昨年の六月、父の戦争体験談の数日に亘る聴き取りも大詰めを迎えてきた。この頃になると朝起きて調子が良い時には「そろそろ始めるか」などど言い、「お前は案外、聞き上手なんだなぁ」などと言いながら表情にも伝えようとする気持ちが強く表れていた。
所属していた茨城県の土浦海軍航空隊の大空襲での生き残り組・少年飛行兵のうち半分は命令が出て滋賀県に移動して行った。木製のモーターボートに爆装した特攻艇「震洋・しんよう」による訓練を琵琶湖の水上で行うためだった。残り半分の父親たちは土浦海軍航空隊から北にある石岡町の民家に数人づつが分散し生活しながら山の斜面等に「ロケット戦闘機の発射台を造る」という命令が出て、近くに駐屯していた陸軍の歩兵部隊と協力しながら毎日土木作業に専念していた。血気盛んな年頃であり多くの戦友を爆撃で失った後である。「自分たちも特攻に志願して戦死した戦友の仇討ちがしたい!自分たちだけ何故、こんな作業をさせられているのか?」という憤りや焦りもあったのではないだろうか。しかしパイロットとしての訓練は終えたものの本来なら搭乗すべきゼロ戦や紫電改が九州方面などに集結してしまっていて無いのだから仕方がない。まさに「余乗員・よじょういん」と呼ばれたわけである。そして7月に入ると硫黄島方面から飛来する米P-51戦闘機による銃弾爆撃も行われ日増しに敗色が色濃くなってくるのだった。だが、作業をしながら戦友たちと「日本は負ける」などという話はしたことがなかった。
そうこうしているうちに8月に入り日本の運命の15日がやってきた。この日は休日だった。朝から午後にかけ、数人で隊のみんなのために野菜などの食料を分けてもらおうと付近の農家をいくつも訪問していた。そして宿泊している民家に戻ると家人に「ラジオを通じて天皇陛下の玉音放送があり、日本が連合軍に無条件降伏し戦争は終わったのです」と告げられた。「終戦を知った瞬間、一番初めに何を思った?負けて悔しいと思った?」と尋ねると「そんなことは思わなかった。ただ、あぁ、これで家に帰れるんだなぁ…と思った」と静かに答えが返ってきた。
15日の次の日、最終的に九十九里浜の北方、銚子市の周辺に移動する計画もあったが結局、爆撃の跡がまだ生々しい土浦海軍航空隊に戻るように命令がありこちらに移動した。焼け残った兵舎の廊下で寝起きしたり、しばらくは仲間とブラブラして過ごしていた。二週間後、部隊長がやってきて終戦の訓示と武装解除があったが話の内容はよく憶えていないとのこと。ここで解散となった。「負けたと知って混乱はなかったの?」と聞き返すと「ただ1つ…武装解除後に頭がおかしくなった戦友が1人いて、どこで手に入れたのか日本刀を振り回し訓練でさんざん絞られた曹長を追い掛け回す騒ぎがあったが、すぐに皆に取り押さえられた」ということがあったようだ。
ここから土浦の駅まで出て、列車に乗って上野駅まで行った。家の最寄りの駅に着くと電話も入れずに歩いていきなり焼け残った自宅兼店まで帰った。玄関で大声を出して「ただいま帰りましたっ!!」と言うと入隊の時と同じようにみんなが出てきてとても喜んでくれたのだった。「これで自分の戦争体験の話はおしまいだ。後はおまえがパソコンで詳しく調べてみろよ。今はなんでも情報が出てくるんだろう」と言って安堵しきった表情で客間のソファーにもたれかかった。
それにしても父の話の中で腑に落ちない点がいくつかあった。それはまず土浦に移動する際、部隊の作戦内容は軍の極秘だったようだが、終戦まで知らされなかった点、搭乗する戦闘機がないにもかかわらずグライダーの飛行訓練を続けていたという点、そして石岡でのロケット戦闘機の発射台造り、九十九里浜への移動予定…?疑問は残ったが父の容体も悪くなってきた頃でそのままにしておいた。
この聴き取りの1カ月ほど後、父親が他界。葬儀が終わった後、思い出して何気なくパソコンで不明点を検索してみた。キーワードは「予科練」「グライダー」「石岡町」「ロケット戦闘機」など。すると大戦末期に海軍で考案、製造された特攻兵器に行き当たった。ゼロ戦による「神風特攻隊」のあと「余乗員」のために考案され製造された特攻兵器は先にあげた「震洋」以外にもいくつか出てきた。1人乗りの人間魚雷「回天・かいてん」や爆撃機の腹に搭載する人間ロケット「桜花・おうか」などは良く知られている。さらに見て行くと…あった!! グライダーによる滑空特攻機『神龍・じんりゅう』という兵器が戦後、実物大に復元されたレプリカの画像と共に見つかったのである。
<滑空特攻機 神龍・じんりゅう>
『神龍』は太平洋戦争末期に前回ブログでご紹介した米英の連合軍による日本本土上陸作戦『ダウンフォール作戦』に合わせて設計製造されたグライダー特攻機である。開発された理由の一つとして「ゼロ戦に憧れて海軍航空隊に志願した少年飛行兵は陸上や水上特攻などではなく空を飛ばさせて死なせたい」ということもあったらしい。「軍上層部の都合のよい理由ではあるが」
実物大の模型画像をみると木材にテント布を張った粗末なものである。これに離陸用の小型ロケットと特攻時の急降下に使う小型ロケットがそれぞれ搭載されている。武装は100㎏爆弾1つで対戦用の機銃などはない。もちろんグライダーなのでエンジンも付いていない。山の斜面などに作られた発射場から出撃し音もなく滑空し目標物を発見すると急降下用ロケットを発射し体当たり自爆する。海岸線に上陸してきた敵の重戦車や上陸用の揚陸艇が主な目標だったと記載されている。いわゆる「水際特攻」である。
そしてなんと、この試作機と飛行試験場は父たちの駐屯していた石岡町にあった。パイロットの飛行訓練としては通常のグライダーが用いられていたということである。さらに予定されていた搭乗員の中に「甲種予科練14期生」とある。間違いない。父親を含む、石岡の余乗員居残り組はこの「神龍」に搭乗させられ水際特攻に出撃させられるはずだったのである。名前は勇ましく「神の使いの龍」であるが、こんな粗末な棺桶のようなグライダーで、果たして米軍の最新式重戦車などに体当たりできたのだろうか? たとえうまく発射したとしても最新式の高速戦闘機にバタバタといとも簡単に撃墜されてしまっただろう。まず想像するに99%は失敗に終わるはずだ。万が一、体当たりできたとしても戦車の搭乗員はたった5名である。全体から見れば大した戦果ではない。
海軍作戦本部はこの九十九里浜などの水際特攻に2000人の予科練出身者を予定していた。そしてその中で『神龍特攻隊』には1000名の予科練出身者を送り出す予定だったようだ。いったい誰がこんな「犬死」にも近い無謀な作戦を発案したのだろうか? 顔がわかるならば捜して見てみたいものである。『神龍』は数度の試験飛行を繰り返し8月15日には5機が完成。11月の連合軍上陸作戦に向け量産開始の命令が出ていたが日本のポツダム宣言受諾により実戦への投入前に終戦の日を迎えた。父親はある程度このことを知っていたのか、それともまったく知らなかったのか今となっては尋ねようがないが、あの時僕に向かって「あとはお前が調べろよ…」と言ったことが印象的であり偶然とも思えない。そして日本がポツダム宣言を受諾せず、1946年3月に連合軍の『コロネット作戦(関東上陸作戦)』が敢行されていたならば、間違いなく父親と戦友たちは特攻に出撃し帰らぬ人となっていただろう。そうなれば僕は当然この世に産まれていない。何かとても感慨深く、そして不思議な気持ちである。
話が前後するが父が戦争体験を話終えた日、最後に声のトーンを変えて僕にこう言い聞かせるように語った。「いいか、よく憶えておけよ。戦争に正義や大義名分などは何1つない。どちらが正しくてどちらが間違っているということもない。ただあるのは人間同士の愚かな殺し合いだけだ…そしていつの時代も犠牲が多く出るのは若者と民間人なんだよ。それは現在も続く戦争のニュースを見れば理解できるだろう?」
父親は普段からあまり自分の本当の本心や哲学的なことは語らない人だった。このセリフが今の僕には重くのしかかってきている。そして最後に交わした約束だった「父さんが語った戦争体験を多くの人に伝えて行くよ」という内容がはたして伝わっただろうか。これからの課題である。
仕事をリタイヤした父が18年前、一人で車を運転し最初に真っ直ぐに向かったのは九州にある「特攻記念館」だった。父が最後まで再訪することがなかった、いやできなかった茨城県の霞ヶ浦周辺をいずれゆっくり訪れてみようと思っている。ここには現在「予科練平和記念館」という公共施設が建っている。多くの資料を見ればまた何か新知見を見つけられるかもしれない。
この連載ブログを亡き
父親と「土浦航空隊」の空襲で亡くなった多くの少年飛行兵の戦没者の方々、航空隊のあった茨城県阿見町の民間の被災死没者の方々に捧げます。そして第二次世界大戦で尊い命を失ったすべての人々に哀悼の意を捧げさせていただきます。
画像はトップが戦友たちと航空隊の庭で(前列向かって左の一番小さいのが父)。下がそれぞれ所属する部隊を写した集合写真2カット。