武天皇が日本を作られた」のだから、大きな変転なんだ、なら、1260年前としよう、と。
聖徳太子の出現は日本の大変転であるのだから、その前に在った大変転は神武天皇の即位、肇国の大業がなされた日に違いないという理屈。
(だから少なくとも聖徳太子の以前から日本は「在る」のだから、この時点からでも日本は1400年以上続いているわけだけど)
この時点で、「計算したら、天皇によっては百数十歳以上の長命になる」なんて間抜けなことを言うのも、「そんなに古い筈がない。大嘘だ」と騒ぎ立てるのもナンセンスの極み、ということになる。
要は
「確かに建国されたからこそ国があるのであって、その日時が分からないから記念日は作れない、なんて発想の方がおかしいだろう?」
ということだ。
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あんまり昔(暦すら存在しない頃)のことだから何も分からない。ただ言えることは、建国されたからこそ「日本」という国がある、ということ。建国しないのに植物みたいに国が生えてくる、なんてことはあり得ない。
ならば、建国記念日を制定するのは何もおかしいことじゃない。なければ、作ろうじゃないか。
「古すぎていつなのか分からない」んだったら、めでたい日を選んでその日にすればいいじゃないか。
「めでたい日」?そりゃあ、正月元旦(「元(はじめ)」の「旦(あさ)」)が一番めでたいだろう、何しろ「新年」だ。
で、昔は太陽暦じゃなくって太陰暦だったから、それで計算したら昔の正月一日は2月11日だ、と。
これが「紀元節」の初め。(「紀(年のこと)」「元(はじめのこと)」)
もう一つは「皇紀」の初め。
これ(紀元節と皇紀)が重なった話なのは当然なんだけれど、「紀元節」は日、「皇紀」は年。
だから、重ねて説明することはできない。
それで、転載した去年の日記の所先生の発言が出て来る。
「聖徳太子の時から遡ること1260年を紀元としよう、ということになった」
それこそ「昔々」のシナの思想である「讖緯説(しんいせつ)」を用いて、
【暦が一回り60年で、二十一回(つまり1260年)毎に、大きな変転がある】
ということは、聖徳太子という大天才が「国の在り方を改めた」ことを示しているに違いない。
「国の在り方を改めた」。これは、「大きな変転」そのものではないか。
だったら、聖徳太子の出現を基点にして、同じく1260年前に大変転があったと考えるべきだ。
「そうか!その時に神武天皇が建国の大業を果たされたに違いない!」
ということで「皇紀」が定められた。勿論、だからこれは「計算したらそうなった」というだけのことだ。
だから「それホント?」という発問自体が愚問。
神武天皇の実在を疑う人もいるけれど、そういう発想自体がナンセンス。
日本の「建国の日」を決定する(研究して探し当てる、ではありませんよ)に際して、シナの古代思想である「讖緯説」を持ってくる、と言うこと自体、これは「神武創業の日なんて、どうしたって探しようがないんだ」、ということでしょう?
それを「考古学見地からいって~」などと言うのは大、大ナンセンス!
何もないところから人が生れるわけではない。いきなり、神の子孫が人間となって地上に降り立って天皇を名乗った?そんなバカなこと、あるわけない。
【天照大神を奉じて、「豊葦原瑞穂国」を治めるべし、という神勅を戴いて、長年月懸かって奈良までを平定した一族の長が、「神武天皇」となっただけのことですよ。】
・・・なんてことを書くと、すぐ字面だけ見て怒り狂う人が出て来る。
でも、この二行、自分で書きながら「凝縮されてるよなぁ」と思いますよ。中身は世界に類を見ない、感動モノのことなんですから。
そりゃ、「~を奉じて」とか「~を治める」とか「長年月懸かって~」とか「一族の長が王に~」なんて、バラバラにして見たら世界中に掃いて捨てるほどある話でしょうけどね。けど、この「神武創業」はそんなものとは次元が違うんです。
自らの一族を神の子孫と任じ、その神勅を奉じ「続けて」長い年月をかけて平定した「土地」を、その一族が支配する、と言うのならどこにでもある。でも、日本は違うでしょう?
神の子孫の矜持を持ち続け、神勅を奉じ続け、長年月かけて平定した地を私せず(奪うのではなく、平らぐだけ)、一族が支配するのではなく、みんなを同族とし、族長は天皇という名の神官となる。
こんな素晴らしい建国の思いを祝わない、そんなの要らない、ってのは、ホントどうかしてると思います。
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