長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

288.古寺巡礼(七)・京都 養源院から智積院

2017-04-25 20:06:53 | 旅行
3月15日。『京都古寺巡礼 聖獣・幻獣探訪の旅』2日目。この日の午前中は朝からJR京都駅前のホテルを出て、東山の三十三間堂を参拝した。スケジュールはここからまだ長いのだが三十三間堂でけっこうゆっくりとしてしまったので入り口を出たのが午後1時を過ぎていた。ここから右手に進み、2-3分の場所に次の目的寺院である「養源院・ようげんいん」がある。3月の平日の京都は本当に人が少なく静かな時が流れている。小ぶりな山門をくぐるとすぐに本堂である。

養源院は元々は天台宗の寺院だったが現在は浄土真宗の寺院となっている。文禄三年(1594年)戦国武将であった浅井長政の菩提を弔うために、長政の二十一回忌に長女・淀殿(幼名茶々)の願いにより、豊臣秀吉によって建立された。本堂は伏見城の遺構で、落城の時、德川方の鳥居元忠らが自刃した廊下が供養のためこの寺院の天井に上げられ「血天井」として有名になった。

僕の今回この寺院を訪れた目的はなんといっても本堂の大きな空間を占める襖絵「松図」と、いくつかの杉戸に描かれた杉戸絵「白象図」「唐獅子図」「犀図」といった絵画作品を観るためである。作者は桃山から江戸初期に活躍した敬愛する絵師、俵屋宗達(1570年頃~1643年頃)である。
入り口で拝観料を払い廊下に上がると係りの方が「少しお待ちください。後からみえた方と合わせて説明します」とのこと。しばらくしてから入り口付近にある「白象図」の説明となる。この宗達の杉戸絵ともひさびさの再会となった。正座をして見せていただく。シンプルで大胆な絵柄なので、それは覚えていたのだが杉戸の細かい質感は忘れてしまっていた。人間の記憶力というのも実に頼りないものである。それにしてもこの大胆な筆遣いの輪郭線と体色の白い胡粉とわずかな色彩による2頭の白象は何度見ても新しい。ある意味グラフィカル(版画的)な表現にも見えてくる。現代に通じる感性、表現だと思う。ノーベル物理学賞を受賞、日本の古典芸術に造詣の深い湯川秀樹博士がこの杉戸絵を観て宗達を「類まれなる天才」と評したことは有名な話。

白象としばらくにらめっこした後は廊下の奥の杉戸に描かれた「唐獅子図」。これも見事な作品である。宗達独特のうねる様なフォルムの唐獅子。そしてさらに白象が描かれた杉戸の裏面に描かれた「犀図」。犀とあるがこれは間違いなく麒麟である。この三対の杉戸絵の構成は、白象で来客を迎え、戸を開けると奥の正面の唐獅子が迎え、そして帰りに犀(麒麟)が見送るという工夫がされているのだそうだ。なるほど立体的に捕えると平面ながら動きが出てくる。この後、メインの障壁画「松図」と再会。この松も金箔地にタップリとして安定感のあるフォルムで描かれている。「豊かだなぁ…」思わず呟いてしまい、しばらく畳に座ったまま離れられなくなった。この後、狩野派筆による屏風絵、そして有名な「血天井」の説明を聞いてからお堂を出た。

午後2時前。養源院の庭の片隅に、ちょうど大きな木の切り株があったので庭仕事の人に一言挨拶をして持ってきたオニギリで遅い昼食をとる。今日はまだ先がある。早々と腰をあげて次の寺院へと向かう。すぐ隣に竜宮門の「法住寺・ほうじゅうじ」という寺院がある。後白河上皇を木曽義仲の焼き討ちから守ったと伝えられる有名な「身代わり不動明王」がご本尊なので、こちらにお参りしてから先に進む。南大門というこの地区の大きな山門を出て裏道を進むと東大路通という広いバス通りに出た。この通り沿いにしばらく歩いていくと本日の最終目的地としている「智積院・ちしゃくいん」に到着する。

智積院は真言宗智山派の総本山である。関東の成田山新勝寺や川崎大師平間寺、高尾山薬王院などもこの智山派に所属する。広い敷地内には大きな金堂、講堂、大書院などの建築が整然と建っていた。まず初めに金堂のご本尊である大日如来にお参りする。
この寺院での目的は収蔵館に展示されている桃山時代から江戸時代初期の絵師、長谷川等伯(1539年~1610年)一門が桜や楓などの自然を描いた障壁画(国宝)を観ることである。拝観受付を済ませ収蔵館に入るとやや抑えられた薄暗い照明に金箔地の障壁画が浮かび上がってきた。この時代の障壁画を代表する作品であり、まさに「絢爛豪華」を絵に描いたと言ってよい。中でも等伯父子の作品、「楓・桜図」は有名であり、木々の幹や枝の激しい動き、紅葉や秋草の写実性、空や池の抽象的表現、それら全てが融合して描かれていて見事というしかない。室内の4つの壁面に展示されていて、何度も何度も歩き回って観てしまった。
この障壁画は元々講堂の大きな空間に描かれたもので、現在、そちらには正確なレプリカ(模写)が設置されているということでそちらを観に向かう。講堂の障壁画の間に着くと艶やかな色彩の絵画が出迎えてくれた。確かに本物と比較すれば派手さがあるが、描かれた当時はこのように見えていたんだろうと推察できた。このあたりで閉館の時間16:30が迫ってきた。足早に名勝の池泉回遊式庭園や現代の日本画家が描いた屏風絵、襖絵などを観て回っているうちに閉館の合図の音楽が寺院全体に流れだした。
ここでタイムリミット。あわてて出口に向かい山門付近でちょうど来ていたタクシーを拾いJR京都駅へと向かった。今回もいつも通りギリギリまで粘って観て回ったのだった。

帰りの新幹線に乗車すると心地よい疲れが出てきた。その中で座席に着いて目を閉じると2日間で見て来た聖獣・幻獣たちの姿が闇の中に光を放って次々と浮かび上がってくる。来年以降制作する予定の絵本『シルクロード幻獣図鑑(仮称)』の構想がジワジワと結晶体となって固まってくるのであった。

画像はトップが宗達作の杉戸絵「白像」下が向かって左から同じく「白像」「唐獅子」「犀(麒麟?)」と養源院の本堂外観、智積院の金堂、長谷川等伯の障壁画(レプリカ)の一部、智積院講堂の五色の垂れ幕。


                    



287. 古寺巡礼(六)・京都 三十三間堂

2017-04-20 18:40:29 | 旅行
3月15日。京都古寺巡礼、「聖獣・幻獣探訪の旅」2日目。京都駅前の定宿としているホテルで朝食を済ませ、荷造りチエック・アウトを済ませると急ぎ足で京都駅へと向かった。本日の取材スケジュールはなかなかハード行となる。今日は東山の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)周辺で聖獣・幻獣を探して歩く予定だ。この周辺は「仏像ファン」にとっては「聖地」と呼ばれているようだ。仏教美術に限らず日本美術の名品にも出会えるスポットとなっている。

京都の寺院巡りはバス移動が主流のようだが、バスが苦手な僕はあくまで鉄道と徒歩移動にこだわる。JR京都駅から奈良線で東福寺駅まで南下し、ここで京阪電車に乗り換えて七条駅で下車。ここからはすべて徒歩。ただひたすら歩きます。3-4分で最初の目的地である「三十三間堂」の入り口に到着する。かなりひさしぶりの参拝となる。
僕の美術学校時代の恩師は和辻哲郎の「古寺巡礼」を愛読書としており、学生時代に僕たちゼミの生徒に「奈良、京都というのは人生の中で年代ごとに訪れるべきだ…年齢によって感じるものが変わってくるはずだ」と常々おっしゃっていた。最近この年になって寺院巡りをしているといつもこの言葉が浮かんでくるのだが、ようやくこのことが何を意味していたのか解ってきたような気がする。

国宝の三十三間堂は天台宗に属する寺院で、その歴史は平安時代後期の院政期まで遡る。もともとは広大な規模の敷地の一部であり、後白河上皇の信仰に基づくもので「蓮華王院」と呼ばれていたが、その本堂は創建当初より「三十三間堂」とも通称されていた。これはお堂の柱間の数が三十三もあるような長大な仏堂が珍しいのと、その数字によって、「観世音菩薩が三十三身に応現(変身)して衆生を救う」ということに基ずくということである。
順路に沿って進み、照明を抑えた堂内に入るとまず初めに千体の「十一面千手千眼観世音菩薩・じゅういちめんせんじゅせんげんかんぜおんぼさつ」の金色に輝く姿の圧倒的なパワーに驚嘆してしまう。しばらくぶりということもあり実に新鮮である。

インド・チベットから中国、朝鮮半島を経由して日本に伝来した「北伝の大乗仏教」ではタイやスリランカに伝わった「南伝の上座部仏教」とは異なり実に多くの仏・菩薩・天部の神々が存在する。その中で観音菩薩を崇拝する「観音菩薩信仰」はインドでもさかんであったもので、日本では「観音さま」として民間信仰となって親しまれている。
正しくは観世音菩薩、または観自在菩薩といい、その言語名は「アヴァロキテシュバラ」というが、文字通り「音(衆生の声)」を「観る(感じる)」菩薩であるから人間の苦悩する声を素早く察知し、その名号を唱えることにより救いの手を差し伸べてくれるという。さらに仏典によると菩薩というのは本来は悟りを得ていて仏界に上れるのだが人々を救うために地上に残っているのだというスーパーマンやウルトラマンのような存在なのである。
そして「三十三に応現する」というのは、いろんな人間の姿に変身して地上に待機していると説かれているのだ。ある時は国王であり、ある時は僧侶であり。ある時は長者であり、ある時は道行く普通の男女だったりする。つまり、あの人も観音様、この人も観音様、あなたも観音様というわけであるので地上に遍満しているということになる。

そういう、思想を知ってこの千体仏を改めて見直すと、なるほどとうなずける。そして千体の観世音菩薩がたくさんの顔と手を持ち、その手には一眼を有しているのだから、たいへんなパワー、無限の救いがあるということになるのである。平安当時の戦や飢饉、疫病が流行する中で、人々がどれだけ観世音菩薩に救いを求めたのかが伝わってくるのである。

お堂の端から端までゆっくりと移動しながら参拝者に並んで観て行ったのだが、千体物の最前列に間隔を置いてお祀りされている「二十八部衆」と「風神・雷神像」に目が留まった。鎌倉中期の作でいずれも桧材の寄木造りで表面が彩色され玉眼が入っている素晴らしいリアリズム彫像である。元々、二十八部衆は仏教以前の古代インドの神々であったが、仏説を聴くことを喜び仏教の信者を守護するようになったとされている。
一体一体を説明していくとたいへん長くなってしまう。その中の僕がもっとも好きな像である「迦楼羅王・かるらおう」の像が含まれていた。鳥頭人身で有翼の夜叉に表現される八部衆の一。横笛を吹き、右脚で拍子をとる音楽神として表されることが多い。
元々は古代インドのコブラを常食とする「金翅鳥・こんしちょう」とされ、これがガルダ神となり、迦楼羅王となる。中国を通して日本に伝来されると雅楽の舞踏にも登場し、それがカラスとなる。ガルダ~カルラ~カラスという変容である。バリに渡ると霊長ガルーダ(ガルーダ航空のシンボル)となり、こちらでも舞踏に登場する。また「カラステング」の祖先とも言われている。

結局、一度ではぜんぜん観足りなくて、お堂を2往復してしまった。ここまででもすごい密度である。このまま帰宅しても良いぐらいなのだが、このエリア、まだまだ先が長い。入り口を出てお堂の周囲を一周してから午後一時過ぎ、次の寺院へと歩き始めた。
画像はトップが「迦楼羅王」像、下が向かって左から同じく迦楼羅王像、風神・雷神像、十一面千手千眼観世音菩薩、お堂の中尊、千手観音菩薩坐像(国宝)以上、寺院解説書より転載。三十三間堂の屋根と外観。

                




286. 古寺巡礼(五)・京都 妙心寺周辺

2017-04-14 19:40:12 | 旅行
先月14日。大阪の画廊での版画のグループ展オープニングの翌日から、ある仕事の取材を兼ねて京都の古寺巡礼に出かけた。関西に来る前に家で計画していた時には、一年半ぶりの関西だったので日頃、ご無沙汰している関西地域の取扱い画廊への挨拶の合間に回ろうと思っていたのだが、回りたい寺院のタイムスケジュールを計算していたら全く時間が足りそうにない。今回は京都での『古寺巡礼』と取材に徹することに決定した。

というわけで大阪の心斎橋のホテルで早い朝食を済ませてからチエックアウト、地下鉄とJRを乗り継いで京都駅に向かった。京都駅で下車、昼の弁当を買ってから山陰本線に乗り継いで花園駅へ向かう。ここからは徒歩。ただひたすら歩きます。今日の目的地は京都五山の一つで臨済宗の大本山、妙心寺周辺を回って歩く。
ガイドブックで調べたところ花園駅を下りて妙心寺とは反対方向に向かい2-3分のところに律宗の「法金剛院」という寺院があり、ここに藤原時代の代表的な阿弥陀如来坐像(重文)があるということで最初に行って観ることにした。境内に入ると池のある美しい庭園が現れた。極楽浄土にならって作られたという庭園は四季を通じて桜、菊、紅葉などの名所となっていて古くから西行法師を始め多くの貴族たちの歌題となってきたということである。
その他、境内には古い擦り減った石仏が多く点在し、これを観て回るのも楽しかった。西御堂という落ち着いた佇まいのそれほど広くない御堂に入ると正面に御本尊の阿弥陀如来坐像が現れた。瞼を半分閉じ穏やかな表情をしている。光背の彫刻もとても繊細な彫刻が施されていて美しい。全体にとても気品のある仏像である。参拝者は僕以外、誰もいない。静かなお堂の中で仏像と一対一で向かい合い、しばらく座って眺めていた。阿弥陀如来は僕の生まれ年、亥年の守り本尊でもある。

随分ゆっくりしてしまった。先は長いので法金剛院を出て元来た道を反対方向へと歩いていく。12分ほどで妙心寺の山門に到着する。こちらはさすがに大本山である。門をくぐると広大な敷地に大伽藍が広がっている。12:00を過ぎていたので広い境内の隅のベンチで昼食をとる。古寺巡礼する時は少しでも時間が惜しいので外の食堂などには入らない。いつもこの調子である。昼を済ませてからまず周辺の塔頭寺院を拝観し禅宗特有の枯山水の庭を観て回る。ここでも拝観者はまばらであり冬から3月頃までの京都はねらい目だなと思った。

さて、ブログの始めに「ある仕事の取材」と書いたが、実は来年以降の話になるのだが出版社への企画が通って絵本の制作を進めることになっているのだ。そのテーマが『シルクロード幻獣図鑑(仮称)』として、大陸から我が国に伝わった幻獣たちの龍、鳳凰、麒麟、唐獅子などをモチーフとした内容とする予定となっている。京都の寺院は建築や障壁画、彫刻などにこれらの幻獣・聖獣たちが数多く登場し、まさにメッカとなっているのだ。

ここ妙心寺でぜひ観たい幻獣がいる。それは僕の敬愛する幻想文学者、澁澤龍彦氏がその著作「澁澤龍彦の古寺巡礼」の中で写真と共に紹介している狩野探幽筆の江戸時代の天井画『雲龍図・うんりゅうず(重文)』である。そして円形の中に描かれたこの龍は観る方向によってさまざまな表情に変化するというのである。「ますます興味津々、是非一度観てみたい」。受付で拝観チケットを購入すると「解説付きでご案内しますので15分後にもう一度ここに来てください」と言われた。
ブラブラと周囲を散策してから集合時間通りに戻ると5-6人の人がベンチに座って待っている。すぐに案内役の女性が出て来て出発。僧侶の浴場などを見学してから「法堂」と呼ばれる大きなお堂に入っていく。「この先の天井に雲龍図が描かれています」と案内された広間の高い天井を見上げると力強いタッチの墨線で描かれたダイナミックな構図の龍が出現した。直径4-5mはあるだろうか、圧巻である。探幽の「どうだ!」という声が聞こえてきそうである。しばらく見上げて感心していると「少しずつ移動しながら眺めてみましょう、龍の動きが変化して見えますよ」との解説。他の参拝者の後ろについてゆっくりと歩いていく。確かに観る場所によって雲の中を回転しているように見えたり、天に向かって登って行くように見えたりさまざまな姿に変化していくのである。「う~ん、不思議だ」。

すっかり龍に魅せられて御堂を出ると2時を過ぎていた。まだ閉門までは時間があるので、中心伽藍からさらに奥の塔頭寺院を順番に回り、障壁画や枯山水の庭を時間の許す限り観て回ったのだが残念ながら『雲龍図』のインパクトに優るものは観られなかった。
閉門時間ギリギリまで歩いて回り南総門を出て元来たルートを花園駅まで戻った。今日の宿は京都駅前の定宿ホテルである。夕食は「京ラーメン」。京都駅周辺は知る人ぞ知るラーメン店激戦区なのである。コクのあスープのラーメンを食べ、また明日からの「京都幻獣探訪」の旅を続けることにしよう。

画像はトップが『雲龍図(重文)』。下が向かって左から同図のアップ、法金剛院庭園、『阿弥陀如来坐像(重文)』、庭園の石仏、妙心寺伽藍風景、退蔵院の枯山水庭園、屋根瓦の麒麟?、庭園の石。


                      



218.古寺巡礼(四)・京都 東寺再訪

2015-11-26 19:01:01 | 旅行

今月2日。京都滞在の2日目は、2年前に訪れた東寺(教王護国寺)に行くことにした。この日は午後には、新幹線に乗って東京に帰るので京都駅前のホテルを9:30にチエック・アウト。京都駅のショッピング街にあるマクドナルドで「朝マック」を済ませた。

今回、東寺を訪れるにあたって、「是非、一度訪ねてみたい場所」があった。まずはガイドマップを片手にロータリーを西に向って歩いて行く。早朝からシトシト降っていた雨も歩いているうちに小降りになってくる。大きな八条通りを左折して、下町風の街中をしばらく進むと…あった。目的の場所。

それは『綜芸種智院跡・しゅげいしゅちいんあと』。天長二年(821年)に弘法大師・空海がわが国で最初に開設した庶民学校の跡地である。平安時代の日本には貴族の子弟のための学校が都にわずか5~6校あったのみだった。遣唐使の一員として唐(中国)の長安で庶民のための学校制度を実地調査し、目の当たりとしていた沙門空海は帰国後、日本にもぜひこのような学校を開設したいという夢を強く抱いていた。それが朝廷から東寺を給与された5年後に創設となったのである。それは仏教や儒教だけではなく文化・芸術など多くの科目を含む総合大学的な内容であり開設当初は空海その人も教壇に立ったということである。「弘法大師の授業を一度でいいから受けてみたかったなぁ…」。そしてたとえ貧しい階層に生まれた者でも学問の志が強くあると認められれば入学が許されたのだということだ。学校は数十年後、運営資金難から閉校となってしまったが、今日的には従来の官史養成機関にすぎない貴族学校の在り方に対する批判を意味するという見方もあるようだ。歴史の教科書や司馬遼太郎の歴史小説「空海の風景」に登場し、一度訪れたいと思っていた史跡とやっと出会うことができた。

住宅地の四つ角にある跡地には小さな御堂(薬師堂・弘法大師作の薬師如来像を安置)と石碑が建っているだけで、当時を想像することは難しいが、小雨の中、ここにあったのだという雰囲気だけは、それとなく感じることができた。お参りしてさらに東寺へと向かう。

南大門には11時前に到着。ここから望む五重塔も美しい。門をくぐり順路にしたがってお参りしていく。小雨の降る中の仏教伽藍というのは、とても風情がある。大きな寺院建築も晴天の時に見るよりも、どっしりとした重厚感を持ってこちらに迫ってくる。まず初めに大師堂にお参りし、拝観受付を済ませてから前回同様、講堂の『立体曼荼羅(重文)』の大日如来を中心とした数多くの仏像、金堂の『薬師三尊像と十二神将像(ともに、重文)』、秋の特別公開の国宝の五重塔内の『四仏坐像』と順番に拝観する。東寺の仏像はどこもお堂の内部の照明を極力抑えていて神秘的とも言える光と空間の中で仏像と対峙し、じっくりと拝観できるところが大きな魅力である。

ここまでで充分満足なのだが、ブラブラと境内の紅葉などを見ながら歩いて行く。途中、瓢箪池から振り返ると五重塔が水面に映って美しくカメラに収めた。食堂をお参りし、北大門を出て『観智院』という寺院を目指す。ここで前回スルーしてしまった宮本武蔵作の有名な『鷺図』を見る予定だったのだが、残念ながら改装工事となっていて観ることができなかった。また次回のお楽しみである。

北総門を出て13時過ぎに遅い昼食。二年前に偶然入って気に入った「京都ラーメン研究所」というお店でラーメンと餃子を食べる。これで今回の京都、古寺巡礼の旅も終了。京都駅で娘たちにたのまれていた土産の「生八つ橋」を買って帰路に着いた。

画像はトップが東寺講堂の屋根のアップ。下が向かって左から綜芸種智院跡に建つ薬師堂、東寺勅使門の菊の御紋の透かし、講堂の朱塗りの扉、瓢箪池越しに見た五重塔、地面に落ちていた楓の紅葉。

 

        

 

 

 


217. 古寺巡礼(三)・京都 東福寺

2015-11-20 18:57:30 | 旅行

1日。泉涌寺の大門を午後の1時過ぎに出ると次の目的の東山の寺院である「東福寺(とうふくじ)」へと向かった。ガイドブックの地図によると歩いて20分強ほどとなっている。地図をたよりに住宅地の中の狭い道を歩いて行くのだが、途中迷ってしまう。自慢ではないが持ち前の方向音痴である。元来た道を三叉路までもどり仕切り直し。逆方向をしばらく進むと人家の壁に「→東福寺」の小さな標識を見つけた。しばらく進むが、この標識が続いて現れる。「これで大丈夫だ」。

標識に添ってしばらく進むと最初に登場したのは「霊雲院・れいうんいん」という寺院。泉涌寺と同様、塔頭と言われる支院のようないくつもの小さな寺院が本堂の周辺に建っている。拝観受付でチケットを購入し、靴を脱いで寺院の中に入っていくと目の前に美しく整備された庭園が現れた。東福寺は禅宗の臨済宗の大本山。墨で描かれた襖絵などの絵画も良いが禅宗寺院の一番の魅力は「枯山水」などの庭園だろう。それから寺院によって嗜好を凝らした茶室や客室にも魅かれる。霊雲寺の庭は「九山八海の庭」と呼ばれ白砂の律動的な波紋の中心には「遺愛石」という台座に乗ったモニュメントのような石が配置されている。九山八海とは須弥山世界(しゅみせんせかい・仏説に此の世界は九つの山と八つの海からなりその中心が須弥山だという)とも呼ばれ経典によると、ブッダを中心とした壮大な世界だと説かれている。数多い名庭の中でも異色の禅庭として評価が高い。長い間荒廃していたものを近年、作庭家の重森三玲氏が修復したものだ。

霊雲院を出て参道沿いにしばらく進み小さな川にかかる橋を渡ると土塀に「→芬陀院(ふんだいん)・雪舟寺」という標識が見えた。右折して少し歩くと寺院の入口に到着。ガイドによるとここは室町時代の画僧・雪舟(1420~1506)が築いたと伝わる有名な「鶴亀の庭」があるという。山水画の巨匠の作った庭となれば、これは楽しみだ。さっきと同様に拝観受付で靴を脱いで寺院内に入る。こちらは手前に白砂の波紋を配し、石組は奥の苔むしたグリーンの絨毯の中に配置されている。借景はさまざまな種類の背の高い木々となっていて、シットリとしてとても落ち着いた雰囲気である。若い学生風の男子二人が庭を望む廊下で座禅をしながら石を見つめていた。この石庭も永い歳月の中で荒廃していたものを昭和14年に重森三玲氏の手により一石の補足もなく復元されたものだということだ。

廊下をコの字に回り東庭という庭を見ようと進むと突き当りに小さな茶室が二つ現れた。この二つの茶室が感動的であった。左手の茶室はとても小さく二畳半はない小さなものだった。中央に湯を沸かす鉄の窯がセットされ、その横に一輪挿し、奥の壁には書(文字は読めなかった)の掛け軸。これも小さい。それだけのシンプルな空間。ところが中で位置をいろいろと変えて座ってみると不思議と広く感じてくる。その時に華厳経(けごんきょう)という禅宗にゆかりの経典の中に出てくる一説、「一即多、多即一(いっそくた、たそくいつ)」という言葉を思い出した。「一微塵の中に全てが存在し、全ては一微塵と等しい」という哲学的な思想である。茶室というのはまさにこの世界を具現化しているのではないか。片側がオープンに空いていて柔らかい光が入ってくる。なんとも言えない美しく厳粛な空間だった。右手の茶室に移る。「図南亭(となんてい)」というこの茶室はさっきの部屋より少し広いが内部は薄暗い。ここは後陽成天皇の第九皇子の一条恵観公が茶道を愛したことから「茶関白」と呼ばれ、東福寺参拝のおりに茶を楽しんだと伝えられている。内部には恵観公の小さな木像、愛用の勾玉の手水鉢、燈籠、そして「図南」と書かれた扁額が配されていた。全体的にシンプル。障子のある丸窓が一つ付いていてここから東庭を眺められるようになっていた。

朝から寺院を廻り続けて来て、ここまででも、かなり内容の濃い巡礼の旅となっている。ところが、僕にはもう一つ是非観て置きたい場所があった…と、いうわけで東福寺の大伽藍を目指した。伽藍に到着するととても広い境内に山門、本堂、禅堂などが整然と配置されそれぞれがとても大きい。建築の色彩も禅宗の寺院らしくモノトーンで統一されている。「東司」という大きな共同トイレもあった。かつては600人ほどの修行僧をかかえ、たいへん栄えた時代もあった。ところが禅宗の中でも臨済宗は徳川家の菩提寺で保護されていたということもあり明治時代には新政府から冷遇され苦難の多い時代が訪れ、現在のように再興するまでに時間がかかったようだ。巨大で重厚な山門を見上げながら歴史の持つ重みを感じた。ここで時間を確かめると予定よりもかなり押していて、足早に回ることとなった。まず初めに紅葉の名所である通天橋を普通に観光。やはり前の泉涌寺と同様、燃えるような紅葉にはまだ早かった。その次がいよいよ「是非見て置きたい場所」である。

それは「八想の庭」と呼ばれる本坊庭園の中の方丈庭園にある北庭である。庫裏を抜け急く気持ちを抑えながら、まずはスケールの大きい南庭を観てから、右に独創的な「北斗の庭」と順を追って観ていく。西庭を過ぎて…廊下をコの字に曲がると…「あった、ようやく会えた、念願の北庭!!」 ウマスギゴケという美しいグリーンの苔と恩寵門の敷石を利用したというモダンなデザインの市松模様。昭和の日本画の巨匠、東山魁夷が1950年代に川端康成から「今のうちに古き良き京都を描いておいてください」と進言されて始めた京都の連作の中で描いた庭。国際的な彫刻家、イサム・ノグチが「モンドリアン風の新しい角度の庭」と賞賛した庭が眼前に広がっている。僕自身はパウル・クレーの抽象的で静かな絵画世界を連想した。まさに現代アートに通ずる感性の庭である。やっと来れた。ここで廊下を行ったり来たり、時間をかけ角度を変えて眺めた。溜め息をしながら外に出ると陽も傾き、閉門時間がせまっている。急いで今期特別公開という「竜吟庵」に駆け込みここでも庭を堪能。とにかく庭、庭、庭…今日の半日は庭づくしで、上等な庭のビフテキを何枚も食べたような状態で脳がパンパンである。そのほとんどが、重森三玲の手による。ここからさらに山門を出て「光明院」という有名な枯山水の庭のある塔頭に向かったが、ここでタイムオーバー。閉門時間の午後4時を過ぎていた。次回のお楽しみとなった。ここから京阪電車の「鳥羽街道」駅まで歩き、電車を乗り継いで、今日の宿となる京都駅近くのホテルにチェックインした。

画像はトップが方丈庭園の北庭(アップ)。下が向かって左から、東福寺に向かう道すがら見つけた瓦入りの土塀、霊雲院「遺愛石」、芬陀院の雪舟作「鶴亀の庭」、同、茶室(小)、図南亭の丸窓、東福寺山門、通天橋から観た紅葉、方丈庭園北庭(ロング)、竜吟庵石庭(部分)。

 

        

 


216. 古寺巡礼(二)・京都 泉涌寺

2015-11-17 19:41:08 | 旅行

今月、1日。大阪の高槻の画廊での版画個展の翌日、京都東山の古寺巡礼に出かけた。高槻のホテルで朝食を済ませるとJR線に乗って京都駅に向かった。途中車窓から見える東大阪から京都にかけての風景はサントリーの山崎工場がある辺りで自然環境が良い。

京都駅でJR奈良線に乗り換える。秋の日曜日の京都ということもあり、電車の中は観光客で混んでいる。外国人の姿も多い。一駅で目的の「東福寺」駅に到着。ここからは徒歩で泉涌寺道(せんにゅうじどう)へと向かう。最初の古寺は真言宗泉涌寺派の総本山「泉涌寺・せんにゅうじ」。文学者の永井路子さんや瀬戸内寂聴さんのエッセーを読んで憧れていた名刹である。地元京都の人は代々、皇室の菩提所として崇敬されているこの寺院を「御寺・みてら」と呼んでいる。永井さんの文章によると「厳しさと静寂と…いまの日本でしだいに失われつつあるそれを求めるとしたら、京都の泉涌寺を措いてほかにはない、と私は思う」とまで言い切っている。楽しみだなぁ。

街の中を進み泉涌寺道に入ってさらに進むと駅から10分ほどで総門に到着。ここで地図を広げて見ると本坊に至るまでのアプローチに塔頭という小さな寺院がいくつも建っている。まず総門の脇に建つ「即成院・そくじょういん」から拝観させてもらう。比較的明るい本堂に入ると本尊の「阿弥陀如来坐像(重文)」と笛や太鼓などの楽器を奏でる「二十五菩薩像(重文)」が安置されていた。周囲の菩薩像は左右に階段状に構成されていて見上げるようにしなければ全体像を観ることができない。一体一体はとても精緻に彫られているが全体としては来迎の様子が迫力を持って表現されていた。お参りをすませて次に向かった塔頭は「戒光寺・かいこうじ」。ここのご本尊は運慶父子合作の「釈迦如来立像(重文)」像高5,4m・光背を含めると総高約10mの大きな像。せっかくなので本堂正面に入って像の真下からご尊顔を仰いでみると…大きいっ!! 頭部を少し下に向けているのだが、運慶作の鎌倉リアリズム彫刻である。両目が玉眼で、まるで生きているブッダに見下ろされているようである。この旅から帰宅するとTVの「ぶっちゃけ寺」でちょうどこの寺院のこの釈迦如来像が登場し紹介されていた。その解説によるとインドではブッダの巨人伝説が伝えられていて、経典に身長が約5mあったと書かれているのだそうだ。そういえばブッダ入滅を描いた「涅槃図」の身長もとても大きい。あまりにも吸い込まれるような眼力だったので、しばらくこの像の下を離れられなかった。昼食は境内で作業をする寺男の人に断わり、境内のベンチで京都駅で買ってきた弁当を食べた。境内では2日後に執り行われるという「斉燈護摩・さいとうごま」という野外の護摩の準備に追われていた。

三番目に向かった塔頭寺院は「今熊野観音寺・いまくまのかんのんじ」。こちらは西国15番札所となっている寺院。本尊は弘法大師・空海作の「十一面観音像(秘仏)」。周囲の環境が良く、山がすぐ後ろまで迫っていて本堂は鬱蒼とした木々に囲まれている。紅葉の名所でもあるようだが、まだ盛りには早いようで、ようやく始まったところだった。地元の人の話では京都の紅葉は11月中旬以降がベストらしい。ということは今頃、真っ赤に色づいていることだろうなぁ。塔頭をゆっくり回っているうちに予定より時間が押してきてしまった。ここから真っ直ぐに本坊のある伽藍へと向かう。

中心伽藍に到着。まず、最初に眼に入った大きな建築の仏殿・舎利殿(重文)をお参りする。何とも言えない深淵で静寂な空間。入口には皇室の菩提寺ということで菊の御紋の大きな垂れ幕がかかっていた。ご本尊は「三世仏・さんぜぶつ」。広く薄暗い講堂のような空間の中央に静かに佇んでいた。ここから本坊、御座所などを順番に見学し、最後に楊貴妃観音堂にまつられている、とても有名な「楊貴妃観音像(重文)」をお参りする。比較的小こじんまりした御堂に入るとその名のとおりとても美しいご尊顔の聖観音坐像が迎えてくれた。唐の玄宗皇帝が楊貴妃をしのんで造らせたと伝わり、寛喜2年(1230年)に湛海律師によって招来されたという聖観音像である。楊貴妃にあやかろうと良縁・美人祈願に訪れる女性が多いという。この日も関西のおばちゃん、失礼、麗しい女性たちがたくさん訪れ口々に「これで美人になれるかしら…」と言い合っていた。ここでお名残惜しいが先を急ぐので泉涌寺の境内を出ることにする。

永井路子さんのエッセーどおり厳しさと静寂さが共存する古寺であった懐中時計を見ると午後一時を過ぎている。ここまでもかなり充実した内容の古寺巡礼なのだが、ここからさらに徒歩で禅宗の名刹東福寺へと向かった。画像はトップが泉涌寺仏殿の菊の御紋の垂れ幕。下が向かって左から塔頭、戒光寺の境内の斉藤護摩壇、今熊観音寺の紅葉とその本堂、本坊庭の紅葉、泉涌寺仏殿。 

 

            

 

 


192. 開創一千二百年・高野山滞在記 (六)最終日・塔巡り 

2015-05-08 21:18:59 | 旅行

6回に亘ってつづってきた高野山滞在記も今回でようやく最終回となった。それだけ旅の内容が濃かったということだねぇ。最終回は4月12日の最終日、この開創1200年の年、日曜日でもあり帰りの電車の混雑が予想される。情報では午後は電車のチケットが購入し難くなるという。お昼前後に高野山を出発したい。と、いうわけで、壇上伽藍を中心とした塔巡りをすることにした。

仏教建築の中で塔ほど魅力的で象徴的な存在は他にない。『塔』は古代インドの言語であるサンスクリット語ではストゥーパ(Stupa)という。あの日本のお墓にある卒塔婆(そとば)はその音写である。その起源は仏教以前に遡り、王などの供養塔であったとされる。モニュメント的な性格が強かったようである。仏教に取り入れられたのはブッダの入滅後、その帰依者だったアショーカ王によって建立されてから広まったとされている。全インドに8万4千の塔を建立したと伝えられている。主な素材は泥土や石材で作られ、初めはブッダの仏舎利(遺骨の一部)を収めていたのだが遺骨はいくら細分化しても限りがある。時代が下って、それが経典や仏像へと変化していった。日本では大規模な塔はすべて木造で現存するものでは三重塔、五重塔などが多い。奈良・法隆寺の五重塔、京都・東寺の五重塔などは代表的なものである。

朝食後、宿坊でチェック・アウトを済ませてから観光地図で塔の位置を確認し、真っ直ぐ壇上伽藍へと向かった。蛇腹道から歩いて行って最初に出会う塔は『東塔』である。もともと1127年白河上皇の御願によって創建されたが1843年に焼失。1984年、弘法大師御入定1150年を記念して140年ぶりに再建されたものである。さほど大きくはないが端正でよくまとまったデザインの塔である。伽藍内のいくつかの小さな御堂を見ながらさらに進み、中央の広場上になった場所まで来ると大きくそびえ立つ朱色の『根本大塔』が現れる。弘法大師・空海が高野山を開創する際に「高野山上に曼荼羅世界を」と構想し、胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅に基づいて諸建築を配置したと伝わっているが、その中心部にシンボリックな存在となっているのが、この大塔である。この塔も何度かの火災で焼失し再建されたが、現在の塔は1937年に建てられたものである。塔の正面に立つとその大きさとダイナミックな形態に圧倒され、首が疲れるまで見上げてしまう。堂内には本尊・大日如来と金剛界の四仏を中心に立体曼荼羅を擁し、周囲をお参りすることができる。ここでゆっくりと本尊と対峙し、お参りした。根本大塔を出て少し西側に進んだ鬱蒼と木々が茂った場所まで来ると『西塔』に出会う。この塔も開創当時から構想されたもので、根本大塔と一対をなすように、そびえ立っている。現在の建物は江戸時代、1834年に再建されたものである。堂内にはこちらも本尊・大日如来を中心に胎蔵界四仏(重要文化財)を配している。とても大きくてどっしりと存在感のある塔だが、ほどよく年代を感じるせいか、周囲の木々とよく調和している。個人的に僕はこの西塔が好きである。

話は塔から離れるが、この根本大塔と西塔の中間に『御影堂』というお堂が建っている。ここのご本尊は弘法大師・空海の御影(肖像画)なのだが、この御影を描いたのが空海十大弟子の一人、『真如法親王』である。この人は平城天皇の第三皇子で俗名を高丘親王という。出家後、862年、唐(中国)に渡り、さらに天竺(インド)を目指すがシンガポールあたりで消息不明となってしまった…ここまで書くと文学好きにはピンと来た人もいるだろう。そう、澁澤龍彦の晩年の歴史幻想小説『高丘親王航海記』の主人公その人なのである。

帰りの時間と相談しながらの今日の行動である。時計を見るとまだ少し余裕がある。あと、一つだけ再会しておきたい塔があった。伽藍を出て速足で目的の寺院に向かった。中央道を東に向かい千手院橋の交差点を過ぎたあたりで右折、小田原谷という地区の緩いが少し長い坂道を上り詰めると金剛三昧院という宿坊寺院に到着する。ここに国宝の『多宝塔』がある。門をくぐり拝観料を払って境内に入ると左手に小さな塔が見えてくる。1223年、鎌倉時代、源頼朝の妻、政子が源氏三代の菩提を祈り建立し臨済宗の祖、建仁寺の栄西を招いて落慶法要を行ったとされる由緒ある塔である。高野山で現存する最も古い建立物で国宝、世界遺産となっている。この日は幸運にも堂内の秘仏で重要文化財の『五智如来』が特別に御開帳となっていた。薄暗い堂内の秘仏をゆっくりと鑑賞し、お参りさせてもらった。少し離れたところから写真を撮影していると野鳥のミソサザイが屋根の下に下がる小さな鐘を出たり入ったりしている。ザックから双眼鏡を取り出して良く観察すると嘴に巣材のコケをくわえている。「こんな小さな鐘の中に営巣しているんだ、国宝の中で巣立った若鳥はさぞやりっぱになることだろう」。ここでタイム・リミット。境内を一巡し、バス停までの道を急いだ。ここからケーブルの駅に向かい、さらに南海電鉄の特急に乗り継いで帰路に着く。3泊4日。充実しきった旅となった。最後に6回の連載にお付き合いいただいたブロガーのみなさん、感謝します。画像はトップが金剛三昧院の多宝塔。下が向って左から東塔、根本大塔、西塔、金剛三昧院境内でのスナップ。

 

         


191.開創一千二百年・高野山滞在記(五)高野三山登山 

2015-05-04 21:11:33 | 旅行

4月11日。今回の高野山行、三日目はメイン・イベントとなる奥の院御廟の北方に位置する高野三山の登山を行った。高野山の町は海抜850m前後の盆地だが、その周囲はさらに高い山々に取り囲まれている地形から内の八葉、外の八葉の蓮華の花びらのような峰々に取り囲まれた、この世の浄土であるという信仰が古くから伝えられてきた。外の八葉は西の弁天岳と東の摩尼山(まにさん・海抜1004m)、楊柳山(ようりゅうさん・海抜1009m)、転軸山(てんじくさん・海抜930m)の高野三山がその代表格となっている。この日は、その高野山を代表する山岳の『高野三山』を登山道沿いに結んで登り、女人堂へと下山するコースをとった。大きな法会で賑わう伽藍空間も良いのだが、せっかく山間部に宿泊しているのだから山の霊気も感じたい。

朝食後、8時11分に宿坊を出ると昨日からの雨天がまだ続いていた。予報では昼頃にはやむことになっている。小雨の降る中、雨具にザックと身をつつみボチボチと歩き始めた。街中を通り過ぎて中の橋に到着。ここから北に進路をとり登山口に向かう。家並みが少なくなってきたが、摩尼峠に向かう登山口が、なかなか見つからない。地元の男性が歩いてきたので尋ねると「摩尼峠?そりゃ、あんた山ん中ですよ」という返事。結局登山口は知らないとのこと。日本全国地元に住む人々というのは地元の山には興味がないし登らないんだよね。トンネルの手前まで歩いて来て周囲を見回すと「ツキノワグマに注意!」の小さな看板が視界に入った。良く見るとその横にこれまた小さな「摩尼山登山口」の看板が並んで立っていた。狭くて見つけにくい登山口だった。「それにしても最初からクマに注意ですかぁ…」ごていねいに「子連れには特に注意!」とも書いてある。でも、だいじょうぶクマに出会ったら「視線を逸らさずにゆっくり後ずさりしていく」。北海道のタクシーの運ちゃんに教わった方法。死んだふりをするというのは効き目がないそうだ。念のために持参したクマよけの鈴を腰に着けた。「クマちゃん仲良くしてください」。

狭い登山道を登り始めるとすぐに周囲の森林は霧に包まれてきた。まるで長谷川等伯の水墨画『松林図屏風』の世界そのものである。朦朧として幽玄、視界は悪い。「クマに霧かぁ、単独登山だし先が思いやられるなあ…遭難しないようにしよう」。 霧の中、真っ白な世界を40分ほど登ると神変大菩薩(役行者)の小さな石像が現れた。傍らの木の解説版を見ると「高野山奥の院と大峰山山上を結ぶ古道の道しるべ」と書いてある。ということはここは修験道の修行道でもあるわけだ。そういえば弘法大師・空海も若い頃、都の大学の出世コースを中途退学し、私度僧(国家の免許のない僧侶)として近畿や四国の山中を一山岳修行者として歩き回っていたという説がある。役行者のような孤高の修行者を目指していたのではないだろうか。遣唐使として唐の長安を目指す以前の7年間は研究者に「謎に包まれた空白の7年間」などと称されている。ここから人登りで摩尼峠に到着。霧はますます濃くなってきたようだ。先を急ぐことにしよう。

濃霧の中、一人登っていると不安もよぎる。チリン、チリンというクマ避けの鈴の音だけが大きく響く。しばらくすると谷筋から”キョロイ、キョロイ、キョコキョコ…”と渡ってきたばかりの夏鳥クロツグミの囀りが聞こえてきた。こういう状況ではこうした鳥の声が勇気づけてくれるものだ。30分弱で摩尼山頂上に到着。祠に祀られる「如意輪観音菩薩」に合掌し、山行の無事を祈願してから大休止。コーヒー・タイムとする。ガス・コンロでお湯を沸かしコーヒーをすすっていると”ツイッ、ツイッ、ツツッ、ジェージェー”という鳥の声。見上げるとすぐ近くの木の枝に森林性のコガラが4羽とまっている。こちらがじっと動かないでいると、さらに近づいて来て手が届きそうな距離まできてくれた。なにか大切なメッセージを伝えようとしているようにも見えた。霧の中、僕と4羽のコガラしかいない。周囲には、ようやく枝先に芽が出始めた木々が無言で囲んでいる。こうして自然の中に包まれているとすべての命は繋がっているのだと理屈ではなく肌で感じることができる。一汗かいて休憩したら少し体が冷えてきた。次のピーク楊柳山に向かう。

東摩尼山から黒川峠を過ぎて一時間弱で楊柳山ピークに到着。時計を見ると12:25になっていた。ここで昼食。準備をしていると山ガール2名と3名のグループが登って来る。みなさんスナップなどを撮影して先へ進んで行った。お湯を沸かしてカップ・ラーメンを食べていると今度はアトリ科の野鳥、ウソが3羽、”フイッホ、フイッホ”と鳴きながら近づいてきた。これもとても近い。クロツグミ、コガラと今日は野鳥たちが仲良くしてくれる日である。そうこうしているうちに空を見上げたら雨脚も弱くなり明るくなり始めていた。13:18最後の目標、転軸山を目指して出発。転軸山へのアプローチはいったん下山したところからさらに登ることになる。昼食を食べて身体が重くなっているところに、この登りは少々きつい。14:36転軸山頂上に到着。頂上は見晴らしはなくうっそうとした樹林に包まれていた。ここでまたティー・タイム。しばらく腰を下ろして休んでいると地元、関西方面の山岳会と思われる男性5名が登ってきた。その中の一人が第一声「高野三山を制覇っ!!」と明るく元気に叫んでいたのが印象に残った。ちょっと時間がかかっている。のんびりしてはいられない。ここからは一気に下山路に入る。

森林公園、鶯谷の集落、女人道を通って、高野七口の一つと言われる『女人堂』にたどりついたのは17:12になっていた。ここまでくるとすっかり雨も上がっていて気持ちも晴れてきた。霧に迷って遭難もせず、熊に襲われもせず無事下山できてよかった。高野山は厳しい修行で知られていたので明治時代までは女人禁制を布いていた。山の七ヶ所に、そこまでは女性が登山し、お参りしてもよいという御堂が建てられていた。現在、その当時の御堂が残っているのはこの『女人堂』だけだという。そうした説明をうけてこの御堂を見ていると昔の信心深い女性の思いが伝わってくるようだった。本尊の『大日如来』にお焼香をしてから千手院橋を通って宿坊へと向かった。画像はトップが濃霧の中の山林。下が向かって左から濃霧の登山道、摩尼峠でのセルフタイマーによるスナップ、熊の注意板、女人堂から振り返った転軸山?、ゴールとなった女人堂。

 

             

 

 

 

 


190. 開創一千二百年 高野山滞在記(四)宿坊体験 

2015-04-30 20:43:45 | 旅行

高野山、一人旅の第四回目は宿坊体験について。この連載、6回で完結する予定です。ブロガーのみなさん、それだけ濃い旅だったということで、もう少しお付き合いください。

『宿坊』とは、寺院が営む宿泊施設のこと。もともとは修行僧や信者のために便宜をはかってできたものである。高野山では宿坊がなかった中世以前には、山の中や御廟近くの灯篭堂前で野宿していたという。夏場ならばともかく寒い季節は山での野宿は、さぞたいへんだっただろうねぇ。現在、高野山には52ヵ寺の宿坊寺院がある。明治時代までは寺院と諸国大名の関係から地域(国)ごとに所縁坊が決まっていたという。

高野山内には一般の旅館もないではないが、この地にきたらやはり宿坊に泊まりたい。では、一般の旅館などとはどこがどう違うのだろうか。チェックイン、チェックアウトがあったり、個室にテレビがあったりする面ではなんら変わりはない。まず、ここでは和服姿の仲居さんなどはいない。ルームサービス、風呂の案内、食事の世話など全てを頭を丸めて作務衣を着た修行僧の方たちが行う。玄関をくぐって僧侶の方に丁寧に対応してもらうと「高野山に来たーっ!!」という実感がわくのである。思わず合掌なのである。

そして食事。一般料理と選択できる宿坊もあるが基本は精進料理である。肉や卵、魚介類を一切使わずに、野菜や豆、高野豆腐、海藻類のみで作られる料理である。一見、肉や魚に見えても海苔を揚げて衣を着せたりしてある。戒律により殺生、肉食が禁じられていた仏教において、修行僧へのお布施として生み出されたものである。精進料理イコール修行僧のための質素な料理という印象があるが、現在高野山で供される精進料理は、二の膳、坊によっては三の膳までがついた懐石料理といった豪華な雰囲気である。お酒は事前に注文すれば日本酒やビールを出してくれるが、ここでは昔から『般若湯(はんにゃとう)』と呼ばれ、弘法大師・空海が山中の厳しい冬に弟子たちに一杯だけ許していたということだ。ちなみに現代ではビールのことを隠語で『麦般若(むぎはんにゃ)』とも呼ぶらしい。

今回、新年正月過ぎぐらいに三泊四日で宿の予約をとったが、節目の年ということでどこも週末は満員御礼、一か所の連泊はできず、二か寺に泊まることとなった。一泊目は刈萱堂というところの近くの大明王院という宿坊。夕食の時間、大広間に入って驚いた。僕以外の宿泊客20名ぐらいが全員、外国人だった。少し離れたところにお膳がセットされているが基本、一緒に食べる。若いフランス人の男性が箸2本を掴みフォークのように使っている。僕がゆっくりと箸を使い始めると、みんなの視線がいっせいに僕の左手(ぎっちょ)に集中した。これにはこちらが緊張してしまい、つい模範的な箸の動きなどを意識してしまった。「みなさん欧米の方が多いので箸など使ったことはないんだねぇ」。後で知ったことだがこの坊の住職は英会話がペラペラなのであった。どうりで…。高野山は2004年に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録され、フランスの旅行ガイドミシュランで三ツ星となったことを契機に毎年外国人観光客がとても増えている。今回もフランス、アメリカ、スペイン、ドイツ、スウェーデン、中国、スリランカなどの旅行者と出会った。富士山、高尾山などと並び国際的な観光地となっている。

二泊目、三泊目は町の中心、千手院橋交差点の近くの高室院という宿坊。こちらは東京の寺院と関係の深い坊ということで東京、埼玉、千葉など関東方面からの宿泊者が多く外国人の姿はなかった。二泊目の夕食時、臨席した同じ千葉県から来たという夫妻と話しが盛り上がった。なんでも全国の国宝の仏像をもとめて2人で旅をしているのだという。運慶作の仏像の話では、ご主人と熱くなってしまい、気が付いたら広間には誰もいなくなっていた。こういう話は僕も好きなんだよねぇ。

最後にもう一つ、宿坊に泊まったら、ぜひ体験しておきたいのが朝の勤行である。多くの宿坊寺院では朝6時か7時から寺院内本堂において『朝勤行・あさごんぎょう』が行われる。義務ではなく自由参加だが僧侶による静粛な声明や読経の声の中に身を置き、御本尊にご焼香する。一時間弱の勤行の後は清浄な気持ちで一日を過ごすことができるのだ。まだまだ書き足りないのだが、スペースがいっぱいになってきた。続きは次回としよう。画像はトップが夕食の精進料理。下が二つ目の坊の精進料理(夕食)、大明王院の庭園、最終日、高室院前でのスナップ。

 

      

 

 


189. 開創一千二百年 高野山滞在記 (三)金剛峯寺・蟠龍庭

2015-04-27 20:10:19 | 旅行

高野山行、二日目。昼食後の午後は壇上伽藍を出て少し東に戻り金剛峯寺を拝観することにした。相変わらず雨がシトシトと降り続いているが、雨の寺院建築というのも落ち着いた美しさがある。

金剛峯寺は歴史的には高野山全体をさす総称であったが現在では高野山真言宗3600余か寺の総本山であり、山内寺院の本坊としての一伽藍をいう。この寺の住職は座主(ざす)と呼ばれ、高野山真言宗の官長が就任することになっている。1593年(文禄二年)、豊臣秀吉が母、大政所の菩提を弔うために、木食応其(もくじきおうご)に命じて建てた青厳寺が現在の寺院のもとである。雨の中、ゆるい石段を登って境内に入る正門をくぐる。この正門が唯一残る秀吉時代のもので、かつてはここから出入りできるのは天皇・皇族と高野山の重職だけだったという格式の高い門。「今は誰でもくぐることができる。いい時代になったねぇ。」門をくぐると正面に檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根の複雑な曲線によって、簡素で端正な印象を受ける『主殿』が現れた。雨のせいかずっしりと重厚な姿に見えた。

入り口で拝観券を購入し順路にしたがって進んで行く。主殿中央の大広間の前まで進むと襖には群鶴描かれている。長い間、狩野派の筆によるものと言われてきたが最近の研究では江戸最初期の絵師、齊藤等室の作という説が有力になっているとのことだ。続いて『持仏の間』。本尊は『弘法大師座像』。普段は秘仏だが1200年の節目の年ということで一定期間、御開帳となっている。ここで合掌。さらに進んで『梅の間』、『柳の間』と続くが、いずれにもすばらしい襖絵が観られ思わず足を止め食い入るように眺めてしまう。この時代の絵画が好きな人にはお勧めのスポットである。

さらに順路を進み主殿の主な間を拝観してから、西に長い廊下を渡ると、旧興山寺の境内となる。ここの主要な三殿を取り囲む広い庭園に『蟠龍庭・ばんりゅうてい』と名付けられた石庭が広がっている。高野山の中で僕は個人的にとても好きな風景である。以前に来た時もこの石庭が見える廊下でしばらくの間、眺めていた記憶がある。桃山時代ぐらいのものかと思っていたら、昭和59年『弘法大師御入定1150年御遠忌大法会』の際に造営されたものだという。その大きさは我国最大のもので2340平方メートルとなっている。雲海の中で一対の龍が奥殿を守っているように表現されている。龍は四国産の青い花崗岩140個。雲海には京都産の白い砂が使用されている。

僕は竜安寺の石庭などに見られる禅宗寺院の『枯山水』の無駄のないシンプルな石庭もとても好きなのだが、この昭和の石庭もなかなか見事なものである。じっと見つめていると確かに龍がうねっているようなダイナミックな動きが見えてくるし、密教的な生命観のようなものが石の構成を通じて伝わってくるようだ。今回もこの石庭を前にして時間を長くとった。幅が狭く長い廊下を行きつ戻りつ、角度を変えてみると形がさまざまに変容してくる。雨のせいか石の固有色もよく見えて美しい。この新しい石庭も数百年後にはどんな佇まいになるのだろうか。「飽きないなぁ…このままここで時間が許す限り座っていたい」。しばらくするとバスで着いた団体さんがやってきた。廊下は狭い。名残惜しいが次の拝観者にゆずって、ここで切り上げた。順路にしたがい新別殿の大広間の休憩所に移動すると、修行僧からお茶と和菓子のサービスがあった。ここで現役の僧侶による仏教を解り易く話している「10分法話」を聴いてタイム・オーバー。今夜の宿、二つ目の宿坊『高室院』へと向かった。次回につづく。画像はトップが蟠龍庭の風景。下が向って左から蟠龍庭の風景(別角度)、金剛峯寺・正門、主殿。

 

      


188. 開創一千二百年 高野山滞在記 (二)大曼荼羅供法会

2015-04-24 21:36:31 | 旅行

4月10日、高野山の二日目。宿坊、大明王院で朝を迎えると太平洋岸を北上中の低気圧のため雨天である。今日は今回の登山の第一の目的である壇上伽藍内、金堂で行われる法会『大曼荼羅供』に参列する。

朝食を済ませると身支度を済ませカッパと傘をさしてまっすぐに壇上伽藍に向かった。金堂前にたどりつくと雨の中、大勢の人が入場を待つ列ができていた。入場には特別、資格や券などはいらないので一気に集まっているようすである。若い修行僧たちが人員整理に忙しそうだ。そして今回は開創1200年記念と東日本大震災の被災者慰霊祭も兼ね合わせている。毎年この日に執り行われる『大曼荼羅供』は高野山の諸法会の中で最も起源が古く、重要な法会に位置づけられるもので、弘法大師・空海自らが修法したと伝えられている。そしてこの日は僕の母親の5回目の祥月命日でもある。

堂内に入り来場者が順番に座っていくのだが動けないというほどでもない。9時30分。しばらくすると静寂な堂内にホラ貝やドラ、シンバル、太鼓の音が鳴り響き法会が始まった。すでに本尊の薬師如来を中心に左右に天井から金剛界、胎蔵界の大曼荼羅が掲げられ、中央の壇には導師の高僧が登っていてその周囲にはきらびやかな袈裟を着用した職衆がスタンバイしている。そして導師の修法が始まると職衆たちの声明が始まった。声明とは真言や経文に節をつけて唱えられる仏教儀式の古典音楽(声楽)だが、キリスト教のグレゴリア聖歌と類似点が比較されることが多い。高野山に限らず比叡山や東大寺のものも有名で、それぞれ少しずつ節回しが異なっている。のびやかなで澄み切った僧侶の声に聴きいっていると、はるかかなたの浄土世界や天界に引き込まれていくようでもある。そしてクライマックスは総勢30名ほどの参加僧侶による読経となる。二つの大曼荼羅の周囲をグルグルと歩きながら経典を唱えていく様は荘厳で迫力がある。神聖な儀式なので当然なのだが堂内の写真撮影などは関係者以外は禁止となっていて、画像でお見せできないのが残念である。

真言宗は古来から『曼荼羅宗』とも言われ、実はこの両界曼荼羅が本当の意味での本尊だということである。向って左が『金剛界曼荼羅』で1461の仏菩薩が描かれ、向かって右の『胎蔵界曼荼羅』には414の仏菩薩が描かれている。曼荼羅の説明をつづっていくとスペースが足りなくなるが、最近、書物で読んだ内容で印象に残っているものがあった。それは胎蔵界曼荼羅には仏菩薩以外にも実に多くのさまざまな世界が描かれている。仏の世界とは相反するような地獄や修羅、人間の地上世界。それから獣や鳥、魚などの生物たち。珍しいところでは西洋占星術の星座まで。つまりこの世界、宇宙の縮図を表しているのだとも伝えられている。そしてその思想には「宇宙生命のもとでは人間を含めたすべての生きとし生けるもの、物質世界までも平等であって差別されるものは何一つなく、全てが関係し合い結びついていて、始まりもなく終わりもない」という意味があるのだという。うーん、これって現代科学で言えば環境との共生を説くディープ・エコロジーや宇宙物理学とも重なっていくような世界観である。

つまり、僕の斜め前で法会に立ち会っている厚化粧の大阪のおばちゃん風の女性やその隣のフランス人ツーリストの仲睦まじいカップルも、お堂の外に出て周囲の山の樹木やその間を飛び交う鳥たち、足元の草花、石ころまでもが平等であり関係しあって成立しているということなんだなぁ…深くて大きい曼荼羅世界には優等生も落ちこぼれも存在しないということだ。

僧侶の読経が終了し、はじまりと同じような静寂さがもどったかと思っていると約二時間に及ぶ法会も無事終了した。なんとも言えない充足感。特別な信仰をしていたわけではないが、生前、神仏に対する熱い思いを持っていた母も喜んでいることだろう。今日はこの天気なので、町にもどって昼食をとってから寺院巡りを続けることにしよう。次回につづく。 画像はトップが法会が行われた金堂の正面。下が向って左から宿坊に咲いていた樹木の花。アプローチから見た壇上伽藍、金堂の裏手。

 

      


187. 開創一千二百年 高野山滞在記 (一)奥の院参詣  

2015-04-20 20:37:04 | 旅行

今月、9日から12日まで三泊四日で和歌山県の高野山に滞在してきた。「一度参詣高野山 無始罪障道中滅」 「高野山に一度上れば、生前からの罪が消滅する」と、昔から語り継がれてきた標高900m前後の山上盆地に広がる宗教都市である。恐山(青森県)、比叡山(京都府、滋賀県)と並び日本三大霊場の一つとされている。今日的に言えば「強力なパワー・スポット」というふうに書くのだろうか。平安時代に弘法大師・空海が真言密教の修行道場として開き、今年開創一千二百年の節目を迎えた。

節目の記念すべき年ということもあり4月から5月にかけて毎日のように記念法会が開催され、普段はなかなか観ることができない秘仏や絵画などの仏教美術も観られるとあって、思い立って旅支度をした。千葉を始発で出て、東京駅から新幹線を新大阪で乗換、なんばの駅から南海電車とケーブル、路線バスを乗り継いで高野町の中心、千手院橋の交差点に着いたのは13:44だった。蕎麦屋で遅い昼食を済ませ、今晩の宿である宿坊寺院に挨拶してからまっすぐに奥の院大師御廟へと向かった。高野山に登ったら、まず初めにここを訪れたい。

参道の入り口である一の橋を過ぎると鬱蒼とした杉の巨木の並木の参道に入る。カラス科のカケスが1羽頭上で鳴き、森林性の野鳥ゴジュウカラの良く通る囀りがフィフィフィフィフィ…と聞こえてきた。深山幽谷の趣である。しばらく進むと参道の両側には夥しい数の石碑が目に入ってくる。その数20万基と言われる石碑(供養塔)を順番に見ていくと武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、石田光成、明智光秀、織田信長、徳川家、豊臣家等々歴史になだたる戦国武将の名前が刻まれている。そして武将だけではなく参道の周辺には法然上人の供養塔や親鸞聖人の霊屋も見られた。敵味方、宗派の違いを超えて高野山に眠るという寛大さが大きな魅力となっている。多くの供養塔は長い年月の間に割れたり苔むしたりしていて独特の雰囲気を醸し出していた。

ゆっくり写真撮影などをしながら一時間ほどで御廟橋に到着。ここから先は聖域となるため写真撮影などは禁止となる。今年は参詣者が多く、四国遍路を終えた白装束の団体さんなどと共にゆっくりと奥へと進んでいく。高野山には『入定信仰』というものが伝えられている。それは「ブッダの入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩がこの世に降りてきて人類を救う。その下生の地が高野山であり、835年この地で永遠の禅定に入った弘法大師・空海は今もなお生き続けて人々を見守り幸福を願い続けているのだ」と今日まで信じられてきている。3年ぶりの再会。御廟前でこの節目の年に参詣できたお礼と旅の無事を祈願した。ここで弘法大師・空海晩年の有名な願文の一節を。

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きなん(この世界がつき、すべての生命がつきて、命の連鎖からの脱却、命への執着からの解脱。それがつきれば我が願いもつきよう)」

そういえば、幻想文学者の澁澤龍彦氏は晩年、日本回帰の小説やエッセイを書いていたが、『古寺巡礼』というシリーズの最後に高野山を訪れる計画を立て、とても楽しみにしていたという。残念ながら病状が悪化してしまい実現できなかったが、澁澤氏が、この山深い霊山を訪れていたらどんな文章を書いていたのだろう…想像を巡らせてみた。ここで今日はタイム・リミット。チェックインの時間も近い。今日の宿となる宿坊までの道を急いだ。つづきは次回。画像はトップが御廟橋手前から見た奥の院。下が左から開創1200年のフラッグで賑やかな南海なんば駅ホーム、奥の院参道の苔むす供養塔2カット。

 

      

 


111.古寺巡礼(一)・京都 東寺

2013-11-20 13:41:33 | 旅行

先週初め、大阪高槻の版画個展オープニングの翌日、京都に用事と買い物があったので立ち寄った。少し時間ができたのでどこか古寺を訪れようと思い立ち、JR京都駅から近い東寺に行くことに決めた。ひさしぶりである。いつも大阪や神戸に行くときに新幹線の車窓から見える五重塔を横目で見ながら、いつかまた行きたいと思っていた。

駅から案内板をたよりにテクテクと歩いていくと大宮通にたどり着き、しばらく行くと五重塔が見えてきた。すぐにそれと解る姿はこの町を代表するランドマーク建築である。横断歩道を渡って慶賀門から境内に入っていく行く。参拝自由の食堂をお参りして、拝観受付に着くと、この時期今年の『秋季特別公開』の期間にあたっている。何も下調べもしてこなかったのに運が良い。曇り空で少しポツポツと小雨も降っていたが、この方が伽藍が落ち着いた自然な色合いに見える。ところどころに植わっている木々の紅葉も美しい。

今回、東寺を選んだのには一つ理由があった。それは2年前に東京の国立博物館で『空海と密教美術展』が開催されたおり東寺の『立体曼荼羅』の一部が紹介されたが、その全貌を本家で久しぶりに見ようと思いたったことだった。講堂の歴史を感じる重い木製の戸を両手で押すと本尊の『大日如来』を中心に如来、菩薩、天、明王など21体の安置された仏像が出迎えてくれた。控えめな採光のほのかな光の中に浮かび上がった平安彫刻の傑作の数々は奥深く幽玄な空間を作り出している。 「やはり博物館で見るのとでは全く感じ方が違うなぁ…。」 順路沿いにお参りしながら、ゆっくりと見ていった。次は金堂である。こちらは天上の高い堂内に『薬師三尊像』が安置されている。本尊台座の周囲には桃山時代の名品とされる十二神将像が立ち並ぶ。そして五重塔に到着。内陣には心柱を中心に金剛界四仏と脇侍、そして壁面や側柱には絵画や装飾など華麗な彩色が施されている。

ここまで見て、かなり充実した気持ちになったので紅葉などをカメラに収めながら境内を散策した。その後、宝物館に立ち寄り特別公開の仏教美術や書の数々を見て、御影堂をお参りすると午後遅くとなってしまった。ここでタイムリミット。元来た道を京都駅までもどり帰路に着くことにした。新幹線の車中で何か見落としているように思いパンフレットを見直すと観智院というお堂にある伝・宮本武蔵筆の花鳥画『鷺図』をスルーしてしまった。残念。また次回のお楽しみということとなった。短い時間で足早だったが久しぶりに東寺を訪れることができ、密度の濃い時間を持つことができた。画像はトップが東寺・五重塔。下が桜の落ち葉と講堂の裏手。