長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

303. 『父が語った戦争』 第4回(最終回)幻の滑空特攻機

2017-08-16 17:27:20 | 
昨年の六月、父の戦争体験談の数日に亘る聴き取りも大詰めを迎えてきた。この頃になると朝起きて調子が良い時には「そろそろ始めるか」などど言い、「お前は案外、聞き上手なんだなぁ」などと言いながら表情にも伝えようとする気持ちが強く表れていた。

所属していた茨城県の土浦海軍航空隊の大空襲での生き残り組・少年飛行兵のうち半分は命令が出て滋賀県に移動して行った。木製のモーターボートに爆装した特攻艇「震洋・しんよう」による訓練を琵琶湖の水上で行うためだった。残り半分の父親たちは土浦海軍航空隊から北にある石岡町の民家に数人づつが分散し生活しながら山の斜面等に「ロケット戦闘機の発射台を造る」という命令が出て、近くに駐屯していた陸軍の歩兵部隊と協力しながら毎日土木作業に専念していた。血気盛んな年頃であり多くの戦友を爆撃で失った後である。「自分たちも特攻に志願して戦死した戦友の仇討ちがしたい!自分たちだけ何故、こんな作業をさせられているのか?」という憤りや焦りもあったのではないだろうか。しかしパイロットとしての訓練は終えたものの本来なら搭乗すべきゼロ戦や紫電改が九州方面などに集結してしまっていて無いのだから仕方がない。まさに「余乗員・よじょういん」と呼ばれたわけである。そして7月に入ると硫黄島方面から飛来する米P-51戦闘機による銃弾爆撃も行われ日増しに敗色が色濃くなってくるのだった。だが、作業をしながら戦友たちと「日本は負ける」などという話はしたことがなかった。

そうこうしているうちに8月に入り日本の運命の15日がやってきた。この日は休日だった。朝から午後にかけ、数人で隊のみんなのために野菜などの食料を分けてもらおうと付近の農家をいくつも訪問していた。そして宿泊している民家に戻ると家人に「ラジオを通じて天皇陛下の玉音放送があり、日本が連合軍に無条件降伏し戦争は終わったのです」と告げられた。「終戦を知った瞬間、一番初めに何を思った?負けて悔しいと思った?」と尋ねると「そんなことは思わなかった。ただ、あぁ、これで家に帰れるんだなぁ…と思った」と静かに答えが返ってきた。
15日の次の日、最終的に九十九里浜の北方、銚子市の周辺に移動する計画もあったが結局、爆撃の跡がまだ生々しい土浦海軍航空隊に戻るように命令がありこちらに移動した。焼け残った兵舎の廊下で寝起きしたり、しばらくは仲間とブラブラして過ごしていた。二週間後、部隊長がやってきて終戦の訓示と武装解除があったが話の内容はよく憶えていないとのこと。ここで解散となった。「負けたと知って混乱はなかったの?」と聞き返すと「ただ1つ…武装解除後に頭がおかしくなった戦友が1人いて、どこで手に入れたのか日本刀を振り回し訓練でさんざん絞られた曹長を追い掛け回す騒ぎがあったが、すぐに皆に取り押さえられた」ということがあったようだ。
ここから土浦の駅まで出て、列車に乗って上野駅まで行った。家の最寄りの駅に着くと電話も入れずに歩いていきなり焼け残った自宅兼店まで帰った。玄関で大声を出して「ただいま帰りましたっ!!」と言うと入隊の時と同じようにみんなが出てきてとても喜んでくれたのだった。「これで自分の戦争体験の話はおしまいだ。後はおまえがパソコンで詳しく調べてみろよ。今はなんでも情報が出てくるんだろう」と言って安堵しきった表情で客間のソファーにもたれかかった。

それにしても父の話の中で腑に落ちない点がいくつかあった。それはまず土浦に移動する際、部隊の作戦内容は軍の極秘だったようだが、終戦まで知らされなかった点、搭乗する戦闘機がないにもかかわらずグライダーの飛行訓練を続けていたという点、そして石岡でのロケット戦闘機の発射台造り、九十九里浜への移動予定…?疑問は残ったが父の容体も悪くなってきた頃でそのままにしておいた。
この聴き取りの1カ月ほど後、父親が他界。葬儀が終わった後、思い出して何気なくパソコンで不明点を検索してみた。キーワードは「予科練」「グライダー」「石岡町」「ロケット戦闘機」など。すると大戦末期に海軍で考案、製造された特攻兵器に行き当たった。ゼロ戦による「神風特攻隊」のあと「余乗員」のために考案され製造された特攻兵器は先にあげた「震洋」以外にもいくつか出てきた。1人乗りの人間魚雷「回天・かいてん」や爆撃機の腹に搭載する人間ロケット「桜花・おうか」などは良く知られている。さらに見て行くと…あった!! グライダーによる滑空特攻機『神龍・じんりゅう』という兵器が戦後、実物大に復元されたレプリカの画像と共に見つかったのである。

<滑空特攻機 神龍・じんりゅう>

『神龍』は太平洋戦争末期に前回ブログでご紹介した米英の連合軍による日本本土上陸作戦『ダウンフォール作戦』に合わせて設計製造されたグライダー特攻機である。開発された理由の一つとして「ゼロ戦に憧れて海軍航空隊に志願した少年飛行兵は陸上や水上特攻などではなく空を飛ばさせて死なせたい」ということもあったらしい。「軍上層部の都合のよい理由ではあるが」
実物大の模型画像をみると木材にテント布を張った粗末なものである。これに離陸用の小型ロケットと特攻時の急降下に使う小型ロケットがそれぞれ搭載されている。武装は100㎏爆弾1つで対戦用の機銃などはない。もちろんグライダーなのでエンジンも付いていない。山の斜面などに作られた発射場から出撃し音もなく滑空し目標物を発見すると急降下用ロケットを発射し体当たり自爆する。海岸線に上陸してきた敵の重戦車や上陸用の揚陸艇が主な目標だったと記載されている。いわゆる「水際特攻」である。

そしてなんと、この試作機と飛行試験場は父たちの駐屯していた石岡町にあった。パイロットの飛行訓練としては通常のグライダーが用いられていたということである。さらに予定されていた搭乗員の中に「甲種予科練14期生」とある。間違いない。父親を含む、石岡の余乗員居残り組はこの「神龍」に搭乗させられ水際特攻に出撃させられるはずだったのである。名前は勇ましく「神の使いの龍」であるが、こんな粗末な棺桶のようなグライダーで、果たして米軍の最新式重戦車などに体当たりできたのだろうか? たとえうまく発射したとしても最新式の高速戦闘機にバタバタといとも簡単に撃墜されてしまっただろう。まず想像するに99%は失敗に終わるはずだ。万が一、体当たりできたとしても戦車の搭乗員はたった5名である。全体から見れば大した戦果ではない。
海軍作戦本部はこの九十九里浜などの水際特攻に2000人の予科練出身者を予定していた。そしてその中で『神龍特攻隊』には1000名の予科練出身者を送り出す予定だったようだ。いったい誰がこんな「犬死」にも近い無謀な作戦を発案したのだろうか? 顔がわかるならば捜して見てみたいものである。『神龍』は数度の試験飛行を繰り返し8月15日には5機が完成。11月の連合軍上陸作戦に向け量産開始の命令が出ていたが日本のポツダム宣言受諾により実戦への投入前に終戦の日を迎えた。父親はある程度このことを知っていたのか、それともまったく知らなかったのか今となっては尋ねようがないが、あの時僕に向かって「あとはお前が調べろよ…」と言ったことが印象的であり偶然とも思えない。そして日本がポツダム宣言を受諾せず、1946年3月に連合軍の『コロネット作戦(関東上陸作戦)』が敢行されていたならば、間違いなく父親と戦友たちは特攻に出撃し帰らぬ人となっていただろう。そうなれば僕は当然この世に産まれていない。何かとても感慨深く、そして不思議な気持ちである。


話が前後するが父が戦争体験を話終えた日、最後に声のトーンを変えて僕にこう言い聞かせるように語った。「いいか、よく憶えておけよ。戦争に正義や大義名分などは何1つない。どちらが正しくてどちらが間違っているということもない。ただあるのは人間同士の愚かな殺し合いだけだ…そしていつの時代も犠牲が多く出るのは若者と民間人なんだよ。それは現在も続く戦争のニュースを見れば理解できるだろう?」
父親は普段からあまり自分の本当の本心や哲学的なことは語らない人だった。このセリフが今の僕には重くのしかかってきている。そして最後に交わした約束だった「父さんが語った戦争体験を多くの人に伝えて行くよ」という内容がはたして伝わっただろうか。これからの課題である。

仕事をリタイヤした父が18年前、一人で車を運転し最初に真っ直ぐに向かったのは九州にある「特攻記念館」だった。父が最後まで再訪することがなかった、いやできなかった茨城県の霞ヶ浦周辺をいずれゆっくり訪れてみようと思っている。ここには現在「予科練平和記念館」という公共施設が建っている。多くの資料を見ればまた何か新知見を見つけられるかもしれない。

この連載ブログを亡き
父親と「土浦航空隊」の空襲で亡くなった多くの少年飛行兵の戦没者の方々、航空隊のあった茨城県阿見町の民間の被災死没者の方々に捧げます。そして第二次世界大戦で尊い命を失ったすべての人々に哀悼の意を捧げさせていただきます。 

画像はトップが戦友たちと航空隊の庭で(前列向かって左の一番小さいのが父)。下がそれぞれ所属する部隊を写した集合写真2カット。


   

302. 『父が語った戦争』 第3回 本土決戦

2017-08-14 17:35:21 | 
昭和20年6月10日。父の所属する茨城県の土浦海軍航空隊を襲った米軍機による空襲で部隊の2/3の少年航空兵が戦死。父を含む残りの1/3の飛行兵はしばらく土浦航空隊の焼け跡のわずかに残った兵舎で生活していたが、ここ霞ヶ浦周辺には海軍の施設が集中していたため、その後も硫黄島の基地から飛来した米軍爆撃機、戦闘機による小さな空襲が何度もあった。敵機の爆音がして来ると「敵機来襲~っ!!」という声と共にその場からみんな飛散してパーッと蜘蛛の子を散らすように逃げた。焼け残った兵舎は狙われるのですぐに離れて裏山の中に逃げ込んだり、霞ヶ浦方面の水辺に逃げたりした。
そんな中、戦友数人が軍の所要で国鉄の駅まで使いに行ったのだが、そこでフラッと飛来した米P-51戦闘機1機に襲われた。みな散らばって逃げたが1人の戦友をP-51が執拗に追いかけ始めた。なんとか停車中の貨車の下に潜り込んだが膝から下が隠れず、そこに低空飛行をしてきて“バリバリバリッ”っと機銃掃射された。戦闘機に付いている機銃は戦闘機を打ち落とすための口径の大きな機銃であるからたまらない。銃弾が両ふくらはぎを貫通し、敵機が飛び去った後、皆に貨車下から引き出されたが間に合わずに出血多量で死亡したのだという。まるで遊びのようにやって来ては地上の人を見つけるとこうした攻撃をしてきたようである。この話をしていた父が「他人ごとではなかった、ひょっとすると自分が使いに行っていたかもしれない…」と呟いた。

しばらくして生き残り組のうち半数が滋賀県の琵琶湖に移動となった。ここの水上で特攻艇「震洋・しんよう」という1人乗りの特攻兵器の訓練をするためだ。これは小型のベニヤ板製のモーターボートの船首に爆装し搭乗員が一人乗り込み日本近海にいる駆逐艦や哨戒艇などの小型の敵艦艇に体当たり攻撃を敢行するもので、大戦末期のこの時期には太平洋岸の海岸線の洞窟などに多くの基地があり終戦ギリギリまで出撃していたということだ。それにしてもベニヤ板製のモーターボートである…。父を含むあと半数は土浦の北、石岡という町へ移動することになった。ここで民家に数人が分散し生活が始まった。
「そこではどんな任務が与えられたの?」と尋ねると「町から離れた山の上に造られた平坦地に地上ロケット戦闘機の発射台の建設を行っていた」という答えが返ってきた。「ロケット戦闘機って?特攻兵器の桜花(おうか)のこと」と聞き直すと「いや、それとは違うタイプがもう一つあった…1人乗りの操縦席があったので無人ではないと思う」と言っていた。
「陸軍の部隊も駐屯していて、いっしょになって土木作業を行った。初めのうちは自分たちを海軍の若い下士官だと思っていたらしく、すれ違うとピシッと陸軍式に敬礼をされた。しばらくして少年兵だと解ると、してくれなくなった」と苦笑しながら言っっていた。

ここまで話を聞いて謎が深まった。搭乗する戦闘機がない時期に土浦でのグライダーによる飛行訓練?そして今度はロケット戦闘機?いったい父親たちはどんな作戦に参加する予定だったのだろうか。ここで父たち部隊が置かれていた状況を俯瞰して見るため、父が亡くなってから数か月経ってからネットで調べた大戦末期の関東方面の日本軍の作戦を一部だが取り上げてみることにする(詳しく書くととても長くなるのであくまでも概容ということでご了承、お読みください)。

<日本本土上陸作戦>

太平洋戦争末期、アメリカ、イギリスなどの連合国により開催された「カイロ会談」で劣勢にもかかわらず徹底抗戦を続ける日本軍に対して「日本の早期無条件降伏のためには本土上陸も必要」という認識が話された。1945年2月には作戦の骨子がほぼ完成。上陸作戦を中心になり実行するアメリカ、イギリス、オーストラリア軍をはじめとするイギリス連邦軍に了承されることとなった。
この作戦は『ダウンフォール作戦:Operation Downfall』 と命名される。この計画は大きく2つに分かれており、1つは1945年11月に計画された『オリンピック作戦』ともう1つは1946年3月に計画された『コロネット作戦』だった。前者は九州南部への上陸作戦で航空基地を奪い、ここから本州、特に関東地方の日本軍基地を英空軍の重爆撃機により攻撃する作戦だった。後者はこの九州からの集中爆撃後、関東の神奈川県湘南海岸と千葉県の九十九里浜、茨城県の鹿島灘から米海兵隊を中心に大規模な上陸作戦を展開、首都東京を挟撃し短期間で皇居まで迫り無条件降伏を迫るというものだった。
その連合軍の陸海空の動員される兵力は第二次大戦史上、最大規模と言われ欧州のノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ数が予定されていた。そして投入される米英軍の兵器も最新鋭のものが、この作戦のために開発製造されていたのだということだ。さらに驚くのは広島、長崎に続く新潟などの都市への原子爆弾の投下。想像を絶する激戦が予想されるため連合国軍側も自分たちの損害を減らすという理由からヨーロッパ戦線では第一次大戦後タブーとなっていた化学兵器、生物兵器の使用も計画されていた。その内容はマスタードガス、サリンなどの神経毒ガス攻撃や食料となる農作物を殲滅し兵糧攻めにする枯葉剤(ベトナム戦争で使用)の散布まで検討されていたのだという。

これに対して日本側は大本営が提唱する「一億玉砕・いちおくぎょくさい」のプロパガンダ通り、『決号作戦・けつごうさくせん』と称し、本土に残る約500万の陸海軍以外に男子は15歳~60歳、女子は17歳~40歳までの民間人で組織した国民兵2600万人を投入するとされる計画がたてられていた。連合軍同様、この戦のためにさまざまな新兵器も陸海軍で考案され設計、製造が進められていた。そして茨城の鹿島灘と千葉の九十九里浜には攻撃陣地が軍部の指導の下、築城され始めていた。あくまで専用の攻撃陣地であり防御陣地の築城は行われなかった。つまり「お国のために死んで玉砕するまで」ということなのだろう。そして航空兵力も父親たち「余乗員」を含む特攻攻撃が中心に考えられていたのである。

史上最大の上陸作戦が遂行されれば、当然のことながら両軍共に甚大な被害が生じたことだろう。連合軍、日本軍共、独自に損害を予測し数値は異なっていたようだが、米英軍は第二次世界大戦の中で最大数、日本側は全軍が壊滅するほどの被害数という点では一致している。数だけではなく原子爆弾の継続使用や化学兵器の使用などにより軍人だけではなく民間人に多大なる犠牲が出て日本列島全体が焦土と化したことは間違いないだろう。
それにしてもこうした狂信的で無謀としか表現しようのない作戦が存在したという事実を現代の日本人のどれだけの人が知っているだろうか。特に40代より若い世代は全く知らないのではないだろうか。


この続きはさらに次回に続きます。次回が最終回となる予定です。

画像はトップが兵舎内で戦友と写された写真(前列、向かって左から3番目の小柄で笑っているのが父)。下が部隊内での訓練のようす3カット、みんなあどけない笑顔をした甲子園球児ぐらいの少年たちである。


      



301. 『父が語った戦争』 第2回 土浦海軍航空隊

2017-08-11 17:15:26 | 
昭和20年の3月、父たち若い飛行兵を乗せた軍用列車が奈良からノンストップで茨城の土浦に到着する。以後、父親の部隊は土浦海軍航空隊所属となった。奈良航空隊で基礎訓練を終え、これからいよいよ実戦の訓練を行うためである。

翌日の朝、飛行場に集まると、そこには想像していたゼロ戦や紫電改の姿はなく「赤トンボ(練習機)」とグライダー、そして本物のように色が塗られた擬装の囮用木製機だけが並んでいた。この年の3月に硫黄島の守備軍が玉砕し、本土の大都市への大空襲が続き、4月から沖縄戦が始まっていた。こうした状況で航空兵力の多くが本土に近づく決戦場に迎撃機や特攻隊機として集結していたため父親たちから下の予科練16期生(16才~20才)までのパイロットにはもはや搭乗すべき戦闘機がなくなっていた。そしてこの訓練は終えたが空を飛べない戦闘員たちは「余乗員・よじょういん」などと呼ばれ、海軍上層部はこの少年兵たちの扱いを今後どのようにするか検討を重ねていた。「余乗員」いやな響きを持った言葉である。偶然だが幻想エカキの大先輩のT.Iさんは予科練で父の一期上にあたり土浦の近くの霞ヶ浦航空隊でゼロ戦に乗り毎日、湖上に浮かべられた模型の敵艦に向け特攻の急降下訓練を行っていたと伺っている。

「そんな航空隊でいったい何の訓練をしたの?」と尋ねると「毎日のようにグライダーに乗って飛行訓練をしていた」と答えが返ってきた。何か腑に落ちない。どうして搭乗する戦闘機もないのにグライダーの訓練などしていたのだろうか?父親たちはあまり疑問を持たずに上官に言われるがまま厳しい訓練を続けていたのだということだった。

そうした中、昭和20年6月、この頃になると占領された日本近海のサイパン島や硫黄島から飛来する米軍の爆撃機や戦闘機による空襲が太平洋岸を中心に頻繁になってきていた。そうした中で10日の朝、土浦航空隊に悲劇が起こった。
この日、父親は数人の戦友たちと兵舎の見回り当番を命じられていた。空襲警報が発令され"ゴォーッ、ゴォーッ" と空を引き裂くような恐ろしい爆音と共に米軍機の大きな編隊が近づいてきた。「危ないから早く防空壕の中へ入れっ!!」と上官から言われていたが責任からか父を含め何人かは兵舎に残っていた。
そうこうしているうちに防空壕が集中的に狙われた。"ドーン、ドーン"と地響きのように爆撃の音が聞こえてくる。どのくらいの時間だったのだろうか。長くも短くも思えた。しばらくして飛行機の爆音が遠ざかると「残っている者はすぐに助けに行け~っ!!」と上官の命令がありバラバラと兵舎の外に出て走って裏山にある防空壕へと向かった。20分ほどで現場に到着すると防空壕の場所がどこにあるのか解らないほど、派手に潰されていた。

皆で協力してスコップなどで瓦礫や覆いかぶさった土の除去作業を進めて行く。濠の入り口から少し入ったところで一人の戦友がキチンと椅子に座ったまま死んでいた。肘から上は真っ黒に焼け焦げていて誰か判断はし難い姿なのだが膝の上に書類の入った鞄をしっかりと両手で抱えている。肘から下はきれいに焼け残っているのである。この戦友は普段からとてもまじめで几帳面な優等生で、その性格を上官に認められ重要書類を扱う係りとされていた人物であることが解った。コの字に曲がった防空壕の中を進んで行くと、真上に爆弾が落下したため床にかなりの衝撃で叩き付けられたのだろう。顔が真っ赤に倍に膨れ上がった戦友3人が倒れて死んでいたのが見つかった。さらに進むとコの字のちょうどコーナーで柱にしがみついていた二人の戦友に遭遇した。運よく助かったのである。そしてその先では多くの焼け焦げた戦友の遺体と遭遇することになる。何人かの戦友はまるで、きれいに焼かれた鶏肉のような変わり果てた姿で見つかった。まさにこの世の「生き地獄」そのものである。
16~17才と言えば、まだ幼さが残る少年たちである。昨日まで訓練の合間にお国自慢や家族自慢、そして恋愛の話などをして笑い合っていた仲間たちのこの姿を生き残った者たちはどのように受け止めたのだろうか。

それから生存者の4人が1組となり、板に遺体を乗せて山上にある平坦地まで運ぶように命令された。これは本当につらく悲しい時間であった。そして喘ぎながら山上の広い場所に着くとそこは遺体で溢れかえっていた。負傷をしたが運よく一命を取り留めた人たちは軍の病院が爆撃を受けたため民間の病院まで運ばれていった。
作業が一段落し下に降りて休んでいると周囲は暗くなリ始めていたが山上で遺体を焼く炎が赤々と見えて黒い煙がいつまでも高く大きく上がっていたのだという。兵舎も爆撃による火災により一部を残してほぼ全焼に近い状態となっていた。この大爆撃で若い少年航空兵の182名が戦死したと記録に残されている。

ここまで話すと父親がぽつりと言った。「だけど、アメリカさんもけっこう死んだよ」「どういう意味?」と聞き返すと「P-51(米戦闘機)が滑走路に置いた偽の囮用飛行機を狙って編隊で低空に"ダーッ"と降りてきて機銃掃射してくると地面スレスレに土嚢と擬装網でカムフラージュしておいた友軍の対空機関砲が一斉に"バリバリバリ"っと撃ちまくるんだ。そして燃料タンクに命中し"パッ"と一瞬辺りが真っ白になったかと思うと木端微塵に消えてしまう。人間の姿なんて跡形もなくなるんだぞ」と静かに答えた。そして「これが戦争なんだよ…」とも続けるのだった。

この爆撃で大きな損害を受けた土浦海軍航空隊の内、1/3ほどとなった生き残り組はわずかに焼け残った建物でしばらくの間は寝起きを共にするがその後、半分は滋賀県の琵琶湖に、そして父親を含む半分は土浦の北にある石岡の町へと移動し終戦までの最後の任務に就くこととなった。

この続きは次回へと続きます。

画像はトップが奈良航空隊の庭で撮影された予科練制服姿の父。入隊の時よりも訓練によりガッシリとした体形になっている。下が土浦航空隊での集合写真、バックに赤トンボといわれる練習機が見える。



300. 『父が語った戦争』 第1回 予科練に入隊する。 

2017-08-08 18:12:59 | 
今月15日、日本は72回目の終戦記念日を迎える。戦争を体験した世代が亡くなったり高齢化することで生々しい過去の記憶が年々風化しようとしている。

前々回のブログでも予告したが、昨年7月28日に88歳で他界した父親が亡くなる三か月ほど前から僕たち家族に病院の緩和病棟に入院するまでの間、語り続けた戦争中の体験談があった。それまでこの時代の事はあまり語らなかった父が病で体が衰弱していく中、あまり熱心に語るので「これは」と思い僕は聴き取るがままにその内容をノートに記録していった。最後の方は声も枯れてきて途中フラフラッと意識を失いそうになっても語リ続けていた。何故、人生の最後にこの時代の話を続けたのだろうか。きっと何か大切なメッセージをこれからの人間に伝えたかったに違いない。
病院に入院し、亡くなる5日ほど前だったと思うが食事もほとんど取れなくなった父親の耳元で僕は「あの話してくれた戦争中の事は必ず人に伝えて行くから」と約束した。父はもう言葉が出なかったが顔を向き直し眼でうなずいていた。この8月のブログに書こうと思ったのだが、さすがに亡くなってすぐには、その気持ちにはなれなかった。先月一周忌を終え、ようやく書く意欲が湧いてきたのでこうしてパソコンに向かっている。これから終戦記念日まで、3回ほどの予定で『父が語った戦争』について投稿して行こうと思う。

昭和3年東京の本所で生まれ、下町で育った父の幼少期は日本が戦争への道を突き進む時代であった。そして中学3年間はちょうど太平洋戦争の真っただ中で、当時の少年たちのほとんどがそうあったように軍国少年であった。昭和19年(1944年)4月、15歳で中学を卒業するとすぐに海軍航空隊飛行予科練修生に志願入隊した。正式には「甲種飛行予科練習生14期」というらしい。つまり、訓練を受けて少年航空兵になりゼロ戦や紫電改などのパイロットとして敵機と戦おうと意気盛んだったわけである。「どうして志願をしたの?」と尋ねると「その当時の時代がそういう空気だった。同級生はみんな陸軍幼年学校か少年戦車兵、そして海軍の予科練などに入隊した。迷うことなどなかった」と答えていた。父は正義感、責任感の強い性格だったので「ゼロ戦に乗って祖国や家族を守ろう」と思っていたようだ。
入隊の日の朝、「七つボタンは桜に錨」と謳われた予科練の軍服姿の父親を家族やお店の人たち(父の実家は金属関係の商売をしていた)全員が見送りに出てきてくれた。ただ一人、母親(僕の祖母)だけは家の自室にこもり泣き続けて出てこなかったということだ。父は男六人兄弟の末っ子で幼くして父親を亡くしてからは母親が溺愛していたようだ。
入隊すると横須賀海軍航空隊の下に配属され、しばらく適正検査などがあった。「甲種飛行予科練習生」は主に戦闘機のパイロットとして教育・訓練を受ける。そしてその人の能力により水上戦闘機(フロートの付いた戦闘機)、艦上戦闘機(航空母艦に配属)、陸上戦闘機(陸上基地の滑走路から飛び立つもの)、通信兵と振り分けられた。この中で飛行技術的に一番高度で難しかったのは潜水艦などに搭載された水上戦闘機だった。この中で父親は陸上戦闘機パイロットの訓練生に振り分けられた。

しばらくして父とその同期生は横須賀から奈良県天理市(現)にある伊勢志摩海軍航空隊付属、奈良分遣隊に移動となった。ここで翌年の3月まで戦闘機のパイロットとして基本的な訓練を受ける。訓練は非常に厳しく15歳から16歳当時、小柄で痩せっぽちだった父親は一日のカリキュラムが終わるとヘトヘトだったようである。訓練だけではなく隊の規律もとても厳しく分隊の中で一人でも規律を乱すような人間がいるとたいへんな懲罰を受けた。休日のある日、農家から貰ってきたタバコを辞書の紙で巻いて禁止となっているキザミタバコを吸っていた同期生が班の中から見つかった。するとその父の分隊は「全体責任」ということで一列に並ばされて上官や下士官、部隊全員200人ほどから1発ずつ殴られたのだった。殴る方も同情して手を抜けば直ちに同罪ということで殴られるので、全員が本気で殴ってくる。口の中は切れて出血し、顔中がパンパンに腫れて夜は痛くてとても眠ることができない。父は顎の一部が外れカクン、カクンという感覚が長年残ってしまったという。亡くなる2-3年前に「ようやく顎の外れた部分がハマったらしく治ったよ」と苦笑していた。こんなことは序の口で訓練でミスなどした時には「海軍バッター」と言われる精神注入棒で尻を思いっ切り引っ叩かれ突き飛ばされるのは日常だったようである。

父が入隊し、訓練を受けていた昭和19年当時、それまでは勢いよく勝利してきた日本軍がミッドウェー海戦にやぶれ、ソロモン諸島では海軍機で移動中の山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、米軍の大規模な軍事生産力により南方の制空権、制海権がジワジワと奪われ太平洋戦争も日本が劣勢へと向かいつつある時期と重なっていた。そしてこの年の6月にはサイパン島の守備軍が玉砕、米海兵隊の「飛び石作戦」と言われる畳み込むような上陸作戦によりテニアン、グアム、ペリリューと立て続けに敗退していった。さらに10月のフィリピン、レイテ沖海戦に敗北、この戦いで初めて父親たちの先輩にあたる海軍航空隊が「神風特別攻撃隊」を編成し初出撃している。いわゆる特攻隊による肉弾攻撃の始まりである。

昭和20年3月、父親たちは奈良で予科練の訓練を終えた。それはあの米軍のB29による無差別爆撃、東京大空襲の直後だった。そしてすぐに軍用列車に乗り茨城県の土浦航空隊に移動の命令が出た。移動内容や作戦は海軍の機密事項であり若い航空兵には知らされなかった。長い長い移動だった。軍用列車の車窓はとても小さく車内は暗い。
列車が東京に近づいた時、誰言うともなくその小さな車窓から外の景色を注視した。新宿を過ぎた頃、そこには少年たちが、かつて観たこともない信じられない光景が広がっていた。帝都と呼ばれた東京の街が遠方まで一面の焼野原、ときおりポツン、ポツンと焼け残ったビルが建っている。父の故郷である下町は特に被害が甚大だった地域である。そしてこの空襲で子供の頃から母と共に可愛がってくれた最愛の叔母と初恋の人を失った。みんな言葉もなく無言で灰色の廃墟を見つめていたという。「誰かこれで日本は負けたんだ、というようなことは言わなかったの?」と尋ねると「そんなことは瞬間思ったとしても誰も言わなかったし、言える状況にはなかった」と答えが返ってきた。

若い命をたくさん乗せた軍用列車はさらに、これからの戦いの場である土浦に向かって進んで行った。これから起こる地獄のような惨状を予測できる者は上官も含め誰一人としていなかった。


ブログは第2回に続きます。

画像はトップが入隊の朝、自宅の庭で撮影された軍服姿の父。下が奈良分遣隊での訓練の様子3カットと兵舎前での部隊の集合写真(すべて父のアルバムから)。