長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

450. 訃報『柳生 博氏が他界された』 

2022-04-29 17:05:07 | 
●訃報 Obituary

柳生 博氏(1937-2022)/Hiroshi YAGYU 俳優、司会者、作庭家、日本野鳥の会名誉会長 Japanese Acter, Honorary Chairman of the Wild Birds Society of Japan.

4/16(土)、俳優、司会者、作庭家で我等が日本野鳥の会名誉会長の柳生博氏が老衰のため85歳で他界された。21日から、山梨県北斗市にある氏の運営する公共刷設・ギャラリー・レストランの「八ヶ岳倶楽部」の公式ホーム・ページで発表されてからTVニュースやSNSでの投稿が多く上がっていた。

僕が会長(生前こう呼んでいた)と出会ったのは晩年、日本野鳥の会会長の頃だった。知人である野鳥の会の役員の方に会員で野鳥を彫る版画家として紹介していただき都内目黒区にある本部で引き合わせていただいたのがきっかけだった。

最初に交わした言葉をよく覚えている。会議室で紹介され力強い握手をされてから、いきなり会長が「ところで版画っていったい何だ!?」と真顔で詰め寄るように尋ねられ、僕がとっさに「文化です!!」と答えると「そうか版画って文化なんだなぁ!!」と繰り返されて、いたく感心されていた好奇心に溢れる顏を鮮明に覚えている。

その後、会合や取材、野鳥の会関係の飲み会で何度かご一緒し、「一度、八ヶ岳にいらっしゃい!」と誘っていただいたので6年前に会いに泊りがけで行ったのが今回の画像である。
とにかくお酒大好き、人大好き、自然大好きな方だった。この日も八ヶ岳倶楽部のレストランでランチを済ませると奥の院から出て来られ「版画の先生(会長は僕のことをこう呼んでいた)、今日は時間はイイんだろう?」、「じゃ、俺と飲もう!」と言って昼過ぎからビールで始まり、途中から会長の大好きな赤ワインが登場するともうあとは延々である…。

また会長の話は面白い! さすがは「ナイス・ミドル」と呼ばれた人気俳優だけに語り口調が魅力的でグイグイとその世界に引きずり込まれていった。 八ヶ岳の野鳥のこと、コウノトリの保護活動のこと、野鳥を取り巻く人々との出会いのこと、若い頃のこと、本当は役者ではなく画家になりたかったこと、俳優や芸能界の裏話…キリがなく続いたが、途中、飽きると言うことなどなく、気が付けば深夜0時を過ぎていた。約10時間も飲み続け、話し続けたことになる…さすがにこちらももうワイン浸けでヘレヘレ状態。
タクシーを呼んでもらって宿のべッドに転がり込んだのは翌日の早朝近くになっていた。

この日の飲み会で印象に残っている言葉はたくさんあるが、「俺は今、ネット社会になって衰退しているテレビ文化を再興したいと思っているんだよ…つまりそれは昔のようにテレビを家族で囲んで団欒することができるような番組が制作したくて、NHKのスタッフと企画を練っているんだ」と言うテレビ人としての言葉と…別れ際に何故か戦争中の話になり、茨城県の霞ケ浦がご実家だった会長が少年時代、近所に海軍の航空隊があった関係から訓練中の若い特攻隊員が出入りしていて良く可愛がってもらったのだと言う…そして全員が笑顔で挨拶してから九州の特攻基地はと向かって行ったのだと言うこと。この話をされながら会長はその場で嗚咽、号泣してしまった。
そして「なぁ、版画の先生よぉ、こういう俺みたいな野鳥の会の会長がいたってイイだろう!」とグシャグシャな泣き顔で仰られたのが強く印象に残っている。それはまるで俳優、柳生 博が演じる主役とドラマの中で出会っているような飲み会だった。

「もう一度会長とサシでとことん飲んで語り合いたいなぁ…」と思い始めた頃、コロナ禍となってしまい叶わず…会話に中で「気に入ったならば一度、八ヶ岳倶楽部で野鳥の版画の個展をすればイイ」と言ってくれたことも叶わず、叶わず仕舞いで悔やまれることばかり。
今頃はあちらの世界で野鳥たちに囲まれて笑顔で楽しくしているんだろうか? それとも大好きな赤ワインをしこたま飲んでいるんだろうか? あぁ、悲しいかな、寂しいかな…やるせない。

「会長、僕がそちらに行ったら、まず最初に僕と一献やってくださいよ、ハンター・チャンス!! 男同士の約束ですからね!!」

謹んで素敵な会長のご冥福をお祈り申し上げます。

合掌





421. 『義父の一周忌法要』 

2020-12-13 17:35:19 | 
先月の28日。連れ合いの父、義父の『一周忌法要』に参列するために埼玉県内にある寺院へ行って来た。この日はそれぞれ別の場所で暮らす三人の娘たちも現地集合ということでコロナ禍の中ではあるが久々に顔を合わせることになった。義父が他界したのは昨年の12/17だったのだが、特に長女は他界する年まで義父の家に居候し生活していたこともあり「一周忌には必ず出席したい」と言っていたために法要の日程も長女に合わせ前倒しにすることとなった。

義父本人は東京の浅草生まれ浅草育ちであるのだが、ちょっと複雑な事情で家の墓地は埼玉県内にある。この寺院には連れ合いと一緒になってから何度か訪れているのだが古い歴史を持つ真言宗の寺院である。創建は900年代というから平安時代後期ということになるのだろう。元々は学僧のための寺院だったようであるが、昭和になってからは住職がいる寺院へと替わったと聞いている。現在、境内には立派な本堂と五重塔が建つ伽藍があり荘厳な空間となっている。この日の空は見上げると法事に相応しく「空は青空日本晴れ」で雲一つなく、まさにコバルト・ブルーの抜ける様な空だった。

義父は師範学校を卒業後、長く小中学校の教育に携わって来た人で、児童教育ということに情熱を持ち続け、多くの教え子たちに慕われ、また強い意志を持った人でもあった。定年後も市に児童たちのための図書館を建設してほしいと嘆願したり、絵本などの「読み聞かせ運動」のパイオニア的な仕事を続けていた。僕もいろいろな面で励ましてもらったり、作品制作の手掛かりになるような話を一晩中飲み交わしながらしてもらったりととてもお世話になった。義父が体調を崩して他界したのは昨年の12月、コロナの「コ」の字もない時期だった。ちょうど引き受けていた野鳥版画によるカレンダー原画制作の取材に夫婦で宮城県に出掛けなければならない時期にぶつかったのだが、その頃はちょうど体調を回復、ヘルパーさんに頼んで行かせてもらった。あれは、まさに義父が行かせてくれたのだと今でも語り合っているほどの出来事だった。

三人の孫娘たちもとても可愛がってもらい、それぞれが思い出を多くもらっている。この日、喪服姿ではあったが、家族全員が揃うのは本当に久しぶりである。広い本堂の中での一周忌法要だったが家族だけの少人数で寛いだ雰囲気と香煙の中、静かな祈りの時間が持てたと思っている。昼食を兼ねた「お斎」は義父が墓参で寺院を訪れる度に近隣ということもあり通っていたご自慢の鰻店に向かった。江戸時代から200年続く老舗である。僕も新婚の頃、初めていっしょに墓参に来た時に連れて来てもらった。注文したのはもちろん義父お薦めの「鰻重の特上」。甘さを抑えたタレの味がとても美味い。家族で食事をしながら義父の想い出話に花が咲いた。なにしろ、いろんな意味でとても愉快な人でもあったから…。

義父の本当の命日は今月の17日。長島の家と同じ宗派であることから家の仏壇に僕の先祖や両親といっしょにお位牌が収まっている。仏壇には大好きだった日本酒と果物をお供えすることにしよう。


               


380. 『予科練平和記念館』を訪れる。

2019-08-24 18:06:03 | 
今月15日は日本の74回目の終戦記念日である。8/11、記念日を前に茨城県稲敷郡阿見町にある『予科練平和記念館』を家族で訪れた。

予科練(よかれん)とは正式には『海軍飛行予科練習生及びその制度の略称』で戦前の旧日本海軍が、より若い年齢層から航空機パイロットの基礎訓練を行い育てるために設立されたものである。昭和5年~終戦までの15年間で約24万人の若者が入隊し、うち2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へと赴いていった。大戦末期、特攻(特別攻撃隊)として出撃した人たちも多く、予科練出身者の戦死者は全特攻隊員の8割、1万9千人にのぼった。

僕の父親は大戦末期に16才で入隊し訓練終了後、終戦の年にこの記念館近くの土浦海軍航空隊に所属、連合軍の大規模な本土上陸作戦に備えて『水際特攻要員』の訓練と特殊なロケット付き滑空特攻機の発射場建設と飛行訓練を行っていた。この茨城県霞ケ浦周辺には海軍の軍事施設が集中していたために米空軍のB29重爆撃機による大規模な空襲に遭い大勢の戦友や周辺地域の民間人の方々が犠牲となった。この辺りの詳しい内容については2017年8月に当ブログに4回(No.300.301.302.303)に亘り連続投稿した記事に詳しく書いているのでご興味のある方はブログ内カテゴリー『人』から過去記事を開き読んでいただければと思う。

2016年は父が他界した年である。この年から遡ること1年半ぐらい前から、それまでは家族に語らなかった当時の予科練時代のことを集中的に語り始めた。あまり毎日のように詳しく話すので僕が聞き取ったり、ヴォイス・レコーダーで録音したりした。その内容をまとめたのが上記、2017年の連続投稿である。
そしてこの父の「語り」からさらに以前の仕事をリタイアした頃、父は1人自家用車で日本全国を旅して周っていた。そしてその時に真っ先に向かったのは南九州の知覧や鹿谷といった特攻基地跡地に建つ『特攻記念館』だった。息子としては北海道から沖縄まで数回に分けて自動車旅行をする中で、おそらく戦争中の想い出深い地である霞ヶ浦周辺も訪れるのだろうと想像していたのだが、父はとうとうこの地を再訪することはなかった。いや「行けなかった」という方が正しいかもしれない。

記念館の駐車場に到着し外観を眺めてまず目に入ってくるのは館外格納庫に収納され展示されている零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)の原寸大復元模型だった。当時の航空少年の憧れの的だった海軍の主力戦闘機である。そしてゼロ戦と共に目を見張ったものがある。それは館を境に反対側の広場に設置された大戦末期の特攻兵器『人間魚雷・回天』の原寸大模型だった。知識では知っていたが実際に目の前で見ると強い衝撃を受けた。回天は潜水艦搭載の魚雷を改良し搭乗員が1人で操作できるように設計された特攻兵器である。とても小さい。胴体の直径は1mしかない。まさに「鉄の棺桶」というイメージである。回天は父親より年齢の上の予科練出身者が志願し搭乗したということだが、終戦の日にも出撃していたことは有名である。
生前、父が言っていた。「搭乗員が乗ると上官が、2階級特進っ!!と言ってハッチを閉めてしまう。2度と外にはでられない。基地を発進し潜水艦のように小さな潜望鏡を覗きながら敵艦目掛けて体当たりするか、片道の燃料しか積んでいないので海底に沈んで酸欠で死んでいくかの何れかだった」という。このような悲惨な兵器をいったいどんな人物が立案し設計したのだろうか? ここにはヒューマニティの微塵もない。

館内に入ると決して大きくはないがテーマごとに展示室が分かれており、とても観易い内容となっていた。中でも大きく引き伸ばされた写真家の土門拳氏撮影による海軍少年航空兵の日常生活や訓練、活動等のパネル展示は当時のようすをリアルに伝えていた。ここでも父親と同世代が実際に特攻で搭乗した特攻兵器「人間ロケット・桜花」やモーターボート爆装の「震洋」などのレプリカ模型が展示されていた。そして動画を観る部屋では実際の米艦隊への特攻シーンと共に特攻隊員が基地に最後に敵艦隊に突っ込んだことを知らせ打電する「ツー-ーーッ」というモールス信号の音が流された。とても悲しい音だ。

一端、外へ出て平和祈念館に隣接する銅像の立つ公園を過ぎ、陸上自衛隊の敷地内から入る『雄翔館』という資料館にも行って観た。ここでは予科練出身の特攻隊員の遺影や遺品が数多く展示されていた。その遺影の隊員一人一人がどのような飛行ルートで敵艦に突入したかという地図や隊員が家族に向けて書いた最後の手紙なども展示されていて当時のようすをリアルに伝えていた。

全ての展示をゆっくりと時間をかけて観て回り外に出ると真夏の午後の陽射しが強い。そういえば父親が亡くなった日の午後も記録的な猛暑の夏で空には入道雲がわき立ち深いブルーの空が広がっていた。帰路に着く前、駐車場に向かう道すがら、最後の予科練時代の聴き取りを終えた時、父が僕を諭すように言った言葉が浮かんできた。
「いいか…戦争をするどちら側にも正義などというものはない。あるのは人間同士の醜い殺し合いだけだ。戦争になってもっとも犠牲者が多いのはいつの時代でも若者と民間人だ。現在も続く中東などの戦争のニュースをテレビで観ていれば理解できるだろう。戦争だけはぜったいに避けなければならない」と。

父親が2度と再訪できなかった地域とそこに建った平和記念館。一度は訪れたいと思っていたが、この日、父親が来れなかった理由がよく理解できたような気がした。



                        



363. 第49回 高見順賞 贈呈式・記念パーティーに出席する。

2019-03-16 18:00:08 | 
3/15。東京飯田橋のホテルメトロポリタン エドモントで開催された『第49回 高見順賞 贈呈式・記念パーティー』に出席してきた。

受賞されたのは兵庫県在住の詩人、時里二郎さんで作品は昨年出版された詩集「名井島」(思潮社刊)である。時里さんとは20年以上前、美術学校の先輩で版画の世界の大先輩でもある柄澤齋さんの東京の個展会場でご紹介されてからのご縁である。お二人は40年来の大親友なのである。そしてお二人とも大の「昆虫好き」で特に蝶と甲虫のカミキリムシの専門でもあり、知り合った頃からいっしょに採集旅行などをされるほどである。確か記憶では僕も昆虫好き、生き物好きということで柄澤さんに会場で紹介していただいたと思った。

その後、僕が関西方面の画廊で版画の個展を開くと、必ずお知らせし会場にお見えになったりご丁寧にご連絡をいただいたりしていた。時里さんと僕とは共通の話題が多くて、昆虫のこと、自然のこと、野鳥のこと、現代詩のこと、版画のこと、と会場では得意な分野が多いということもあり夢中になって長くお話しさせていただいた。それから新しい詩集が完成するといつもご丁寧に送ってくださる。SNSがさかんな時期になるとお互い参加しているということもあり、いろいろとやり取りさせていただき親交を深めていった。

今年に入って、「第70回読売文学賞・詩歌賞」受賞のニュースが入った。先月、授賞式があったばかりである。凄いなぁと思っていたら間もない頃、今回の「第49回 高見順賞」を連続して受賞された。わずかな期間のダブル受賞である。あっという間にSNSを通してお仲間たちの間で大評判となり「時の人」となったのである。もちろん直ぐにお祝いのメッセージを送信させていただいた。「人生、こういうことってあるんだなぁ…」。

そして今月に入って、高見順文学振興会を通して受賞記念パーティーへの招待状が届いたのである。一瞬「僕のようなものに…」と思ったのだが、またとない御めでたい席である。出席させていただくことにした。

「高見順賞」という名前は僕も20代から現代詩が好きで読んでいたので知っていた。例えば他の文学で言えば「芥川賞」や「直木賞」などと並び、詩の分野での重要な賞だという認識だったが、どうもそういう商業的なものとも正確が違うようである。詩人にとってはもっと重く、特別な意味を持つ賞だということだ。
毎年、数多く出版された現代詩の詩集の中から優れた詩人に贈られる文学賞で、高見順文学振興会が主催、5名ほどの著名な詩人によって構成された選考委員によって審査、決定発表されている。第1回は1971年で受賞者は三木卓氏と吉増剛造氏の二人が受賞している。その後の受賞者を見ても現代詩人を代表する蒼々たる名前が続き、現代詩の重要な位置づけとなっているのである。

会場に着くと受け付けのあたりで版画家の柄澤さんと愛知の版画家、戸次女史の姿を見つけた。柄澤さんが開口一番「詩人の授賞式に版画家3人が出席するなんて時里氏らしいねぇ」と言われた。いっしょに会場に入り同じ円卓に着く。パーティーは16時から選考委員の1人である吉増剛造氏の開会の挨拶から始まり、ベテラン詩人による選考経過の報告や賞の贈呈、祝辞などが続き、受賞者の挨拶となった。もちろん僕たちは時里さんの言葉を楽しみに待っていた。マイクの前に立つとやや緊張した面持だったが、話の内容が近年自己の詩作において特に思い続けていることとなると、とても詩人らしい深い考えを話された。それは「自分の書く詩、言葉が実はこの世界にもっと以前に生きていた人が書いた、あるいは話した言葉なのではないか、と感じるようになった」ということ、さらに「その言葉が自分の中に入って来て書いているという感覚になる」という意味のことを話された。仏教の「入我我入観」や「感応道交」といった境地にも通じるような感覚を連想してしまった。素晴らしいスピーチだった。ふだん詩人の方が創作においてどのようなことをリアルで考えているのかを垣間見ることができた。

その後、花束贈呈、そして無二の親友である柄澤齋さんからのお祝いの言葉と乾杯の発声。あとは大勢の来場者が自由に歓談。ファンの方々にサイン攻め、スナップ写真攻めにあっていた時里さんにようやくお声掛けしお祝いの一言を話してから記念撮影などをすることができた。「長島さん、また関西方面の画廊で発表する時にはご案内ください。野鳥の話もしましょう」と言っていただいた。時里さんのように地道にご自身の世界を追及し続けてきた創作者が、きちんと評価されるということが本当に嬉しかった。アルコールが入ってからは、あっと言う間に時間が過ぎて行った。とても和やかで良い授賞式だった。


肝心の時里さんの詩の内容について書こうと思っていたら他のことで長くなってしまった。僕は評論家ではないし僕が下手な形容を並べるよりもこのブログを読んでいる方々でご興味をお持ちの方は是非、詩集「名井島」をお手にとって読んで、感じていただきたい。詩と言うものは文学とはいえむしろ音楽に共通する感覚があり、理屈や説明ではなく読む人が、その人その人の持つフィーリングで味わうものだと思っている。

時里さん、おめでとうございます。そして良い授賞式にご招待いただきありがとうございました。これからもさらに素敵な詩集を生み出し続けてください。柄澤さん、素晴らしい詩人の方をご紹介していただき感謝いたします。


画像はトップが受賞会場での時里さんとのスナップ。下が向かって左から会場となったホテル、開会挨拶をする吉増氏、時里さん、乾杯の発声をする柄澤さん、会場に設営された高見順の写真、時里さんと友人のみなさん、詩集「名井島」、時里さんからいただいた詩集の数々。



                              




303. 『父が語った戦争』 第4回(最終回)幻の滑空特攻機

2017-08-16 17:27:20 | 
昨年の六月、父の戦争体験談の数日に亘る聴き取りも大詰めを迎えてきた。この頃になると朝起きて調子が良い時には「そろそろ始めるか」などど言い、「お前は案外、聞き上手なんだなぁ」などと言いながら表情にも伝えようとする気持ちが強く表れていた。

所属していた茨城県の土浦海軍航空隊の大空襲での生き残り組・少年飛行兵のうち半分は命令が出て滋賀県に移動して行った。木製のモーターボートに爆装した特攻艇「震洋・しんよう」による訓練を琵琶湖の水上で行うためだった。残り半分の父親たちは土浦海軍航空隊から北にある石岡町の民家に数人づつが分散し生活しながら山の斜面等に「ロケット戦闘機の発射台を造る」という命令が出て、近くに駐屯していた陸軍の歩兵部隊と協力しながら毎日土木作業に専念していた。血気盛んな年頃であり多くの戦友を爆撃で失った後である。「自分たちも特攻に志願して戦死した戦友の仇討ちがしたい!自分たちだけ何故、こんな作業をさせられているのか?」という憤りや焦りもあったのではないだろうか。しかしパイロットとしての訓練は終えたものの本来なら搭乗すべきゼロ戦や紫電改が九州方面などに集結してしまっていて無いのだから仕方がない。まさに「余乗員・よじょういん」と呼ばれたわけである。そして7月に入ると硫黄島方面から飛来する米P-51戦闘機による銃弾爆撃も行われ日増しに敗色が色濃くなってくるのだった。だが、作業をしながら戦友たちと「日本は負ける」などという話はしたことがなかった。

そうこうしているうちに8月に入り日本の運命の15日がやってきた。この日は休日だった。朝から午後にかけ、数人で隊のみんなのために野菜などの食料を分けてもらおうと付近の農家をいくつも訪問していた。そして宿泊している民家に戻ると家人に「ラジオを通じて天皇陛下の玉音放送があり、日本が連合軍に無条件降伏し戦争は終わったのです」と告げられた。「終戦を知った瞬間、一番初めに何を思った?負けて悔しいと思った?」と尋ねると「そんなことは思わなかった。ただ、あぁ、これで家に帰れるんだなぁ…と思った」と静かに答えが返ってきた。
15日の次の日、最終的に九十九里浜の北方、銚子市の周辺に移動する計画もあったが結局、爆撃の跡がまだ生々しい土浦海軍航空隊に戻るように命令がありこちらに移動した。焼け残った兵舎の廊下で寝起きしたり、しばらくは仲間とブラブラして過ごしていた。二週間後、部隊長がやってきて終戦の訓示と武装解除があったが話の内容はよく憶えていないとのこと。ここで解散となった。「負けたと知って混乱はなかったの?」と聞き返すと「ただ1つ…武装解除後に頭がおかしくなった戦友が1人いて、どこで手に入れたのか日本刀を振り回し訓練でさんざん絞られた曹長を追い掛け回す騒ぎがあったが、すぐに皆に取り押さえられた」ということがあったようだ。
ここから土浦の駅まで出て、列車に乗って上野駅まで行った。家の最寄りの駅に着くと電話も入れずに歩いていきなり焼け残った自宅兼店まで帰った。玄関で大声を出して「ただいま帰りましたっ!!」と言うと入隊の時と同じようにみんなが出てきてとても喜んでくれたのだった。「これで自分の戦争体験の話はおしまいだ。後はおまえがパソコンで詳しく調べてみろよ。今はなんでも情報が出てくるんだろう」と言って安堵しきった表情で客間のソファーにもたれかかった。

それにしても父の話の中で腑に落ちない点がいくつかあった。それはまず土浦に移動する際、部隊の作戦内容は軍の極秘だったようだが、終戦まで知らされなかった点、搭乗する戦闘機がないにもかかわらずグライダーの飛行訓練を続けていたという点、そして石岡でのロケット戦闘機の発射台造り、九十九里浜への移動予定…?疑問は残ったが父の容体も悪くなってきた頃でそのままにしておいた。
この聴き取りの1カ月ほど後、父親が他界。葬儀が終わった後、思い出して何気なくパソコンで不明点を検索してみた。キーワードは「予科練」「グライダー」「石岡町」「ロケット戦闘機」など。すると大戦末期に海軍で考案、製造された特攻兵器に行き当たった。ゼロ戦による「神風特攻隊」のあと「余乗員」のために考案され製造された特攻兵器は先にあげた「震洋」以外にもいくつか出てきた。1人乗りの人間魚雷「回天・かいてん」や爆撃機の腹に搭載する人間ロケット「桜花・おうか」などは良く知られている。さらに見て行くと…あった!! グライダーによる滑空特攻機『神龍・じんりゅう』という兵器が戦後、実物大に復元されたレプリカの画像と共に見つかったのである。

<滑空特攻機 神龍・じんりゅう>

『神龍』は太平洋戦争末期に前回ブログでご紹介した米英の連合軍による日本本土上陸作戦『ダウンフォール作戦』に合わせて設計製造されたグライダー特攻機である。開発された理由の一つとして「ゼロ戦に憧れて海軍航空隊に志願した少年飛行兵は陸上や水上特攻などではなく空を飛ばさせて死なせたい」ということもあったらしい。「軍上層部の都合のよい理由ではあるが」
実物大の模型画像をみると木材にテント布を張った粗末なものである。これに離陸用の小型ロケットと特攻時の急降下に使う小型ロケットがそれぞれ搭載されている。武装は100㎏爆弾1つで対戦用の機銃などはない。もちろんグライダーなのでエンジンも付いていない。山の斜面などに作られた発射場から出撃し音もなく滑空し目標物を発見すると急降下用ロケットを発射し体当たり自爆する。海岸線に上陸してきた敵の重戦車や上陸用の揚陸艇が主な目標だったと記載されている。いわゆる「水際特攻」である。

そしてなんと、この試作機と飛行試験場は父たちの駐屯していた石岡町にあった。パイロットの飛行訓練としては通常のグライダーが用いられていたということである。さらに予定されていた搭乗員の中に「甲種予科練14期生」とある。間違いない。父親を含む、石岡の余乗員居残り組はこの「神龍」に搭乗させられ水際特攻に出撃させられるはずだったのである。名前は勇ましく「神の使いの龍」であるが、こんな粗末な棺桶のようなグライダーで、果たして米軍の最新式重戦車などに体当たりできたのだろうか? たとえうまく発射したとしても最新式の高速戦闘機にバタバタといとも簡単に撃墜されてしまっただろう。まず想像するに99%は失敗に終わるはずだ。万が一、体当たりできたとしても戦車の搭乗員はたった5名である。全体から見れば大した戦果ではない。
海軍作戦本部はこの九十九里浜などの水際特攻に2000人の予科練出身者を予定していた。そしてその中で『神龍特攻隊』には1000名の予科練出身者を送り出す予定だったようだ。いったい誰がこんな「犬死」にも近い無謀な作戦を発案したのだろうか? 顔がわかるならば捜して見てみたいものである。『神龍』は数度の試験飛行を繰り返し8月15日には5機が完成。11月の連合軍上陸作戦に向け量産開始の命令が出ていたが日本のポツダム宣言受諾により実戦への投入前に終戦の日を迎えた。父親はある程度このことを知っていたのか、それともまったく知らなかったのか今となっては尋ねようがないが、あの時僕に向かって「あとはお前が調べろよ…」と言ったことが印象的であり偶然とも思えない。そして日本がポツダム宣言を受諾せず、1946年3月に連合軍の『コロネット作戦(関東上陸作戦)』が敢行されていたならば、間違いなく父親と戦友たちは特攻に出撃し帰らぬ人となっていただろう。そうなれば僕は当然この世に産まれていない。何かとても感慨深く、そして不思議な気持ちである。


話が前後するが父が戦争体験を話終えた日、最後に声のトーンを変えて僕にこう言い聞かせるように語った。「いいか、よく憶えておけよ。戦争に正義や大義名分などは何1つない。どちらが正しくてどちらが間違っているということもない。ただあるのは人間同士の愚かな殺し合いだけだ…そしていつの時代も犠牲が多く出るのは若者と民間人なんだよ。それは現在も続く戦争のニュースを見れば理解できるだろう?」
父親は普段からあまり自分の本当の本心や哲学的なことは語らない人だった。このセリフが今の僕には重くのしかかってきている。そして最後に交わした約束だった「父さんが語った戦争体験を多くの人に伝えて行くよ」という内容がはたして伝わっただろうか。これからの課題である。

仕事をリタイヤした父が18年前、一人で車を運転し最初に真っ直ぐに向かったのは九州にある「特攻記念館」だった。父が最後まで再訪することがなかった、いやできなかった茨城県の霞ヶ浦周辺をいずれゆっくり訪れてみようと思っている。ここには現在「予科練平和記念館」という公共施設が建っている。多くの資料を見ればまた何か新知見を見つけられるかもしれない。

この連載ブログを亡き
父親と「土浦航空隊」の空襲で亡くなった多くの少年飛行兵の戦没者の方々、航空隊のあった茨城県阿見町の民間の被災死没者の方々に捧げます。そして第二次世界大戦で尊い命を失ったすべての人々に哀悼の意を捧げさせていただきます。 

画像はトップが戦友たちと航空隊の庭で(前列向かって左の一番小さいのが父)。下がそれぞれ所属する部隊を写した集合写真2カット。


   

302. 『父が語った戦争』 第3回 本土決戦

2017-08-14 17:35:21 | 
昭和20年6月10日。父の所属する茨城県の土浦海軍航空隊を襲った米軍機による空襲で部隊の2/3の少年航空兵が戦死。父を含む残りの1/3の飛行兵はしばらく土浦航空隊の焼け跡のわずかに残った兵舎で生活していたが、ここ霞ヶ浦周辺には海軍の施設が集中していたため、その後も硫黄島の基地から飛来した米軍爆撃機、戦闘機による小さな空襲が何度もあった。敵機の爆音がして来ると「敵機来襲~っ!!」という声と共にその場からみんな飛散してパーッと蜘蛛の子を散らすように逃げた。焼け残った兵舎は狙われるのですぐに離れて裏山の中に逃げ込んだり、霞ヶ浦方面の水辺に逃げたりした。
そんな中、戦友数人が軍の所要で国鉄の駅まで使いに行ったのだが、そこでフラッと飛来した米P-51戦闘機1機に襲われた。みな散らばって逃げたが1人の戦友をP-51が執拗に追いかけ始めた。なんとか停車中の貨車の下に潜り込んだが膝から下が隠れず、そこに低空飛行をしてきて“バリバリバリッ”っと機銃掃射された。戦闘機に付いている機銃は戦闘機を打ち落とすための口径の大きな機銃であるからたまらない。銃弾が両ふくらはぎを貫通し、敵機が飛び去った後、皆に貨車下から引き出されたが間に合わずに出血多量で死亡したのだという。まるで遊びのようにやって来ては地上の人を見つけるとこうした攻撃をしてきたようである。この話をしていた父が「他人ごとではなかった、ひょっとすると自分が使いに行っていたかもしれない…」と呟いた。

しばらくして生き残り組のうち半数が滋賀県の琵琶湖に移動となった。ここの水上で特攻艇「震洋・しんよう」という1人乗りの特攻兵器の訓練をするためだ。これは小型のベニヤ板製のモーターボートの船首に爆装し搭乗員が一人乗り込み日本近海にいる駆逐艦や哨戒艇などの小型の敵艦艇に体当たり攻撃を敢行するもので、大戦末期のこの時期には太平洋岸の海岸線の洞窟などに多くの基地があり終戦ギリギリまで出撃していたということだ。それにしてもベニヤ板製のモーターボートである…。父を含むあと半数は土浦の北、石岡という町へ移動することになった。ここで民家に数人が分散し生活が始まった。
「そこではどんな任務が与えられたの?」と尋ねると「町から離れた山の上に造られた平坦地に地上ロケット戦闘機の発射台の建設を行っていた」という答えが返ってきた。「ロケット戦闘機って?特攻兵器の桜花(おうか)のこと」と聞き直すと「いや、それとは違うタイプがもう一つあった…1人乗りの操縦席があったので無人ではないと思う」と言っていた。
「陸軍の部隊も駐屯していて、いっしょになって土木作業を行った。初めのうちは自分たちを海軍の若い下士官だと思っていたらしく、すれ違うとピシッと陸軍式に敬礼をされた。しばらくして少年兵だと解ると、してくれなくなった」と苦笑しながら言っっていた。

ここまで話を聞いて謎が深まった。搭乗する戦闘機がない時期に土浦でのグライダーによる飛行訓練?そして今度はロケット戦闘機?いったい父親たちはどんな作戦に参加する予定だったのだろうか。ここで父たち部隊が置かれていた状況を俯瞰して見るため、父が亡くなってから数か月経ってからネットで調べた大戦末期の関東方面の日本軍の作戦を一部だが取り上げてみることにする(詳しく書くととても長くなるのであくまでも概容ということでご了承、お読みください)。

<日本本土上陸作戦>

太平洋戦争末期、アメリカ、イギリスなどの連合国により開催された「カイロ会談」で劣勢にもかかわらず徹底抗戦を続ける日本軍に対して「日本の早期無条件降伏のためには本土上陸も必要」という認識が話された。1945年2月には作戦の骨子がほぼ完成。上陸作戦を中心になり実行するアメリカ、イギリス、オーストラリア軍をはじめとするイギリス連邦軍に了承されることとなった。
この作戦は『ダウンフォール作戦:Operation Downfall』 と命名される。この計画は大きく2つに分かれており、1つは1945年11月に計画された『オリンピック作戦』ともう1つは1946年3月に計画された『コロネット作戦』だった。前者は九州南部への上陸作戦で航空基地を奪い、ここから本州、特に関東地方の日本軍基地を英空軍の重爆撃機により攻撃する作戦だった。後者はこの九州からの集中爆撃後、関東の神奈川県湘南海岸と千葉県の九十九里浜、茨城県の鹿島灘から米海兵隊を中心に大規模な上陸作戦を展開、首都東京を挟撃し短期間で皇居まで迫り無条件降伏を迫るというものだった。
その連合軍の陸海空の動員される兵力は第二次大戦史上、最大規模と言われ欧州のノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ数が予定されていた。そして投入される米英軍の兵器も最新鋭のものが、この作戦のために開発製造されていたのだということだ。さらに驚くのは広島、長崎に続く新潟などの都市への原子爆弾の投下。想像を絶する激戦が予想されるため連合国軍側も自分たちの損害を減らすという理由からヨーロッパ戦線では第一次大戦後タブーとなっていた化学兵器、生物兵器の使用も計画されていた。その内容はマスタードガス、サリンなどの神経毒ガス攻撃や食料となる農作物を殲滅し兵糧攻めにする枯葉剤(ベトナム戦争で使用)の散布まで検討されていたのだという。

これに対して日本側は大本営が提唱する「一億玉砕・いちおくぎょくさい」のプロパガンダ通り、『決号作戦・けつごうさくせん』と称し、本土に残る約500万の陸海軍以外に男子は15歳~60歳、女子は17歳~40歳までの民間人で組織した国民兵2600万人を投入するとされる計画がたてられていた。連合軍同様、この戦のためにさまざまな新兵器も陸海軍で考案され設計、製造が進められていた。そして茨城の鹿島灘と千葉の九十九里浜には攻撃陣地が軍部の指導の下、築城され始めていた。あくまで専用の攻撃陣地であり防御陣地の築城は行われなかった。つまり「お国のために死んで玉砕するまで」ということなのだろう。そして航空兵力も父親たち「余乗員」を含む特攻攻撃が中心に考えられていたのである。

史上最大の上陸作戦が遂行されれば、当然のことながら両軍共に甚大な被害が生じたことだろう。連合軍、日本軍共、独自に損害を予測し数値は異なっていたようだが、米英軍は第二次世界大戦の中で最大数、日本側は全軍が壊滅するほどの被害数という点では一致している。数だけではなく原子爆弾の継続使用や化学兵器の使用などにより軍人だけではなく民間人に多大なる犠牲が出て日本列島全体が焦土と化したことは間違いないだろう。
それにしてもこうした狂信的で無謀としか表現しようのない作戦が存在したという事実を現代の日本人のどれだけの人が知っているだろうか。特に40代より若い世代は全く知らないのではないだろうか。


この続きはさらに次回に続きます。次回が最終回となる予定です。

画像はトップが兵舎内で戦友と写された写真(前列、向かって左から3番目の小柄で笑っているのが父)。下が部隊内での訓練のようす3カット、みんなあどけない笑顔をした甲子園球児ぐらいの少年たちである。


      



301. 『父が語った戦争』 第2回 土浦海軍航空隊

2017-08-11 17:15:26 | 
昭和20年の3月、父たち若い飛行兵を乗せた軍用列車が奈良からノンストップで茨城の土浦に到着する。以後、父親の部隊は土浦海軍航空隊所属となった。奈良航空隊で基礎訓練を終え、これからいよいよ実戦の訓練を行うためである。

翌日の朝、飛行場に集まると、そこには想像していたゼロ戦や紫電改の姿はなく「赤トンボ(練習機)」とグライダー、そして本物のように色が塗られた擬装の囮用木製機だけが並んでいた。この年の3月に硫黄島の守備軍が玉砕し、本土の大都市への大空襲が続き、4月から沖縄戦が始まっていた。こうした状況で航空兵力の多くが本土に近づく決戦場に迎撃機や特攻隊機として集結していたため父親たちから下の予科練16期生(16才~20才)までのパイロットにはもはや搭乗すべき戦闘機がなくなっていた。そしてこの訓練は終えたが空を飛べない戦闘員たちは「余乗員・よじょういん」などと呼ばれ、海軍上層部はこの少年兵たちの扱いを今後どのようにするか検討を重ねていた。「余乗員」いやな響きを持った言葉である。偶然だが幻想エカキの大先輩のT.Iさんは予科練で父の一期上にあたり土浦の近くの霞ヶ浦航空隊でゼロ戦に乗り毎日、湖上に浮かべられた模型の敵艦に向け特攻の急降下訓練を行っていたと伺っている。

「そんな航空隊でいったい何の訓練をしたの?」と尋ねると「毎日のようにグライダーに乗って飛行訓練をしていた」と答えが返ってきた。何か腑に落ちない。どうして搭乗する戦闘機もないのにグライダーの訓練などしていたのだろうか?父親たちはあまり疑問を持たずに上官に言われるがまま厳しい訓練を続けていたのだということだった。

そうした中、昭和20年6月、この頃になると占領された日本近海のサイパン島や硫黄島から飛来する米軍の爆撃機や戦闘機による空襲が太平洋岸を中心に頻繁になってきていた。そうした中で10日の朝、土浦航空隊に悲劇が起こった。
この日、父親は数人の戦友たちと兵舎の見回り当番を命じられていた。空襲警報が発令され"ゴォーッ、ゴォーッ" と空を引き裂くような恐ろしい爆音と共に米軍機の大きな編隊が近づいてきた。「危ないから早く防空壕の中へ入れっ!!」と上官から言われていたが責任からか父を含め何人かは兵舎に残っていた。
そうこうしているうちに防空壕が集中的に狙われた。"ドーン、ドーン"と地響きのように爆撃の音が聞こえてくる。どのくらいの時間だったのだろうか。長くも短くも思えた。しばらくして飛行機の爆音が遠ざかると「残っている者はすぐに助けに行け~っ!!」と上官の命令がありバラバラと兵舎の外に出て走って裏山にある防空壕へと向かった。20分ほどで現場に到着すると防空壕の場所がどこにあるのか解らないほど、派手に潰されていた。

皆で協力してスコップなどで瓦礫や覆いかぶさった土の除去作業を進めて行く。濠の入り口から少し入ったところで一人の戦友がキチンと椅子に座ったまま死んでいた。肘から上は真っ黒に焼け焦げていて誰か判断はし難い姿なのだが膝の上に書類の入った鞄をしっかりと両手で抱えている。肘から下はきれいに焼け残っているのである。この戦友は普段からとてもまじめで几帳面な優等生で、その性格を上官に認められ重要書類を扱う係りとされていた人物であることが解った。コの字に曲がった防空壕の中を進んで行くと、真上に爆弾が落下したため床にかなりの衝撃で叩き付けられたのだろう。顔が真っ赤に倍に膨れ上がった戦友3人が倒れて死んでいたのが見つかった。さらに進むとコの字のちょうどコーナーで柱にしがみついていた二人の戦友に遭遇した。運よく助かったのである。そしてその先では多くの焼け焦げた戦友の遺体と遭遇することになる。何人かの戦友はまるで、きれいに焼かれた鶏肉のような変わり果てた姿で見つかった。まさにこの世の「生き地獄」そのものである。
16~17才と言えば、まだ幼さが残る少年たちである。昨日まで訓練の合間にお国自慢や家族自慢、そして恋愛の話などをして笑い合っていた仲間たちのこの姿を生き残った者たちはどのように受け止めたのだろうか。

それから生存者の4人が1組となり、板に遺体を乗せて山上にある平坦地まで運ぶように命令された。これは本当につらく悲しい時間であった。そして喘ぎながら山上の広い場所に着くとそこは遺体で溢れかえっていた。負傷をしたが運よく一命を取り留めた人たちは軍の病院が爆撃を受けたため民間の病院まで運ばれていった。
作業が一段落し下に降りて休んでいると周囲は暗くなリ始めていたが山上で遺体を焼く炎が赤々と見えて黒い煙がいつまでも高く大きく上がっていたのだという。兵舎も爆撃による火災により一部を残してほぼ全焼に近い状態となっていた。この大爆撃で若い少年航空兵の182名が戦死したと記録に残されている。

ここまで話すと父親がぽつりと言った。「だけど、アメリカさんもけっこう死んだよ」「どういう意味?」と聞き返すと「P-51(米戦闘機)が滑走路に置いた偽の囮用飛行機を狙って編隊で低空に"ダーッ"と降りてきて機銃掃射してくると地面スレスレに土嚢と擬装網でカムフラージュしておいた友軍の対空機関砲が一斉に"バリバリバリ"っと撃ちまくるんだ。そして燃料タンクに命中し"パッ"と一瞬辺りが真っ白になったかと思うと木端微塵に消えてしまう。人間の姿なんて跡形もなくなるんだぞ」と静かに答えた。そして「これが戦争なんだよ…」とも続けるのだった。

この爆撃で大きな損害を受けた土浦海軍航空隊の内、1/3ほどとなった生き残り組はわずかに焼け残った建物でしばらくの間は寝起きを共にするがその後、半分は滋賀県の琵琶湖に、そして父親を含む半分は土浦の北にある石岡の町へと移動し終戦までの最後の任務に就くこととなった。

この続きは次回へと続きます。

画像はトップが奈良航空隊の庭で撮影された予科練制服姿の父。入隊の時よりも訓練によりガッシリとした体形になっている。下が土浦航空隊での集合写真、バックに赤トンボといわれる練習機が見える。



300. 『父が語った戦争』 第1回 予科練に入隊する。 

2017-08-08 18:12:59 | 
今月15日、日本は72回目の終戦記念日を迎える。戦争を体験した世代が亡くなったり高齢化することで生々しい過去の記憶が年々風化しようとしている。

前々回のブログでも予告したが、昨年7月28日に88歳で他界した父親が亡くなる三か月ほど前から僕たち家族に病院の緩和病棟に入院するまでの間、語り続けた戦争中の体験談があった。それまでこの時代の事はあまり語らなかった父が病で体が衰弱していく中、あまり熱心に語るので「これは」と思い僕は聴き取るがままにその内容をノートに記録していった。最後の方は声も枯れてきて途中フラフラッと意識を失いそうになっても語リ続けていた。何故、人生の最後にこの時代の話を続けたのだろうか。きっと何か大切なメッセージをこれからの人間に伝えたかったに違いない。
病院に入院し、亡くなる5日ほど前だったと思うが食事もほとんど取れなくなった父親の耳元で僕は「あの話してくれた戦争中の事は必ず人に伝えて行くから」と約束した。父はもう言葉が出なかったが顔を向き直し眼でうなずいていた。この8月のブログに書こうと思ったのだが、さすがに亡くなってすぐには、その気持ちにはなれなかった。先月一周忌を終え、ようやく書く意欲が湧いてきたのでこうしてパソコンに向かっている。これから終戦記念日まで、3回ほどの予定で『父が語った戦争』について投稿して行こうと思う。

昭和3年東京の本所で生まれ、下町で育った父の幼少期は日本が戦争への道を突き進む時代であった。そして中学3年間はちょうど太平洋戦争の真っただ中で、当時の少年たちのほとんどがそうあったように軍国少年であった。昭和19年(1944年)4月、15歳で中学を卒業するとすぐに海軍航空隊飛行予科練修生に志願入隊した。正式には「甲種飛行予科練習生14期」というらしい。つまり、訓練を受けて少年航空兵になりゼロ戦や紫電改などのパイロットとして敵機と戦おうと意気盛んだったわけである。「どうして志願をしたの?」と尋ねると「その当時の時代がそういう空気だった。同級生はみんな陸軍幼年学校か少年戦車兵、そして海軍の予科練などに入隊した。迷うことなどなかった」と答えていた。父は正義感、責任感の強い性格だったので「ゼロ戦に乗って祖国や家族を守ろう」と思っていたようだ。
入隊の日の朝、「七つボタンは桜に錨」と謳われた予科練の軍服姿の父親を家族やお店の人たち(父の実家は金属関係の商売をしていた)全員が見送りに出てきてくれた。ただ一人、母親(僕の祖母)だけは家の自室にこもり泣き続けて出てこなかったということだ。父は男六人兄弟の末っ子で幼くして父親を亡くしてからは母親が溺愛していたようだ。
入隊すると横須賀海軍航空隊の下に配属され、しばらく適正検査などがあった。「甲種飛行予科練習生」は主に戦闘機のパイロットとして教育・訓練を受ける。そしてその人の能力により水上戦闘機(フロートの付いた戦闘機)、艦上戦闘機(航空母艦に配属)、陸上戦闘機(陸上基地の滑走路から飛び立つもの)、通信兵と振り分けられた。この中で飛行技術的に一番高度で難しかったのは潜水艦などに搭載された水上戦闘機だった。この中で父親は陸上戦闘機パイロットの訓練生に振り分けられた。

しばらくして父とその同期生は横須賀から奈良県天理市(現)にある伊勢志摩海軍航空隊付属、奈良分遣隊に移動となった。ここで翌年の3月まで戦闘機のパイロットとして基本的な訓練を受ける。訓練は非常に厳しく15歳から16歳当時、小柄で痩せっぽちだった父親は一日のカリキュラムが終わるとヘトヘトだったようである。訓練だけではなく隊の規律もとても厳しく分隊の中で一人でも規律を乱すような人間がいるとたいへんな懲罰を受けた。休日のある日、農家から貰ってきたタバコを辞書の紙で巻いて禁止となっているキザミタバコを吸っていた同期生が班の中から見つかった。するとその父の分隊は「全体責任」ということで一列に並ばされて上官や下士官、部隊全員200人ほどから1発ずつ殴られたのだった。殴る方も同情して手を抜けば直ちに同罪ということで殴られるので、全員が本気で殴ってくる。口の中は切れて出血し、顔中がパンパンに腫れて夜は痛くてとても眠ることができない。父は顎の一部が外れカクン、カクンという感覚が長年残ってしまったという。亡くなる2-3年前に「ようやく顎の外れた部分がハマったらしく治ったよ」と苦笑していた。こんなことは序の口で訓練でミスなどした時には「海軍バッター」と言われる精神注入棒で尻を思いっ切り引っ叩かれ突き飛ばされるのは日常だったようである。

父が入隊し、訓練を受けていた昭和19年当時、それまでは勢いよく勝利してきた日本軍がミッドウェー海戦にやぶれ、ソロモン諸島では海軍機で移動中の山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、米軍の大規模な軍事生産力により南方の制空権、制海権がジワジワと奪われ太平洋戦争も日本が劣勢へと向かいつつある時期と重なっていた。そしてこの年の6月にはサイパン島の守備軍が玉砕、米海兵隊の「飛び石作戦」と言われる畳み込むような上陸作戦によりテニアン、グアム、ペリリューと立て続けに敗退していった。さらに10月のフィリピン、レイテ沖海戦に敗北、この戦いで初めて父親たちの先輩にあたる海軍航空隊が「神風特別攻撃隊」を編成し初出撃している。いわゆる特攻隊による肉弾攻撃の始まりである。

昭和20年3月、父親たちは奈良で予科練の訓練を終えた。それはあの米軍のB29による無差別爆撃、東京大空襲の直後だった。そしてすぐに軍用列車に乗り茨城県の土浦航空隊に移動の命令が出た。移動内容や作戦は海軍の機密事項であり若い航空兵には知らされなかった。長い長い移動だった。軍用列車の車窓はとても小さく車内は暗い。
列車が東京に近づいた時、誰言うともなくその小さな車窓から外の景色を注視した。新宿を過ぎた頃、そこには少年たちが、かつて観たこともない信じられない光景が広がっていた。帝都と呼ばれた東京の街が遠方まで一面の焼野原、ときおりポツン、ポツンと焼け残ったビルが建っている。父の故郷である下町は特に被害が甚大だった地域である。そしてこの空襲で子供の頃から母と共に可愛がってくれた最愛の叔母と初恋の人を失った。みんな言葉もなく無言で灰色の廃墟を見つめていたという。「誰かこれで日本は負けたんだ、というようなことは言わなかったの?」と尋ねると「そんなことは瞬間思ったとしても誰も言わなかったし、言える状況にはなかった」と答えが返ってきた。

若い命をたくさん乗せた軍用列車はさらに、これからの戦いの場である土浦に向かって進んで行った。これから起こる地獄のような惨状を予測できる者は上官も含め誰一人としていなかった。


ブログは第2回に続きます。

画像はトップが入隊の朝、自宅の庭で撮影された軍服姿の父。下が奈良分遣隊での訓練の様子3カットと兵舎前での部隊の集合写真(すべて父のアルバムから)。


      

298. 『人生は風船の如し』

2017-07-25 18:58:35 | 
今月の28日は昨年、88才で他界した父の一周忌を迎える。法要は23日の快晴の日、前倒しであるが菩提寺となっていただいている寺院で父の遺言どおり家族だけで慎ましく行った。このブログに父の人生について書こう書こうと思いながらも、なかなか書くことができずに一年が経ってしまった。

ブログのタイトルに使用した『人生は風船の如し』という言葉は生前の父が20代後半から30才ぐらいまでの母と結婚する前にまとめた写真アルバムに書き込まれているものである。その写真は東京の本所生まれで下町育ちの父が10才ぐらいの時のものだろうか、写真と絵画が得意だった兄弟(僕の伯父)が撮影したもので、このアルバムの中で僕が一番好きなカットである。時代は日本が戦争への道を突き進んでいたころである。下町の陽光の中、少年が駄菓子屋で買ってきた紙風船一つで無邪気に遊んでいる。笑顔がとてもいい。この後、人生観を大きく変えてしまった出来事が起こることを未だ知らない。

昭和3年生れの父は軍国少年であった。中学生の頃は太平洋戦争の真っただ中である。中学校を卒業すると同時に「海軍飛行予科練習生」略して予科練(よかれん)に少年飛行兵となるために志願入隊する。「ゼロ戦に乗って敵機から日本の国や家族を守るんだ」と血気さかんだったようだ。だが戦局は著しく悪い時期、いわゆる特攻隊の生き残り組となった。このことが父の人生の中で人の死生観というものを決定づけてしまったように思う。

男六人兄弟の末っ子だった父は戦中戦後のドサクサで3人の兄を失った。物資の少ない中でもあり、そのうちの二人は医療ミスが原因だったようである。そしてB29の大群による東京大空襲、大切な人たちを失った。海軍入隊後は内地にいた所属する航空隊が大きな空襲に遭い大勢の若い戦友たちを失った。この時代の多くの日本人がそうであったように「死」というものが隣り合わせにいた青春時代であったと思う。

僕が二十歳ぐらいまで家で毎晩酒を飲むと家族の前で「自分は本来、ここに生きているべき人間ではない」というのが口癖で、自ら「死にそびれ」を自称していた。このことをあまり母が嫌がるので、その後は語らなくなった。

その父が、亡くなる一年ぐらい前から同居していた僕ら夫婦や孫娘たちの前で戦争中の軍隊生活や実際に起こった事を再び詳しく話し始めたのである。体調もかなり悪くなっていく中、あまり詳しく話すので「これは」と思い僕はメモをとったりボイス・レコーダーに録音したりしたのだった。最後にこれからの人間に伝えておかなければならないと思ったのだろう。この戦争時代の事と長島の家のルーツの二つの話題に絞り語り続けた。この内容についてはとても長くなるのでこの後のブログに投稿しようと思っている。

そして亡くなる半年ぐらい前、自室にいた父が、わざわざ僕を手招きし語ったことがあった。「最近、1人で天井をじーっと眺めていると悟りのようなことを考えるんだよ…」と父。「悟りなんて修行を積んだ僧侶でもなかなか得られない境地だよ」と返すと「人間は皆、一本の紐のようなものだと思うんだ。長い紐もあれば短い紐もある。途中でねじれた紐もあれば曲がった紐もある。人の目線からは違うように見えるけど、真上から俯瞰して見れば同じように小さな1つの点でしかない。今までの人生で若くして死んでいった友人もいれば、有名大学に入ってエリートコースを歩んだ同級生もいるけれど、人生終わってしまえばすべて同じなんだよ…なにも変わることなどない」と、こう言うのである。ふだん父は決して哲学的なことや宗教的なことを語るような人間ではない。今、思い起こして見ると、この時80才以上まで生きた一つの境地を語ったのだと思う。父の「悟り」である。

『人生は風船の如し』若き日に父がアルバムに記したこの言葉の意味がようやく少し理解できた気がしている。そして80代にして辿り着いた地点の境地が『人生は一本の紐の如し』なのかも知れない。

それから父は友人や家族にも有名な「晴れ男」だった。友人にはよく「長島が何かしようとする時、必ず晴れた」と言われていた。父が他界したその日も関東地方がちょうど梅雨明けとなった。病院で死亡後の手続きを終え連れ合いと二人、外に出るとコバルトブルーの空が広がっていた。そして雲間にキラっと反射したかと思うと、一機のゼロ戦が飛んで行くのが僕には見えた。「あ、あれゼロ戦だろ!?」と思わず叫ぶと、傍にいた連れ合いが「そうだったのかも知れないね」と言った。「それとも幻影かなぁ…」いや、きっと父親は真っ直ぐに向こう側で待っている戦友の元に飛び立ったに違いない。そして到着すると開口一番「こんなに長生きしてすまない」と照れ隠しの笑顔で言ったのだろう。

画像はトップが父の少年時代の写真。下が同じく生家近くで家族と子供時代に撮影した写真。









240.願わくは花のしたにて春死なん

2016-04-03 06:28:38 | 

ブログやFacebookなどSNSの投稿にソメイヨシノの花の画像が増えてきた。東京ではそろそろ散り始めているのかもしれないが、工房のあるここ千葉北東部ではまだ5分~6分咲きぐらいである。今月、10日は5年前に他界した母親の祥月命日である。菩提寺となっていただいた寺院のご住職に戒名をつけていただいたのだが、生前には桜の花がとても好きだったこと、桜の花が咲く頃に家族が故人を思い出すことができるようにと名前の他に「桜」という文字と、合わせて和歌を詠んだり書いたりするのが好きだったことから「詠」の文字を入れていただいた。

その年はちょうど東日本大震災の年で3月11日には病院に入院していた母の容体が危険な時であり、ベッドに横たわる上半身には点滴などのため何本ものチューヴが装着されているような状態だった。珍しく家族全員が家にいたのだが大きな地震の揺れが治まり、しばらくしてから安否を確認する連絡を入れたことをはっきりと憶えている。母親の父方の故郷は福島県のいわき市で住む地域が原発に近く親類縁者はすべて避難所に移らなければならなかった。それからほぼ一か月後に母は病院で亡くなったのだが毎年、3.11から桜の開花のこの季節にはその頃のことがはっきりと蘇ってくる。

母親の死後、一周忌が過ぎたころから衣類や貴重品など主だった遺品は整理し兄弟などに「形見分け」を済ませたのだが、書類やアルバム、細かい思い出の小物などは2~3年は手をつける気持ちが起きなかった。ようやく最近になって少しずつ整理し始めた中から古いモノクロで「見合い写真」と思われる写真が出てきた。それは父の「見合い写真」とペアに大切に保存されていて台紙には母の字で昭和32年2月11日と書かれていた。24才のポートレートである。結婚する前であるし、当時としては、おしゃれなブラウスで着飾っており、よく見ると写真館のエンボスが押されているので見合いのために撮影されたとしてまず間違いないだろう。

母は女学校時代から勉強をするのが大好きで才女で文学少女だったが、家庭の事情から一家の柱として働かねばならず大学進学をあきらめ銀行に勤めていた。ちょうどその頃のことだ。その母が、どうして予科練(よかれん・海軍少年飛行兵)出身で自ら「死にそびれ」を自称し、人間の種類の違う父と結婚したのか?生前に尋ねたことがあった。すると「自分の周囲にはいないタイプで…予科練帰りというところにとても興味を持ち魅かれた」のだと言っていた。まぁ、この時の決断がなければ、今ここに僕は存在しないのである。

文学ならばフランス文学、中でもロマン・ロランは晩年まで何度も読み返していた。それから日本の古典文学、和歌は日常暗誦し短冊に書いたりして部屋に飾るほど好きだった。音楽はクラシックでロマン派からチャイコフスキー、シベリウスなど。シベリウスの交響詩<フィンランディア>の題名を懐かしそうに思い出しては口にしていたので何か特別な想い出があったのだろう。ひょっとして父とは別のボーイフレンドとコンサート会場で聴いたのかもしれない。その訳を聞きそびれてしまった。絵は描かなかったが、とにかく美しいものが好きだった。そして祖母の影響だが神仏には熱い思いのある人で特定の団体や宗派には所属していなかったが足腰の元気な頃は父と二人で関東周辺の観音霊場巡りの旅をしていた。この母の文科系的な嗜好のDNAは自分の体内にも確実に流れていると感じている。

思い出話を綴れば際限はない。最期に平安時代末期の孤高の歌人で僧侶である西行の和歌「望月のころ」を母に捧げる。

・願わくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月のころ (わたしの望みは咲きほこる桜の下、春に死ぬこと 二月、釈迦の亡くなったあの満月のころに)

桜をこよなく愛し、仏陀を強く慕うあまり「できることなら満月の桜の下で仏陀が入滅した2月25日のころに死にたい」と望んでいた西行が歌人として活躍していたころ詠んだ歌で都でとても評判になった。1190年3月31日の午後2時頃、その願いのとおりに河内の弘川寺で入滅したという知らせに都の人々は異様な興奮につつまれたと伝えられている。

今、ここに母がいたら言われることは、おおよそ想像がつく。「人に無断でそんな写真を引っ張り出してきて…それから、そんな有名な歌はお前のヘタクソな解説を読まなくても知っていますよ。それよりも他人様に少しでも喜んでもらえる絵が描けるようになったの?」

来年は七回忌。外に出た娘たちにも声をかけ家族そろって母の想い出を語り、静かに法事をする予定でいる。トップ画像は見つかった母の「お見合い写真」(セピア調画像処理を施した)。下が昨春撮影した工房の近くの公園のソメイヨシノ、6カット。

 

               


236.『村田慶之輔先生を偲ぶ会』に出席する。

2016-03-15 20:56:08 | 

12日。昨年、3月に他界された美術評論家の『村田慶之輔先生を偲ぶ会』に出席してきた。村田先生は昭和5年生まれで、早稲田大学の文学部を卒業後、神奈川県の教育委員会、文化庁文化部芸術課、国立国際美術館学芸課、高岡市美術館、川崎市岡本太郎美術館館長、軽井沢ニューアートミュージアム名誉館長などを歴任された方である。

僕が村田さんに初めてお会いしたのはバブル真っただ中の東京の画廊でだった。当時、村田さんの世代から今の60代ぐらいまでの美術評論家は、熱心に画廊の企画展を廻られていた。この時期画廊でもいろいろな評論家の方にお会いしたものだ。そして美術雑誌や新聞に展覧会評の文章を書かれていた。バブルが弾け美術の世界も不況のあおりを受けて、リーマンショックなどが立て続きに起こる中に時代も変わり、こうした世代の美術評論家に画廊の企画展会場でお会いする機会も減っていってしまった。

僕自身、個展会場で村田さんにお会いし、ご批評いただいたのは年譜からたどると高岡市美術館を退職する少し前だった。当時会場にいらっっしゃると、まずその鋭い眼差しで作品を1点1点時間をかけて丁寧にご覧になった。よく他の作家や美術関係者から「村田さんは厳しい批評で有名だ」というようなことを聞いていたが何故か僕は作品をけなされたという経験がない。確かに頭の回転が良く言いたいことをズバズバと早口でおっしゃるタイプであるが、その言葉には裏表はなかった。そしてたいていは「こうしたらどうか」「こう変わっていくこともできるじゃないか」という明快で的確なアドバイスだった。一番印象に残っているのは銅版画の連作を一つのテーマで50点以上制作した後の個展会場で正直に「ここに来て行き詰っているんです」という相談をしたところ、もう一度会場を廻られて会場の隅に飾られていた小作品を指さして「これ面白いじゃない、この方向で展開していったらどう」と指摘されたことだ。その作品はこの個展の中でも自分自身ではさほど重要ではない位置づけのものだったので、その理由を伺うと実に的を得ていて目から鱗が落ち、その後、新シリーズを展開できたのである。

偲ぶ会の会場である日比谷の帝国ホテル17階の会場に着くと入口は大勢の出席者であふれ受付に並ぶ人の列が隣のレストランまで続いていた。覚悟して一番後ろに並んで待っているとエレベーターから次々に人が降りてくる。中には著名な美術家の方の顔も見える。日本画家のN島氏、洋画家のI江氏、K谷氏、銅版画家のY本女史などそうそうたるメンバーである。並ぶ人の話のようすから若い世代の美術家も多くいて、おそらく村田さんは、ごく最近まで若手の面倒を見られていたんだろう。

ようやく会場に入ると遺影が用意されていて順番に白い花を献花し、バイキングの会場に入った。空いている席に着いたが、たいへんな出席者の数である。これも全て村田さんの人柄と人の出会いを大切にする姿勢によるものだろう。会場の中央にも遺影があり、その前で発起人、ご家族の挨拶が始まった。みんな口々に「村田氏は形式的なことを嫌った人なので今日はざっくばらんに思い出話をして氏の好きだったワインを楽しく飲みましょう」という意味のことを言っていた。そのスピーチの通りに会場は明るく楽しい「偲ぶ会」となった。おそらく村田さんも会場に来ていて一つ一つのテーブルを訪れていたのかも知れない。歓談、献杯の後、「贈る言葉」として先ほどみかけた洋画家のK谷氏、銅版画家のY本女史と続いてからは、あっという間に閉会の時間となった。楽しい時間は長くは続かないのが常である。

会場を出て銀座の画廊巡りをしようと歩き始めると思いの外、酔っている。酔い覚ましに目前の日比谷公園をブラブラと歩くことにした。小さな池の近くのベンチに座って休んでいると目の前の水辺に都会の真ん中では珍しいアオサギの成鳥が、じっと羽を休めていた。その凛とした姿と鋭い眼差しが何故か生前の村田さんの姿に重なって見えた。「ここに今、村田さんがいたとしたら僕にどんなアドバイスを送ってくれるのだろう?」 妄想だが頭の中をある言葉が村田さんの早口の声で聞こえてきた「あなた作家なら、こんなところで飲んでいる暇はないでしょう。それから前に言っていたオリジナルの博物誌の連作は完成したの?ビュッフォンとは一味違ったものを作るんでしょう?」 村田さん、今まで本当にありがとうございました。どうか安らかに。 

画像はトップが会場内に設営された村田さんの遺影。下が向かって左から帝国ホテル外観、ロビーのシャンデリア、会場風景、挨拶をする村田夫人、日比谷公園のアオサギ。