長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

333.ロシア音楽を聴く日々。

2018-05-29 19:35:57 | 音楽・BGM
ひさびさに音楽の話題である。何度か投稿しているが絵画や版画の制作中にクラシック音楽を朝からBGM として聴いている。最初の1枚は決まってモーツァルトから軽快に始まる。モーツアルトの長調の曲を聴いているうちに、まだ眠っていた脳内のセンサーがカチャカチャと動き出してくるのである。

が「それから徐々に古典派、ロマン派、それ以降と音の濃さを増していくのが常である。制作への集中力がピークに達した昼過ぎ頃にはブルックナーやマーラーの長~い交響曲が流れている。眠くなる時間帯でもあるが、このあたり脳内の調子ハイになりも絶好調になってくるのだ。そして夕食前の一日の仕上げはバッハ。無伴奏チェロ組曲か無伴奏リュート組曲。この流れ、このパターンが随分長く続いていた。僕は何でも決め事が好きだし始めると、とことんワンパターン化を続けて行く。それこそバッハのフーガのように。
でも、人間なのである程度までくるとそれも飽きてくる。このところ、そのピークの部分の長い交響曲に新顔がようやく加わったのである。それが今回のタイトルとなっている『ロシア音楽』なのである。チャイコフスキーやショスタコーヴィチ、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ヒンデミットといった蒼々たる巨匠のラインアップ。

実は僕はこのロシア系クラシック音楽を今まで不得手としてきた。と、言うよりも食わず嫌いと言った方が正しいかもしれない。「何故か?」と訊かれても音楽は僕にとって食べ物に近い感覚なのではっきりとした理由はない。フィーリングというか非常に感覚的な部分でもある。ただ食べ物の嗜好もそうなのだが、音楽の嗜好も年齢と共に変化してくると思う。特に50代を過ぎた頃からこうした感覚を自覚してきた。音楽は「耳から食べる食事」である。毎日、毎日パスタだけでは飽きてしまう。時には濃厚なステーキが食べてみたくなるのである。

ブルックナーやマーラーの長~い交響曲を聴いていた流れから自然とチャイコやショスタコを聴くことができるようになった。なんだ、やればできるじゃない。こうなってくると、クラシック音楽と言う密林は広大である。お次はラフマニノフ、プロコフィエフさらにヒンデミットそして彼らのピアノやヴァイオリンによる協奏曲も、それから室内楽曲も…と果てしなく「聴きたい欲望」が連鎖的に繋がって行くのである。

これから梅雨季、盛夏と、しばらくはこの「ロシア音楽狂い」が続きそうな気がしている。画像はトップがマイコレクションの『ロシア音楽』CDの一部。下が向かって左からカラヤン指揮ベルリン・フィルによるチャイコフスキーの「交響曲第6番」、ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団によるショスタコーヴィチの「交響曲第10番」、ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とアシュケナージのピアノによる「ラフマニノフ・ピアノ協奏曲全集」、プレヴィン指揮ロンドン交響楽団とアシュケナージによる「プロコフィエフ・ピアノ協奏曲全集」のCDジャケ。いずれも名盤中の名盤である。


         

289. 『バッハ弾き』 その(一)/ J.S.Bach・Clavier Music   

2017-05-04 18:45:38 | 音楽・BGM
J.S.バッハの曲で好きなジャンルの曲として以前投稿した「無伴奏チェロ組曲」や「無伴奏ヴァイオリン組曲」と並び、クラヴィーア曲の数々を挙げることができる。バッハのクラヴィーア曲といえば、クラヴィコードとクラヴィチェンバロのいずれかのために作曲された曲を指す。
代表的な曲目の邦題を挙げると「平均律クラヴィーア曲集・第1集、第2集」「インヴェンションとシンフォニア」「フランンス組曲」「イギリス組曲」「パルティータ」「半音階的幻想曲とフーガ」「イタリア協奏曲」「ゴルトベルグ変奏曲」などがその代表的なもので今日でもしばしば演奏されているものだ。

そして、今回のタイトルである『バッハ弾き』とはこれらの曲を演奏するソリストたちのことを指している。この一群のクラヴィア曲の全曲録音を達成したソリストは過去に何人もいるが、特筆すべきはなんといってもカナダ出身の天才ピアニスト、グレン・グールド Glenn GOULD(1932-1982)の存在だろう。主に現代ピアノによる演奏だが、バッハの音楽思想に強く共感し独自の解釈と演奏方法により数多くの素晴らしい録音を残した。あのバッハ弾きの大家であるリヒテルをして「バッハの最も偉大な演奏者」と言わしめたのだった。
そして、「未知の地球外的知的生命体への、人類の文化的傑作」として宇宙船ボイジャー1号、2号にゴールデン・レコードとして搭載されたことでもよく知られている。

グールドの演奏は素晴らしい、グールド抜きにバッハのクラヴィア曲は語れない。僕自身も20代のLPレコード時代からグールドのバッハを繰り返し聴き続けてきた。その音は今聴いても鮮度を失わないどころかいつも新鮮に響いている。だが、あまり長い期間聴き続けていると他のバッハも聴いてみたくなるというのも人情というものである。それは他のジャンルの愛好家、美術愛好家や文学愛好家でも同じことが言えるのではないだろうか。

というわけで、今回からの投稿となるこの『バッハ弾き』はグールド以外のソリストのものを取り上げて行きたいと思いキーボードに向かったわけである。

第1回目として登場していただくのはオランダ出身のチェンバロのマイスター、グスタフ・レオンハルト Gustav LEONHARDT(1928-2012)である。この人のバッハへのこだわりも並大抵のものではない。元々、このクラヴィア曲群は古楽器であるチェンバロなどのために作曲されたものなので、その演奏は王道中の王道と言っても過言ではないだろう。
1950年、ウィーンにおいてバッハの「フーガの技法」を演奏してチェンバロ奏者としてデビューするが、その後、指揮法を学んだり、教会のオルガニストとして務めたりもしている。そして鍵盤楽器奏者として職人気質なのかと思いきや指揮、教育そして楽理研究にも熱心であり、特にバッハに関してはほとんどのジャンルの曲を研究対象とし、未完成とされていた器楽曲などを「完成された曲」などとして発表したことでも知られていて「現代のバッハ」などと呼ばれている。

レオンハルトの演奏の根底には美や真実への洞察力、調和の感覚、知性と衝動の均衡がある。そして楽器は手段に過ぎないとして、音響装置や装飾音ばかり取沙汰にする現代のクラシック界を嘆いていたとされている。グールドもそうだが対照的な古典主義者ともいえるレオンハルトも、かなりなこだわりの人である。この後、ご紹介するソリストも含めて『バッハ弾き』というのは一言で言って「頑固で変わった人」が多い。

最後にレオンハルトの演奏哲学を良く表している言葉を一つご紹介しよう。

「作曲された時代の人々の確信と理想をつかむことが、音楽家として確信を持って演奏することに繋がるのです」

まだ、レオンハルトのバッハを聴いたことがないという方々、その古典的な美しさと品格を併せ持つ音を是非、一度聴いてみてください。
画像はトップがレオンハルトの肖像画像、下が向かって左からバッハの肖像画、最近お気に入りのグールドのバッハアルバム、レオンハルトのバッハのCDアルバム3枚。

          



276. 伝説の音楽家 マックス・ブルッフ Max Bruch

2017-01-14 18:57:50 | 音楽・BGM
今回の「音楽・BGM」カテゴリーの投稿は普段とは少し異なる内容となっている。主題としているのは、好きな作曲家やソリストの事ではなく、僕が最近気になっている音楽家の人生に関わることである。

主人公は マックス・ブルッフ。正確なフルネームは長くなるが、マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ Max Christian Friedrich Bruch,(1838年 プロイセン王国、ケルン生れ - 1920年 ドイツ、ベルリン没)ドイツの作曲家、指揮者、教育者である。特に作曲には若いころから才能を示し、その作品は日本でもコンサートでの演奏やレコーディングされた国内盤CDとしても発売されている「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調」、管弦楽のための「スコットランド幻想曲」、チェロと管弦楽のための名曲「コル・ニドライ」などの曲が知られている。特に初めの「ヴァイオリン協奏曲第1番」に関してクラシックの研究者の間では、べートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、シベリウスの「4大ヴァイオリン協奏曲」のうちどれか1曲を省いても入れてしかるべきだと言われるほどの名曲とされている。

ブルッフ作品全体に流れる第一番の大きな特徴はその「旋律性」だと言われている。ブルッフは魅力的で印象に残る旋律を生み出すことに長けていたので、その多くの作品を聞き手にとって親しみやすいものにしている。そして生前の発言の中で「旋律は音楽の魂である」「旋律を歌うのに向いていないピアノにはさほど興味が持てない」などと言っていたようだ。
もう一つの特徴としては、民族音楽への傾斜である。ヨーロッパのさまざまな国に伝わる民族音楽に興味を持ち、前期の「スコットランド幻想曲」や「コル・ニドライ」などの民族色の濃い作品を生み出した。そして当時のクラシック界では、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」やドヴォルザークの「スラヴ舞曲集」がヒットし、ブームとなったことから、出版社に要望されたこともあり「スウェーデン舞曲集」「ロシア舞曲集」などの作品を書きあげ、民族音楽的題材の作風で、その名声を高めた。 

ただ、僕がブルッフに興味を持ったのは、その音楽的特徴ではなく、この実力派の音楽家が多くの名曲を生み出しながら長い間、冷遇され続けてきた点であった。「ドイツ後期ロマン派、最後の音楽家」などとも呼ばれ、同時代のヨハネス・ブラームスの親友であり、良きライヴァルでもあった。そして経歴を調べてみるとゾンダースハウゼン宮廷楽長、イギリス・リヴァプール・フィルハーモニー首席指揮者、プロイセン芸術アカデミー作曲部長など華々しい役職を歴任している。作品も前記し、よく知られた有名曲以外にも、残り2曲のヴァイオリン協奏曲、3曲の交響曲、そして変化に富んだ室内楽曲の数々、声楽では合唱曲やオペラなど、どのジャンルをとっても高いレベルの名曲が残されている。そして弟子としてはレスピーギや山田耕筰などの名前をみつけることもできる。それなのに何故? 何故?一部の作品を除いて急速にその存在を忘れ去られ、長く冷遇され続け、演奏もされずに近年まで復権されなかったのだろうか? 今、僕にとってここに興味の点が集中しているのである。

その理由としていくつかが専門筋の間では語られてきたようだ。以下に列挙してみよう。

① その音楽性が旋律性重視など、ロマン派の中でも古典主義的な性格が強く、特に晩年には時代遅れとなってしまったこと。

② フランツ・リストやリヒャルトワーグナーなど「新ドイツ楽派」に明らかな敵意をいだいていたこと。

③ 当時の新しい世代の音楽家であるR・シュトラウスやマックス・レーガーらに対して激しい攻撃を加え、反動家としての悪評が広まったこと。

④ ユダヤの題材を用いた作品で成功をおさめたことで、ナチス時代にユダヤ人の血を引くのではないかと疑われ、上演禁止となったこと。

もう一つは僕の想像だが、

⑤ 1944年の大戦末期、西からアメリカ、イギリス軍、東からソ連軍の攻撃を激しく受けたドイツ本土、特にベルリンは焦土と化し崩壊したことからスコアの多くが焼失、紛失してしまったのではないか。

しかし①などは、さまざまな時代の中でよくあったことであろうし、②③も芸術的表現の見解の違いというのはなにも音楽に限らず文学や美術の世界ではよくあること。④はその後、本人や残された家族、親類が否定していて根拠がないものとなっている。⑤は僕自身の妄想である。いずれにしても、どれもブルッフの名曲の数々が封印されていた決定的な原因とはならないのではないだろうか? なにか他にもっと大きな理由があるような気がしてならないのだが。ブルッフというこの才能豊かな音楽家は僕にとって日増しに謎の多い「伝説の人」となってきている。

ただ幸いにも近年、本国ドイツを中心にヨーロッパ各地のクラシック界では「ブルッフ再評価」の動きが活発になってきていて、作品の演奏やレコーディングが増えつつもある。日本ではCDなども限られた曲の録音であるが、輸入盤などでは、あまり知られていないジャンルの作品が入手できるのもありがたい。微々たる歩みではあるが、ブルッフの美しい旋律を持つ名曲の数々に耳を傾けながらこれから先、「伝説の人」の謎に迫っていきたいと思っている。画像はトップがブルッフの肖像写真。下が肖像写真もう一枚と国内盤、輸入盤CDのジャケット6カット。


            

272. ヴァイオリン姫

2016-12-21 18:36:07 | 音楽・BGM
今回のクラシックの話題は『ヴァイオリン姫』、ヒラリー・ハーンの登場である。ヴァイオリン姫などという呼び方は一般的にはしないと思うが、このブログの260回目(カテゴリーは音楽BGM)に「歌姫」と題してバーバラ・ボニーのことを投稿したのでそれと対になるようにタイトルをつけた。

ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn 1979年~)はアメリカを代表する女性ヴァイオリニストである。バージニア州レキシントン生まれでボルティモア出身のドイツ系アメリカ人である。3歳の時に地元ボルティモアの音楽教室でヴァイオリンを始め、1991年、11歳の時に音楽ホールで初リサイタル。1996年、16歳の時にはフィラデルフィア管弦楽団と協演し、ソリストとしてカーネギーホールでの華々しいデビューを飾った。そして1997年、デビューアルバムである「バッハ:無伴奏ソナタ・パルティータ集」がディアパゾン・ドール賞を受賞し話題となる。2001年のネヴェル・マリナー指揮のアカデミー室内管弦楽団との協奏曲(ブラームスとストラヴィンスキー)の録音により、2003年、グラミー賞を受賞している。近年はソリストとして世界中を飛び回って演奏活動を続ける一方、室内楽や映画のサウンドトラックで演奏するなど、活動の場を大きく広げている。

僕はこれまでに上記の「バッハの無伴奏ヴァイオリン組曲」を初めとして、ブラームス、ストラヴィンスキー、メンデルスゾーン、ショスターコヴィチ、シェーンベルグ、シベリウスのヴァイオリン協奏曲をCDで聴いてきた。その中でバッハの無伴奏は17歳の時のアルバムで、この演奏の困難な曲に対して、その驚異的なテクニックと、若きヴァイオリニストの瑞々しく力強い演奏を聴くことができる。アルバムの中でハーンは「…バッハは私にとって特別なもので、ちゃんとした演奏を続けて行くための試金石のような存在です。…どれ一つとしてバッハでは誤魔化しがききません。逆に全部を上手くこなせれば、この上なく素晴らしい音楽が歌い始める。今度の録音に、そんなバッハの音楽に対する私の愛が少しでも多く表れていればうれしいと思います」と語っている。
バッハ以外の協奏曲ではストラヴィンスキーの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」でのテンポが良く明るく歯切れのある演奏、それからレーベルをドイツ・グラモフォンに移籍してからのものではシェーンベルグの「ヴァイオリン協奏曲 作品36」で聴かれる、鬼気としてたいへん緊張感のある演奏が特に印象に残っている。

そしてハーンと言えば投稿した画像にも見られるような、単に美しいということだけではない独特な容貌が印象的である。本人に言えば怒られてしまうかもしれないが…絵画で例えればマニエリスム絵画に見られるデフォルメされた女性像が思い浮かぶし、立体的に見れば、どことなくドールっぽいところが現代の球体関節人形の作品に通じるようなミステリアスな表情を持っている。ヴァイオリニストやピアニストなどクラシックの女性ソリストにとってはルックスやファッションもとても重要な表現要素であると思う。

今年の冬は寒さが厳しい日が続きそうである。寒い工房での作品制作の合間にヒラリー・ハーンのエネルギッシュな熱演を聴いて乗り切ることにしよう。 画像はトップがCDアルバムの写真より転載したヒラリー・ハーンのポートレイト。下が向かって左からCDアルバム「バッハ:シャコンヌ」のジャケット、「ブラームス:ヴァイオリン協奏曲/ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲」のジャケット、ポートレート画像2枚、「シェーンベルグ:ヴァイオリン協奏曲/シベリウス:ヴァイオリン協奏曲」のジャケット。

         
 

269.ギター曲に浸る秋・その二。 Andres SEGOVIA

2016-11-29 21:26:00 | 音楽・BGM
タイトルに「秋」と付けたが、先週、首都圏では記録的な「11月の初雪」が降ってしまい、寒さが増してきている中、秋というよりはもう初冬である。今回のブログのテーマはクラシックのギター曲の第二弾である。

一回目にはナルシソ・イエペスについて投稿したが、今回はクラシックギター界の巨匠中の巨匠、『現代クラシック・ギター奏法の父』と讃えられている、アンドレス・セゴビア Andres SEGOVIA (1893-1987)をご紹介する。

スペインのハエン県リナーレスで生まれたセゴビアは4歳という若さでギターという楽器に触れ、16歳の時に早くもスペイン国内で最初の演奏会を開いている。それから数年後、プロとしてマドリッドで演奏会を行いデビューしている。だが、セゴビアが演奏活動を始めたこの時代のクラシック界ではギターそのものが「ただの大衆音楽の楽器」、「コンサート・ホールには不似合な田舎の楽器」、「ピアノやヴァイオリンには、はるかに劣る楽器」などという烙印を押され、その地位はとても低いものだった。

それでも、この楽器の持つ豊かな可能性を強く信じて止まない青年セゴビアは努力と研鑚を怠らず、同時代のギター演奏者より鋭い響きを持たせるように、初めて指の爪で弦をはじく演奏技巧を開発したり、音響効果を高めるため楽器製作者と共同で、より良い木材とナイロン弦を利用し、ギターの形状を変更するなど、より多くの聴衆の前で演奏できる楽器となるように改善に次ぐ改善を重ねていった。

当時の多くのクラシック界の傑出した音楽家や関係者たちが「ギターはクラシック音楽の演奏には適さず使えない」という理由からセゴビアのギターはヨーロッパのクラシック界からは認められないだろうと信じていた。しかし、長い努力の結果、彼は卓越した演奏技巧と個性的なタッチを獲得したことで、多くのヨーロッパのクラシック・ファンを驚嘆させ、末永く愛されることとなった。しかし、わからないものだと思う。こういうことって、音楽に限らず芸術の様々なジャンルにあることだ。つまり、現代ギター界のパイオニアとなったということである。このジャンルのその後の演奏者たちの「模範的な存在」となったという点では、例えば、チェロのパブロ・カザルスやピアノのアルトゥール・ルービンシュタインなどとも共通する部分がある。

さて、アルバムだが、レパートリーの広いこのギタリストの全貌を聴きたいというのであれば、ドイツ・グラモフォンから没後15年の記念2枚組のCDとして出した「THE ART OF SEGOVIA・セゴビアの芸術」がお勧めである。タレルガ、ソル、ヴィラ・ロボス、ダウランド、J.S.バッハ、ロドリーゴなどなど、ギター曲を代表するものが勢揃いした贅沢なメニューとなっている。同じグラモフォンの「J.S.バッハ作品集(セゴビア編曲)」も素晴らしい。ギターで定番のリュート曲だけではなく、チェロやヴァイオリンのために書かれた無伴奏ソナタを編曲したもので聴きごたえ十分である。個人的にはfon music から出されている「アンドレス・セゴビア愛奏曲集Ⅰ・Ⅱ」が、とても気に入っている。巨匠が御年80歳の時にマドリードで演奏されたもので、年齢のせいということもあるかもしれないが、晩秋の季節に相応しい、しっとりとした、いぶし銀のギターを聴くことができる。

最後に、この「愛奏曲集」のジャケットの中でセゴビア自身が語った言葉をご紹介しよう。

『このレコードに含まれるささやかなレパートリーは、私が演奏会で正規のプログラムを終えたのち、アンコールを求める聴衆の方々にお礼をするためにいつも選ぶものです。こうした曲を5つか6つ弾いた後、私はステージの縁まで出て行き、人々の温かい歓呼に向かって謝辞をのべます。それからお別れにこう言うのです- ”私の友達の皆さん、私は80歳でもまだ若く、丈夫です。でも、ごらんのとおりデリケートで女性的な腰つきをしたこのギターの方が、もうずいぶん疲れたと言っています…。”と』

みなさんも、晩秋の一時、人間味溢れるセゴビアの美しいギターの響きに耳を傾けてみてはいかがだろうか。

画像はトップがセゴビアのポートレート。下が向かって左からポートレート2枚とCDの数々。


         


263.ギター曲に浸る秋・その一。Narciso YEPES

2016-10-16 19:15:02 | 音楽・BGM

10月に入っても残暑や気候不順が続いていたが先週末から、つるべ落としのようにストンと涼しくなってきた。千葉北東部でも朝晩などは寒いぐらいである。これから秋が日を追うごとに深まってくる。

こうした季節の変わり目は仕事中のBGMも今までとは換えたい気分になってくる。このところ聴き始めたのがクラシックの『ギター曲』である。ギターと言えば先日テレビを点けると偶然、日本歌謡界を代表する作曲家で歌手の船村徹さんが、自身の代表曲「別れの一本杉」をギター弾き語りで歌っていた。御年84歳とは思えぬ張りのある声、そしてギターのトレモロ演奏を披露していた。しみじみとして心の奥まで染み入ってくる。船村徹、現役である。

話を元に戻そう。そうそうクラシックのギター曲だった。多くの人が、すぐに思い浮かべる曲は、たとえばタルレガの「アルハンブラの思い出」やロドリーゴの「アランフェス協奏曲」などスペインの名曲の数々ではないだろうか。確かにいつ聴いても良い曲ばかりである。

因みに僕がクラシックのギターという楽器を見直し始めたのは、バッハの「無伴奏リュート組曲」からだった。本来バロックリュート1本で演奏するこの曲をエドゥアルド・フェルナンデスというギタリストがギター用に編曲し1988年にロンドンで吹き込んだ2枚組のCDを聴いて、その音色の素晴らしさの虜になってしまった。それまでクラシック界で花形楽器と言えばピアノとヴァイオリンだろうと決めつけていた考え方が一気に音をたてて崩されていった。そもそもギターという楽器の歴史は古く13世紀まで遡るそうである。そしてその音色は「一台でオーケストラのような音を出す楽器」と例えられるように、とても豊かで奥深いものなのである。ただ、日本では他の室内楽と同じく、あまり人気がないのかCDなどで新譜が発売されても内容如何によらず廃番となってしまうものも多い。

1970年代、80年代からクラシック音楽を聴き始めた我々の世代で、この楽器を代表する演奏家を一人挙げるとすれば迷うことなくスペインを代表するギタリストのナルシソ・イエペス(Narciso Yepes 1927年~1997年)と答える人が多いだろう。1951年イエペス24歳の年、我が国でも人気のある映画「禁じられた遊び」の音楽、編曲、演奏を1本のギターだけで行いメインテーマ曲の「愛のロマンス」が大ヒットしたことは良く知られている。大の日本びいきでもあり、トータルで17回訪れているという。そして通常の6弦ギターよりも音域の広い10弦ギターを開発し、均一な共鳴を持つ透明度の高い音色を実現したことでも有名である。演奏する曲目のレパートリーは広い。そう言えばイエペスもバッハの「無伴奏リュート組曲」をバロックリュートと10弦ギターの両方で演奏、録音している。

録音枚数50枚を超えるイエペスの名盤の中から、お薦めするCDを選ぶとすると、かなり迷ってしまう。ギター曲の王道を行くスペイン音楽やバッハをあえて外して2枚を選んでみた。1枚目はイタリアの作曲家、ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757)の「チェンバロのためのソナタ集」をイエペスがギター曲として編曲したアルバム。イエペスの卓越した表現力と演奏によりチェンバロよりも表情豊かに演奏されている名盤である。もう1枚はドイツ・バロックの大家、ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)の「リュート二重奏曲」。これもイエペスがギター曲として編曲した1枚。アルバム全編が愛弟子の一人であるベルギーの女性ギタリスト、ゴドリーヴ・モンダンとの10弦ギターによる師弟共演となっている。バロックらしいくつろいだ雰囲気の演奏で2本のギターの掛け合いにイエペスの弟子への深い愛情が音を通して伝わって来るかのようでもある。

ここでイエペスの信念としている言葉を一つ、「芸術とは神の微笑みである」。みなさんも秋の深まる中、機会があったらこの2枚を是非聴いてみてください。

画像はトップが愛用の10弦ギターとイエペス。下が向かって左からフェルナンデス盤バッハ「無伴奏リュート組曲」のCDジャケ、イエペス盤スカルラッティ「ソナタ集」のCDジャケ、同じくイエペス盤テレマン「ギター二重奏曲」のCDジャケ、各種ギター曲CD。

 

         


260.歌姫

2016-09-18 17:46:23 | 音楽・BGM

9月も中旬となりお彼岸が近付いてくると、そろそろ秋の気配がしてくる。今回はひさびさに仕事中に聴くBGMの話題である。以前のブログでも書いたが僕は季節によって聞く音楽が変わる。今年の夏は60年代のジャズをよく聞いた。最近集中して聞いていたのはテナーサックスのソニー・ロリンズ。けっこう夏の暑さに合っていた。暑さが和らぎ秋めいて来ると、やはり自然とクラシック音楽が聴きたくなってくる。今年もおそらくこれから冬にかけてクラシックを聴いて行くことになるだろう。

これも以前に書いたが季節を問わず朝一番にかけるのはモーツァルトと決めている。モーツァルトの長調のアップテンポの曲を聴くと寝ぼけた頭脳のセンサーがカチャカチャと音をたてて動き出すような気がするのだ。交響曲、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、室内楽、ピアノソナタ…いろんな種類のCDをほとんど聴いてみたが2年程前、突然、歌曲が聴きたくなった。初めのうちは代表的な歌劇の『魔笛』や『フィガロの結婚』を聴いていたのだが、「歌もの」と言えばやはり女性ソプラノを中心に聴いて見たくなった。いろいろとネット検索しているうちに出会ったアーティストが今回ご紹介するバーバラ・ボニー女史(Barbara Bonney)である。最初に聴いてみたのは、やはりモーツァルトで『MORZALT LIEDER Barbara Bonney』というアルバムで日本語のタイトルが「春への憧れ~モーツァルト:歌曲集」という一枚。ピアノの伴奏だけで古典的でロマン的な歌曲を伸びやかで明澄な声により歌いこんでいる。これですっかりファンになってしまった。

その後、モーツアルト以外のCDも聴いてみた。ロマン派は得意なようで、シューベルトの歌曲集、メンデルスゾーンの歌曲集、R・シュトラウスの歌曲集、それからモーツアルトの末子、フランツ・クサファー・モーツァルトの歌曲集はいずれもピアノの伴奏のみでボニーの美声をしっとりと聴くことができる。その他で変わったところではウィリアム・バードなどイギリスの古典的な歌曲とアリアを集めたアルバムで古楽器をバックとした歌唱や、最近お気に入りのウィーンのオペレッタのアリア集は明るく可憐でユーモアもありとても聴き易かった。これは思い出しては繰り返し聴いている。そしてオーケストラ共演のものでは小澤征爾指揮、ボストン交響楽団とのフォーレの『レクイエム』も良いが、ボニーの声を中心に聴くという意味では印象が弱くなってしまうのは否めない。

ボニー自身、アメリカでオペラの歌い手としてデビューし活躍したのだが90年代のあるインタビューで「もうオペラは充分です。これからは歌曲に専念します」と宣言したという。やはりこの人の繊細で透明感のある歌声はピアノや室内楽的な小編成の伴奏により生かされてくるのだと思う。

今月に入って僕の工房での制作も水彩やペンによる細密なドローイング作品が多くなってきた。長時間の集中力と持続力が必要となってくる。明日も早朝から歌姫の美声によるBGMからスタートすることにしよう。画像はトップがモーツァルトの歌曲集のCDジャケット。下が最近お気に入りのオペレッタのアリア集のCDジャケットとボニーのいろいろなCD。

 

   

 

 


182.モーツァルトはモーツァルト。

2015-03-13 21:09:16 | 音楽・BGM

と、タイトルをつけたのは、たとえば「ビートルズはビートルズ」「マイルスはマイルス」などと言うようにジャンルを超えた存在という意味である。

朝起きて一番初めにCDプレーヤーにかける音楽はモーツァルトと決めている。何事も決め事を作るのが好きな性格なのだ。何故かと問われれば、一つは、やはり朝からブルックナーやマーラーの交響曲を聴くのはちょっとつらいのである。朝は食事だって食パンにハムエッグ程度にしたい。ビフテキやら中華ではつらいのである。まだ頭の中がはっきりしないような状態で「弦楽四重奏」や「ヴァイオリン・ソナタ」などを聴き始めるととても心地が良くなって脳のセンサーが順調に作動しだすような気がしてくる。

二つ目の理由は健康のためである。以前より血圧が高めで内科医にかかっているのだが、最近は原因不明の耳鳴りもし始めた。大学病院の耳鼻科で診てもらったのだが」原因は解らなかった。いろいろと家庭の医学的な本を探しては読んでいたのだが、ある本に医師がモーツァルトの音楽と血圧の関係を書いていた。その本によるとモーツッァルトの長調の曲が血圧を下げる効果があるというのだ。さらに耳鳴りにも効果があるという。そういえば昔からモーツァルトの音楽は植物を成長させるにも良く、実際に野菜や果物、そして観賞用の花などの栽培に使用されていることが知られているし、最近では脳科学者たちがまじめに研究をしたりしている。と、いうわけで僕も自分の健康のために以前より熱心に聞き始めた。聴き続けているせいか最近では血圧も安定し、耳鳴りもほとんど気にならなくなってきている。アマデウス様様なのである。

不思議な音楽家だなぁ。まるで中世の魔術師か錬金術師のようでもある。先日、モーツアルトの生涯を追ったテレビ番組の中で某著名ピアニスト女史が「一言で言うと、切なさと明るさの同居した音楽である」と語っていたが、まさに言い得ていてその場でメモをとった。長調の曲と短調の曲では光と影のように表情を変容させる。そして長調の曲の中でも翳りのようなものを感じるパートもある。本当に不思議な音楽である。

数多くの名盤アルバムの中で最近の僕のお気に入りはオランダのチェンバロ奏者でもあるトン・コープマン指揮とアムステルダム・バロック管弦楽団による一連の古楽器演奏によるもの。古楽器でモーツァルトを演奏するものは少なくないがコープマンのものは柔軟なリズム、切れ味の鋭さ、大胆なアドリブなどで新しい解釈のモーツァルトとなっていて何度聴いても新鮮だ。それから室内楽では1970年代録音のチェコのスメタナ四重奏団による透明感のある奥深い演奏。そしてヴァイオリン・ソナタではアルテュール・グリュミオーとクララ・ハスキルの大御所コンビの名盤をあげておこう。

最後にだいのモーツァルト好きとして知られたアインシュタインの有名な言葉を紹介する。「死とはモーツァルトの音楽が聴けなくなるということである」欧米人にとってこの音楽家の世界は特別なものなのだろう。画像はトップがモーツァルトの肖像画(部分)。下が左からトン・コープマン指揮の「交響曲第39番、40番」 スメタナ四重奏団による「弦楽四重奏曲第14番、第16番」 グリュミオーとハスキルによる「ヴァイオリン・ソナタ集」のCDジャケット。 

 

      


176. 新年1月は『新世界』で始まる。

2015-01-30 20:44:27 | 音楽・BGM

昨年暮れのブログに師走のBGMは勝手にベートーヴェン月間として毎日ベートーヴェンを聴きまくる話題を書いた。月並みだが、その中でも『第九』を聴いていると…・。師走が『第九』であれば明けて新年初めてのBGMはドヴォルザークの交響曲第九番『新世界』と決めている。元日は一日中『新世界』を数種類の盤で聴きまくって仕上げはヨハン・シュトラウス2世のワルツ集で締めくくるのである。どうやら何かと決め事を作るのが好きな性格らしい。

ドヴォルザークと言えば甦るのが少年時代のこと。有名な第2楽章のラルゴは通っていた小学校の下校のテーマだった。哀調を帯びたこのメロディーが放送室から流れてくると遅くまで校庭の隅で遊んでいた居残り組もしぶしぶ引き上げるのである。もっと強烈に印象に残っているのは音楽室での思い出である。戦後すぐに創立されたその小学校は木造のオンボロ校舎で大雨の日は雨漏りがそこら中でおこり、白アリの大発生あり、夕方は塒になっている体育館からアブラコウモリがたくさん飛び立った。音楽室はそのオンボロ校舎のさらに昼なお暗い場所の二階にあり、薄暗い階段の壁には額装された古い音楽家のリアルな肖像画(当然印刷物だが)がかかっていた。モーツアルトやメンデルスゾーンなどはまだ性格が良さそうな西洋人のお兄さんなのだが、子ども心にブラームスとドヴォルザークは怖かった。映画『日本海海戦』に登場するバルチック艦隊のロシア人艦長のように長い髭を蓄えて強面の表情をしていたのである。さらにこの音楽室にはいわゆる「学校の怪談」があった。それは「放課後暗くなった頃、訪れると誰もいないはずの音楽室から悲しげなピアノの音が聴こえてくる…」という王道を行ったお話しだった。恐ろしげなリアル肖像画と怪談話。この二つの恐怖から僕は「音楽」という授業がとても嫌いになった。

話が音楽からかなり脱線してしまった。『新世界』のぼくの愛聴盤はLP時代から聴いてきたもので、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、シカゴ交響楽団による1977年録音による超名盤である。緻密で明瞭な表現が心地よい。現在CDではシューベルトの『未完成』とのカップリングでかなりお得になっている。いろいろ聴いたがもう一枚というと最近お気に入りの巨匠ヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団による1993年録音の盤。『新世界』交響曲がニューヨークで初演されて成功を収めてから100年、その記念のコンサートとしてプラハで演奏されたもの。堂々としていて迫力があり王道中の王道の『新世界』となっている。

今月も残すところあとわずか。月が変わらないうちに、もう一度この二枚の名盤をじっくりと聴くことにしよう。画像はトップがジュリーニ盤のジャケ、下がノイマン盤のジャケ。

 


171. 『第九』を聴かなきゃ師走じゃない。

2014-12-27 20:36:29 | 音楽・BGM

今年も残すところ、あとわずかとなった。例年12月に入るとベートーヴェンの『第九交響曲』のCDを毎日のように聴くことが習慣になっている。こうすることで変化の少ない日常に師走のムードを盛り上げているのだ。ついでに「ベートーヴェン月間」と自分で勝手に銘打って、師走の慌ただしい最中に交響曲に限らず協奏曲、室内楽曲などを聴きまくっている。

第九に限って言えば、LP時代よりカラヤン、ベーム、イッセルシュテット、小澤など名指揮者と一流のオケによる数々の名盤を聴き続けてきたのだが、ここ数年のお気に入りはN響の名誉指揮者として我が国でもお馴染みのヘルベルト・ブロムシュテットの指揮でオケはシュッターツカペレ・ドレスデンによる1970年代録音の盤と巨匠レナード・バーンスタイン指揮で6か国合同オーケストラにより「ベルリンの壁 崩壊」の開放記念コンサートとして1989年に演奏録音された盤の2枚である。

前者は1970年代の冷戦時代の吹き込みで東ドイツ側が当時クラッシク王国であった西ドイツに張り合って録音された「ベートーヴェン交響曲全集」のうちの一枚である。その正攻法・伝統的スタイルの演奏は国際的にも高く評価された。後者は説明したとおりである。世界中が歓喜に震えたあの瞬間、1989年11月9日から10日にわたるベルリンの壁崩壊。その年の12月25日、東ベルリン、シャウシュピール・ハウスにおいてライヴ・レコーディングされたものである。オケはヨーロッパ6か国から選ばれた生え抜き演奏家、声楽家による合同オケであり、このような場面ではバーンスタインのような大コンダクターでないと収めることはできない。全楽章から東西ドイツ開放のパワーが地響きのようなサウンドとして聞こえてくる感動のライヴ録音だ。そして「フォト・ドキュメント 1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊」というモノクロ写真集の中に挿入されていた。あれからもう25年も経っているんだねぇ…。

この2枚を気に入って選んだのは偶然である。一枚は冷戦時代の東西の競争意識で録音され、一枚は東西の世界の解放の喜びを曲に込めて録音されたもの。同一作曲家の同一曲なのだが聴き比べていると伝わってくる内容が微妙に違っていて不思議である。2015年を迎えるその瞬間まで聞き続けていくことにしよう。

画像はトップがベートーヴェンの肖像画。下が左からブロムシュテット盤ライナー、バーンスタイン盤ライナー、ベルリンの壁崩壊のモノクロ写真集から2枚を転載。

 

      


164.『バッハ・無伴奏チェロ組曲』を聴く日々。

2014-10-31 21:28:17 | 音楽・BGM

夏以降、細かい版画を集中して彫る毎日が続いている。銅版画や木口木版画の彫りというのはとても集中力の必要な工程である。こうした時間が長く続くときには、自然とBGMをかけたくなるものだ。いつ頃からだったかはっきりとは覚えていないが、バロック系の音楽を聴くことが多くなっていた。

声楽や宗教曲などいろいろと聴いてみたが、中でも長く聴いてきたのはバッハの無伴奏器楽曲である。『無伴奏ヴァイオリン組曲』 『無伴奏リュート組曲』 『無伴奏チェロ組曲』 がその代表的なものだが、やはり彫りにシックリくるというとチェロである。低音の奥深い響きは集中力を向上させるのにちょうどいいのである。クラッシックフアンの間では、このバッハの無伴奏チェロ組曲のことを「チェロの旧約聖書」、ベートーヴェンのチェロソナタのことを「チェロの新約聖書」というのだそうだ。比べると後者はピアノとの共演で、ずっと華やかな印象を持つが、僕は俄然、旧約派である。もちろん、ベートーヴェンも素晴らしいが、バッハのチェロ1本で豊かな音を奏でるというところに強く惹かれるのである。

初めて聴いたのは20代だったが、ヨー・ヨーマ演奏によるLP盤を薦めてくれた絵描きの友人が、「この曲をかけていると、画室の隅に神様がいるような気配がしてくるんだよ」と言っていたのを思い出す。別にオカルト的な意味ではなく、じっくり聞いていると確かに深い精神世界へ誘われるような気がしてくるから不思議である。音楽の力というのだろうか。

以来、LP時代からいろいろなチェリストによるアルバムを聴いてきた。ヨー・ヨーマに始まって、パブロ・カザルスの古い演奏、ピエール・フルニエ、ミュッシャ・マイスキー…その中でずっと聴き続けてきたのは巨匠カザルスの演奏。その後の全てのチェリストに多大な影響を与えた「無伴奏」の永遠の名演である。最近のお気に入り盤は昨年88歳で他界したハンガリー出身の天才チェリスト、ヤーノシュ・シュタルケルによる演奏が高い精神性を表していて繰り返し聴いている。もう1つはオランダのバロック・チェロの名手、アンナー・ビルスマによる古楽器演奏。ただでさえ渋いチェロの低音がバロック・チェロの枯れた音によってさらに、燻し銀のような音を奏でている。版画の彫りに集中する中、しばらくはバッハの無伴奏チェロ組曲をかけることが多くなりそうである。画像はトップがチェロ演奏中のパブロ・カザルス。下が左から同じくパブロ・カザルスとシュタルケルのCDジャケット、ビルスマのCDジャケット。

 

      

 


154.ブルックナーの交響曲を聴く日々。

2014-08-01 19:00:00 | 音楽・BGM

絵画や版画作品を制作するときには必ずBGMを聴いている。音楽は僕にとっては耳と脳の栄養となる食物に近い感覚として存在している。自慢ではないがコテコテの演歌以外はクラッシック、ポップス、ロック、ブルース、ジャズ、レゲエ、ファド、フォルクローレ、津軽三味線など、たくさんの種類の音楽を聴いてきた。長い時間流すので一つのジャンルだけではすぐに飽きてしまうのだ。譜面もろくすっぽ読めず、楽器も弾けない音痴なのだが、聞くことには妙なこだわりがあって、以前はよく季節によって聴くジャンルを替えていた。たとえば、春から夏の昼間はロックやレゲエを聴き、夜間はジャズを聴く。秋から冬にかけてはクラッシック音楽を中心に聴いていた。それから状況によってもジャンルを替えた。絵画を描いている時、版画の細かい彫りの作業の時には、バロック系の音楽を聴いて集中力を高め、版画の摺りの労働の時には、ワークソングとしてシカゴ・ブルースを聴いていたりした。その延々と続くディスクの交換が面倒くさくなってくるとラジオのFMの音楽番組に替える。そして本当に制作に集中してくると何もかけなくなる。

今年になって突然クラッシックのブルックナーに目覚めた。中でも交響曲を集中的に聴いている。20代に友人に勧められて初めて聴いた時には、その演奏時間の長さと同じようなメロディーの繰り返しに閉口し、LPレコードの再生途中に居眠りをしてしまった記憶がある。それから至極難解なイメージを持ってしまった。つまり一度挫折したのである。                          

アントン・ブルックナー(Anton Bruckner  1824-1896) と言えば、対位法を駆使した交響曲と崇高な宗教曲を数多く生み出した19世紀オーストリアを代表する偉大な作曲家であり、孤高の生涯を送ったことでも知られている。クラッシック音楽ファン、中でも交響曲ファンにはベートーヴェン、ブラームスと並び、頭文字のBをとって『交響曲の3大B』と呼ばれ人気が高い。大きなCDショップに行くと大きな棚に数多くのアルバムが揃っている。

それにしても音楽の嗜好というものは年齢によって変わってくるものだ。以前は難解で退屈に聞こえていた曲が、今は雄大で宇宙的な広がりを持ち、奥行きがあるヨーロッパの深い森林がイメージされ、聴こえてくる。そしてなによりも心地いい響きを持っている。交響曲は生涯に11曲が書かれている。0番~9番、そしてスコアがない未完のものが1曲ある。一般的な人気は4番・ロマンティックと7・8・9番だが、その他のものも魅力があり、どれも捨てがたい。現在まで一応すべての番号を聴いてみた。演奏も巨匠カラヤン指揮+ベルリンフィルの緻密で完全主義的な盤、ヨッフム指揮+バイエルン放送フィルの模範的演奏とされる盤、ベーム指揮+ウィーンフィルの情感あふれる名演盤、旧東独のブロムシュテット指揮+ドレスデン国立歌劇場オケの燻し銀の盤などなど…。そして最近気に入っているのは我が国が誇るブルックナー演奏の巨匠、朝比奈隆が大阪フィル、新日本フィル、N響を指揮した名演盤の数々である。自ら古典主義を名乗り、スコアどおりの演奏にこだわる。そして一つの曲を何回も繰り返し指揮する姿勢はまさにマエストロ(職人)の域である。たとえばブルックナーの交響曲9番のような未完の曲を生涯に6回も演奏し録音したのは史上空前であると言われている。

先月、聴いて感動したアルバムは2000年に録音されたN響との9番の演奏盤だった。 この時、マエストロ朝比奈氏は御年なんと、92才。まさに神の域に達した歴史に残る名演である。圧倒的な激しさと巨大さを持つ第1楽章から始まり、魔性の力を持つと呼ばれる第2楽章。そして彼岸的な崇高さを感じさせる第3楽章により感動的に演奏されるこの曲は第4楽章を未完成のままにして終わる。そしてこの翌年、朝比奈隆氏も93年の生涯を閉じるのである。未完成の9番と老巨匠最晩年の演奏。なんともドラマチックな組み合わせである。

猛暑の中、変わらずに絵画や版画を制作する日々。しばらくはブルックナー狂いが続きそうな予感がしている。画像はトップが朝比奈+N響のブルックナー・交響曲第9番のCDジャケ。下が左から各種ブルックナーのCD盤と最近読み始めた伝記本。