長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

243. 房総の山中にて加藤登紀子さんと遭遇する。

2016-04-26 06:10:11 | アウトドア

23日。房総の山と自然を歩く会、『BOSSO CLUB』のメンバーで鴨川市、南房総市に含まれる大山千枚田と愛宕山周辺の山域を訪れた。この会も故郷に帰ってきたK氏と地元の自然を見直して歩いてみようと始めてから今回で5年目、18回目の山行となった。いつものようにJR内房線の君津駅に集合。地元のK氏が車で迎えに来てくれている。今回、「大山千枚田の棚田が見たい」と目的地をリクエストしていたM氏が体調不良で参加できなかったので、K氏、Y氏と3人で現地に向かう。

君津の街を抜け、県道沿いに進んで行くと外の山村の風景はすっかり初夏の色合いとなっていた。「北総地域より、ずいぶん木の葉の生長が早いなぁ、やっぱり房総は暖かいんだなぁ」などと会話をしながら進んでいくと一時間強で出発地点の「大山千枚田」の駐車場に到着。千葉県で唯一の棚田風景。この棚田、東京近郊までエリアを広げてみても数少ないもののようだ。車を降りて山行の身支度をしてから、しばらくこの特異な景色を楽しんだ。まだこの時期、棚田は田植え前でちょうど水を張ったところ。うねるような畦に仕切られた水鏡の中に空や周辺の山々が映し出されて美しい。背景には千葉県、最高峰の低山?愛宕山(408m)がどっしりと佇んでいた。メンバー全員しばし無言で写真撮影などをする。

大山千枚田を後にして、ここからは林道沿いに「二ツ山」という山を目指す。コースが進むにつれ樹林が鬱蒼として来て山深さが増す。登山者にもほとんど会わない。時折、渡って来たばかりの夏鳥のオオルリ、キビタキ、ヤブサメなどの囀りが谷から聞こえてくる。これに留鳥のウグイス、メジロ、ホオジロ、シジュウカラなどの歌声が加わり心地よいBGMとなる。この林道では野鳥以外にもさまざまな初夏の生きものに出会えた。春一番に登場するトンボのシオヤトンボが飛び交い、きれいな清流に生息し飴色の羽が美しいヒガシカワトンボ、蝶ではジャコウアゲハやクロアゲハなどアゲハ類の姿が目立った。

さらに進むと里山特有の山仕事の道が複雑に入り組んだ地域に入った。周囲に指導標は見当たらない。ここで国土地理院の地図をザックから出して現在地を確認する…が、よくわからない。房総の低山などではよくあることなのだが、「オリエンテーリング」に近い感覚がある。「また道に迷った」 だが、会の方針としてはよほどのことがない限り「前進あるのみ」なのである(一度だけエスケープの経験がある)。感をたよりにしばらく進むとY字路に出た。そこに「鴨川自然王国」という小さな看板が出ていた。「なんとなく公共施設のような名称だから安全な気がする」ということで看板が示す側のルートを進んでいくと下り坂となりポッカリと林を切り開いた別荘地のような空間に出た。そこにもまた「鴨川自然王国・cafe En」という木製の大きな看板が出ている。「昼にはまだ早いし、ここでコーヒーでも飲んで、じっくりコースを立て直そう」ということで意見がまとまり、敷地内のcafeに向かった。

野外にセットされた円形のテーブルに腰掛け、アイスコーヒーを注文する。自家焙煎で天然の植物などが入ったおいしいコーヒーである。cafeの本館はパーティーまでできそうなウッデイな雰囲気のある建物だ。「こんな房総の山の真ん中にしてはオシャレな店だねぇ」口々に似たようなことを言ってから、またテーブルに地図を広げてコースを確認し始める。林の中の静かな時間が流れる。しばらくすると女性たちの賑やかな声がして隣のテーブル席に着いたかと思ったら、一人の上品な出で立ちの女性が近づいて来て「おや、登山姿の人は久しぶりだわ?」と言ったかと思うと近くに放り出されていた作業用リヤカーを片づけ始めた。Cafeの関係者かと思っていたら、ここでK氏が気が付いた。小声で「カトウトキコさんだよ」 全員、たまげてビックリポンである!

加藤登紀子さんと言えばいまさらだが、日本を代表するシンガーソングライターで歌手、女優、声優である。僕らの世代は少年時代からテレビなどで見ているし僕らより若い世代ならジブリアニメの「紅の豚」の主人公の恋人役の声と挿入歌を歌っていた人。と、言えばピンとくるだろうか。他にお客さんもいなかったので、気さくに僕らに話しかけてきてくれた。山登りのことに興味を持たれたようで、房総のどんなところを歩いているのかを尋ねられたりした。ご自分から名刺を差し出されたり、現在の里山での有機農法活動や音楽活動のパンフレットまでいただき短いが楽しい時間を過ごした。トップ画像のスナップはその時に撮らせていただいたものである。

加藤さんは現在、鴨川市に家族全員で移住し有機農法による農作業をしながら半農半芸能活動のスローライフをされている。たまたま立ち寄ったこのcafaは長女の方がオーナーを務め、やはり自然食中心によるレストランとなっている。自然の中でのスローライフと言えば2月に行った山梨県で「八ヶ岳倶楽部」を運営する俳優の柳生博さんにライフスタイルがとても似ている。お話を伺うとお二人はとても親しいようだ。楽しい時間は常にあっという間に過ぎて行く。お名残惜しいが再会を約束し加藤さんと硬い握手をしてから山行のコースにもどった。こんな出来事はめったにない。この後の行程はほとんど加藤さんの話題となった。

今回の第一の目的の二ツ山(376m)へはcafeのスタッフの方の助言もあり、すんなりとピークまでたどり着くことができた。スマホを見ると13:11、ここで遅い昼食をとる。南西方向の展望が素晴らしい。手前には深い樹林の房総丘陵がつらなり、遠景には冨山、伊予ガ岳、鋸山、鹿野山など房総半島の東京湾側を代表する山々が一望でき、その先には海が広がっている。”ボボッ、ボボッ”とホトトギスの仲間の夏鳥のツツドリの声が谷間から響いてきた。ここで時間をさいてゆっくりと大休止。あとは元来たトレイルを一気に大山千枚田までもどり、車利用でコース上にある大山不動尊をお参り、御堂の上にある2峰目の高蔵山のピークを踏んでから、また元来た道を車で移動、愛宕山の南面の林道を移動し下山、「酪農のさと」と呼ばれる県立の施設に立ち寄って小休止。乳牛から作った名物の大きなソフトクリームをたいらげて帰路に着いた。

今回はいつもと違った山行、いつもと違った人との出会いもあり、とても濃い内容となったのでした。加藤登紀子さん、cafe・Enのスタッフのみなさん、素敵な出会いと時間をありがとうございました。画像はトップが加藤登紀子さんとのスナップ。下が向かって左からスナップもう一枚、cafe・Enのようす、山里で見つけた石仏、山道で出会った美しいヘビのジムグリ、樹木の芽吹き、ヤブレガサの葉、二ツ山ピークからの眺望、大山千枚田の風景。

 

               


242. 聖獣・麒麟(キリン)を描く日々。

2016-04-22 06:36:14 | 絵画・素描

先月より制作途中でしばらくの間、放っておいた「麒麟(キリン)」を画題とした絵画作品の描画を再開した。

麒麟は古代中国で生まれた伝説上の動物で儒教の書『礼記(らいき)』の礼運篇では龍・鳳凰・亀と並べ『四霊』と謂う古より東洋を代表する聖獣である。絵を描くにあたって麒麟にまつわる伝承をいろりろと読んでみた。ここで全てを紹介することはできないが、いくつか興味を魅かれる内容に出会った。シルクロードを広域に俯瞰して麒麟という聖獣が誕生した源流を辿っていくと西域、中央アジアにたどり着くという。どうもこの周辺に伝わる「グリフォス」という聖獣が起源なのではないかという説がある。このグリフォスが西に伝搬していってギリシャ、エトルリアなど今のヨーロッパ地域までたどり着くと、あの現代の映画「ハリー・ポッター・シリーズ」で一躍人気者になった「グリフォン」に変容し、そして逆に東にルートをとってインド、チベット、モンゴルあたりを通過して中国に辿りついたものが麒麟に変容したのではないかという説があるのだ。このあたり、おもしろいので今後もさらに調べ深めていきたい。

グリフォスは百獣の王ライオンと鳥類の王、鷲とが合体した勇ましい聖獣として表現される。イランのスーサ宮殿の王座を守る動物として、古代の建築レリーフとして制作されているものが有名である。いっぽう麒麟は中国で平和な世を表し吉祥のシンボルとして進化していった。そして後世、仁獣とされ他者に危害を加えることのないよう先端に柔らかい肉がかぶさった角、地上の虫や草を踏みつけないような蹄を持つと言われた。さらに地上の生きものを踏みつけて殺傷しないように地面スレスレに身体を浮かべ高速で移動するのだという。この性質から「慈悲の動物」とも言われている。この話をみつけた時に以前にテレビのドキュメンタリー番組で観たチベット僧の映像を思い出した。チベットの僧侶は野外に托鉢修行に出ると地面の植物や小動物を踏まないようにするためこれを避けながら独特な歩き方をしていた。伝統的な仏教の「不殺生戒」という戒律の一つを守ってのことだが、これはまさに麒麟の慈悲精神そのものである。

麒麟は日本では奈良時代に唐より伝承され現在でも寺院や神社などの木彫レリーフ、彫刻、鬼瓦、障壁画などに観ることができる。学生時代から麒麟を始め聖獣に興味を持ち続けていた僕は古寺巡礼の旅に出ると寺院の隅々まで探して写真におさめていた。それらの中から麒麟を改めて観てみると龍によく似てとても厳つい表情をしている。だが、ハートの中身は慈悲に満たされた優しい聖獣なのである。この外面の恐ろしくエネルギッシュな姿の中に秘められた「優しさ」をどのように描いたら、うまく表現できるだろうか。作品はパネルに張った日本画用の雲肌和紙に墨、顔料、アクリルなどの混合手法で描いているのだが、まだまだ下塗り程度の段階である。質感、色彩共、いくつものプロセスを通らないと完成しない。

これから、梅雨の季節にかけて悪戦苦闘が続きそうだ。しそして麒麟の精神に見習い、むやみに小さな仲間たちを傷つけないように生活し、制作に精進していきたいと思っている。作品は来年予定の新作絵画個展に発表する予定です。全体像はぜひ会場でご高覧ください。

画像はトップが工房で制作中の僕。向かって左から同じく制作中画像2点、制作途中の絵画作品「麒麟図」の部分、スーサ宮殿の「グリフォス」のレリーフ部分(コピー)、日本の木彫レリーフの麒麟(コピー)。

 

                   


241.サシバが里にやってきた。

2016-04-09 06:35:04 | 野鳥・自然

「春を告げる鳥」と言って思い浮かぶのは、いったいどんな種類の野鳥だろうか。一般的に平野部から山間部にかけての人里ではウグイスがその美しい囀りから代表選手に挙げられるだろうか。あるいはもっと街中では、人家や商店の軒下に巣をかける身近な夏鳥のツバメの到来だろうか。当工房では少し事情が違う。それはこれから紹介するタカの仲間の夏鳥『サシバ』のことになる。

工房がある千葉県北東部の里山では毎年、3月の下旬ころ、ソメイヨシノが開花し、水田に日本アカガエルの大合唱が聞こえてくる季節になると、毎年決まってサシバという鷹が渡って来る。”ピックイーツ、ピックイーッ”とやや哀調を帯びた良く通る甲高い声で、ほぼカラス大のぺアの鷹が里山の上空を旋回飛行する姿を観察することができる。「ああ…、今年も無事渡って来た」とホッと胸をなでおろす瞬間でもある。

サシバはタカ目タカ科の猛禽類で漢字では「差羽」、英語名を Gray-faced Buzzard という。特徴としては大きさはカラスよりやや小さく、頭上以下の体上面は茶褐色、喉は白くて中央に黒褐色の縦線が1本ある。胸は茶褐色の幅広い班があり、腹は白くて茶褐色の横斑がある。鳴き声はピックイーッ、またはキンミー、などと聞こえる。分布はロシア沿海地方・中国北東部・朝鮮半島で繁殖し、中国南部・東南アジアで越冬する。日本では本州・四国・九州に夏鳥として渡来する。南西諸島では越冬している。秋、9月から10月の渡りの時期には愛知県伊良湖岬・鹿児島県佐多岬などに集結し大規模な渡りをすることがよく知られている。いわゆる「鷹の渡り」を代表する種である。生息場所は平野部から山間部の林、林縁、農耕地など良好な里山環境。

今年、この地の初認日は4月3日の午前11時18分だった。30年近く記録を取っているのだが1週間とずれないので毎度のことながら自然の神秘には感服してしまう。この時確認できたのは1羽で大きなよく通る声で鳴きながら隣接する斜面林の上空を飛んでいた。昨日は工房の上空をペアでさかんに鳴きながら飛び回っていた。そしてツミという小型のヒヨドリ大の鷹の♂が、そのうちの1羽を猛烈な勢いでモビング(moving)していた。簡単に言うと追いかけっこである。これは野性鳥類によく観られる行動でテリトリー争いの1種である。おそらく繁殖場所や餌場が重なるのだろう、しばし、この素晴らしい空中戦に見入ってしまった。

そして工房に隣接する林では繁殖期から渡りの時期までずっと生息しているので毎年、繁殖活動をしているのだと思う。もっとも日本野鳥の会では鷹だけでなく野性鳥類の巣の観察や写真撮影は繁殖の妨げになるとしてご法度となっているので証拠をつかんだことはない。ただ夏には巣立った幼鳥を見ることが多いのでまず間違いないだろう。親鳥が雛たちに与えるエサを捕りに行く狩場は「谷津田・やつだ」と呼ばれる丘陵と丘陵の間に作られた細長い水田のことが多く、獲物はカエルやヘビ、バッタなどの大型昆虫、ネズミやヒミズなど小型の哺乳類である。頭上を大きなヤマカガシを嘴でくわえ、ぶらんと垂らしながら飛ぶ個体を観察できることもある。

ある年、サシバが餌を捕る谷津田で、朝から夕方までその行動を観察し、記録をとったことがあるのだが、農作業をする地元の農家の人がカメラの三脚に地上用の高倍率の望遠鏡をつけて、じっとサシバを待っている僕を不審に思ったのか「何かの測量か?」と尋ねてきたので「鷹を観察しているんです」と言うと、「あーっ、マグソダカ(馬糞鷹)だんべ、毎日飛んでるよ」という答えが返ってきた。ずいぶんと、ひどいあだ名を付けられたものである。そりゃあ、オオタカやハイタカなど鷹狩りにも使われる美しい種と比べれば全身が茶色で地味な姿かもしれない。それでも。アップにして見れば、なかなか精悍な顔立ちをしているし、鳴き声の美しさは日本に生息する鷹の中でもトップクラスと思っている。

30年近く前、この地に移り住んだ頃には、この里の周辺にある谷津田という谷津田には必ず1ペアのサシバを観察することができたのだが近年は全国的にも減少傾向にあるようだ。原因としてはいろいろと調査研究されているが、越冬地である東南アジアの森林の大規模開発や日本での水田農薬による餌となる小動物の減少などが挙げられている。

生息環境が悪化する中、サシバの将来を想うと、とても厳しい現実が見えてくる。中型の鷹の寿命は統計的に10年前後ということになっている。と、いうことは工房の隣の林に来ているサシバもおよそ3~4世代にわたって観察していることになる。いったいいつまでこの地に渡って来てくれるだろうか? サシバという種は今後ますます良好な里山環境を示す重要なバロメーターになっていくことだろう。画像はトップが工房の隣の住人、サシバ。下が向かって左からいろいろな季節に撮影したサシバ画像4カットと狩場としている谷津田の風景2カット。

 

               


240.願わくは花のしたにて春死なん

2016-04-03 06:28:38 | 

ブログやFacebookなどSNSの投稿にソメイヨシノの花の画像が増えてきた。東京ではそろそろ散り始めているのかもしれないが、工房のあるここ千葉北東部ではまだ5分~6分咲きぐらいである。今月、10日は5年前に他界した母親の祥月命日である。菩提寺となっていただいた寺院のご住職に戒名をつけていただいたのだが、生前には桜の花がとても好きだったこと、桜の花が咲く頃に家族が故人を思い出すことができるようにと名前の他に「桜」という文字と、合わせて和歌を詠んだり書いたりするのが好きだったことから「詠」の文字を入れていただいた。

その年はちょうど東日本大震災の年で3月11日には病院に入院していた母の容体が危険な時であり、ベッドに横たわる上半身には点滴などのため何本ものチューヴが装着されているような状態だった。珍しく家族全員が家にいたのだが大きな地震の揺れが治まり、しばらくしてから安否を確認する連絡を入れたことをはっきりと憶えている。母親の父方の故郷は福島県のいわき市で住む地域が原発に近く親類縁者はすべて避難所に移らなければならなかった。それからほぼ一か月後に母は病院で亡くなったのだが毎年、3.11から桜の開花のこの季節にはその頃のことがはっきりと蘇ってくる。

母親の死後、一周忌が過ぎたころから衣類や貴重品など主だった遺品は整理し兄弟などに「形見分け」を済ませたのだが、書類やアルバム、細かい思い出の小物などは2~3年は手をつける気持ちが起きなかった。ようやく最近になって少しずつ整理し始めた中から古いモノクロで「見合い写真」と思われる写真が出てきた。それは父の「見合い写真」とペアに大切に保存されていて台紙には母の字で昭和32年2月11日と書かれていた。24才のポートレートである。結婚する前であるし、当時としては、おしゃれなブラウスで着飾っており、よく見ると写真館のエンボスが押されているので見合いのために撮影されたとしてまず間違いないだろう。

母は女学校時代から勉強をするのが大好きで才女で文学少女だったが、家庭の事情から一家の柱として働かねばならず大学進学をあきらめ銀行に勤めていた。ちょうどその頃のことだ。その母が、どうして予科練(よかれん・海軍少年飛行兵)出身で自ら「死にそびれ」を自称し、人間の種類の違う父と結婚したのか?生前に尋ねたことがあった。すると「自分の周囲にはいないタイプで…予科練帰りというところにとても興味を持ち魅かれた」のだと言っていた。まぁ、この時の決断がなければ、今ここに僕は存在しないのである。

文学ならばフランス文学、中でもロマン・ロランは晩年まで何度も読み返していた。それから日本の古典文学、和歌は日常暗誦し短冊に書いたりして部屋に飾るほど好きだった。音楽はクラシックでロマン派からチャイコフスキー、シベリウスなど。シベリウスの交響詩<フィンランディア>の題名を懐かしそうに思い出しては口にしていたので何か特別な想い出があったのだろう。ひょっとして父とは別のボーイフレンドとコンサート会場で聴いたのかもしれない。その訳を聞きそびれてしまった。絵は描かなかったが、とにかく美しいものが好きだった。そして祖母の影響だが神仏には熱い思いのある人で特定の団体や宗派には所属していなかったが足腰の元気な頃は父と二人で関東周辺の観音霊場巡りの旅をしていた。この母の文科系的な嗜好のDNAは自分の体内にも確実に流れていると感じている。

思い出話を綴れば際限はない。最期に平安時代末期の孤高の歌人で僧侶である西行の和歌「望月のころ」を母に捧げる。

・願わくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月のころ (わたしの望みは咲きほこる桜の下、春に死ぬこと 二月、釈迦の亡くなったあの満月のころに)

桜をこよなく愛し、仏陀を強く慕うあまり「できることなら満月の桜の下で仏陀が入滅した2月25日のころに死にたい」と望んでいた西行が歌人として活躍していたころ詠んだ歌で都でとても評判になった。1190年3月31日の午後2時頃、その願いのとおりに河内の弘川寺で入滅したという知らせに都の人々は異様な興奮につつまれたと伝えられている。

今、ここに母がいたら言われることは、おおよそ想像がつく。「人に無断でそんな写真を引っ張り出してきて…それから、そんな有名な歌はお前のヘタクソな解説を読まなくても知っていますよ。それよりも他人様に少しでも喜んでもらえる絵が描けるようになったの?」

来年は七回忌。外に出た娘たちにも声をかけ家族そろって母の想い出を語り、静かに法事をする予定でいる。トップ画像は見つかった母の「お見合い写真」(セピア調画像処理を施した)。下が昨春撮影した工房の近くの公園のソメイヨシノ、6カット。