長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

277. 『レオナール・フジタとモデルたち』 展を観る。

2017-01-24 18:59:42 | 美術館企画展
2017年、新年初の美術館巡りの投稿となる。今月14日、工房からほど近いDIC川村記念美術館で開催されていた『レオナール・フジタとモデルたち』展を観に行ってきた。ここは国内最大手のインク会社であるDICの歴代会長のコレクションを展示する美術館であり千葉県内でも屈指の充実した近現代ヨーロッパ、アメリカ・モダンアートの絵画彫刻作品の収蔵を誇っている。そして開館当初からの企画コンセプトが「この美術館に1点でも収蔵されている美術家の企画展を開催する」ことである。そして今回の企画展がこのレオナール・フジタの回顧展となったわけである。

レオナール・フジタ(藤田嗣治、1886-1968年)と言えば、日本から渡欧、フランスを中心に活躍し「乳白色の下地」と呼ばれる独自の絵肌を開発、二つの世界大戦間のパリで一躍時代の窮児となり、ヨーロッパの近代美術の歴史の中でもっとも成功した日本人芸術家と言われている。そのフジタが生涯を通じ、画家として多様な主題をモチーフとする中で中心となったのは人物画であった。今回の企画展はその人物画に焦点を絞り初期から晩年までの作品を、その描かれたモデルにまつわる資料を合わせて展示することでフジタの人物画追及の軌跡とモデルとした人物たちに注がれた眼差しを再検討する内容となっていた。

今回は昼食を挟んでじっくり観ようと思い美術館に着くと、さっそく隣接したフレンチレストランに入り日替わりのコースで腹ごしらえをした。入館し、いつものように常設の展示を順路に沿って観て行く。モネ、ピカソ、シャガールなどの西洋の近代美術の部屋から始まり、アメリカ・モダンアートの部屋、そしてここの目玉である「ロスコ・ルーム」でのマーク・ロスコの大きなタブローを満喫する。それからいよいよ企画展の部屋となる。

入り口を潜り初めに出迎えてくれたのは初期の人物画、絵画やデッサンの数々、そして順路に沿って進むと1913年、渡仏した頃の作品へと変わる。当時のパリはエコール・ド・パリの真っただ中である。キスリング、モディリアーニ、スーティン、ユトリロ、ピカソ、パスキンなど蒼々たる個性派画家が大集合していた時代。その中でも特にモディリアーニとは、故郷を遠く離れた孤独、自己芸術への渇望などを共有する者として親交を深めていったらしい。有名なフランス映画「モンパルナスの灯」にも登場するモディリアーニ作品を多数コレクションしていた画商、ズボロフスキーの手配により、モディの恋人ジャンヌ・エビュテルヌやシャイム・スーティンと南仏で共同生活もしていた。この時期の「人物画」の表情は瞳が描かれず、面長のデフォルメした形がモディのそれとそっくりである。よほど好きで影響を受けていたのだろう。

お次の部屋は1920年代の「パリ、成功時代」となる。日本画の胡粉(白色の顔料)を洋画の白色顔料と混ぜ合わせ洋画の溶き油で練り合わせて作ったオリジナルの絵の具を画面に塗った「乳白色の下地」に、これも日本画の面相筆などを用いて極細の描線で描いた独自の絵肌、表現の人物像が数多く出迎えてくれた。これらの絵画作品によりパリのサロンで成功をおさめたフジタは一躍、当時の現代美術界の大スターとなっていった。中でも特に印象に残ったのは川村記念美術館収蔵作品である、詩人「アンナ・ド・ノアイユの肖像」の無駄のない緊張感のある全身像と今回初めて観ることができた群像表現の壁画大作「構図」「争闘」である。この壁画は1928年、パリでの個展で発表されたもので2点1組の4部作となっているが、1点が3m四方という大作で迫力満点であり、この部屋では時間をかけて少し引いた位置からしばらく鑑賞していた。

そして次に1930年年代からの「世界をめぐる旅」、日本帰国時代を過ぎ、最後の部屋である1950年代からの「追憶と祈り」という部屋に至る。この時代、フジタは1955年にフランス国籍を取得し、1959年にカトリックの洗礼を受けて「レオナード・フジタ」と改名している。ここで僕が意外と思ったことがある。「乳白色の下地」の成功により独自の画風を開発し大きな成功を得た時代から第二次世界大戦を経たこの時代、フジタは「新古典主義」とも言える画風へと変化して行く。乳白色の無駄な要素を極力除いた「白の世界」から西洋の古典絵画(宗教画)であるボッティチェリやウェイデンなどに傾斜し、「白の世界」から一転して画面の四隅まで空間を埋め尽くす「古典的な画風」へと変化していったことだ。画家としてたどる順序としては一般的に煩雑な構成から徐々に洗練され整理された方向性に向かっていくのがならわしだが、フジタの晩年は逆のベクトルに向かったのである。カトリック教徒となった精神的な変化ということも関係しているのだろうが、今回の企画展で僕はフジタのこの「古典回帰現象」に最も強く興味を持ったのだった。

家を出てくる時には午後3時頃には帰宅する予定だったのだが、展覧会のあまりの充実した内容に出口に着いたのは閉館時間ギリギリとなってしまった。美術館を出ると夕暮れの風景。年頭から濃い美術展巡りとなった。画像はトップが1927年作「猫のいる自画像」、下が向かって左からフジタの肖像写真2カット、制作順位絵画作品9カット(すべて部分図、展覧会図録より転載)、DIC川村記念美術館ロビーと外観。

川村記念美術館での展覧会は15日で終了しています。この後、いわき市立美術館(福島)、新潟県立万代島美術館、秋田県立美術館と巡回します。


             



276. 伝説の音楽家 マックス・ブルッフ Max Bruch

2017-01-14 18:57:50 | 音楽・BGM
今回の「音楽・BGM」カテゴリーの投稿は普段とは少し異なる内容となっている。主題としているのは、好きな作曲家やソリストの事ではなく、僕が最近気になっている音楽家の人生に関わることである。

主人公は マックス・ブルッフ。正確なフルネームは長くなるが、マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ Max Christian Friedrich Bruch,(1838年 プロイセン王国、ケルン生れ - 1920年 ドイツ、ベルリン没)ドイツの作曲家、指揮者、教育者である。特に作曲には若いころから才能を示し、その作品は日本でもコンサートでの演奏やレコーディングされた国内盤CDとしても発売されている「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調」、管弦楽のための「スコットランド幻想曲」、チェロと管弦楽のための名曲「コル・ニドライ」などの曲が知られている。特に初めの「ヴァイオリン協奏曲第1番」に関してクラシックの研究者の間では、べートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、シベリウスの「4大ヴァイオリン協奏曲」のうちどれか1曲を省いても入れてしかるべきだと言われるほどの名曲とされている。

ブルッフ作品全体に流れる第一番の大きな特徴はその「旋律性」だと言われている。ブルッフは魅力的で印象に残る旋律を生み出すことに長けていたので、その多くの作品を聞き手にとって親しみやすいものにしている。そして生前の発言の中で「旋律は音楽の魂である」「旋律を歌うのに向いていないピアノにはさほど興味が持てない」などと言っていたようだ。
もう一つの特徴としては、民族音楽への傾斜である。ヨーロッパのさまざまな国に伝わる民族音楽に興味を持ち、前期の「スコットランド幻想曲」や「コル・ニドライ」などの民族色の濃い作品を生み出した。そして当時のクラシック界では、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」やドヴォルザークの「スラヴ舞曲集」がヒットし、ブームとなったことから、出版社に要望されたこともあり「スウェーデン舞曲集」「ロシア舞曲集」などの作品を書きあげ、民族音楽的題材の作風で、その名声を高めた。 

ただ、僕がブルッフに興味を持ったのは、その音楽的特徴ではなく、この実力派の音楽家が多くの名曲を生み出しながら長い間、冷遇され続けてきた点であった。「ドイツ後期ロマン派、最後の音楽家」などとも呼ばれ、同時代のヨハネス・ブラームスの親友であり、良きライヴァルでもあった。そして経歴を調べてみるとゾンダースハウゼン宮廷楽長、イギリス・リヴァプール・フィルハーモニー首席指揮者、プロイセン芸術アカデミー作曲部長など華々しい役職を歴任している。作品も前記し、よく知られた有名曲以外にも、残り2曲のヴァイオリン協奏曲、3曲の交響曲、そして変化に富んだ室内楽曲の数々、声楽では合唱曲やオペラなど、どのジャンルをとっても高いレベルの名曲が残されている。そして弟子としてはレスピーギや山田耕筰などの名前をみつけることもできる。それなのに何故? 何故?一部の作品を除いて急速にその存在を忘れ去られ、長く冷遇され続け、演奏もされずに近年まで復権されなかったのだろうか? 今、僕にとってここに興味の点が集中しているのである。

その理由としていくつかが専門筋の間では語られてきたようだ。以下に列挙してみよう。

① その音楽性が旋律性重視など、ロマン派の中でも古典主義的な性格が強く、特に晩年には時代遅れとなってしまったこと。

② フランツ・リストやリヒャルトワーグナーなど「新ドイツ楽派」に明らかな敵意をいだいていたこと。

③ 当時の新しい世代の音楽家であるR・シュトラウスやマックス・レーガーらに対して激しい攻撃を加え、反動家としての悪評が広まったこと。

④ ユダヤの題材を用いた作品で成功をおさめたことで、ナチス時代にユダヤ人の血を引くのではないかと疑われ、上演禁止となったこと。

もう一つは僕の想像だが、

⑤ 1944年の大戦末期、西からアメリカ、イギリス軍、東からソ連軍の攻撃を激しく受けたドイツ本土、特にベルリンは焦土と化し崩壊したことからスコアの多くが焼失、紛失してしまったのではないか。

しかし①などは、さまざまな時代の中でよくあったことであろうし、②③も芸術的表現の見解の違いというのはなにも音楽に限らず文学や美術の世界ではよくあること。④はその後、本人や残された家族、親類が否定していて根拠がないものとなっている。⑤は僕自身の妄想である。いずれにしても、どれもブルッフの名曲の数々が封印されていた決定的な原因とはならないのではないだろうか? なにか他にもっと大きな理由があるような気がしてならないのだが。ブルッフというこの才能豊かな音楽家は僕にとって日増しに謎の多い「伝説の人」となってきている。

ただ幸いにも近年、本国ドイツを中心にヨーロッパ各地のクラシック界では「ブルッフ再評価」の動きが活発になってきていて、作品の演奏やレコーディングが増えつつもある。日本ではCDなども限られた曲の録音であるが、輸入盤などでは、あまり知られていないジャンルの作品が入手できるのもありがたい。微々たる歩みではあるが、ブルッフの美しい旋律を持つ名曲の数々に耳を傾けながらこれから先、「伝説の人」の謎に迫っていきたいと思っている。画像はトップがブルッフの肖像写真。下が肖像写真もう一枚と国内盤、輸入盤CDのジャケット6カット。


            

275. 木口木版画の蔵書票を摺る日々。

2017-01-07 18:21:45 | 版画
11月のブログに投稿したが、版の彫りを続けてきたN氏、オーダーによる蔵書票の木口木版画だが、その後、5回ほどの試し刷りを経て、ご本人にもGOサインをいただいたので、先月末より本摺りの作業に入った。摺り枚数はトータルで350枚。僕がオーダーを受けた版画の枚数としては2番目に多い数である。

毎日、この版画の摺りだけをやっているわけではなく、他の仕事の合間合間に摺っているのだが、午後から始めて夕飯の時間まで半日で僕のペースで、丁寧に摺ってせいぜい40-50枚ほど。トータルで1週間ほどかかるだろうか。それ以上摺れないこともないのだが、今回細かい彫りの部分が多く、油性インクでの摺り増しによる版の「つぶれ」を避けるため50枚程度で終了している。そこで版面のインクを掃除して一旦、休憩をとる。

摺りの手順としては、まずインクの準備から始まる。硬い活版用の製版インク、木版画用のチューブ入り油性インク、乾燥剤などをガラス板の上で金属のインクべらで練り上げて行く(数十分)。このインクをゴムローラーでガラス板上に慎重に、薄く、薄く伸ばしていく。板上に伸ばされたインクが厚ぼったいとこれも細かい彫りがつぶれて醜く摺りあがる原因となるからだ。それから彫りあがった木口の原板に、これも慎重に薄く、薄く盛っていく。そしてインクが盛れたらその上に摺るべき紙(今回は厚口のがんぴ紙)を周囲の余白が木製のガイドによってそろう位置に合わせて置き、バレンと木製のヘラを何回もこすって摺りあげて行く。これを半日で50回繰り返す(道具類は画像を参照)。

版画家にとって摺りの作業というのは「過酷な労働」である。それ以外の何物でもない。おそらく現役の版画家100人にアンケートをとったとして「摺りは嫌い、彫りの方が好き」と答える人は99%ではないだろうか。ただ、今回のようにオーダーによるラージ・エディション(摺り枚数が多いこと)となってくると、それだけの枚数が確実に人の手に渡っていくことに対する妙な快感も覚えてしまうのだが。

摺りの作業の間は「摺り三昧・すりざんんまい」に入る音楽をBGMとしてかけることにしている。以前はワーク・ソングとして「シカゴ・ブルース」をかけていたが、最近は画像にアップしたバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタと組曲」である。これをかけていると不思議と労働の辛さを忘れて摺りに没頭することができる。うまくはまったので、いろいろなソリストのCDをかけている。

大晦日から元旦もこの版画の摺りを行っていた。ここ、二日ぐらいは休んで別の仕事に集中しているのだが、現在、摺りあがりの枚数が245枚となった。失敗摺りは依然と比べてかなり減ったがここまで15枚ほど出している。なので、あと120枚摺らなければならない。あと3日ぐらいかな。成果品の納品が3月中旬なので、ここからは焦らずじっくりと摺りあげることにしよう。

画像はトップが摺りあがった木口木版画の蔵書票(この画面で30枚ほど)。下が向かって左から摺りあがった蔵書票のアップ、今回の版木、版木をガイドにセットしたところ、ガラス板にのばした油性インクとゴムローラー、愛用のバレン、BGMのバッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタと組曲」のCD盤。