長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

299. 行徳鳥獣保護区の『クモ観察会』に参加する。 ~夏編~

2017-07-31 18:19:31 | 野鳥・自然
今月16日。千葉県市川市内にある行徳鳥獣保護区で開催された『クモ観察会』に参加してきた。5/14に続いて二回目の参加となる。主催は「東京蜘蛛談話会」というクモの研究会。関東周辺のクモのスペシャリストが多く入会している。5月が初夏編ならば今回が夏編というところ。今後10月の秋編、来年2月の冬編と、観察会は続いていく。

家から徒歩と電車を乗り継ぎ、行徳野鳥観察者前の集合場所に到着したのは午前9時54分だった。10時集合なのでギリギリセーフ。入り口にはすでに参加者が集まっていて、よく見ると談話会の旗がパタパタと棚引いていた。まるで「新撰組」の旗のようである。随分前に千葉県内の観察会に参加した時に公園の入り口でやはりこの旗が出ていたのだが、周囲にいる一般の人の目が気になって旗の下に行けなかったことを思い出した。

この日は梅雨開け2日前だったが、かなりの猛暑で市川市でも「熱中症注意報」が発令されており、参加者リストに記名する時に世話人のK女史から「この陽気によくいらっしゃいましたねぇ?」と言われてしまった。保護区内への移動前に「今日は暑さがたいへん厳しく観察舎の職員の人から野外活動は早めに切り上げるように言われていますので注意してください」と説明があった。今日の参加者は前回より少なめの15名。顔が出そろったところで保護区内へ移動となった。
ゲートを潜り、ササや低木の茂るブッシュ内に入ると想像していたよりも暑くない。木々や草など植物たちのおかげなのだろう。さらに狭い仕事道を一列縦隊で奥へ奥へと進んで行く。
ポイントである観察小屋に着くと前と同じく保護区内での行動説明の後、おのおの散らばって行く。丁寧に観察する人、採集を始める人、ブラブラと歩き回る人、それぞれである。

僕はと言うと例によって「動植物の採集はしない、とるのは写真だけ 」と固く誓っているのでカメラをかついで、クモの良い生態が観られないか草原を探し始めた。前回、コガネグモが多かった辺りを探して回るとコガネグモは少なくなったのだが、ナガコガネグモの姿がよく目につく。その中でちょうど雄と雌が巣の上で交接している場面に遭遇した。平野部では特別珍しい種類ではないが、なかなか交接の場面というのは出くわさない。それもよく目を凝らして観ると雌の脱皮殻が網に付着している。そうだ、クモの雄たちのある種類は雌の脱皮行動の瞬間を狙って交接するのである。なぜかと言えばまともに交接に行くと動くものはみんな食事の対象となり、たとえ同じ種の雄だろうと体の大きな雌に捕えられ食べられてしまうからである。昆虫のカマキリと同じでこれが産卵する卵の蛋白源となるのである。「恐ろしや…命がけの愛」。しかしこれは生態写真には絶好のチャンスである。夢中でシャッターを切った。
しばらくして落ち着いて周囲を見回すとけっこうナガコガネグモの雌雄が見つかるではないか。一緒に巣にいるもの、どちらか片方のものなどいろいろだった。良く観ると雄の中に8本ある脚のうち3-4本を失っている個体がけっこういた。これはおそらく交接の時に雌に食べられてしまったのだろう。「恐ろしや…命がけの愛」。
地べたに座り込んで写真撮影をしていると参加メンバーの数人が後でギャラリーになっていた。ナガコガネグモの交接の説明をする。ここでボチボチ昼食の時間となる。観察小屋ポイントまで戻りお昼の時間。水分を補給したり弁当を食べながらの「クモ合わせ」。ここまでで観察したクモの種類を各自が発表し会として記録を録っていく。

12時50分から観察再開。僕はまた草原のクモを集中して写真撮影して行く。東京湾岸の平野部ということで環境が単調なせいか種類は少なく見える。だが、平地では開発や農薬などの影響で生息数が減少している大型のコガネグモ科の個体数が多いのには目を見張った。おそらく保護区内が普段は隔離された場所であって許可がなければ人が入れないということと関係しているのだろう。

午後は広い場所で迷ってしまうということもあり参加者は固まって行動した。草原を抜けて進み、正面に水鳥のカワウのコロニーが見える干潟に出て、徘徊性のコモリグモの仲間などを観察。さらに干潟沿いに進んでクロベンカイガニやヤマトオサガニ、そして東京湾岸が北限というトビハゼなどの干潟の生物を観察してから保護区を出た。
ここで二度目の「クモ合わせ」をする。午前との合計で約60種ほどのクモ類が確認された。ここまできて参加者の中には猛暑のために言葉少なになっている人や元気がなくなっている人もいて14時34分に少し早いが解散となった。猛暑の中、観察会を開催していただいた談話会の担当の方々、クモに関する興味深い情報を提供してくださった参加者のみなさんに感謝いたします。10月の観察会がまた楽しみです。

画像はトップが巣の上で交接するナガコガネグモの雌雄、よく見ると雌の脱皮殻が見える。下が向かって左から「東京蜘蛛談話会」の旗、観察開始前の説明会、コガネグモの雌、クロベンカイガニ、トビハゼ、カワウの群れ、保護区内風景。


                    






298. 『人生は風船の如し』

2017-07-25 18:58:35 | 
今月の28日は昨年、88才で他界した父の一周忌を迎える。法要は23日の快晴の日、前倒しであるが菩提寺となっていただいている寺院で父の遺言どおり家族だけで慎ましく行った。このブログに父の人生について書こう書こうと思いながらも、なかなか書くことができずに一年が経ってしまった。

ブログのタイトルに使用した『人生は風船の如し』という言葉は生前の父が20代後半から30才ぐらいまでの母と結婚する前にまとめた写真アルバムに書き込まれているものである。その写真は東京の本所生まれで下町育ちの父が10才ぐらいの時のものだろうか、写真と絵画が得意だった兄弟(僕の伯父)が撮影したもので、このアルバムの中で僕が一番好きなカットである。時代は日本が戦争への道を突き進んでいたころである。下町の陽光の中、少年が駄菓子屋で買ってきた紙風船一つで無邪気に遊んでいる。笑顔がとてもいい。この後、人生観を大きく変えてしまった出来事が起こることを未だ知らない。

昭和3年生れの父は軍国少年であった。中学生の頃は太平洋戦争の真っただ中である。中学校を卒業すると同時に「海軍飛行予科練習生」略して予科練(よかれん)に少年飛行兵となるために志願入隊する。「ゼロ戦に乗って敵機から日本の国や家族を守るんだ」と血気さかんだったようだ。だが戦局は著しく悪い時期、いわゆる特攻隊の生き残り組となった。このことが父の人生の中で人の死生観というものを決定づけてしまったように思う。

男六人兄弟の末っ子だった父は戦中戦後のドサクサで3人の兄を失った。物資の少ない中でもあり、そのうちの二人は医療ミスが原因だったようである。そしてB29の大群による東京大空襲、大切な人たちを失った。海軍入隊後は内地にいた所属する航空隊が大きな空襲に遭い大勢の若い戦友たちを失った。この時代の多くの日本人がそうであったように「死」というものが隣り合わせにいた青春時代であったと思う。

僕が二十歳ぐらいまで家で毎晩酒を飲むと家族の前で「自分は本来、ここに生きているべき人間ではない」というのが口癖で、自ら「死にそびれ」を自称していた。このことをあまり母が嫌がるので、その後は語らなくなった。

その父が、亡くなる一年ぐらい前から同居していた僕ら夫婦や孫娘たちの前で戦争中の軍隊生活や実際に起こった事を再び詳しく話し始めたのである。体調もかなり悪くなっていく中、あまり詳しく話すので「これは」と思い僕はメモをとったりボイス・レコーダーに録音したりしたのだった。最後にこれからの人間に伝えておかなければならないと思ったのだろう。この戦争時代の事と長島の家のルーツの二つの話題に絞り語り続けた。この内容についてはとても長くなるのでこの後のブログに投稿しようと思っている。

そして亡くなる半年ぐらい前、自室にいた父が、わざわざ僕を手招きし語ったことがあった。「最近、1人で天井をじーっと眺めていると悟りのようなことを考えるんだよ…」と父。「悟りなんて修行を積んだ僧侶でもなかなか得られない境地だよ」と返すと「人間は皆、一本の紐のようなものだと思うんだ。長い紐もあれば短い紐もある。途中でねじれた紐もあれば曲がった紐もある。人の目線からは違うように見えるけど、真上から俯瞰して見れば同じように小さな1つの点でしかない。今までの人生で若くして死んでいった友人もいれば、有名大学に入ってエリートコースを歩んだ同級生もいるけれど、人生終わってしまえばすべて同じなんだよ…なにも変わることなどない」と、こう言うのである。ふだん父は決して哲学的なことや宗教的なことを語るような人間ではない。今、思い起こして見ると、この時80才以上まで生きた一つの境地を語ったのだと思う。父の「悟り」である。

『人生は風船の如し』若き日に父がアルバムに記したこの言葉の意味がようやく少し理解できた気がしている。そして80代にして辿り着いた地点の境地が『人生は一本の紐の如し』なのかも知れない。

それから父は友人や家族にも有名な「晴れ男」だった。友人にはよく「長島が何かしようとする時、必ず晴れた」と言われていた。父が他界したその日も関東地方がちょうど梅雨明けとなった。病院で死亡後の手続きを終え連れ合いと二人、外に出るとコバルトブルーの空が広がっていた。そして雲間にキラっと反射したかと思うと、一機のゼロ戦が飛んで行くのが僕には見えた。「あ、あれゼロ戦だろ!?」と思わず叫ぶと、傍にいた連れ合いが「そうだったのかも知れないね」と言った。「それとも幻影かなぁ…」いや、きっと父親は真っ直ぐに向こう側で待っている戦友の元に飛び立ったに違いない。そして到着すると開口一番「こんなに長生きしてすまない」と照れ隠しの笑顔で言ったのだろう。

画像はトップが父の少年時代の写真。下が同じく生家近くで家族と子供時代に撮影した写真。









297. 板目木版画 『熊鷹・クマタカ』 を彫る日々。

2017-07-15 18:36:35 | 版画
先月末より猛暑の続く中、板目木版画による作品『熊鷹・クマタカ』の版を毎日彫っている。モチーフとしているのはタイトルそのままの猛禽類のクマタカのプロフィールである。この板目木版画のシリーズ作品は3年程前から始めたのだが「野生の肖像」という連作名である。野鳥や野生生物を実物大よりも大きく彫ることで生命というものの「尊さ」「重さ」のようなものを表現できないだろうかと、試行錯誤しながら制作している。

クマタカは英語名を"Mountain Hawk Eagle"といい、中国南部、ベトナム、我が国の九州以北の山地等に留鳥として分布し、低山から亜高山帯の林に周年生息するタカ科の大型猛禽類である。翼開長は140~165㎝あり、イヌワシなどに次いで大きいタカである。 "ピッピィーピッピィー" と姿のわりに可愛らしい声を出す。

僕はこれまでの探鳥体験で何度かクマタカに遭遇しているのだが、大抵は山の稜線の上など遠方を飛んでいるのを発見するケースが多く、なかなか近距離でマジマジと観察したことがなかった。ところが、このブログにも以前投稿したのだが今年の2月、群馬県の山間部にある森林公園を越冬の小鳥たちの取材のため訪れた時のことである。目の前の給餌場に降りるアトリの大群やミヤマホオジロの小群を観察していると真上を " ピッピィー、ピッピィー " と冬の森林によくとおる澄んだ声が降ってきた。慌てて双眼鏡を上空に向けるとやや大きさの異なるタカが2羽、ゆったりと旋回飛行をしているではないか。「クマタカだっ!」「しかも雌雄ペアーのディスプレイ・フライトだ!」とその場で周囲にいる野鳥観察者に叫んで知らせた。翼の下面の模様が手に取るように観える。感動の瞬間的出会いだった。この時、僕はこのクマタカのペアーに「我々を版画に彫りなさい」とお告げを受けたと勝手に思い込んだのだった。いや、きっとそうに違いない。

制作のモチベーションというものはそうした思い込みということもあるのではないだろうか。と、言うわけでスケッチから始めて下絵を制作し用意した版木にトレースしてからようやく版を彫り始めたのだった。いつものことだが、彫り初めは気持ちを高揚させていくためにBGMをかける。クマタカの持つ雄大な姿を表すにはどんな曲がいいだろうか。迷った結果、ショスタコービッチの交響曲第15番を選んだ。何回彫っても最初の一刀は緊張する。小さな突破口ができるとそれからは彫刻刀の刃先に集中してドンドン彫って行く。試し摺りをとるまでは眼を瞑って絵を描いているようなものなので仕上がりがなかなか見えてこない。1回目の試し摺りがとれたあたりからは絵の全体像がボンヤリと見えてきて彫りのスピードにも加速度がついてきた。ここから先は納得いくまで彫っては試し摺り、彫っては試し摺りの繰り返しとなっていく。

関東地方はまだ梅雨開け予報が発表になっていないのに真夏のような暑さが続いている。板目木版画『クマタカ』の彫版も佳境に入ってきた。しばらくは冷房をきかせた工房で彫刻刀の刃先に全神経を集中しての彫りの日々が続いていく。
完成した作品はグループ展、個展などで発表します。画像はトップが版を彫る手。下が向かって左から版を彫るようす4カット、彫りに使用している彫刻刀。


           








296. 彫刻刀を砥ぐ。

2017-07-03 17:47:41 | 版画
今月に入って、ようやく梅雨らしい気候となってきた。湿気も多くて晴れれば真夏並みの酷暑となる。板目木版画用の使い込んだ彫刻刀の砥ぎがたまっていたので、この数日間午前中は彫刻刀の砥ぎを行った。

板目木版画以外でも木口木版画や銅版画の直刻法など直接版を彫って製版していく版画技法は使い込んだ刃物の切れ味が落ちてくるとイライラとして仕事にならない。なので常にそれぞれの専用の彫刻刀や工具を砥ぎ、手入れを怠らないことが版画家の必要十分条件となっている。版画家の職人としての部分でもある。

現在では砥ぎに使う砥石はいろんな素材のものがある。ダイヤモンドの粉を固めた板の上で直接砥いでいく「ダイヤモンド砥石」などという製品もある。この場合、水は使わないで乾いた状態で刃物を砥ぐので作業も楽になってきている。
僕は20代の頃から水砥といわれる水を使って砥ぐ我が国の伝統的な砥石をずっと使ってきた。刃物の状態により荒砥、中砥、仕上げ砥などという砥石を使い分けるが、それぞれ石の目の粒子が異なっているものだ。刃先がかけてしまった場合など以外は普通は中砥と仕上げ砥で砥いでいく。それから木版画の彫刻刀は「版木刀(切り出し)」「丸刀(駒すき)」「平刀(間すき)」「三角刀」(カッコ内の名前は浮世絵版画の彫り師が使う呼び方)など刃先が異なる微妙な形をしていて砥ぎ方も形に沿って変えて行かなければならない。

朝から机に向かい砥石に水をくれながら1本1本丁寧に時間をかけて砥いでいくのだが、この時間が僕はけっこう心地がよい。例えて言えば日本画の画家が顔料を乳鉢で摩り下ろして膠で練っていくような時間や書道家が硯に向かい墨を磨る時間と似ているのかも知れない。つまり穂先、刃先に精神を集中していく時である。刀を使って版木を彫って行く作業は絵筆で絵を描いたり、筆で書を書くことと等しいと思っているのだ。

ただ、最近少し、しんどく感じていることが一つある。40代の半ば頃から加齢により老眼が進んできたことで砥ぎ終わった刃先の点検がメガネだけでは心もとなくなってきたことである。微妙な砥ぎ具合を確認するために仕方がないので銅版画の彫りに使用している高倍率のアーム式ルーペを傍らに置いていちいち確認しながら仕上げの砥ぎを行っている。まぁ、これも慣れである。

砥ぎ終った彫刻刀が机の上に並んでくると何とも言えない満足感、安堵感に満たされる。そしてまた「これから版木の彫りを一仕事しよう」というやる気がジワジワと湧いてくるのである。

画像はトップが砥ぎの作業のようす。下が向かって左から同じく砥ぎの作業のようす3カット、水砥と砥ぎ終ったいろいろな彫刻刀3カット。