長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

190. 開創一千二百年 高野山滞在記(四)宿坊体験 

2015-04-30 20:43:45 | 旅行

高野山、一人旅の第四回目は宿坊体験について。この連載、6回で完結する予定です。ブロガーのみなさん、それだけ濃い旅だったということで、もう少しお付き合いください。

『宿坊』とは、寺院が営む宿泊施設のこと。もともとは修行僧や信者のために便宜をはかってできたものである。高野山では宿坊がなかった中世以前には、山の中や御廟近くの灯篭堂前で野宿していたという。夏場ならばともかく寒い季節は山での野宿は、さぞたいへんだっただろうねぇ。現在、高野山には52ヵ寺の宿坊寺院がある。明治時代までは寺院と諸国大名の関係から地域(国)ごとに所縁坊が決まっていたという。

高野山内には一般の旅館もないではないが、この地にきたらやはり宿坊に泊まりたい。では、一般の旅館などとはどこがどう違うのだろうか。チェックイン、チェックアウトがあったり、個室にテレビがあったりする面ではなんら変わりはない。まず、ここでは和服姿の仲居さんなどはいない。ルームサービス、風呂の案内、食事の世話など全てを頭を丸めて作務衣を着た修行僧の方たちが行う。玄関をくぐって僧侶の方に丁寧に対応してもらうと「高野山に来たーっ!!」という実感がわくのである。思わず合掌なのである。

そして食事。一般料理と選択できる宿坊もあるが基本は精進料理である。肉や卵、魚介類を一切使わずに、野菜や豆、高野豆腐、海藻類のみで作られる料理である。一見、肉や魚に見えても海苔を揚げて衣を着せたりしてある。戒律により殺生、肉食が禁じられていた仏教において、修行僧へのお布施として生み出されたものである。精進料理イコール修行僧のための質素な料理という印象があるが、現在高野山で供される精進料理は、二の膳、坊によっては三の膳までがついた懐石料理といった豪華な雰囲気である。お酒は事前に注文すれば日本酒やビールを出してくれるが、ここでは昔から『般若湯(はんにゃとう)』と呼ばれ、弘法大師・空海が山中の厳しい冬に弟子たちに一杯だけ許していたということだ。ちなみに現代ではビールのことを隠語で『麦般若(むぎはんにゃ)』とも呼ぶらしい。

今回、新年正月過ぎぐらいに三泊四日で宿の予約をとったが、節目の年ということでどこも週末は満員御礼、一か所の連泊はできず、二か寺に泊まることとなった。一泊目は刈萱堂というところの近くの大明王院という宿坊。夕食の時間、大広間に入って驚いた。僕以外の宿泊客20名ぐらいが全員、外国人だった。少し離れたところにお膳がセットされているが基本、一緒に食べる。若いフランス人の男性が箸2本を掴みフォークのように使っている。僕がゆっくりと箸を使い始めると、みんなの視線がいっせいに僕の左手(ぎっちょ)に集中した。これにはこちらが緊張してしまい、つい模範的な箸の動きなどを意識してしまった。「みなさん欧米の方が多いので箸など使ったことはないんだねぇ」。後で知ったことだがこの坊の住職は英会話がペラペラなのであった。どうりで…。高野山は2004年に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録され、フランスの旅行ガイドミシュランで三ツ星となったことを契機に毎年外国人観光客がとても増えている。今回もフランス、アメリカ、スペイン、ドイツ、スウェーデン、中国、スリランカなどの旅行者と出会った。富士山、高尾山などと並び国際的な観光地となっている。

二泊目、三泊目は町の中心、千手院橋交差点の近くの高室院という宿坊。こちらは東京の寺院と関係の深い坊ということで東京、埼玉、千葉など関東方面からの宿泊者が多く外国人の姿はなかった。二泊目の夕食時、臨席した同じ千葉県から来たという夫妻と話しが盛り上がった。なんでも全国の国宝の仏像をもとめて2人で旅をしているのだという。運慶作の仏像の話では、ご主人と熱くなってしまい、気が付いたら広間には誰もいなくなっていた。こういう話は僕も好きなんだよねぇ。

最後にもう一つ、宿坊に泊まったら、ぜひ体験しておきたいのが朝の勤行である。多くの宿坊寺院では朝6時か7時から寺院内本堂において『朝勤行・あさごんぎょう』が行われる。義務ではなく自由参加だが僧侶による静粛な声明や読経の声の中に身を置き、御本尊にご焼香する。一時間弱の勤行の後は清浄な気持ちで一日を過ごすことができるのだ。まだまだ書き足りないのだが、スペースがいっぱいになってきた。続きは次回としよう。画像はトップが夕食の精進料理。下が二つ目の坊の精進料理(夕食)、大明王院の庭園、最終日、高室院前でのスナップ。

 

      

 

 


189. 開創一千二百年 高野山滞在記 (三)金剛峯寺・蟠龍庭

2015-04-27 20:10:19 | 旅行

高野山行、二日目。昼食後の午後は壇上伽藍を出て少し東に戻り金剛峯寺を拝観することにした。相変わらず雨がシトシトと降り続いているが、雨の寺院建築というのも落ち着いた美しさがある。

金剛峯寺は歴史的には高野山全体をさす総称であったが現在では高野山真言宗3600余か寺の総本山であり、山内寺院の本坊としての一伽藍をいう。この寺の住職は座主(ざす)と呼ばれ、高野山真言宗の官長が就任することになっている。1593年(文禄二年)、豊臣秀吉が母、大政所の菩提を弔うために、木食応其(もくじきおうご)に命じて建てた青厳寺が現在の寺院のもとである。雨の中、ゆるい石段を登って境内に入る正門をくぐる。この正門が唯一残る秀吉時代のもので、かつてはここから出入りできるのは天皇・皇族と高野山の重職だけだったという格式の高い門。「今は誰でもくぐることができる。いい時代になったねぇ。」門をくぐると正面に檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根の複雑な曲線によって、簡素で端正な印象を受ける『主殿』が現れた。雨のせいかずっしりと重厚な姿に見えた。

入り口で拝観券を購入し順路にしたがって進んで行く。主殿中央の大広間の前まで進むと襖には群鶴描かれている。長い間、狩野派の筆によるものと言われてきたが最近の研究では江戸最初期の絵師、齊藤等室の作という説が有力になっているとのことだ。続いて『持仏の間』。本尊は『弘法大師座像』。普段は秘仏だが1200年の節目の年ということで一定期間、御開帳となっている。ここで合掌。さらに進んで『梅の間』、『柳の間』と続くが、いずれにもすばらしい襖絵が観られ思わず足を止め食い入るように眺めてしまう。この時代の絵画が好きな人にはお勧めのスポットである。

さらに順路を進み主殿の主な間を拝観してから、西に長い廊下を渡ると、旧興山寺の境内となる。ここの主要な三殿を取り囲む広い庭園に『蟠龍庭・ばんりゅうてい』と名付けられた石庭が広がっている。高野山の中で僕は個人的にとても好きな風景である。以前に来た時もこの石庭が見える廊下でしばらくの間、眺めていた記憶がある。桃山時代ぐらいのものかと思っていたら、昭和59年『弘法大師御入定1150年御遠忌大法会』の際に造営されたものだという。その大きさは我国最大のもので2340平方メートルとなっている。雲海の中で一対の龍が奥殿を守っているように表現されている。龍は四国産の青い花崗岩140個。雲海には京都産の白い砂が使用されている。

僕は竜安寺の石庭などに見られる禅宗寺院の『枯山水』の無駄のないシンプルな石庭もとても好きなのだが、この昭和の石庭もなかなか見事なものである。じっと見つめていると確かに龍がうねっているようなダイナミックな動きが見えてくるし、密教的な生命観のようなものが石の構成を通じて伝わってくるようだ。今回もこの石庭を前にして時間を長くとった。幅が狭く長い廊下を行きつ戻りつ、角度を変えてみると形がさまざまに変容してくる。雨のせいか石の固有色もよく見えて美しい。この新しい石庭も数百年後にはどんな佇まいになるのだろうか。「飽きないなぁ…このままここで時間が許す限り座っていたい」。しばらくするとバスで着いた団体さんがやってきた。廊下は狭い。名残惜しいが次の拝観者にゆずって、ここで切り上げた。順路にしたがい新別殿の大広間の休憩所に移動すると、修行僧からお茶と和菓子のサービスがあった。ここで現役の僧侶による仏教を解り易く話している「10分法話」を聴いてタイム・オーバー。今夜の宿、二つ目の宿坊『高室院』へと向かった。次回につづく。画像はトップが蟠龍庭の風景。下が向って左から蟠龍庭の風景(別角度)、金剛峯寺・正門、主殿。

 

      


188. 開創一千二百年 高野山滞在記 (二)大曼荼羅供法会

2015-04-24 21:36:31 | 旅行

4月10日、高野山の二日目。宿坊、大明王院で朝を迎えると太平洋岸を北上中の低気圧のため雨天である。今日は今回の登山の第一の目的である壇上伽藍内、金堂で行われる法会『大曼荼羅供』に参列する。

朝食を済ませると身支度を済ませカッパと傘をさしてまっすぐに壇上伽藍に向かった。金堂前にたどりつくと雨の中、大勢の人が入場を待つ列ができていた。入場には特別、資格や券などはいらないので一気に集まっているようすである。若い修行僧たちが人員整理に忙しそうだ。そして今回は開創1200年記念と東日本大震災の被災者慰霊祭も兼ね合わせている。毎年この日に執り行われる『大曼荼羅供』は高野山の諸法会の中で最も起源が古く、重要な法会に位置づけられるもので、弘法大師・空海自らが修法したと伝えられている。そしてこの日は僕の母親の5回目の祥月命日でもある。

堂内に入り来場者が順番に座っていくのだが動けないというほどでもない。9時30分。しばらくすると静寂な堂内にホラ貝やドラ、シンバル、太鼓の音が鳴り響き法会が始まった。すでに本尊の薬師如来を中心に左右に天井から金剛界、胎蔵界の大曼荼羅が掲げられ、中央の壇には導師の高僧が登っていてその周囲にはきらびやかな袈裟を着用した職衆がスタンバイしている。そして導師の修法が始まると職衆たちの声明が始まった。声明とは真言や経文に節をつけて唱えられる仏教儀式の古典音楽(声楽)だが、キリスト教のグレゴリア聖歌と類似点が比較されることが多い。高野山に限らず比叡山や東大寺のものも有名で、それぞれ少しずつ節回しが異なっている。のびやかなで澄み切った僧侶の声に聴きいっていると、はるかかなたの浄土世界や天界に引き込まれていくようでもある。そしてクライマックスは総勢30名ほどの参加僧侶による読経となる。二つの大曼荼羅の周囲をグルグルと歩きながら経典を唱えていく様は荘厳で迫力がある。神聖な儀式なので当然なのだが堂内の写真撮影などは関係者以外は禁止となっていて、画像でお見せできないのが残念である。

真言宗は古来から『曼荼羅宗』とも言われ、実はこの両界曼荼羅が本当の意味での本尊だということである。向って左が『金剛界曼荼羅』で1461の仏菩薩が描かれ、向かって右の『胎蔵界曼荼羅』には414の仏菩薩が描かれている。曼荼羅の説明をつづっていくとスペースが足りなくなるが、最近、書物で読んだ内容で印象に残っているものがあった。それは胎蔵界曼荼羅には仏菩薩以外にも実に多くのさまざまな世界が描かれている。仏の世界とは相反するような地獄や修羅、人間の地上世界。それから獣や鳥、魚などの生物たち。珍しいところでは西洋占星術の星座まで。つまりこの世界、宇宙の縮図を表しているのだとも伝えられている。そしてその思想には「宇宙生命のもとでは人間を含めたすべての生きとし生けるもの、物質世界までも平等であって差別されるものは何一つなく、全てが関係し合い結びついていて、始まりもなく終わりもない」という意味があるのだという。うーん、これって現代科学で言えば環境との共生を説くディープ・エコロジーや宇宙物理学とも重なっていくような世界観である。

つまり、僕の斜め前で法会に立ち会っている厚化粧の大阪のおばちゃん風の女性やその隣のフランス人ツーリストの仲睦まじいカップルも、お堂の外に出て周囲の山の樹木やその間を飛び交う鳥たち、足元の草花、石ころまでもが平等であり関係しあって成立しているということなんだなぁ…深くて大きい曼荼羅世界には優等生も落ちこぼれも存在しないということだ。

僧侶の読経が終了し、はじまりと同じような静寂さがもどったかと思っていると約二時間に及ぶ法会も無事終了した。なんとも言えない充足感。特別な信仰をしていたわけではないが、生前、神仏に対する熱い思いを持っていた母も喜んでいることだろう。今日はこの天気なので、町にもどって昼食をとってから寺院巡りを続けることにしよう。次回につづく。 画像はトップが法会が行われた金堂の正面。下が向って左から宿坊に咲いていた樹木の花。アプローチから見た壇上伽藍、金堂の裏手。

 

      


187. 開創一千二百年 高野山滞在記 (一)奥の院参詣  

2015-04-20 20:37:04 | 旅行

今月、9日から12日まで三泊四日で和歌山県の高野山に滞在してきた。「一度参詣高野山 無始罪障道中滅」 「高野山に一度上れば、生前からの罪が消滅する」と、昔から語り継がれてきた標高900m前後の山上盆地に広がる宗教都市である。恐山(青森県)、比叡山(京都府、滋賀県)と並び日本三大霊場の一つとされている。今日的に言えば「強力なパワー・スポット」というふうに書くのだろうか。平安時代に弘法大師・空海が真言密教の修行道場として開き、今年開創一千二百年の節目を迎えた。

節目の記念すべき年ということもあり4月から5月にかけて毎日のように記念法会が開催され、普段はなかなか観ることができない秘仏や絵画などの仏教美術も観られるとあって、思い立って旅支度をした。千葉を始発で出て、東京駅から新幹線を新大阪で乗換、なんばの駅から南海電車とケーブル、路線バスを乗り継いで高野町の中心、千手院橋の交差点に着いたのは13:44だった。蕎麦屋で遅い昼食を済ませ、今晩の宿である宿坊寺院に挨拶してからまっすぐに奥の院大師御廟へと向かった。高野山に登ったら、まず初めにここを訪れたい。

参道の入り口である一の橋を過ぎると鬱蒼とした杉の巨木の並木の参道に入る。カラス科のカケスが1羽頭上で鳴き、森林性の野鳥ゴジュウカラの良く通る囀りがフィフィフィフィフィ…と聞こえてきた。深山幽谷の趣である。しばらく進むと参道の両側には夥しい数の石碑が目に入ってくる。その数20万基と言われる石碑(供養塔)を順番に見ていくと武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、石田光成、明智光秀、織田信長、徳川家、豊臣家等々歴史になだたる戦国武将の名前が刻まれている。そして武将だけではなく参道の周辺には法然上人の供養塔や親鸞聖人の霊屋も見られた。敵味方、宗派の違いを超えて高野山に眠るという寛大さが大きな魅力となっている。多くの供養塔は長い年月の間に割れたり苔むしたりしていて独特の雰囲気を醸し出していた。

ゆっくり写真撮影などをしながら一時間ほどで御廟橋に到着。ここから先は聖域となるため写真撮影などは禁止となる。今年は参詣者が多く、四国遍路を終えた白装束の団体さんなどと共にゆっくりと奥へと進んでいく。高野山には『入定信仰』というものが伝えられている。それは「ブッダの入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩がこの世に降りてきて人類を救う。その下生の地が高野山であり、835年この地で永遠の禅定に入った弘法大師・空海は今もなお生き続けて人々を見守り幸福を願い続けているのだ」と今日まで信じられてきている。3年ぶりの再会。御廟前でこの節目の年に参詣できたお礼と旅の無事を祈願した。ここで弘法大師・空海晩年の有名な願文の一節を。

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きなん(この世界がつき、すべての生命がつきて、命の連鎖からの脱却、命への執着からの解脱。それがつきれば我が願いもつきよう)」

そういえば、幻想文学者の澁澤龍彦氏は晩年、日本回帰の小説やエッセイを書いていたが、『古寺巡礼』というシリーズの最後に高野山を訪れる計画を立て、とても楽しみにしていたという。残念ながら病状が悪化してしまい実現できなかったが、澁澤氏が、この山深い霊山を訪れていたらどんな文章を書いていたのだろう…想像を巡らせてみた。ここで今日はタイム・リミット。チェックインの時間も近い。今日の宿となる宿坊までの道を急いだ。つづきは次回。画像はトップが御廟橋手前から見た奥の院。下が左から開創1200年のフラッグで賑やかな南海なんば駅ホーム、奥の院参道の苔むす供養塔2カット。

 

      

 


186. 古代エジプト神話の鳥、ベヌウを描く。

2015-04-16 21:36:46 | 絵画・素描

今月は古代エジプト神話に登場する鳥、『ベヌウ・Benu』を水彩画で制作した。手漉きの紙に描いた『神話・伝説』シリーズもこれで40点以上となった。シルクロードを行ったり来たりなるべく広範囲にモチーフを選択し描き続けているのだが個展開催まで、じっと辛抱の日々である。

ベヌウの名前はエジプト語の「ウェベン=立ち上がる者」から来ているとされている。主にヘリオポリスで信仰され、太陽信仰と関係する聖なる樹木、『イシェドの木』に留まるとされる聖鳥である。ユーラシア大陸に広く分布するサギ科の水鳥、アオサギの姿で壁画などに描かれることが多い。太陽神ラーの魂とも言われ、毎朝再生を繰り返す太陽と同じく不死の象徴であり、自ら死と再生を繰り返すとされている。ギリシャ神話のフェニックスや中央アジアのポイニクスなど、不死鳥の先祖だが、ベヌウは火の中に飛び込んで死ぬわけではなく、500年ごとに年をとって自然死し、若返って復活するものと伝承されている。

アオサギは日本でも湖沼、河川、干潟などの水辺に他の白鷺類と共に普通に生息するサギ科の野鳥である。名前はアオ(蒼)とつくが灰色の地味で大きな種だ。バーダーとして水辺に出かけるとたいてい出会うことができる。浅瀬にじっと佇んでいたかと思うと、水の中に素早く嘴を突っ込んでコイやボラなど大きめの魚を捕え、丸飲みにしてしまう姿が観察できる。それにしても、こうして作品として描いたアオサギが不死鳥であるとすると、今後水辺で出会った時に神々しく輝いて見えてくるかもしれない。ごく普通に観られるからと言って軽くスルーしてはならない。アオサギ様様である。画像はトップが制作中の水彩画『ベヌウ』。下が向かって左から作品の部分、使用した画材、県内の鳥獣保護区で撮影したアオサギ。

 

      

 

 


185. ナイトキャップ

2015-04-03 21:14:01 | 日記・日常

職業上、当然のことだが工房に籠っている日は朝から晩まで食事と散歩の時間以外は絵画や版画の制作に集中している。その集中する日々が続くと、最近では年のせいか肩がバリバリにこったり、背中から腰にかけて痛かったり、目がかすんだりとなかなかヘビーなのである。体だけではなくて、長時間の集中からか夜、寝床に入っても頭の中身が興奮し続けていて寝付けない。こういう時は以前からナイトキャップ(寝酒)を飲む習慣がついている。

このナイトキャップ、少し前まではワインが主だったのだが、ある時期から赤ワインの香りがきつく感じるようになってしまい朝まで残ってしまうこともあった。と、いうわけで最近ではウイスキー党に変わった。それも長いこと〇〇トリー党だったのだが、昨年、9月から今年3月まで放映された某国営放送の連続TV小説『マッサン』ブームに影響され、ニッカのモルトウイスキーを飲み始めた。最初はドラマでも繰り返し出てきたいわゆる「スモーキーフレーバー」という特有の焦げ臭さが鼻についてしまい、なかなかなじめなかったのだが、我慢して飲み続けているうちに不思議なものでこれが心地よく感じクセになりつつあるのだ。ようやく味わって飲めるようになってきている。このモルトに慣れた舌で〇〇トリーを飲み直してみると、甘味があるように感じてしまう(〇〇トリーさんスミマセン、またしばらくしたら飲み始めますよ)。

昨年はニッカウヰスキーが北海道余市に創業して80周年を迎えた年だそうだが、『竹鶴17年ピュアモルト』という銘柄の商品の品質の高さが世界から賞賛されワールド・ウイスキー・アワード2014というコンテストで世界最高賞を受賞した。素晴らしい、日本の誇りである。この17年物のウイスキーをぜひ一度飲もうとパソコンで検索してみたが、なんとプレミヤがついてしまい高価になっている。それから普通の銘柄も近所のスーパーなどでは品薄になっていて、なかなか入手しにくくなっている。国際賞とTVドラマの経済効果というものはすごいものだと、改めて感心している。

そしてドラマの中でニッカウヰスキー創業者の妻、竹鶴リタ(役名はエリー)役を演じた白人女性ヒロインのシャーロット・ケイト・フォックスも日本でのヒットが本国アメリカで評価されブロードウェイミュージカル『シカゴ』の主演ロキシー・ハート役に大抜擢されたそうだ。今年12月には来日公演もあるという。これも重ねてめでたいことである。画像はトップがグラスついだウイスキー。下が向って左からニッカのモルトウイスキー2種、TV画面のシャーロット・ケイト・フォックス。