長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

274. 2016年 一年間ありがとうございました。

2016-12-31 20:44:01 | 日記・日常
ブロガーのみなさん、facebookを始めSNSでの友人、知人の方々、その他、ホームページや作品、展覧会を通して新しく知りあった方々、2016年一年間、マイブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございました。特にブログやメールを通してコメントやいいね!をいただいいた方々にはとても感謝しています。

僕の2016年は動きの多い年となりました。3人の子供たちの節目がちょうど重なり就職や進学などで家から巣立って行きました。また大事な家族の一員を失うという悲しい年ともなりました。少し前には7人家族で生活していましたが、気が付けば3人の生活となり、年月の経過をひしひしと感じてもいます。あんまりバタバタしていたので肝心の作品制作が遅々として予定どおりに進まず、今年の大きな反省点になりました。昨年、30代、40代と比べた体力、集中力の変化についてコメントしましたが、まだまだ「もうひと暴れ」とも思ってもいて、新年からは気を引きしめて行こうと自身に言い聞かせているところです。具体的には幻想的なテーマの絵画連作では大作を描き始めようと思っていますし、版画作品では今取り組んでいる自然や生物をテーマにした連作の内容をさらに深めていこうとも思っています。

昨年から大晦日のこのブログの画像は「名画の中の夕日」をアップすると書きました。ですが、今月、ふらっと気分転換に訪れた工房に近い西印旛沼の日入りの風景があんまり美しかったので今回使用することにしました。沼を望む小高い丘から撮影したのですが、この日は風も殆どなく空気も澄みきっていて夕日の焼けた朱色がよく出ました。ここでBGMを流すとすれば北欧を代表する作曲家、ヤン・シベリウスの交響曲が似合うかと思います。

パソコンを打つ僕の後ろでは、帰省した子供たちがひさびさに揃い「紅白歌合戦」を観ながら、お互いの近況を楽しそうに話し合っています。みなさんも今晩から新年にかけて家族や大切な人と楽しい時間を持ってください。では、2017年、新しい年もどうぞよろしくお付き合いください。「良いお年をお迎えください」

画像はトップ、下ともに西印旛沼の日入り風景。



          





273.『浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術』展

2016-12-29 19:18:22 | 美術館企画展
今月13日。千葉市美術館で18日まで開催されていた『浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術』展を午前中から観に行ってきた。昨年、展覧会の予定が発表された頃から必ず観たいと思っていた展覧会である。

それにしてもこの千葉市美術館は良い企画展を開催している。開館当初より企画内容がしっかりしている。おそらく奇想絵画と浮世絵の専門家である初代館長、T氏のコンセプトが今も継承されているのだろう。現時点で展覧会のレベルの高さは県内でも屈指のものであると思う。そして予算もきちんととれていて図録などもしっかりとして画集のようである。別にこの美術館の宣伝マンではないのだけれど、こうして毎回、もう一度観たい内容を提示してくれると称賛もしたくなるのである。それはそうと展覧会だが、期待通り充実した濃い内容でたいへん見応えがあるものだった。今回も時間が許せば、もう一度観に行きたいと思ったほどである。

浦上玉堂(1745~1820)は日本絵画史の中で、独創的な水墨画家、また日本を代表する文人画家として有名であるが、自身は「自分は絵の描き方を知らず、気ままに描くのだから画人というのは恥ずかしい」と記して画人、専門家であることを否定し、本分は七弦琴を以て「音律を正す」ことを願う「琴士」であると公言しいていたという。
今回の展示で特筆すべきは玉堂の名作が観られるのはもちろんのことだが、長男で画家の春琴(1779~1846)と次男で音楽家、画家の秋琴(1785~1871)の作品を合わせて数多く観られる点である。

第一会場に入ると、まずはじめに玉堂の脱藩前後の40代から50代にかけての作品が出迎えてくれた。それにしても玉堂という人はかなりの変わり者である。寛政六年(1794年)、岡山藩の武士だった彼は先祖代々の俸禄をすべて捨て、16歳の春琴、10歳の秋琴の二子を連れて放浪の旅へと出発してしまうのである。それは76年間の生涯において、この時代老境に入った50歳でのことであったという。この事実だけでも相当に変わり者である。

そして逸る気持ちを抑えつつ会場をゆっくり移動しながら観て行くとメイン会場にたどり着く。大きな縦長の山水風景が次々と登場する。いわゆる誰もが思い浮かべる玉堂調の力強い水墨画に圧倒され言葉を失っていた。絵の中で木々はざわめき、山々はうねる様に天を突くように伸びあがる。墨の黒と紙の白の単純な構成ではあるが、まるで未知の生き物が会場のところ狭しと蠢いているかのような錯覚すら覚えてしまうほどだった。体中が熱くなって興奮してきているのが解る。ちょうどこのあたりで空腹にもなってきたのでレストランで昼食をとって仕切りなおしてから第二会場を観ることにした。

第二会場からは春琴と秋琴の二人の息子たちの作品がメインとなる。始めは春琴。この人はとても達者な「上手い画家」である。中国画もかなり熱心に学習したようだ。そして何より驚いたのは父親のダイナミズムとは打って変わって画風が繊細であることだった。神経の行き届いた緊張感のある細い描線、綿密に計算された構図、効果的な着彩による山水画、花鳥画、美人画とどれをとっても駄作がなく名品ずくしである。かなり人気のある売れっ子画家だったようで、この春琴が名声を得たことで父、玉堂が自由奔放な生き方と絵画制作ができ、そして名を残すことができたのだとも伝えられている。

息の抜けない春琴の作品が途切れたところで次男の秋琴作品の登場となった。この人は親子で岡山藩を離れた翌年、11歳で会津藩の藩士に取り立てられた。専門は音楽で藩では「雅楽方頭取」なども務めている。そして本格的に絵を描き始めたのは隠居後の80歳を過ぎてからだという。さすがに父、兄と比較すると画力には差があるように思われたが、80歳という年齢を考慮すると、この勢いのある筆致はなかなかのものであるとも思った。小技などはないが骨太で迷いのない筆運びによる味のある山水画が印象に残った。

結局、会場を出たのは予定していた時間をはるかに超えて午後遅くとなってしまったが、かなり充実し満足した時間を過ごすことができた。叶わなかったのだが、今年の「もう一度観てみたい」と思えた数少ない展覧会の一つとなった。画像はトップが玉堂の山水画。下が向かって左から玉堂作品3点、春琴作品3点、秋琴作品2点と千葉市美術館看板、美術館外様、春琴画の玉堂図。(作品画像は全て展覧会図録からの部分複写です)


          

272. ヴァイオリン姫

2016-12-21 18:36:07 | 音楽・BGM
今回のクラシックの話題は『ヴァイオリン姫』、ヒラリー・ハーンの登場である。ヴァイオリン姫などという呼び方は一般的にはしないと思うが、このブログの260回目(カテゴリーは音楽BGM)に「歌姫」と題してバーバラ・ボニーのことを投稿したのでそれと対になるようにタイトルをつけた。

ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn 1979年~)はアメリカを代表する女性ヴァイオリニストである。バージニア州レキシントン生まれでボルティモア出身のドイツ系アメリカ人である。3歳の時に地元ボルティモアの音楽教室でヴァイオリンを始め、1991年、11歳の時に音楽ホールで初リサイタル。1996年、16歳の時にはフィラデルフィア管弦楽団と協演し、ソリストとしてカーネギーホールでの華々しいデビューを飾った。そして1997年、デビューアルバムである「バッハ:無伴奏ソナタ・パルティータ集」がディアパゾン・ドール賞を受賞し話題となる。2001年のネヴェル・マリナー指揮のアカデミー室内管弦楽団との協奏曲(ブラームスとストラヴィンスキー)の録音により、2003年、グラミー賞を受賞している。近年はソリストとして世界中を飛び回って演奏活動を続ける一方、室内楽や映画のサウンドトラックで演奏するなど、活動の場を大きく広げている。

僕はこれまでに上記の「バッハの無伴奏ヴァイオリン組曲」を初めとして、ブラームス、ストラヴィンスキー、メンデルスゾーン、ショスターコヴィチ、シェーンベルグ、シベリウスのヴァイオリン協奏曲をCDで聴いてきた。その中でバッハの無伴奏は17歳の時のアルバムで、この演奏の困難な曲に対して、その驚異的なテクニックと、若きヴァイオリニストの瑞々しく力強い演奏を聴くことができる。アルバムの中でハーンは「…バッハは私にとって特別なもので、ちゃんとした演奏を続けて行くための試金石のような存在です。…どれ一つとしてバッハでは誤魔化しがききません。逆に全部を上手くこなせれば、この上なく素晴らしい音楽が歌い始める。今度の録音に、そんなバッハの音楽に対する私の愛が少しでも多く表れていればうれしいと思います」と語っている。
バッハ以外の協奏曲ではストラヴィンスキーの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」でのテンポが良く明るく歯切れのある演奏、それからレーベルをドイツ・グラモフォンに移籍してからのものではシェーンベルグの「ヴァイオリン協奏曲 作品36」で聴かれる、鬼気としてたいへん緊張感のある演奏が特に印象に残っている。

そしてハーンと言えば投稿した画像にも見られるような、単に美しいということだけではない独特な容貌が印象的である。本人に言えば怒られてしまうかもしれないが…絵画で例えればマニエリスム絵画に見られるデフォルメされた女性像が思い浮かぶし、立体的に見れば、どことなくドールっぽいところが現代の球体関節人形の作品に通じるようなミステリアスな表情を持っている。ヴァイオリニストやピアニストなどクラシックの女性ソリストにとってはルックスやファッションもとても重要な表現要素であると思う。

今年の冬は寒さが厳しい日が続きそうである。寒い工房での作品制作の合間にヒラリー・ハーンのエネルギッシュな熱演を聴いて乗り切ることにしよう。 画像はトップがCDアルバムの写真より転載したヒラリー・ハーンのポートレイト。下が向かって左からCDアルバム「バッハ:シャコンヌ」のジャケット、「ブラームス:ヴァイオリン協奏曲/ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲」のジャケット、ポートレート画像2枚、「シェーンベルグ:ヴァイオリン協奏曲/シベリウス:ヴァイオリン協奏曲」のジャケット。

         
 

271.我、心のP・アレシンスキー。

2016-12-10 21:34:26 | 美術館企画展
先月、9日。上野の西洋美術館で「クラーナハ展」を観た午後、渋谷に移動、1日に2つの展覧会はハードだったが、東急文化村ギャラリーで開催中の「ピエール・アレシンスキー展」を観て来た。

今更だが、ピエール・アレシンスキー(1927~)と言えばベルギーの現代美術を代表する画家であり、戦後、ベルギーや北欧の画家たちと表現主義の前衛美術家グループである『コブラ 1948-1951』を結成し、活躍した。そして日本とのゆかりも深く前衛書道家の森田子龍と交流を深め、その自由で闊達な筆の動きに影響を受け平面作品を数多く制作してきたことでも知られている。そして1955年に来日したおり、日本の書道を題材にしたドキュメンタリー映画「日本の書」を自ら製作している。

実を言うと僕はこのアレシンスキーに、とても深い想いがある。それはちょうど20代の始め、東京の美術学校に入学した頃に遡る。3年間の美大受験に見切りをつけ、当時ブームでもあった「現代版画」を3年間学べるというこの学校に入学して間もない頃、学校の実技で「イメージ・ドローイング」というものを教育方針で多く描かされた。つまり「自分の頭の中にあるイメージで絵を描け」というものである。ところが、それまで石膏デッサンや人体デッサン、静物の油彩画などアカデミックな絵しか描いたことがなかった僕はまったく作品にならず苦労していた。次第に学校からは足が遠のき朝から美術館やら画廊やら古書店やらを放浪する毎日を送り始めた。ちょうどその頃、発見した画家の1人がアレシンスキーというわけである。

当時、1980年代の初め、この画家の作品は美術雑誌や現代版画の季刊誌などにちょくちょく掲載されていて目に触れることも多かったのだ。アレシンスキーを知ることで上記した「コブラ」の存在を知り、同時代の画家、アぺルやコルネイユも知った。そして表面的な画風だけではなく彼らがピカソと同様にアフリカなどの未開社会の美術に影響を受けていることも知った。それからというもの「コブラ」が引き金になり近い表現の画家たちに目を向けることになっていった。たとえば「アール・ブリュ(生のままの芸術)」というグループのジャン・デュビュッフェやウィーンのフンデルト・ワッサーなど、いずれもヨーロッパ以外のプリミティヴな美術に影響を受けた画家たちである。学校にもろくに行かず毎日こうした画家たちの画集とにらめっこをする僕に前期の授業が終了する頃、版画家の主任から電話でお呼びがかかった。「酒を飲んで来てもいいから、ゼミに出て来てくれ」という内容。これは当時、僕がコンパや酒の席にだけは顔を出していたということである。

上記の画家たちに影響を受けて研鑚した僕の結論は「アカデミックなものを捨て去り絵を上手げに描かず、わざとヘタに描く」というものだった。これ以後。「イメージ・ドローイング」のゼミの講評会に並ぶ作品はなんと形容したらよいのか解らないような「下手くそな絵」であった。本人はゲイジュツカ気取りだったが、先生の講評の内容はというと…ボロボロだった。と、いうわけで僕にとってアレシンスキーは「初めて自分の作品を描こうとし始めた時期」の想い出深い画家なのである。その後、「幻想絵画」と出会い画風は大きく方向転換することになる。「描く画家」を否定した画家に影響を受けてから数年を経て再び「描く画家」を目指し描き始めることになるのである。今思うと前記の方向性に進んでいた方がその道の「大家」になれたかもしれないと、つまらん煩悩めいたことを考えてしまったりもする。今更、原点には後戻りできるはずはないのだが。

さて、本題の展覧会のことである。この美術館は、なかなか個性派の美術家を取り上げる。このアレシンスキーも日本での回顧展は今回が初めてということだ。それゆえに会場は空いていた。会場は「コブラ」展デビュー作のアフリカン・アートの影響が色濃い銅版画の連作から始めまり、同時代のアメリカの美術運動である抽象表現主義絵画を意識していた頃の油彩作品を通過、そしていよいよ日本のカリグラフィー(書)の影響のもと自由な抽象世界に開花する時代に入る。ここからは彼の独壇場の表現世界となる。「あぁ…懐かしいなあ、この魅力的な線描」「それからこの大胆な色使い」会場を移動しながら懐かしさで視点が定まらない。20代当時の自分の気持ちとピッタリ重なってきてしまうのである。特に印象に残ったのはパリの蚤の市で見つけた古地図をキャンバスに張り付けて、その上から抽象的な図像を描いた作品群。それから、これもパリの街のマンホールの蓋を和紙に部分的にフロッタージュしてから描いた作品群であった。どちらも「偶然性」ということを手掛かりにしつつ、新たな抽象世界を描き出しているものだ。それから上記した自主製作映画「日本の書」が会場内で上映されていたのは興味深かった。その中で版画の世界でも有名な女流書家の篠田桃紅さんの若かりし頃の姿も見ることができた。

この日は会場を出てからも随分長い間、記憶の中に眠っていた自分の原点を想い起こすことができてとても充実した時間を持つことができた。アレシンスキー氏に感謝します。最後に『自在の輪』という芸術論の名著の中から氏の言葉を拾ってみた。

『「あなたの絵をちょっと説明してくれませんか」といわれることがある。「口で伝えられるくらいなら、絵に描いたりはいたしません」というのが私の返答だ。自分の意図を敷衍(ふえん)したりすれば、私の絵はたちまち腹話術の人形と化してしまう(以下略)』  ピエール・アレシンスキー

画像はトップが出品作品「護り神」の部分図。下が東急文化村、アトリエでの最近のアレシンスキー氏、作品部分画像7カット(展覧会図録より転載)、若き日の篠田桃紅女史。

          




270. 西印旛沼・冬鳥シーズンの到来。

2016-12-07 18:56:51 | 野鳥・自然
今年は11月に記録的な初雪が降ったり、例年よりも低い気温が記録されていたりと寒い冬になりそうな気配である。今月2日。毎年この時期の恒例であるが工房の近所の西印旛沼にバード・ウォッチングに行って来た。

この日は午前中、2駅先の街のカルチャーセンターで木版画教室の指導があった。昼食を済ませて電車で移動。京成の「うすい駅」から西印旛沼の南岸にあたる舟戸大橋まで徒歩で移動。ここからサイクリング・ロード沿いに竜神橋まで移動しながら観察するコースをとった。

舟戸大橋の南詰地点に到着。見渡すと、いつものようにタップリと水を湛えて印旛沼が広がっている。この地に住んで来年で30年になる。途中、この沼の単調な風景が退屈極まりなく思った時期もあったが、最近ではまた好きになりつつある。千葉県北部は山がなく平野と丘陵で風景が成り立っている。この沼の空、僅かな大地、水面といった極くシンプルなエレメントで構成された風景が心地よく思えるようになってきたのだ。年齢にせいだろうか。そしてそこに時間と光が加わると実に変化に富んだ表情を見せてくれるのだ。この30年近くの間、仕事に疲れた時、気持ちが落ち込んだ時、いやな事があった時、必ずこの沼の土手に立ち、水と鳥の織りなす風景を眺めるのが常だった。すると、いつも必ず頭の中の重い何かがスーッと抜けて行く感覚を憶えるのだった。このことで、どれだけ心が救われてきたかわからない。いまでは毎日の生活に欠かせない要素となっている。

話が逸れたが、それはさておき野鳥観察である。スタート地点でザックから双眼鏡と望遠鏡を取り出して首と三脚にセットする。あとは水面、ヨシ原、上空を丁寧に観ていく。舟戸の船着き場ではクイナ科の水鳥、オオバンが岸近くまでフレンドリーに近寄って来てくれる。それから飼い鳥のコブハクチョウが4羽、優雅に泳いでいた。きっと内陸水面漁業の漁師さんたちが、あまった雑魚などを与えているのだろう。人の姿をまったく恐れない。遠景に並ぶ漁業用の竹杭には、近年すっかり数が増えたカワウがズラリと並んでとまり羽を休めている。フィッシング・ベストのポケットからカウンターを取り出して数えると174羽が数えられた。

もう12月、沼で越冬する冬鳥を望遠鏡を左右に振りながら水面を探していく。さっそく真っ白な首と胴体が目立つカイツブリ科のカンムリカイツブリが視界に入った。これも端からカウントしていくと40羽を記録した。少し小さめのハジロカイツブリが沼の中央に群れている。こちらは35羽。お次は湖沼の冬鳥のメインであるカモ類はと探し始める。ヨシガモ、マガモ、カルガモ、オナガガモ、コガモ、ミコアイサ…と見つかる。特に今回、ヨシガモの数が多く入っている。カウントすると133羽。以前はこの沼では、そう多く渡来する種ではなかったが、近年は増加傾向にある野鳥だ。望遠鏡のレンズ越しに雄の頭部の特長的な形である「ナポレオンの帽子」をゆっくりと観察することができた。

コースの半ばぐらいまで来た時、スコープから目を外し持ってきたコーヒーを飲みながら土手から風景をボーッと眺めていると真っ直ぐにこちらに向かって飛んでくる白っぽく大きな鳥が目にとまった。双眼鏡でとらえるとタカの仲間のミサゴだった。頭上に素晴らしい雄姿。他に猛禽類の姿はないかと探すとチュウヒが1羽、トビが2羽見つかった。眼下のヨシ原ではホオジロ科の小鳥、オオジュリンが数羽、移動しながらパチパチと嘴で音をたてヨシの茎を割って中にいる昆虫を捕食している。”クワッ、クワッ”とツグミが鳴いて飛んで行った。

そろそろゴール地点である「竜神橋」の南詰。橋の手前に造られた池須で1羽のカモがしきりに潜水行動をしている。距離が近いので双眼鏡を向けるとホオジロガモの雌だった。他の場所での状況は知らないがこの沼では、すっかり観察する数や機会が減ってしまった種である。以前はけっこう小群が観られたのだが…、少し得をした気分。ここでタイムリミット。今日のバード・ウオッチングは終了!! 記録を付けていたフィールド・ノートを取り出しチェックするとトータルで35種を確認していた。

寒さが本格的になるのは、まだまだこれから。この冬は印旛沼周辺に通うことになるだろう。画像はトップが午後遅く沼のヨシ原から出てきたマガモ。下が向かって左からオオバン2カット、ヨシガモが多く観察された水上施設2カット、沼風景4カット。