長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

239.『赤い鳥をさがして-In search of Red Birds-』 ②清里高原

2016-03-30 20:00:33 | 野鳥・自然

2月23日(火)7時。カラス、カーッで目が覚める。赤い鳥をさがす旅の2日目は清里高原の宿泊施設「清泉寮」の朝からスタートした。予定よりも遅く起きてしまった。夕べのワインがまだ少し残っている。熟睡していた連れ合いに声をかけて起し、食堂へと向かう。ホテルの朝食は和洋、選択できるヴァイキング形式である。

『清泉寮』は1938年にキリスト教の一派の青年運動団体の創始者であるジェームズ・L・ホーテリング氏を記念し団体の指導者の訓練キャンプ場として奉献された施設である。その後1941年、太平洋戦争による国際情勢の悪化からキャンプ場は封鎖された。戦後、1945年荒廃しきっていた施設をGHQの将校、ポール・ラッシュ博士によって新たに「KEEP(キープ)協会の宿泊施設として創設され現在に至っている。このホテルのある高原は富士山、東に奥秩父連山、西は南アルプス連峰、北に八ヶ岳という絶好の景勝地となっている。僕らが訪れるのは5年ぶりである。その時は晩秋で近くの美術館での版画のワークショップをおこなった帰りに立ち寄った。

今日は1日たっぷりと清里高原一帯を歩き回って「赤い鳥さがし」をする予定である。朝食を済ませ、9時過ぎに出発。野外に出ると快晴で「八ヶ岳ブルー」と呼ばれる独特な青の抜けるような空が広がっていた。露出した顔に触れる高原の空気が痛いほど冷たい。ゆっくりと冬の小鳥の姿や声を求めて歩き始めた。初夏の森林ならば野鳥たちは美しい囀りを聴かせてくれるが生い茂った葉によってその姿を見つけるのには苦労する。これに対して冬の落葉した森林では視界も良くその姿は見つけやすいが声は地鳴きと言われる小さく地味な声なので声による種の識別には苦労する。”チッチッ”とか”ジジッ”とか似たような響きの音をたよりに探していくのである。とりあえず「八ヶ岳自然ふれあいセンター」という高原の中央に建つ公共施設を目指して遊歩道を進むことにした。ここは連れ合いが学生時代に自然観察指導員のアルバイトをしたという思い出の場所でもあった。

周囲の山岳を見上げると、フロントのホテルマンが「今年の冬はここ十数年で一番暖かい」と言っていた通り積雪が少ない。後ろを歩いていた連れ合いが日陰に残った雪や泥の上に獣の足跡を見つけた。「えーと、これはシカ…こっちはノウサギ…これはたぶんアナグマでその隣の小さめなのはテンかしら…」などとブツブツ言っている。普通に観光に来ている人には、さぞやおかしなペアに写っているだろうなぁ。こう見えて連れ合いは僕から観ればベテランの先輩バーダーなのである。学生時代には北海道の最果ての島の利尻島にギンザンマシコという赤い小鳥を見つけに行ったり、沖縄本島の山原(ヤンバル)の森林に当時発見されて間もないヤンバルクイナを探しに行ったりと日本列島を北から南まで鳥を求めて歩き回った山ガールならぬ「鳥ガール」であった。社会人になってからは韓国までも遠征している。場数を踏んでいるだけにフィールドでの鳥を見つける「感」はピカイチである。特に耳がいい。たよりになる相棒なのだ。

自然ふれあいセンターに着くと、この日は休館日で閉まっていた。計算外。5年前に来た時はセンター前の広場を渡って来たばかりの冬鳥のマヒワの見事な大群に遭遇した思い出がある。ここから進むコースの確認をしているとセンターの横の道からレンジャー風の若い男性が2人歩いて来たので、呼び止めて冬鳥情報を尋ねてみると、親切にこの先の探鳥コースまで指導してくれた。さっそくそのとおりに進み森林の中に入っていく。ヒガラ、コガラ、シジュウカラ、ヤマガラ、ゴジュウカラ、コゲラ、アカゲラなど森林を代表する留鳥が次々に出現するが赤い鳥の姿は見えない。「アカマツの木も結構多いから松ぼっくりが好物のイスカでも出ないかなぁ…」 ところが、行けども行けども出会うのは同じカラ類ばかりだった。再度地図を確認し、環境を変えて探してみようということに意見が一致して森林と牧草地の林縁部を集中して観察することになった。

林を抜けるとポッカリと広い牧草地が見える場所に出た。ここでコンロでお湯を沸かし、持ってきたカップ麺とパンの遅い昼食をとってから林縁部をゆっくりと歩き始めた。カシラダカやツグミなど平地でも普通に見られる冬鳥を観察。しばらく進むと冬枯れの藪の中から”チッ、チッ”という地鳴きが聞こえてくる。声のする方を双眼鏡で覗いていた連れ合いが「このエンベリザ普通のと違う」と言った。エンベリザ(Emberiza)というのはスズメ目ホオジロ科の学名である。しばらく丁寧に観察し西日本などに多く冬鳥として渡って来るミヤマホオジロの♀と判明した。その後、「青い鳥」の代表選手であるルリビタキの♀などと出会うが肝心の今回のお目当てである「赤い鳥」の仲間がなかなか出現しない。ざっと見てきたところ冬鳥の個体数もかなり少ない感じである。とうとうこの牧草地のはずれまで来てしまった。午後2時を回った頃、林縁の藪の奥から”フィッホ、フィッホ”と聞き覚えのある声が聞こえてきた。声の方向を双眼鏡で丁寧に見ていくと「いた!ベニマシコの♀だ」 さらに道の反対側の叢に♂が1羽イネ科と思われる植物の種を食べている。初の赤い鳥登場。♂は短くしっかりした嘴でパチパチと種を砕いて食べていて移動しない。ここで証拠写真をパチリ。ベニマシコは北海道と青森県の一部で繁殖し、秋冬には本州以南の山地から低地に移動する。なにも高原でなくとも平野部の叢や水辺のヨシ原などにも秋から冬に渡来する。実は今冬もすでに湖沼のヨシ原で何度か観察している。

それでも赤い鳥であることに違いはない。「ベニマシコで満足だね」連れ合いが自分を納得させるように言った。ここでこの日の行動はリミット。日入りの時間帯となり薄暗くなった元来た森林を抜け宿へと急ぎ足でもどった。すぐに冷え切った体を露天風呂で温め、夕食を食べるとすぐに寝床についた。翌日、出発の日、早朝に起床しバスの時間ぎりぎりまで高原を歩いたが、赤い鳥はまた同じ場所でベニマシコに再会できただけだった。帰りは清里駅までバスで出て小海線に乗車、帰路に着いた。今回の2日半の探鳥行で観察できた野鳥はスズメ、カラスも入れてちょうど30種。バーダーは目的の鳥が観れなかった時「はずす」という言葉を使う。今回は「赤い鳥をさがして」ではなく「赤い鳥をはずして」というタイトルにしなければいけないのかもしれない…いやいや唯一その姿を堪能させてくれたベニマシコに感謝しなければいけない。

メーテルリンクの童話「青い鳥」の中でチルチルとミチルの兄妹が幸福の青い鳥を求めて旅に出て、とうとう見つけられず結局、最も身近な鳥籠の中にいたという青い鳥。僕らの「赤い鳥」は身近な環境にもどってから、どこかで発見することができるのだろうか。 画像はトップが出現したベニマシコの♂。下が向かって左からベニマシコの♂もう一枚、八ヶ岳をバックにした清泉寮、林縁で野鳥を探す僕、牧草地の片すみで休憩する連れ合い、宿の中に展示してあったシカの頭骨。

 

            

 

 


238. 『赤い鳥をさがして-In search of Red Birds-』 ①八ヶ岳倶楽部周辺

2016-03-26 20:40:05 | 野鳥・自然

2月、3月と冬の野鳥ネタが続く。今回、ブログは何やらベルギーの作家モーリス・メーテルリンクの童話『青い鳥』のようなタイトルがついている。主人公のチルチルとミチルの兄妹が幸福の青い鳥を探して過去や未来の国に旅をするが見つけられず結局、自分たちの最も身近なところにある鳥籠の中にいたという有名な物語である。今回の旅がこんなにロマンチックな内容というわけではないが美しい鳥を探しに行ったことには間違いない。

寒さが本格的になって来た頃、古い鳥友でもある連れ合いが突然、「ねぇ、今年の冬は赤い鳥を探しに行かない?」と言いだした。『赤い鳥』とバーダー(野鳥観察者)たちが呼ぶのは外国の珍しい飼い鳥のことではなく、スズメ目アトリ科の野鳥の中のベニヒワ、コベニヒワ、ハギマシコ、アカマシコ、ナキイスカ、イスカ、オオマシコ、ベニマシコ、ウソなど羽衣が赤い羽、あるいは部分的に赤色が混じる小鳥類の総称である。中には日本の北部で繁殖する種もいるが、ほとんどは秋冬に大陸や日本列島より北の地域から越冬のために渡ってくる種が多い。これに対してコルリ、ルリビタキ、オオルリといった羽衣が青い小鳥類も人気があり、『青い鳥』などと呼ばれている。

『赤い鳥』は日本の野鳥を主題とした版画シリーズでもぜひ制作しておきたいグループでもある。渡りに船、「そうだね、ひさびさに版画の取材も兼ねて探しに行ってみよう」ということになり、場所をどこにするかということで、あそこでもない、ここでもないと候補地を上げているうちに、さらに連れ合いが 「去年の秋に野鳥の会の本部でお話しを伺った柳生博会長がオーナーの八ヶ岳倶楽部はどう?あそこはオオマシコが渡って来ることでも知られているし…」ということになり、ここと少し先の清里高原を結んで「赤い鳥探し」の旅へと出ることに決定した。

先月22日。早朝4時代に家を出発、千葉県内から1日1本だけ出ているという中央本線に乗り入れる特急に船橋駅で乗り継ぎ一路、小淵沢駅まで向かった。八王子を過ぎ、しばらくすると車窓からは裏高尾の山が間近に見え、さらに進むと奥多摩、大菩薩の山並が見えてくる。そして山梨県に入り長坂あたりまで来ると奥秩父や南アルプス、八ヶ岳、そして富士山など山梨県を代表する高山が出迎えてくれた。この辺りは学生時代ワンゲルまがいのサークルを同級生と作って、よく登った山域である。移り変わる景色を眺めているうちにあっと言う間に小淵沢駅に到着。ここでローカル単線の小海線に乗り換える。ゆっくりと山麓の雑木林や別荘地を走り抜け、わずか3駅で目的の「甲斐大泉駅」に到着。スマホを見ると10時13分、家を出てから5時間半ほどたっていた。電車を降りるとヒンヤリと山の空気が冷たい。駅の北側にはどっしりと八ヶ岳がそびえているが思いの外積雪が少ない。ちょっと嫌な予感がした(理由は後で書きます)。

明日は1日、清里高原の森林を歩き回る予定なので、コンビニに食糧や飲み物を調達しに行くことにした…ところがコンビニが遠くて坂道だったため、この往復に時間がかかり、一汗かいてしまった。八ヶ岳倶楽部まで歩いて行く予定だったが少しでも時間を稼ぎたいのでタクシーを利用する。ドライバーに最近の天候のことなど訪ねているうちに倶楽部入口に着いた。事前に連絡していたスタッフのK氏が迎えに出て来てくれて敷地内を案内してくれると言う。荷物をレストランに預けて林に作られた枕木の周回路を1周する。カラ類の声、アカゲラの声、頭上を飛ぶイカルの群れなどが確認できた。林の中に点在する「ステージ」や「ギャラリー」と名付けられた木造の山小屋のような施設などを丁寧に案内していただいた。一周して元来たレストランいに戻ってくるとK氏が、「今日は柳生もおりますから会って行ってください」とのこと。奥の方から聞き覚えのある声がして日本野鳥の会会長の登場。レストランのテーブルに案内され昼食を取りながらの歓談。広いガラス窓の外に設営されたミニサンクチュアリ(冬場の野鳥の給餌台)には入れ替わり立ち代わり小鳥たちが訪れてくる。

シジュウカラ、ヤマガラ、コガラ、ヒガラ、ゴジュウカラなどのカラ類を中心に、エナガ、アトリ、シメ、イカルなどが次々にやって来てはさまざまな餌を食べている。クルクルと忙しく飛び回るさまは、まるで小さなサーカスでも見ているように楽しい。それもオーナー柳生博さんの解説付きという贅沢な状況である。「この給餌場は冬の人気のスポットなんだよ」と嬉しそうに言った後、「この冬は寒さが中途半端でねぇ、オオマシコは来ていないんだ。それどころか例年普通に来ているウソの姿も見ない」ということだった。先ほど駅を降りて山の積雪量を見て「嫌な予感」がすると言ったのはこのことである。「赤い鳥」たちは繁殖地の状況や日本の亜高山、北国の寒さや雪の状況などが影響し年によって渡来数に当たり外れがあるのである。

食事を済ませ、しばらくすると若い女性のスタッフの方が「あちらで柳生が待っています」と奥のサンルーフのようなガラス張りの部屋に通してくれた。そこに柳生さんが一人座っていて「いつもは3時過ぎから飲むんだけど面倒くさいから今から飲んじゃおう!」と言われ3人でワインを飲むことになった。「ここは僕の特等席でね1年に1度この真上をイヌワシが大きくゆっくりと旋回飛行していくんだよ」という話を枕詞に八ヶ岳倶楽部を家族みんなでどのように作ってこられたかという苦労話、野鳥や自然環境のこと、そして役者生活のことなど秋に東京でお話を伺った時より、かなりリラックスして話された。最も愉快だったのはドラマ撮影の楽屋の裏話だった。知っている俳優さんたちの名前がぞろぞろと登場し、撮影のエピソードなどを延々と語られた。そして柳生さんの話は聞く側をグイグイと引きずり込んでしまい飽きることがない。そりゃあ「語るプロ」だからねぇ。時間を見ると夜の7時を過ぎている。閉店時間である。1時ごろから飲み始めたので6時間ぐらい柳生博さんの「語り」を聞きながら飲んでいたことになる。たいへん贅沢な話である。

楽しい時間はいつでもあっという間に過ぎるものだ。お名残惜しいが挨拶もそこそこ、タクシーを呼んでもらい今日の宿である「清泉寮」まで向かった。「赤い鳥さがし」は明日のお預けである。

柳生博会長、八ヶ岳倶楽部スタッフのみなさん、とても楽しい時間をありがとうございました。

画像はトップがオーナーの柳生博さんとツーショット。下が向かって左からクラブ内の施設でスタッフのK氏と、給餌台に来ていたイカル、シメ、コガラ、日暮れ時の八ヶ岳倶楽部風景。

 

              

 


237.『東京にハクガン飛来す』の巻

2016-03-23 21:38:17 | 野鳥・自然

毎年、晩秋から冬になると東京近郊の野鳥仲間の間でさまざまな「鳥情報」が飛び交う。関東周辺で数少ない冬鳥や珍鳥の出現数の多い季節なのだ。まだ観ていない観察種を増やしたり、貴重な迷鳥の記録写真を撮影したりとバーダー(野鳥観察者)にとってもっとも忙しい時期ともいえる。なかなか腰の重い僕の元にも昨年の秋が深まる頃から冬にかけてさまざまな鳥情報が入ってきた。

ここでご紹介するのはその中の一つ。例によってメールや口コミで情報の飛び交う中、ある鳥友(ちょうゆう)と会った時、「北千住にハクガンが3羽出ているよ」と唐突に言われた。「えっ、北千住?ハクガン!?」一瞬わが耳を疑った。「北千住と言えば思い浮かぶのは駅周辺の飲み屋街、赤ちょうちんと焼き鳥を焼く煙だし…ハクガンと言えば日本では稀な冬鳥だし…いったいどこでこの二つが結びつくんだい!?」と質問すると鳥友はゆっくりとした丁寧な口調で詳しく語りだした。「北千住と言っても駅からは離れた荒川の河川敷でハクガンは幼鳥が3羽である。10月の下旬から出ており人に警戒心がほとんどない」とのことだった。その場は「ふぅん」とたいして感心がないように装って別れた。

以前は友人知人からの情報で珍鳥が出たと聞けば飛んで観に行ったものだが、近頃、珍鳥というものにあまり関心がなくなってしまった。そうした現場に行けばインターネットと携帯電話の普及によりあっと言う間に情報が伝わり何十人、何百人と人が集まり、たちまち超望遠レンズの砲列が並ぶ。こうした中に身を置いて小さな珍鳥が出現するのを待っている空間に嫌気がさしてしまったのだ。最近では「もっと普通に生きている鳥を詩的に観たい」などと言って自分自身の気持ちを納得させている。

ところが、ハクガンは別である。長い間、憧れていた鳥である。1989年にアメリカの自然写真家であるギャレンバレルという人が『ハクガンは再び~When the SnowGoose are gone』という写真集を発表し、和訳されたものが日本でも出版された。その頃日本で野鳥写真と言えばカリカリにピントのあった生態的なものが主流だったが、このバレルの写真集は違っていた。風景的であり、物語的であり、抒情性もあった。それまで生態写真ではタブーとされてきたハイキーな画像や軟調なトーンのものなどを多く用いとても絵画性に富んだものであった。内容としてはアメリカのハクガンの越冬地である太平洋ノースウエスト地域の広大なライ麦畑の四季を追ったドキュメンタリーでハクガン以外にもさまざまな野鳥が登場する。「いつかこの写真集に出てくるようなハクガンの群れを観てみたい」こう思い続けてきた。そうこう思い出しているといてもたってもいられなくなり先月10日と今月18日の2回にわたって会いに行ってしまった。

飛来現場は荒川の河川敷にできた運動公園で野球場、サッカー場などがあるところだが場所によっては雑草が生え放題といったところもあり、ハクガンの若い3兄弟はここで四六時中歩き回っては冬でも青々としたロゼット植物やらクローバーやらの葉を短く丈夫な嘴で根こそぎ抜いては食べていた。ときどき、トビやハヤブサなどの猛禽が上空を飛翔すると警戒し立ち止まる。そして場合によっては川の水面まで3羽揃って飛んで行って身を守る。でも、しばらくするとまた戻ってきては草を食べ歩きそして休息するのを繰り返していた。行動する時はいつも3羽仲良くいっしょである。「ハクガン3兄弟」なのである。バーダーやカメラマン、犬の散歩の人、ジョギングの途中の人がすぐ傍にいても全く気にしないどころか”ククッ、ククッ”と小声で鳴いて彼らから近づいてくることさえある。ここまで人に慣れるととてもかわいい、家に連れて帰りたくなる。

ハクガンはもともと北アメリカおよびグリーンランドの北極圏、北東シベリヤのコリマ川下流域などで春から夏にかけて繁殖し北アメリカ東海岸および西海岸で越冬するカモ科のガン類で日本では数少ない冬鳥として北海道、本州、九州などで稀に記録されるなどとされてきた。この東京での記録も58年ぶりということだ。しかし近年では秋田県や新潟県の日本海側で数十羽~数百羽が越冬している。世界的にみると生息数がとても増えていて繁殖地であるツンドラ地域の植物を食べまくってしまうので有害鳥獣に指定されカナダやアメリカでは駆除の対象になっているらしい。その猟銃で撃たれる総数はハクガンの生息数のかなりの割合とも言われている。日本の鳥で言えば昔天然記念物で今は漁業の有害鳥獣となったカワウを想い浮かべてしまう。人間はいつだってそうだ。増えれば有害だとする。銃で片を付けようとするのはどこかの国の無差別爆撃に似ているじゃないか。有害有害と言ってもこの青く美しい星の上でもっとも有害な生き物はヒトではないのか。自分の同朋を殺すことが本能上できるのは多くの生物の中で「ヒト科・ヒト」だけである。他の動物はこれも本能上安全装置を持っているのだ。

目の前の黙々と草をはむ人懐っこい3兄弟を眺めながらハクガンの置かれた厳しい現状を想像してしまった。どうか春になったら無事に繁殖地のツンドラまで帰ってほしい。そしてハンターの銃弾を潜り抜けながら無事繁殖を済ませ、新しいファミリーで安全な日本に戻ってきてください。憧れの白く美しい姿をたっぷりと楽しませてくれて感謝しています。

画像はトップが東京の町を背景とした3兄弟。下が向かって左からカメラマンが来ても逃げないハクガン、2枚目、3,4,5,6枚目といろいろ、7枚目に顔のアップ。

             

 


236.『村田慶之輔先生を偲ぶ会』に出席する。

2016-03-15 20:56:08 | 

12日。昨年、3月に他界された美術評論家の『村田慶之輔先生を偲ぶ会』に出席してきた。村田先生は昭和5年生まれで、早稲田大学の文学部を卒業後、神奈川県の教育委員会、文化庁文化部芸術課、国立国際美術館学芸課、高岡市美術館、川崎市岡本太郎美術館館長、軽井沢ニューアートミュージアム名誉館長などを歴任された方である。

僕が村田さんに初めてお会いしたのはバブル真っただ中の東京の画廊でだった。当時、村田さんの世代から今の60代ぐらいまでの美術評論家は、熱心に画廊の企画展を廻られていた。この時期画廊でもいろいろな評論家の方にお会いしたものだ。そして美術雑誌や新聞に展覧会評の文章を書かれていた。バブルが弾け美術の世界も不況のあおりを受けて、リーマンショックなどが立て続きに起こる中に時代も変わり、こうした世代の美術評論家に画廊の企画展会場でお会いする機会も減っていってしまった。

僕自身、個展会場で村田さんにお会いし、ご批評いただいたのは年譜からたどると高岡市美術館を退職する少し前だった。当時会場にいらっっしゃると、まずその鋭い眼差しで作品を1点1点時間をかけて丁寧にご覧になった。よく他の作家や美術関係者から「村田さんは厳しい批評で有名だ」というようなことを聞いていたが何故か僕は作品をけなされたという経験がない。確かに頭の回転が良く言いたいことをズバズバと早口でおっしゃるタイプであるが、その言葉には裏表はなかった。そしてたいていは「こうしたらどうか」「こう変わっていくこともできるじゃないか」という明快で的確なアドバイスだった。一番印象に残っているのは銅版画の連作を一つのテーマで50点以上制作した後の個展会場で正直に「ここに来て行き詰っているんです」という相談をしたところ、もう一度会場を廻られて会場の隅に飾られていた小作品を指さして「これ面白いじゃない、この方向で展開していったらどう」と指摘されたことだ。その作品はこの個展の中でも自分自身ではさほど重要ではない位置づけのものだったので、その理由を伺うと実に的を得ていて目から鱗が落ち、その後、新シリーズを展開できたのである。

偲ぶ会の会場である日比谷の帝国ホテル17階の会場に着くと入口は大勢の出席者であふれ受付に並ぶ人の列が隣のレストランまで続いていた。覚悟して一番後ろに並んで待っているとエレベーターから次々に人が降りてくる。中には著名な美術家の方の顔も見える。日本画家のN島氏、洋画家のI江氏、K谷氏、銅版画家のY本女史などそうそうたるメンバーである。並ぶ人の話のようすから若い世代の美術家も多くいて、おそらく村田さんは、ごく最近まで若手の面倒を見られていたんだろう。

ようやく会場に入ると遺影が用意されていて順番に白い花を献花し、バイキングの会場に入った。空いている席に着いたが、たいへんな出席者の数である。これも全て村田さんの人柄と人の出会いを大切にする姿勢によるものだろう。会場の中央にも遺影があり、その前で発起人、ご家族の挨拶が始まった。みんな口々に「村田氏は形式的なことを嫌った人なので今日はざっくばらんに思い出話をして氏の好きだったワインを楽しく飲みましょう」という意味のことを言っていた。そのスピーチの通りに会場は明るく楽しい「偲ぶ会」となった。おそらく村田さんも会場に来ていて一つ一つのテーブルを訪れていたのかも知れない。歓談、献杯の後、「贈る言葉」として先ほどみかけた洋画家のK谷氏、銅版画家のY本女史と続いてからは、あっという間に閉会の時間となった。楽しい時間は長くは続かないのが常である。

会場を出て銀座の画廊巡りをしようと歩き始めると思いの外、酔っている。酔い覚ましに目前の日比谷公園をブラブラと歩くことにした。小さな池の近くのベンチに座って休んでいると目の前の水辺に都会の真ん中では珍しいアオサギの成鳥が、じっと羽を休めていた。その凛とした姿と鋭い眼差しが何故か生前の村田さんの姿に重なって見えた。「ここに今、村田さんがいたとしたら僕にどんなアドバイスを送ってくれるのだろう?」 妄想だが頭の中をある言葉が村田さんの早口の声で聞こえてきた「あなた作家なら、こんなところで飲んでいる暇はないでしょう。それから前に言っていたオリジナルの博物誌の連作は完成したの?ビュッフォンとは一味違ったものを作るんでしょう?」 村田さん、今まで本当にありがとうございました。どうか安らかに。 

画像はトップが会場内に設営された村田さんの遺影。下が向かって左から帝国ホテル外観、ロビーのシャンデリア、会場風景、挨拶をする村田夫人、日比谷公園のアオサギ。

 

            


235.高校の生物部OB会に出席する。

2016-03-07 21:38:57 | 日記・日常

先月某日。高校の生物部のOB会に出席した。場所は千葉県内の某飲み屋でここもOBの経営するお店。

高校時代、僕は美術部と生物部の二つに入部していて美術部は部長だった。僕が通う千葉県内の私学の高校は男子校で進学校だった。一学年13クラスあり一クラスに40名ほど生徒がいた。マンモス校に近い。進学校だったので1年次から都内の予備校に通う人も多かったが、男子校ということもあり割合自由な校風でクラブ活動は体育系、文化系共さかんだった。

二つのクラブに入部していたことからも解るように、この頃、自分の進路に迷っていた時期でもある。美術室ではゴッホやセザンヌにあこがれて油絵具にまみれて印象派まがいの絵を描き、かたやアンリ・ファーブルや牧野富太郎といった生物学者を尊敬しつつ生物室で熱心に標本の同定などをしていた。この高校の生物部は伝統的にさかんであり、多い時は部員数が40名以上いて専門分野の班に分かれて研究していた。たとえば思い出される順に列挙すると帰化植物班、シダ・コケ班、水生昆虫班、蝶班、鳥班などなど…。そして僕はというと、その中でもかなりマニアックな「夜間甲虫班」というグループに所属していた。小学生頃から昆虫少年だったのである。

夜間甲虫班というのはその名のとおり、夜行性の甲虫を調査研究するのである。種類としてはゴミムシ、オサムシ、シデムシ、エンマムシ、ハネカクシといった仲間である。名前をあげただけでは地味できたない感じがするかもしれないが、種類も多く宝石のように美しい種もいる。調査方法としては放課後、高校のある市内の自然公園などに行ってトラップ(わな)を仕掛けたり、公園内に大きなシーツを張って夜間その前でブラック・ライトをつけて集まってくる甲虫を吸虫管という採集用具で吸い取ったりしていた。この夜間調査は楽しく先生もいなかったので当然、タバコとアルコールは常習だった。そして翌朝トラップを回収。標本として集めた甲虫たちを大きなシャーレに入れて図書室で分厚い図鑑を見ながら1頭1頭(昆虫はこう数えます)種を同定するのである。これがとても楽しかった…そして2年生の冬、同級生の影響で昆虫から現在も続けている野鳥観察に目覚めることになる。考えてみれば生物学と美術の「二束の草鞋」をずっと今まで引きずってきていて全く進歩がないのかもしれない。

3年生になって生物系に進むか美術系に進むか真剣に悩んだ時期があった。夢は生物系に進んで公立の自然保護区内のレンジャーとなり動植物調査のフィールドワークがしたかった。ところが生物系の受験の必須科目である理数系の成績が悪かった。さんざん悩んだ挙句、画家を目指す道を選んだのである。今にして思うとどちらが良かったのか。生きもの相手に自然環境の中で過ごす人生だってあったのかもしれない。どちらにしても「お金儲け」には縁は無さそうである。

今回、同窓会ではなくOB会である。歴史と伝統のあるクラブなので、夏の信州、浅間山合宿はOB会の人たちといっしょだった。いろんな年齢の先輩たちとの交流も有意義であった。こうしていい年齢になって改めて集まってみると一般企業の研究員となった人、生物系に進み南の島に通い昆虫学者をしている人、博物館の学芸員になった人、テレビに出演するような園芸家になった人と多種多様であるが、みなさん優秀である。理科系の落ちこぼれは絵描きの僕と僧侶を経て飲み屋の親父になった同級生のTぐらいかなぁ…。5-6時間もいただろうか、よもやま話に花が咲き楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。最後に先輩の一人がポツリと言った。「男子校の同窓会は花が無い、次回の課題は女の子同伴で来よう!」 おいおい気持ちは解るけど、いったいどうやって連れてくるの。まさか奥方や娘なんて言うんじゃないでしょうね。ここでお開き。次回は花見をしながら一杯ということに決定した。画像はトップがこの日の集合写真。下が向かって左から会のようす2点、お店の中の札など2点、会場となった飲み屋。