長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

382. 『フリーア美術館の北斎展』を観る。

2019-09-07 17:27:14 | 美術館企画展
先月9日。東京駅のステーションギャラリーで『メスキータ展』を観た同じ日、順番が逆だが、両国のすみだ北斎美術館で開催されている『フリーア美術館の北斎展』を観て来た。国立スミソニアン協会・フリーア美術館は1923年アメリカのワシントンD.C.に設立された美術館で、スミソニアン美術館群の1つである。実業家であるチャールズ・ラング・フリーア(1854-1919)がコレクションした美術品をはじめ、隣接するアーサー・M・サックラー・ギャラリーも合わせて、日本美術の収集品数は約1万2700点に及び、中でも北斎の肉筆画は世界屈指のコレクションを誇っている。そしてフリーアの遺言により所蔵品はすべて門外不出とされ、その方針は現在も固く守られている。

そこで今回の展覧会はフリーア美術館の全面的な協力により、京都便化協会と光学メーカーのキャノンが推進する「綴りプロジェクト(文化財未来継承プロジェクト)」によって同館が誇る世界最大級の北斎の肉筆画コレクションの中から13点の高精細複製画を制作、これにすみだ北斎美術館の約130点の関連コレクション作品と共に展示するという内容になっている。

実は「高性能デジタル撮影による複製画」による展示という事を会場の入り口で知った。この時は「なぁんだ…」と思ってしまいあまり期待していなかった。ところが会場に入って順番に観ているうちにその偏見は拭い去られていったのだった。特に六曲一双の大作「玉川六景図」や「波濤図」のデジタル再現コピーは会場で観る限りは本物とまったく区別がつかない。岩絵の具の極薄い絵の具層の盛り上がりや余白部分の絹本の質感、飛び散った絵の具、古くなってできたシミに至るまで極々細部までもがリアルに再現されていた。そのあまりにも見事な再現技術に見入っているうちに目の前のコピーが複製プリントであることを忘れてしまうほどである。

一眼レフカメラと高性能レンズで知られるキャノン・Canonの入力、画像処理、出力に到る先進技術と京都伝統工芸の匠の技との融合によって表された門外不出の北斎の肉筆画コピーに完全にノックアウトされ脱帽状態であった。デジタル撮影・印刷技術は日増しに進化を続けている。こうしてどんどん進化する中、手描きの絵画や手摺りの版画というものが人にとっていったいどこまで意味を持ち続けていられるのか。いろいろと考えさせられる展覧会であった。

会場を出ると猛暑のの大都会、真っ青な夏空が広がっている。北斎美術館の館長をご紹介いただいた知人の方に教わった近くの手打ち蕎麦店「穂乃香」で遅い昼食をとった。ここは「北斎せいろ」など北斎の名がついたメニューもありお薦めの蕎麦屋である。


※展覧会は8/25で終了しています。


      

381.『メスキータ・Samuel Jessurum de Mesquita』展

2019-08-31 17:17:05 | 美術館企画展
今月9日。東京ステーションギャラリーで開催中の『メスキータ』展を観に行ってきた。近頃、美術館企画の観たい展覧会がたくさんあるのだが中々、スケジュールが合わず観られないことが多い。そしてどうゆうわけかブログへの投稿も後手になってしまう。

サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1866-1944)は19世紀末から20世紀末にかけてオランダで活躍した画家、版画家、デザイナーで、美術教育にも力を入れた人である。長く教鞭をとった美術学校の教え子の中には「だまし絵」で有名なM.C.エッシャーがいる。ポルトガル系ユダヤ人の家系に生まれたことから第二次世界大戦中にナチス・ドイツの「ユダヤ人迫害」に遭遇し終戦の年・1944年にアウシュビッツのゲットーで亡くなっている。死後、アトリエに残された数多くの作品はエッシャー等の教え子や知人たちが決死の思いで救いだし、大切に保管されたものだという。今回の展覧会が日本でのメスキータの初めての大きな回顧展となっている。僕は版画の世界に長く生きてきたが、この作家は初めて知った。弟子のエッシャーは好きでよく企画展なども観ていたのだが。

東京ステーションギャラリーはコンパクトな美術館であり、今回の作家はは日本では言ってみればマニアックな知る人ぞ知る存在である。「たぶん会場は空いているだろう」とタカをくくっていた。ところが会場に入るとけっこうな入場者でこの美術館としては混んでいて意外に思った。おそらく某公営放送の美術番組で紹介されたのだろう。版画作品が多い展示となっているので比較的小さな作品が多いのだが、それ故に展示作品数が多い。チラシやポスター、ネットなどの事前情報から特にモノクロの木版画作品がクローズアップされていたので、やはりその辺を期待して来た。少数の画像で見ていた限りではブリュッケ・ドイツ表現主義のキルヒナーやノルデなどのモノクロ木版画に近い表現かと思っていたが、実際に多くの木版画を観てみると、かなり質の異なるものだった。画家の手による荒々しいタッチの木版画を連送していたのだが、そいはむしろグラフィック・アートに通じるシャープな表現に思えた。たとえば戦後の東ヨーロッパ等に観られるボスターや挿絵、ブックワーク、絵本などの表現と重なって見えてきた。何かこの人の内面的世界にはそうした切れ味のよい平面空間があるのかもしれない。会場で思い出したのだがそう言えばエッシャーの以前観た初期木版画作品に類似している。「だまし絵」の巨匠も師の影響下にドップリとはまっていた時期があったのだと思った。銅版画作品もけっこうあったが、木版画作品に共通した表現であった。

展示作品の中で今回目を引いたものは「ファンタジー」と題名の付いた連作群だった。木版画、銅版画、ドローイングなどさまざまな手法で制作されたもので、不気味だがどこかユーモラスでもあり、何とも形容しがたい不思議なイメージの人物像が描かれている。それは例えて言うならばパウル・クレーの初期、人物表現やジェームズ・アンソールの仮面劇とも通じるような表現であった。

真夏の猛暑日、久々に版画らしい版画の展覧会をじっくりと堪能し、充実した気持ちで会場を出た。東京での展覧会は今月、18日で了したがこの後、2020年1月、千葉県佐倉市立美術館、4月、兵庫県西宮市大谷記念美術館、7月、栃木県宇都宮市美術館、9月、福島県いわき市立美術館と巡回する予定となっている。ブロガーの方々でお近くにお住いの方は要チェックして是非、御高覧下さい。



            




379. 嶋田 忠 写真展 『野生の瞬間』を観る。

2019-08-10 17:57:27 | 美術館企画展
8/3(土)、猛暑の中、東京恵比寿の東京都写真美術館で開催中の 嶋田忠 写真展『野生の瞬間』を観に行ってきた。

嶋田忠氏と言えば僕が野鳥観察を始めた1970年代から気鋭の野鳥写真家として活躍されていた人である。当時、動植物の生態写真家の登竜門の雑誌として知られていた『アニマ』誌上にいつも生き生きとした野鳥写真が掲載されその魅力に毎号食い入るようにして見入っていたのをつい昨日のことのように想い出す。その後、数多くの野鳥の生態を撮影した名作写真集が生み出されていった。大きな写真賞受賞の1979年のデビュー作『カワセミ清流に翔ぶ』の出版から始まり、『バードウォッチング-鳥の生態と観察』では当時まだ珍しかった「バードウォッチング」という言葉に市民権を与えることにもなった名著である。『火の鳥 アカショウビン』、『カムイの夜 シマフクロウ』と続き、その後スチール撮影では飽き足らずテレビなどを通して野性鳥類の動画撮影に集中されていたが、2014年に『氷る嘴 厳冬のハンターヤマセミ』という写真集を久々に出版された。上記の写真集は全て僕の書棚に並ぶ。つまり1ファンということになる。

最初から感じていたことだが嶋田氏の野鳥写真は「何か」が違う。写真に写し取られた鳥たちの生き生きとした表情や迫力、現場での光や空気感のリアルさ、臨場感…いやいやそんな月並みな言葉では表すことができない「何か」なのである。

この日、14:00から美術館ロビーで行われた日本野鳥の会主席研究員の安西英明氏との対談(ギャラリートーク)を聴くことができた。対談の内容は野鳥に興味を持ち始めた少年期のこと、野鳥界のカリスマ的存在である日本野鳥の会の創始者、中西悟堂氏との出会い、カメラに興味を持っていなかった氏が野鳥写真を始めたきっかけ、北海道への定住と撮影スタイルの完成、スチールを離れ動画ムービーを始めた理由、撮影地パプアニューギニアでの様々な自然、野生生物、人との出会い等々…安西氏のスムーズなエスコートもあって次々と興味深い内容、撮影秘話が紐解かれていった。この対談を聴けたことで上記した「なにか」がほんの少し理解できたように思えた。それを言葉にすることは難しいが、敢えて言えばそれは作者の野生に対する感性のようなもの、野生に向き合う姿勢、あるいは表現感といったことになるだろうか。

作品の展示は16歳の時に初めて母親に買ってもらった一眼レフカメラで撮影した驚くほどリアルでシャープなモノクロ写真から始まり、年代を追って、上記した名作写真集に掲載された鳥たちの大きなプリント作品へと続く。そして圧巻だったのは展示の後半、パプアニューギニアの熱帯雨林での珍しい生態のチャイロカマハシフウチョウ、キンミノフウチョウ、ヒヨクドリ、タンビカンザシフウチョウなどの奇妙な求愛ダンス画像の眼を見張る美しさ。そして鳥ばかりではなく熱帯雨林の風景や植物。もっとも今回の展示でインパクトが強かったのは独特な衣装やメイクで彩られた原住民たちの画像だった。僕が言うのもなんだが、このパプアニューギニアの連作で嶋田氏の世界観は大きく変容し、一回りも二回りも広大で奥深いものになってきていると思った。そしてそれは単なる生態写真を超えてむしろ僕たちの「アート」の世界に近い表現であると思った。

このブログでも連続投稿した北海道への『野鳥版画』作品制作の取材旅行のおりに千歳市にある嶋田氏の写真ギャラリーを訪問した。その時、ご本人にもお会いし話したかったのだが、運悪く行き違いとなってしまった。安西氏との対談後に安西氏にご紹介いただき、このことをお話しすると「千歳の野鳥は冬がいいのでまた季節を変えて来てください」とおっしゃっていただいた。是非、冬の千歳に版画の制作取材と言う名目でまた訪れたいと思っている。

すっかりと嶋田氏の表現世界に魅了され会場を出ると強い紫外線の東京の人工的な街が待っていた。だが、暑さの疲れなど忘れさせてくれるような心地よい余韻が残っていた。展覧会は9月23日まで。ブロガーのみなさんで野鳥や写真にご興味のある方、是非、この機会に会場まで足を運ばれ、嶋田ワールドを体験してください。



               







371. 『没後25年 堀井英男 展』 を観る。

2019-06-08 18:57:48 | 美術館企画展
6月5日。茨城県水戸市の茨城県近代美術館に『 没後25年 堀井英男 展 』を観に行った。堀井英男(1934-1994)は茨城県潮来市出身の画家・版画家で現代の人間像を鋭い視点でとらえた幻想的な色彩銅版画や風景と人物を融合するような抽象的で不思議な水彩画を数多く制作したことで知られている。

そして僕の美術学校時代のゼミの先生であり、版画と絵画世界の師である。2012年に同美術館で企画による大きな回顧展が開催され弟子の1人である僕は画集に掲載するインタビューや展覧会期間中の「幻想絵画」のワークショップなどでご協力させていただいた。「早いなぁ…もうあれから7年も経ってしまったんだなぁ」

今回の展覧会は奥様である京子夫人がアトリエに保存されていた銅版画作品、水彩画作品を美術館に寄贈されたことから、そのコレクションのお披露目という意味も含まれている。総点数は50点強。初期のアーシル・ゴーキーに影響を受けた抽象的な大作油彩から人形をモチーフとした色彩銅版画の代表作、晩年の人間と風景を融合させた半抽象的な水彩画と見どころ十分な内容となっている。
この日は平日で朝から高速道を乗り継ぎ、昼ごろに到着、レストランで昼食を済ませてから入館しじっくりと拝見させていただいた。途中、中休みとして敷地内にある茨城県ゆかりの洋画家、中村つねの復元アトリエを見学してからもう一度入館しじっくりと観た。次回の展示はいつになるかわからないので網膜に焼き付けようと1点1点、丁寧に観て行った。

展示室を2巡し、中央のソファに腰を下ろしてボーッと作品群を眺めていた時にフッと浮かぶ想いがあった。想い出して見ると故郷の潮来市の公共施設、八王子市夢美術館、そしてこの茨城県近代美術館と師の大きな規模の回顧展は全て没後である。いろいろな事情はあったようだがこうした展覧会、ご本人がご存命であれば、きっととても喜ばれたのではないだろうか。以前、個展会場などで自作に着いて熱心に語ってくれた時の真剣な表情やユーモアを語る時の笑顔が思い出されるのだった。病没された60才という年は早すぎたし、今生きていれば85才というのは今日ではまだまだ元気である。最晩年の水彩画の連作を眺めながらこの後25年間があればもう1~2回作風の新展開があったのではないだろうか。

それから晩年に師が東京での僕の新作個展にいらした時に言われた言葉も思い出した。「長島が50才を超えるまで作品制作を続けていたら俺が食わせてやるよ」。その僕も今月21日に師が亡くなられた年齢となる。考えて見れば50才はとうに過ぎたけれどこの年まで作品制作を続けてこられているということが「俺が食わせてやるよ」ということだったのだろうか。「まだまだ、師の緊張感のある画風には追いつけないけれど、せめてその分長く生きて制作を続けて行こう」と自身の創作意欲を奮い立たせたのでした。

展覧会は今月の16日(日)まで。このブログを読んでいただいている版画フアン、絵画ファンの方々、この機会に是非「堀井ワールド」をご覧になってください。

画像はトップが色彩銅版画の代表作「青のスペース(部分)」。下が向かって左から同じく色彩銅版画作品(部分)と美術館内のようす。



            

332.千葉市美術館 『百花繚乱列島』展を観る。

2018-05-26 16:03:01 | 美術館企画展
どうも美術館の企画展を観てからのブログの投稿が後手になる。今回ご紹介する展覧会も今月20日に終了した企画展である。今月11日、千葉市美術館で開催されていた『百花繚乱列島 - 江戸諸国絵師めぐり - 』展を観に行ってきた。タイトルどおり展示内容は江戸時代の中後期、全国通津浦々から、その土地出身や各藩の御用をつとめた絵師たちの作品を集めたものである。この絵師たちは実に個性あふれる作品を生み出しているのである。

最近ではどこの美術館の企画展もとても充実していて、どこへ出向いたらいいか迷うほどであるが、この千葉市美術館は江戸時代の「奇想絵画」や「浮世絵」そして「新版画」や「創作版画」にみられるユニークな作家、画家の企画展を数多く開催していて、僕が強く興味を持っている辺りでもあり、よく通っている美術館である。東京周辺として見ても最も通っているのかも知れない。フィーリングが合っているということだろう。そうした意味で今回の展示もなかなかツボを得た内容である。

僕は恥ずかしながら江戸中後期の御用絵師(展覧会図録ではご当地絵師などと表記されていた)たちの作品というものを不勉強であまり知らなかった。今回版画も含めて約190点の作品が一堂に会していた。「よくぞここまで集めてくれました」と担当者に一言お礼を言いたいほどであった。時代的には山水画、花鳥画、人物画など日本の絵画のあらゆる画風が出揃い、その技法的にも円熟期のものなのでどこをとっても見応えがある内容になっている。全てをここでご紹介することはもちろんできないので、その中で特に印象に残った作品を数点、挙げてみることにしよう。

初めに菅井梅関(すがい ばいかん 1784-1844)という仙台出身の画家。京都、江戸、長崎で活動し、後半生は仙台へ帰郷した人だが、この画家の軸物の梅を描いた2点の対ともいえる墨画が良かった。筆使いに勢いがあるのとまるで龍を思わせるような梅の幹と枝の動きがデモーニッシュにも観えてその場に釘付けになってしまった(画像参照)。

次に展覧会全体を通して何点か登場する幕末期の絹本に描かれた油彩画が目に留まった。安田でんき(漢字が古いもので名前の変換ができなかった 1789-1827)という、仙台出身の画家による異国の風景画や、江戸生まれで銅版画を制作したことでも知られる司馬江漢(しば こうかん 1747-1818)による帆船が浮かぶ内湾の風景画等は、その遠近法や明暗法の技術的な稚拙さからなのか、まるでアンリ・ルソーなど西洋のナイーフ絵画の表現に重なるものを感じることができた(画像参照)。
花鳥画では栃木出身の戸田忠翰(とだ ただなか 1761-18237)という画家の白いオウムを描いた軸作品が江戸の人気の奇想画家、伊藤若冲の作風を連想させ完成度が高かった。 そして鳥取出身の黒田とうこう(1789-1846)作の鯉をリアルに描いた絵画は、まるで時間が止まってしまったような不思議な描写で、何故かシュールレアリズム絵画の作風を思い浮かべる。それから、この時代の銅版画が展示されていたのも興味深く、日本の銅版画の黎明期にエッチング技法や手彩色の技術で丁寧に制作されている作品には銅版画制作者としての僕にもたいへん参考になるものだった(以上、画像参照)。

2つのフロアに展示された数多くの絵画作品は知識があまりなかっただけに新鮮に映り、一度では観たりずにレストランでの昼食を挟み、もう一巡して見て回ったのである。ここの美術館では、二度観ることが多い。それだけ内容が濃く充実した企画展を開催しているという証しなのだろう。

次回の企画展は大正期の個性的日本画家『岡本神草の時代展』。これも今からかなり楽しみな展示である(予告ポスター画像参照)。


画像はトップが今展のポスター。下が向かって左から文中でご紹介した作品の数々、美術館一回の建築のようす。次回の展覧会の予告ポスター。



                          




























312. 運慶展を観る。UNKEI Exhibition 

2017-11-23 19:05:20 | 美術館企画展
昨日、22日。東京上野の東京国立博物館で開催中の「興福寺中金堂再建記念特別展 運慶」を観に行ってきた。とにかく「史上最大の運慶展」というキャッチコピーだけに会場は連日とても混んでいるという評判だった。先に観に行った友人、知人からはまず午前中から午後早くにかけてはチケットを購入するために長蛇の列に並ばなければならず会場に入ってからも混雑していてアナウンスに追い立てられながら観なければならないと聞いていた。
あまりに混雑するため博物館側の配慮で急遽、22日から最終日まで夜9時まで観られるようになったという。これは渡りに船と出かけたわけである。実はこの展覧会、個人的には一年以上前に企画が公表されてからとても楽しみにしていたもので今年のメインの美術鑑賞に位置付けていたのである。

夜間に美術館、博物館に来るのは初めてではないが、ここでは初めて。夕刻チケット売り場に到着したが空いていてすぐに購入できた。敷地内に入ると博物館の本館などの建築がライトアップされて美しく独特の雰囲気を放っていた。どうやら日中の混んだ時間帯とこれから夜間に訪れる時間帯のちょうど中間に来れたようで会場もまだあまり混んでいない。これはとてもラッキーだった。

今展で僕が是非ジックリと観ておきたい彫刻が3体あった。その一つ目は運慶が19才の時にプロの仏師としてデビューした記念すべき像とされている「国宝 大日如来坐像」である。この像には特別な想い出がある。今から遡ること35年前、まだ20代の美術学校の学生だった頃である。学校の行事で「古美術研修旅行」という奈良・京都の寺院などを巡って日本の古美術を見学して回る旅行があった。その中でちょうど奈良と京都の県境に位置する場所に円成寺という寺院がありここの仏像を拝観する機会があったのだ。それほど大きくない本堂は本尊の阿弥陀如来坐像を中心にして周囲にはいくつもの仏像が安置されていた。お堂の中は昼でも暗く、高等学校の社会科の先生でもあるというご住職が1つ1つの像の前に据え付けてある蝋燭台の蝋燭に順番に火を点していくのだが薄明かりにボウッと浮かび上がる古い仏像はなんとも言えない雰囲気があった。全ての像の蝋燭に火が点くととても美しく静寂な空間が現出したのだった。この中に「国宝 大日如来坐像」があったのである。解説で「運慶19才の時の作」と言われ、すでに23才になっていた僕はとても驚いたのである。そこには若い年齢を感じさせない完成度が高く厳しい形の彫像が座っていたのだった。

あの大日如来に再会できる。今回はそれだけでも良いと思ったぐらいだった。会場に入ると展示のトップがこの像だった。実に35年ぶりの対面である。あの薄暗い照明の寺院の中で観た印象とはかなり異なって見えた。お寺と違って周囲をグルリと回れるのでゆっくりと何周もしながら観た。全てを照らし出してしまう博物館の明るいライティングの中だと記憶より小さくも観えた。だが、その完成度の高さと形の厳しさは相変わらずであった。奈良、平安の仏像彫刻の伝統を踏まえながらも若い仏師運慶によるこれから新しい何かが生まれる予感さえも感じとることができた。

次に運慶の父で仏師の康慶の作品群が展示されていた。興福寺の「重文 四天王立像」同じく「国宝 法相六祖坐像」などである。どれも素晴らしい鎌倉期のリアリズム彫刻で今にも動き出しそうである。この写実的感性はやはり親譲りなのであろうと思った。ところが続いて運慶作の一体の像が登場し雰囲気がガラッと変わる。静岡、願成就院蔵の「国宝 毘沙門天立像」である。初めて観る像であまり大きなものではないが同じリアリズムでも父、康慶のそれとはかなり表現感が違って観えた。個性と言ってしまうとそれまでだが、それまでの伝統的作風のものから抜きん出たように観えるのである。近代的に言えば「モダン」という言葉に近い感覚なのだろうか。以後、展示会場を進むごとに運慶色が濃くなっていった。 
神奈川県・浄楽寺の大きく迫力のある「重文 阿弥陀如来坐像および両脇侍立像」と「重文 不動明王立像」。そして3年前に東京の美術館で展示され話題になった和歌山県・高野山金剛峰寺の「国宝 八大童子立像」の小さいながら丹精な造形の像などは目を見張った。このあたり時間をとって観て行った。

そして今回ジックリ観ておきたい彫刻の内、残り2体の像までたどり着いた。その像は奈良・興福寺の「国宝 無著菩薩立像」と「国宝 世親菩薩立像」である。2人とも西域からインド、中国を経て日本に伝来した「大乗仏教」の重要な実在の歴史的偉人である。無著(むじゃく)はインド名をアサンガといい4世紀・北インドのガンダーラ国出身の思想家。世親(せしん)はインド名をヴァスヴァンドゥといい4-5世紀・パキスタン出身の思想家である。どちらも大乗仏教の中心的な思想である唯識思想の教理的な基礎を築いた人である。日本には奈良時代に「法相宗」として伝えられた。つまり日本仏教にとっても欠かすことのできない重要な思想家たちなのである。

この二人の偉人の偉大さを表現するため運慶は新たに制作チームを組んで、それぞれ高さが2メートルという迫力のある彫刻として完成させた。会場で対にセットされている2体をジックリと観て行くと、とてもリアルな表情をしている。そして頭部の骨格がかなり的確に捕えられている。実際にモデルを目の前にして制作したのではないだろうか。比べて行くと無著さんの方が中国系の顔立ちをしていて世親さんの方が西域的な顔立ちに観えた。そしてグルッと回って観て気づいたことだが運慶の表現は背面がリアルなのである。これは上記した高野山の八大童子などもそうなのだが背中から肩、後頭部にかけての表情、プロポーションがとても写実的になっているのだ。もともと仏像はお堂の壁を背にしてセットされるのが常であるので正面性が強い。しかし運慶はこの普段観えない部分にもかなりこだわりを持って制作している。これはそれまでの像には観られないことではないだろうか。2人の偉人を背中から眺めてみた。俗に「背中がモノをいう人」というが、まさにそんな感じである。背を向けても何かを語りかけてくる。

今日の目標が観れて一息しながら会場をボーツと観ていた。それほど混んでいなかった会場にも仕事帰りの人々なのか夜の時間帯になって来場者が増えてきた。いくつも林立する彫像の周りを多くの人々がグルグルと歩きながら観ている光景がなんとも不思議な感じである。普段は信仰の対象としてそれぞれの像が安置されている寺院などで静寂な空間の中に存在しているものが明るい博物館に担ぎ出されてきている。その周りを初めて顔を観る大勢の来場者が忙しなく動き回ってるのである。このようすホトケ様の世界から観るとはたしてどんなふうに映っているのだろうか。

ここまででかなり堪能した。見応え十分であり大満足である。これ以外でも「慶派」と言われる運慶の弟子たちや影響を受けた仏師たちの彫刻も興味深いものが数多くあった。最後にもう一度会場を逆戻りしながら運慶の代表作を観てから会場を出た。上野公園を歩いているうちに雨が本降りになってきた。展覧会の興奮が残る中、いつもの御徒町の蕎麦屋で新蕎麦で焼酎を一杯飲んでから帰宅した。

※展覧会は今月26日の日曜まで。まだご覧になっていない方はこの機会に是非、足を運ばれてください。夜の時間帯が比較的空いていてねらい目です。

画像はトップが世親菩薩像のアップ。下が円成寺の大日如来坐像、浄楽寺の不動明王立像、願成就院の毘沙門天立像、無著菩薩立蔵、世親菩薩の背面のそれぞれのアップ(以上、展覧会図録より複写)。会場の看板など2カット、ライトアップされた東博の本館等2カット。


                      









277. 『レオナール・フジタとモデルたち』 展を観る。

2017-01-24 18:59:42 | 美術館企画展
2017年、新年初の美術館巡りの投稿となる。今月14日、工房からほど近いDIC川村記念美術館で開催されていた『レオナール・フジタとモデルたち』展を観に行ってきた。ここは国内最大手のインク会社であるDICの歴代会長のコレクションを展示する美術館であり千葉県内でも屈指の充実した近現代ヨーロッパ、アメリカ・モダンアートの絵画彫刻作品の収蔵を誇っている。そして開館当初からの企画コンセプトが「この美術館に1点でも収蔵されている美術家の企画展を開催する」ことである。そして今回の企画展がこのレオナール・フジタの回顧展となったわけである。

レオナール・フジタ(藤田嗣治、1886-1968年)と言えば、日本から渡欧、フランスを中心に活躍し「乳白色の下地」と呼ばれる独自の絵肌を開発、二つの世界大戦間のパリで一躍時代の窮児となり、ヨーロッパの近代美術の歴史の中でもっとも成功した日本人芸術家と言われている。そのフジタが生涯を通じ、画家として多様な主題をモチーフとする中で中心となったのは人物画であった。今回の企画展はその人物画に焦点を絞り初期から晩年までの作品を、その描かれたモデルにまつわる資料を合わせて展示することでフジタの人物画追及の軌跡とモデルとした人物たちに注がれた眼差しを再検討する内容となっていた。

今回は昼食を挟んでじっくり観ようと思い美術館に着くと、さっそく隣接したフレンチレストランに入り日替わりのコースで腹ごしらえをした。入館し、いつものように常設の展示を順路に沿って観て行く。モネ、ピカソ、シャガールなどの西洋の近代美術の部屋から始まり、アメリカ・モダンアートの部屋、そしてここの目玉である「ロスコ・ルーム」でのマーク・ロスコの大きなタブローを満喫する。それからいよいよ企画展の部屋となる。

入り口を潜り初めに出迎えてくれたのは初期の人物画、絵画やデッサンの数々、そして順路に沿って進むと1913年、渡仏した頃の作品へと変わる。当時のパリはエコール・ド・パリの真っただ中である。キスリング、モディリアーニ、スーティン、ユトリロ、ピカソ、パスキンなど蒼々たる個性派画家が大集合していた時代。その中でも特にモディリアーニとは、故郷を遠く離れた孤独、自己芸術への渇望などを共有する者として親交を深めていったらしい。有名なフランス映画「モンパルナスの灯」にも登場するモディリアーニ作品を多数コレクションしていた画商、ズボロフスキーの手配により、モディの恋人ジャンヌ・エビュテルヌやシャイム・スーティンと南仏で共同生活もしていた。この時期の「人物画」の表情は瞳が描かれず、面長のデフォルメした形がモディのそれとそっくりである。よほど好きで影響を受けていたのだろう。

お次の部屋は1920年代の「パリ、成功時代」となる。日本画の胡粉(白色の顔料)を洋画の白色顔料と混ぜ合わせ洋画の溶き油で練り合わせて作ったオリジナルの絵の具を画面に塗った「乳白色の下地」に、これも日本画の面相筆などを用いて極細の描線で描いた独自の絵肌、表現の人物像が数多く出迎えてくれた。これらの絵画作品によりパリのサロンで成功をおさめたフジタは一躍、当時の現代美術界の大スターとなっていった。中でも特に印象に残ったのは川村記念美術館収蔵作品である、詩人「アンナ・ド・ノアイユの肖像」の無駄のない緊張感のある全身像と今回初めて観ることができた群像表現の壁画大作「構図」「争闘」である。この壁画は1928年、パリでの個展で発表されたもので2点1組の4部作となっているが、1点が3m四方という大作で迫力満点であり、この部屋では時間をかけて少し引いた位置からしばらく鑑賞していた。

そして次に1930年年代からの「世界をめぐる旅」、日本帰国時代を過ぎ、最後の部屋である1950年代からの「追憶と祈り」という部屋に至る。この時代、フジタは1955年にフランス国籍を取得し、1959年にカトリックの洗礼を受けて「レオナード・フジタ」と改名している。ここで僕が意外と思ったことがある。「乳白色の下地」の成功により独自の画風を開発し大きな成功を得た時代から第二次世界大戦を経たこの時代、フジタは「新古典主義」とも言える画風へと変化して行く。乳白色の無駄な要素を極力除いた「白の世界」から西洋の古典絵画(宗教画)であるボッティチェリやウェイデンなどに傾斜し、「白の世界」から一転して画面の四隅まで空間を埋め尽くす「古典的な画風」へと変化していったことだ。画家としてたどる順序としては一般的に煩雑な構成から徐々に洗練され整理された方向性に向かっていくのがならわしだが、フジタの晩年は逆のベクトルに向かったのである。カトリック教徒となった精神的な変化ということも関係しているのだろうが、今回の企画展で僕はフジタのこの「古典回帰現象」に最も強く興味を持ったのだった。

家を出てくる時には午後3時頃には帰宅する予定だったのだが、展覧会のあまりの充実した内容に出口に着いたのは閉館時間ギリギリとなってしまった。美術館を出ると夕暮れの風景。年頭から濃い美術展巡りとなった。画像はトップが1927年作「猫のいる自画像」、下が向かって左からフジタの肖像写真2カット、制作順位絵画作品9カット(すべて部分図、展覧会図録より転載)、DIC川村記念美術館ロビーと外観。

川村記念美術館での展覧会は15日で終了しています。この後、いわき市立美術館(福島)、新潟県立万代島美術館、秋田県立美術館と巡回します。


             



273.『浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術』展

2016-12-29 19:18:22 | 美術館企画展
今月13日。千葉市美術館で18日まで開催されていた『浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術』展を午前中から観に行ってきた。昨年、展覧会の予定が発表された頃から必ず観たいと思っていた展覧会である。

それにしてもこの千葉市美術館は良い企画展を開催している。開館当初より企画内容がしっかりしている。おそらく奇想絵画と浮世絵の専門家である初代館長、T氏のコンセプトが今も継承されているのだろう。現時点で展覧会のレベルの高さは県内でも屈指のものであると思う。そして予算もきちんととれていて図録などもしっかりとして画集のようである。別にこの美術館の宣伝マンではないのだけれど、こうして毎回、もう一度観たい内容を提示してくれると称賛もしたくなるのである。それはそうと展覧会だが、期待通り充実した濃い内容でたいへん見応えがあるものだった。今回も時間が許せば、もう一度観に行きたいと思ったほどである。

浦上玉堂(1745~1820)は日本絵画史の中で、独創的な水墨画家、また日本を代表する文人画家として有名であるが、自身は「自分は絵の描き方を知らず、気ままに描くのだから画人というのは恥ずかしい」と記して画人、専門家であることを否定し、本分は七弦琴を以て「音律を正す」ことを願う「琴士」であると公言しいていたという。
今回の展示で特筆すべきは玉堂の名作が観られるのはもちろんのことだが、長男で画家の春琴(1779~1846)と次男で音楽家、画家の秋琴(1785~1871)の作品を合わせて数多く観られる点である。

第一会場に入ると、まずはじめに玉堂の脱藩前後の40代から50代にかけての作品が出迎えてくれた。それにしても玉堂という人はかなりの変わり者である。寛政六年(1794年)、岡山藩の武士だった彼は先祖代々の俸禄をすべて捨て、16歳の春琴、10歳の秋琴の二子を連れて放浪の旅へと出発してしまうのである。それは76年間の生涯において、この時代老境に入った50歳でのことであったという。この事実だけでも相当に変わり者である。

そして逸る気持ちを抑えつつ会場をゆっくり移動しながら観て行くとメイン会場にたどり着く。大きな縦長の山水風景が次々と登場する。いわゆる誰もが思い浮かべる玉堂調の力強い水墨画に圧倒され言葉を失っていた。絵の中で木々はざわめき、山々はうねる様に天を突くように伸びあがる。墨の黒と紙の白の単純な構成ではあるが、まるで未知の生き物が会場のところ狭しと蠢いているかのような錯覚すら覚えてしまうほどだった。体中が熱くなって興奮してきているのが解る。ちょうどこのあたりで空腹にもなってきたのでレストランで昼食をとって仕切りなおしてから第二会場を観ることにした。

第二会場からは春琴と秋琴の二人の息子たちの作品がメインとなる。始めは春琴。この人はとても達者な「上手い画家」である。中国画もかなり熱心に学習したようだ。そして何より驚いたのは父親のダイナミズムとは打って変わって画風が繊細であることだった。神経の行き届いた緊張感のある細い描線、綿密に計算された構図、効果的な着彩による山水画、花鳥画、美人画とどれをとっても駄作がなく名品ずくしである。かなり人気のある売れっ子画家だったようで、この春琴が名声を得たことで父、玉堂が自由奔放な生き方と絵画制作ができ、そして名を残すことができたのだとも伝えられている。

息の抜けない春琴の作品が途切れたところで次男の秋琴作品の登場となった。この人は親子で岡山藩を離れた翌年、11歳で会津藩の藩士に取り立てられた。専門は音楽で藩では「雅楽方頭取」なども務めている。そして本格的に絵を描き始めたのは隠居後の80歳を過ぎてからだという。さすがに父、兄と比較すると画力には差があるように思われたが、80歳という年齢を考慮すると、この勢いのある筆致はなかなかのものであるとも思った。小技などはないが骨太で迷いのない筆運びによる味のある山水画が印象に残った。

結局、会場を出たのは予定していた時間をはるかに超えて午後遅くとなってしまったが、かなり充実し満足した時間を過ごすことができた。叶わなかったのだが、今年の「もう一度観てみたい」と思えた数少ない展覧会の一つとなった。画像はトップが玉堂の山水画。下が向かって左から玉堂作品3点、春琴作品3点、秋琴作品2点と千葉市美術館看板、美術館外様、春琴画の玉堂図。(作品画像は全て展覧会図録からの部分複写です)


          

271.我、心のP・アレシンスキー。

2016-12-10 21:34:26 | 美術館企画展
先月、9日。上野の西洋美術館で「クラーナハ展」を観た午後、渋谷に移動、1日に2つの展覧会はハードだったが、東急文化村ギャラリーで開催中の「ピエール・アレシンスキー展」を観て来た。

今更だが、ピエール・アレシンスキー(1927~)と言えばベルギーの現代美術を代表する画家であり、戦後、ベルギーや北欧の画家たちと表現主義の前衛美術家グループである『コブラ 1948-1951』を結成し、活躍した。そして日本とのゆかりも深く前衛書道家の森田子龍と交流を深め、その自由で闊達な筆の動きに影響を受け平面作品を数多く制作してきたことでも知られている。そして1955年に来日したおり、日本の書道を題材にしたドキュメンタリー映画「日本の書」を自ら製作している。

実を言うと僕はこのアレシンスキーに、とても深い想いがある。それはちょうど20代の始め、東京の美術学校に入学した頃に遡る。3年間の美大受験に見切りをつけ、当時ブームでもあった「現代版画」を3年間学べるというこの学校に入学して間もない頃、学校の実技で「イメージ・ドローイング」というものを教育方針で多く描かされた。つまり「自分の頭の中にあるイメージで絵を描け」というものである。ところが、それまで石膏デッサンや人体デッサン、静物の油彩画などアカデミックな絵しか描いたことがなかった僕はまったく作品にならず苦労していた。次第に学校からは足が遠のき朝から美術館やら画廊やら古書店やらを放浪する毎日を送り始めた。ちょうどその頃、発見した画家の1人がアレシンスキーというわけである。

当時、1980年代の初め、この画家の作品は美術雑誌や現代版画の季刊誌などにちょくちょく掲載されていて目に触れることも多かったのだ。アレシンスキーを知ることで上記した「コブラ」の存在を知り、同時代の画家、アぺルやコルネイユも知った。そして表面的な画風だけではなく彼らがピカソと同様にアフリカなどの未開社会の美術に影響を受けていることも知った。それからというもの「コブラ」が引き金になり近い表現の画家たちに目を向けることになっていった。たとえば「アール・ブリュ(生のままの芸術)」というグループのジャン・デュビュッフェやウィーンのフンデルト・ワッサーなど、いずれもヨーロッパ以外のプリミティヴな美術に影響を受けた画家たちである。学校にもろくに行かず毎日こうした画家たちの画集とにらめっこをする僕に前期の授業が終了する頃、版画家の主任から電話でお呼びがかかった。「酒を飲んで来てもいいから、ゼミに出て来てくれ」という内容。これは当時、僕がコンパや酒の席にだけは顔を出していたということである。

上記の画家たちに影響を受けて研鑚した僕の結論は「アカデミックなものを捨て去り絵を上手げに描かず、わざとヘタに描く」というものだった。これ以後。「イメージ・ドローイング」のゼミの講評会に並ぶ作品はなんと形容したらよいのか解らないような「下手くそな絵」であった。本人はゲイジュツカ気取りだったが、先生の講評の内容はというと…ボロボロだった。と、いうわけで僕にとってアレシンスキーは「初めて自分の作品を描こうとし始めた時期」の想い出深い画家なのである。その後、「幻想絵画」と出会い画風は大きく方向転換することになる。「描く画家」を否定した画家に影響を受けてから数年を経て再び「描く画家」を目指し描き始めることになるのである。今思うと前記の方向性に進んでいた方がその道の「大家」になれたかもしれないと、つまらん煩悩めいたことを考えてしまったりもする。今更、原点には後戻りできるはずはないのだが。

さて、本題の展覧会のことである。この美術館は、なかなか個性派の美術家を取り上げる。このアレシンスキーも日本での回顧展は今回が初めてということだ。それゆえに会場は空いていた。会場は「コブラ」展デビュー作のアフリカン・アートの影響が色濃い銅版画の連作から始めまり、同時代のアメリカの美術運動である抽象表現主義絵画を意識していた頃の油彩作品を通過、そしていよいよ日本のカリグラフィー(書)の影響のもと自由な抽象世界に開花する時代に入る。ここからは彼の独壇場の表現世界となる。「あぁ…懐かしいなあ、この魅力的な線描」「それからこの大胆な色使い」会場を移動しながら懐かしさで視点が定まらない。20代当時の自分の気持ちとピッタリ重なってきてしまうのである。特に印象に残ったのはパリの蚤の市で見つけた古地図をキャンバスに張り付けて、その上から抽象的な図像を描いた作品群。それから、これもパリの街のマンホールの蓋を和紙に部分的にフロッタージュしてから描いた作品群であった。どちらも「偶然性」ということを手掛かりにしつつ、新たな抽象世界を描き出しているものだ。それから上記した自主製作映画「日本の書」が会場内で上映されていたのは興味深かった。その中で版画の世界でも有名な女流書家の篠田桃紅さんの若かりし頃の姿も見ることができた。

この日は会場を出てからも随分長い間、記憶の中に眠っていた自分の原点を想い起こすことができてとても充実した時間を持つことができた。アレシンスキー氏に感謝します。最後に『自在の輪』という芸術論の名著の中から氏の言葉を拾ってみた。

『「あなたの絵をちょっと説明してくれませんか」といわれることがある。「口で伝えられるくらいなら、絵に描いたりはいたしません」というのが私の返答だ。自分の意図を敷衍(ふえん)したりすれば、私の絵はたちまち腹話術の人形と化してしまう(以下略)』  ピエール・アレシンスキー

画像はトップが出品作品「護り神」の部分図。下が東急文化村、アトリエでの最近のアレシンスキー氏、作品部分画像7カット(展覧会図録より転載)、若き日の篠田桃紅女史。

          




267. 『クラーナハ展 -500年後の誘惑-』を観る。

2016-11-11 19:50:53 | 美術館企画展

芸術の秋真っただ中。この季節、どこの美術館も、その年度のメインの展覧会が開催されていて、どれを観に行ってよいのやら目移りしてしまう。知人の方より事前にチケットをいただいていたということもあり、9日の朝から上野の国立西洋美術館で開催されている『クラーナハ展 -500年後の誘惑- 』の会場へと向かった。

ルカス・クラーナハ(1472-1553年)と言えばアルブレヒト・デューラー等と並び、ドイツ・ルネサンスを代表する画家である。そしてエロティシズム湛えた個性的な表現の女性像を数多く描いた画家として名が知られている。しかし、日本での美術館企画展は今回が初めてとのことである。

僕は油彩画を描き始めた10代後半から20代初めの頃、西洋のルネサンス絵画にとても魅かれた時期があって、アルバイトをして小遣いを稼いでは神保町などの洋書店で画集を購入していた。イタリア・ルネサンスではアンドレア・マンテーニャやカルロ・クリヴェッリ、パオロ・ウッチェロなどがお気に入りで、北方ルネサンスでは、上記のデューラーやマティアス・グリューネヴァルトなどが特に好きだった。それからフランドル絵画のヒエロニムス・ボスやペーテル・ブリューゲルも忘れてはいけない。クラーナハはピカソやフジタが影響された画家として名前も作品も知ってはいたが、この頃は、はっきり言ってあまり好みではなかった。理由としては、数多い裸婦像のプロポーションが美しいと感じられなかったのだ。他のドイツ・ルネサンスの画家もそうなのだが、どことなくプロポーションがぎこちなく、言葉は悪いがグニャグニャとして爬虫類的に見えてたのである(クラーナハさん御免なさい)。このドイツ的なグロテスクな感覚はいったいどこからくるのだろうか。女性像はイタリアのダ・ヴィンチやボッティチェルリ、ベネチア派の画家達の作品に登場する健康的で均整のとれたものに魅かれていた。

その僕がクラーナハの作品が気になるようになったのは、20代の終わりから30代の初めぐらいにかけ自らの表現として幻想的な作風の銅版画制作を始めてからだった。この頃、幻想文学者の澁澤龍彦の著作に出会い片っ端から読み漁っていた。その中の『裸婦の中の裸婦』という西洋の絵画や彫刻の裸体画の中から好みのものを12点選び、それぞれに好みのことがらを書き綴った画文集の中で、クラーナハ(澁澤流ではクラナッハと書く)の「ウェヌスとアモル」という裸体画について「エレガントな女」というタイトルで書いているものがあった。そして対談風の文章のなかで「前略…イタリア・ルネサンスの裸体とも違うね。彼等のように、色彩の中に裸体を解き放つのではなく、線と形体の中に裸体を冷たく凝固させる。裸体をして、われわれの視線に撫でまわされるための、一個の陶器のごときオブジェと化せしめる。これがクラナッハ特有のヌードだな。16世紀の画家とは思えないほど、おそろしくモダーンな感覚の持ち主だよ」と絶賛している。澁澤氏らしいクールで品格のあるエロスの表現である。この名文に誘われたかのように、それまで意識の外にあったクラナッハを始めとしたドイツ・ルネサンスの人物像をよく観るようになっていった。

展覧会場は宮廷画家として活躍していた初期の宗教画や貴族の肖像画などの絵画から始まった。キャンバスがまだない時代、そのほとんどは菩提樹などの板にテンペラや油彩、あるいはその混合技法で描かれたものだ。こうした古い時代の絵画作品を観ていていつも思うのは「描かれた当時の絵肌が観てみたい」ということだ。500年ぐらい前の作品なので仕方がないと言えば、それまでなのだが全てが保存用のニスが何度も塗り込まれていて、表面はまるで漆のようにテラテラとしていて、なんとも特別な質感となってしまっている。絵画を制作することが多くなってきているので完成当時の絵肌や画家の筆致、息遣いを観てみたいという願望に駆られるのである。

さらに進むと版画作品がけっこう出品されている。中でもペン画と見まがうほどに下絵を忠実に再現した木版画には目を奪われた。うねるような線はこの時代のドイツの木版画の特徴で、同時代の「ドーナウ派」と呼ばれるアルトドルファーやグリーンの版画作品とも共通したものがある。きっと腕利きの彫り師と摺り師がいたのだろう。デューラーの銅版画作品なども比較対照として展示されていた。

それから今回のメイン会場ともいえる人物像、女性像の部屋に到着した。その中でも画家の代表作と言える「ルクレティア」、「ユスティティア」、「「サロメ」、「ユディト」などを主題とした作品は漆黒の暗い背景の中から浮かび上がりキラキラと輝いて見えた。まさに澁澤氏が言う所の「一個の陶器のようなオブジェ」なのであった。僕の好きな主題のルクレティアだけで3点も来ていたのは素直に嬉しかった。

そして最後の会場にはピカソの石版画や前衛芸術の中に登場するクラーナハのパロディなど近代、現代の作家作品が制作したクラーナハが展示されていたが、詳しく感想などを述べるとブログが長くなりそうなので、この辺で終了する。芸術の秋の一日。昔から恋い焦がれ、憧れていた女性にリアルで出会うことができた様な満足感を得て会場を後にした。

展覧会は年を越して2017年1月15日まで。洋画ファン、クラナーハ・ファンの方々、この機会をお見逃し無いように。画像はトップが絵画作品「泉のニンフ」、下が向って左からクラーナハ展の看板、絵画作品7点、木版画作品2点(全て展覧会図録よりの複写による部分図、タイトルは省略)、西洋美術館敷地内のロダンの彫刻「カレーの市民」。

 

                    

 

 


259.『河井寛次郎と棟方志功』展

2016-09-08 19:46:38 | 美術館企画展

先月24日。千葉市美術館で開催されていた『河井寛次郎と棟方志功』展を会期ギリギリに観てきた。毎度のことだが美術館での展覧会に行くのがいつもギリギリなのでブロガーの方々へのご案内にならない。事後承諾となってしまっている。それにしても千葉市美術館は良い企画展を開催している。浮世絵版画、若冲、蕭白など江戸の奇想絵画、近代版画などの企画展示などに目を見張るものがあるし、地理的にも工房から近いということで見たい企画の時には出向いている。

今回の二人の作家のコラボレーション展は「日本民藝館所蔵品を中心に」とサブタイトルがついている。日本民藝館は民芸運動の創始者として世界的に知られる柳宗悦(1889-1966)が創設し、その考えに賛同し、支えた個人作家の作品が収蔵されている。古陶磁の技法に精通した陶芸家の河井寛次郎(1890-1966)と国際的に評価され活躍した木版画家の棟方志功(1903-1975)は良き協力者として柳を実践面で支えた作家たちだった。そして二人は師弟の関係でもあった。

木版画家、棟方志功と言えば、僕たちの世代と、その上の世代ならば強烈な印象を持っているはずだ。牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、巨大な版木にしがみ付いて、すれすれに彫刻刀を振り回して制作する姿や、郷里である青森県の「ねぶた祭」で子供のように無邪気に踊る姿、そして独特の津軽弁で自作について熱く語るようすは1960年代から1970年代にかけて、よくテレビ画面で観ることができた。木版画を制作している人の多くが、その人生の中で一度は棟方作品の魅力に憑りつかれたに違いない。

僕も御多分にもれず版画青春期の頃、志功作品に憧れた一人である。1980年代ぐらいまでは美術館やデパートのギャラリーで棟方志功の木版画展がよく開催されていて足繁く通ったものだ。そして毎回その大画面の圧倒的な迫力と彫刻刀を絵筆のように自由自在に走らせるアドリブ表現に打ちのめされて帰ってきた。棟方氏は常に自作の版画を「板画(ばんが)」と名付け、板の上に刀で描いた絵画なのだと語っている。最も憧れるのはこのアドリブの部分で真似をしようと思ってもできるものではない。これまで氏に強く影響された木版画家は数知れずだが大抵「棟方調」に陥ってしまい乗り越えることができなくなるようだ。この表現にはそうしたアニミズム的な魔力が内包されているのだ。1960年代から1970年代にかけて棟方氏の大規模な回顧展がアメリカの美術館や大手ギャラリーで続けて開催された。その時に作品を観た当時のアメリカの現代美術の大家で抽象表現主義の画家であるウィレム・デ・クーニング(1904-1997)が「ムナカタの版画作品には我々が今、表現しようとしていることに共通したものを感じる」という意味のことを語ったという有名なエピソードがある。確かにデ・クーニングの初期のエナメルと油彩でキャンバスに描かれたモノクロームの抽象絵画(画像を下に掲載した)などはある時期の志功作品との類似性を見いだすことができる。そして二番目に憧れることはその膨大な作品数である。ちなみにピカソが素描や陶芸なども含めて生涯に残した作品数が約5万点と言われているが、志功の作品はその数ではるかに上回っているのだと言われている。おそらく起きている時間帯はすべてを制作に費やしていたのだろう。それも猛烈なスピードで情熱的に。あの小さな体のいったいどこにそんなにすごいパワーがあるのだろうか。

今回の展示内容に戻ろう。河井氏の古典技法と現代的な感性が融合したような陶芸作品も素晴らしかった。だが、どうしても版画制作者としては志功作品に目がいってしまう。そして志功がその生涯の師とした河井寛次郎がコレクションした作品が多い。当然ながら代表作が展示されているわけである。中でも木版画の連作『二菩薩釈迦十大弟子』は久々に十二点全て揃った状態を見ることができた。数十セットが摺られたが戦災などで消失してしまったため、いくつかの美術館などを除き12点全て揃っているものはとても少ないのだという。過日、テレビの美術品鑑定番組で個人コレクションによる12点が出品され、一億円の評価価格がつけられていた。この作品に関しては思い出もあり会場を二順し、さらにソファーに腰をおろしてじっくりと鑑賞させてもらった。

会場はそこそこ空いていてレストランでの昼食をはさみ、ゆったりと鑑賞することができた。僕にとって「棟方ワールド」はいつまでもたっても距離の縮まることがない憧れの表現世界なのである。画像はトップが棟方志功の木版画作品「大蔵経板畫柵」。下が向かって左から美術館入口、河井寛次郎の陶芸作品2点、棟方の木版画「二菩薩釈迦十大弟子」から4点、同じく「若栗の柵」、「倭桜の柵」、ウィレム・デ・クーニングの初期絵画作品2点(部分)、美術館外観。

 

          


201.行きたくて行けなかった『高山寺展』に。

2015-07-20 17:46:37 | 美術館企画展

少し前の話になるが、東京国立博物館で先月7日まで開催されていた『特別展 鳥獣戯画 京都高山寺の至宝』展のこと。実はこの展覧会、個人的に今年の美術館・博物館の企画展の中でもっとも観たかったのだが、とうとう行かずじまいだった。…いや、正しくは行けずじまいだった。

この展覧会は京都・栂ノ尾にある高山寺が所蔵する仏教絵画や仏像を中心に企画されたかなり大規模な展示となっていた。展示物は鳥獣戯画絵巻を始め祖師・明恵上人ゆかりの品々、国宝級の仏教美術など貴重なものが多く出展されていた。こうした内容なので事前に展覧会の宣伝が始まった昨年末頃から、ぜひ行きたいと思い予定を組んでいた。ところが少し出遅れているうちにその異常な混み方が新聞やニュースで流れるようになった。なんでも「モナリザ展を上回る来場者数」であるとか「入場できるまで最高で8時間待ちで、さらに入場してからも1時間待ちとなっている」とか。最近の東博での展覧会の込みようは有名だが、9時間待ちでは朝一番から行列に並んで展示物が観られるのは夕方ということになってしまう…それに一人で行ったとして昼食やトイレの時はどうするんだろう。アレコレ考えているうちに時間は過ぎ、とうとう行けずじまいとなってしまった。今まで、その年に開催されるどうしても観たい展覧会はどんなことをしても観てきたんだが。こういうケースは初めてであり、僕としては珍しいことである。他にもあきらめた人は多いのではないだろうか。確かに歴史や美術の教科書に掲載されるほど有名な絵巻ではあるのだが、日本人てそんなに『鳥獣戯画』が好きなんだろうか。それから最近美術館に押し寄せている人たちは、「とても混んでいます」とマスコミが発表すると余計に燃えて行きたくなるようである。

そーゆーわけで、しかたなく展覧会の最終日にミュージアム・ショップに連絡をして図録だけ取り寄せた次第である。ズシリと重くクロス張りの、かなりりっぱな図録である。中味をペラペラとめくっていくと、これまた贅沢な内容で行けなかったことが残念でもあり、悔しくもあり目頭が熱くなってくる。美術館・博物館側も爆発的に入場者があったこの現状を喜んでいるだけではなく、会期を延長するとか、事前に整理券を発行するとか、貴重な展示をより多くの人が観ることができるように対策を考えてほしいものである。こうしたことが長く続けば気持ちが離れていく愛好家も増えて来るのではないだろうか。画像はトップが展覧会図録。下2枚が『鳥獣戯画』絵巻の部分図(図録より複写)。

 

   


170. 『高野山の名宝』展

2014-12-25 21:17:55 | 美術館企画展

今月某日。個展の在廊の合間をぬって都内のサントリー美術館で開催されていた『高野山の名宝』展を観に行ってきた。

和歌山県の高野山は「一度参詣高野山無始罪障道中滅(高野山に一度上れば、生前からの罪が消滅する)」と昔から語り継がれてきた標高900m前後の山上盆地に広がる宗教都市でる。そして恐山(青森県)、比叡山(京都府、滋賀県)と並ぶ日本三大霊場の一つである。平安時代、弘仁七年(816年)、弘法大師空海によって真言密教の奥義を究める修業道場として開かれ、2015年に開創1200年を迎えようとしている。その節目の記念もあってなのだろう、この3年ぐらい博物館や美術館企画による名宝展が幾度か開催されている。

今回、サントリー美術館で開催された展示は高野山の長い歴史の中で大切に守り伝えられてきた多くの至宝の中から空海ゆかりの宝物、密教の教理に基づく仏像、仏画など国宝、重文などを含む60件を選りすぐり展示されていた。地下鉄六本木駅より地下通路沿いに歩いて会場に着くと、すでに入り口には来場者の列ができていた。保存のために明るさをかなり絞ったライティングの会場に入ると、最初の部屋からお宝の数々で眼が離せない。この美術館は大きさはないがとても落ち着いた雰囲気で展示物が鑑賞し易い。仏具や書、絵画と順を追って観ていくがハイライトは何と言っても鎌倉時代、仏教彫刻界に新風を吹き込んだ仏師・運慶による国宝『八大童子像』である。そして八体そろって鑑賞できることはなかなかないとのことである。

以前、別の仏教美術展のレポでも書いたが、僕は鎌倉彫刻にとても心を魅かれている。その写実性と表情の豊かさは他に類例をみない。この大日如来の使者とされている八大童子像もすばらしい写実表現の像である。八体そろった部屋で眺めていると今にも動き出しそうな錯覚をおぼえてしまう。天才仏師、運慶の技量にささえられたこの時代の精神性の高さに感動せざるを得ない。上野の博物館に比べて会場は小さいが仏像との静かで充実した時間を共有することができた。画像はトップが美術館の入り口。下が地下のアプローチ途中に設置された大理石の抽象彫刻、八大童子から「恵光童子像」の顔、「こんがら童子像」の顔のアップ(展覧会図録より)。

 

      


159.『ヴァロットン - 冷たい炎の画家』 展

2014-09-19 20:45:17 | 美術館企画展

先月29日。東京丸の内の三菱一号館美術館で開催中の『ヴァロットン-冷たい炎の画家』展を観に行ってきた。

フェリックス・ヴァロットン(1865~1925)と言えば19世紀末から20世紀初頭のフランスで活躍したナビ派に所属した画家・版画家である。ナビ派の中にあって日本の浮世絵や写真から着想を得た平面的で造形性が強い画風は「外国人のナビ」と呼ばれ、当時の前衛芸術の渦中にあっても特異な存在であった。絵画や版画作品のみならず彫刻、装飾芸術、小説や戯曲などにも手を染め多彩な表現を持つ芸術家としても知られている。

僕が初めてこのヴァロットンの名前を知ったのは、モノクロームの木版画作品だった。19世紀末のヨーロッパでは、木版画という版画技法は銅版画やリトグラフなどの隆盛に押されて低迷していた。木口木版画は別として中世以来廃れてしまっていたのだ。それが、1890年にパリの2ヶ所の美術館で浮世絵の大展覧会が開催されたことが引き金となり、中世以来の木版画の伝統に人々が再評価をし始めることとなった。ヴァロットンがモノクロームの木版画に手を染め始めたのもこの頃と重なっている。僕が興味を持った理由もこのヨーロッパでの木版画復興期の作家の一人としてだった。

今回の企画展は日本初となる大回顧展である。会場では油彩画の代表作が目についたが、版画作品も全出品作の半数となる60点が出展されていて、版画家としては見逃せない内容となっていた。そしてそのほとんどがモノクロ作品である。パリで生活する人々の日常やミステリアスな情事を主題とした木版画は、どれも白と黒の構成が明快で印象に強く残るものである。今回僕が発見し、感心したのは彫られていない黒の空間の「凄み」だった。その一見平坦に見える黒い面の中に登場人物の心理的な闇まで感じとることができた。美術館で観た版画作品としてはひさびさに感動したので会場を3往復してしまった。シンプルな彫りの技法と小さな画面構成の中にヴァロットンの深い精神性と画家としての力量を垣間見ることができたのはこの日の大きな収穫だった。

日本ではまだまだ知名度が低い画家だが、その燻し銀の魅力は落ち着いた雰囲気を持つこの美術館とも相性が良く、いい展覧会だった。パリ~アムステルダム~東京と巡回してきたこの展覧会は今月23日まで。まだ観ていない方はぜひこの機会をお見逃しなく。画像はトップが木版画連作アンティミテから「最適な手段(部分)」。下が左から同じく木版画「怠惰(部分)」、油彩画の代表作「ボール(部分)」以上展覧会図録より転載、美術館広場の看板。

 

      


151.『超絶技巧!明治工芸の粋』展

2014-07-10 19:21:19 | 美術館企画展

先月19日。東京の三井記念美術館で開催中の『超絶技巧!明治工芸の粋』展を観に行ってきた。

テレビの某国営放送の美術番組にも出演していたが、監修がM大学教授のY氏である。Y氏と言えば確か江戸時代後期の奇想絵画がご専門だった。今から20数年前、知人の画家を通じて知り合ったのだが、当時は僕も伊藤若冲や曽我蕭白に興味を持っていて、個展のご案内を出したところ観に来てくださり氏の若冲論をお話しいただいたことがあった。最近では美術雑誌やテレビの美術番組出演などでご活躍されていてすっかり大御所になってしまった。そのY氏が珍しく『明治工芸』の企画展の監修である。人とは違った着眼点をお持ちの方なのでこれは普通の工芸展ではないだろう。今まで工芸にはそれほど興味を持ったことがなかったが一度観て置く必要がある。

お恥ずかしい話、日本橋にある三井記念美術館も初めてである。東京駅から歩いてしまったので一汗かかされることになった。ビジネス街や古い建築が立ち並ぶ街区を抜けて美術館入口にたどり着いた。エレベーターで会場に上がり会場に入ると整然と展示された工芸品の数々が出迎えてくれた。七宝、金工、漆工、牙彫、薩摩、印籠など、どれも精緻で驚くべき技巧を施した品々に思わず息をのんで見入ってしまった。どの作品も想像していたよりもかなり小さいものが多く、ポケットに忍ばせておいた近距離用の単眼鏡が威力を発揮してくれた。

展示作品の多くが海外への輸出用に制作されたもので、手の込んでいる作品は一年間ほどかけて制作されたものもあるようだ。なんとも辛抱強い話であるが、その分ギャラもかなり高かったということだ。「職人魂」というのだろうか、細部へのこだわりと完璧と言っても良い手技はどれも圧巻であった。内容が濃すぎて全てを語ることはできないが、その中で特に僕の印象に残ったものは宝石細工のような有線七宝の『桜蝶図平皿』、『刺繍絵画』と称されるリアルな刺繍工芸の数々、気の遠くなるような細かい絵付けの『花紋飾り壺』などなど…。それほど広くない会場にぎっしりと凝縮した細密表現が詰め込まれ、一つの宇宙を構成していた。随分時間をかけて観終ると深いため息が出た。今展をきっかけに明治工芸に目覚めそうな予感がしている。展覧会は今月13日まで。その後、静岡の佐野美術館と山口県立美術館に巡回する。まだご覧になっていない方はこの機会に是非観に行ってください。画像はトップが有線七宝『桜蝶図平皿』。下が左から『花紋飾り壺(部分)』、刺繍絵画『獅子図(部分)』以上展覧会図録からの複写。三井記念美術館建築外観。