今月21日。〇6回目の誕生日を迎えた。普段から自分のほしいものは勝手にセッセと買っているので、家族からのプレゼントはなかったが、この日の晩は好物の鰻のかば焼きとケーキで祝ってもらった。この齢になってくると誕生日と言われてもなんだか気恥ずかしく、自分で忘れている年もある。
先日、外出したついでに生まれ故郷となる町を歩く機会があった。少し足を延ばして自分の生家があった辺りまできた。このあたり、最近は首都圏の外環道路の建設工事が進んでいて雑然としている。子供の頃、ザリガニやカエルをとった広い水田、カブトムシを捕まえに行ったクヌギの雑木林、それから多くの同級生の家も建設途中の広い道路によって跡形もなくなっていた。唯一、ベーゴマやメンコの道場となっていた小さな寺院だけが開発の難を逃れ、昔の姿そのままにひっそりと残っていた。「無常」というのか、なんとも寂しい限りである。
終戦から14-5年たった昭和30年代半ばから後半は「もはや戦後ではない」などと言われていたが、町のあちこちにはまだまだ戦争中の影が残されていた。中学校の裏の崖地に掘られた多くの防空壕跡、高射砲連隊の跡地に残されたボロボロの兵舎。こういう場所は僕らワルガキにとっては最高の遊び場所で、大人たちからの隠れ家だった。近所の神社に自転車でやって来る紙芝居のおじさんは傷痍軍人で両手首が無く、口を使って紙芝居の頁をめくっていた。そしていつも「裸の大将」のような助手を連れていた。放課後は真っ先に駄菓子屋に向かい、母親に「体に悪い」と言われていた派手な色の駄菓子をしこたまむさぼってから、草野球をするか仲間と野山を駆けずり回って遊ぶ毎日だった。
この頃は生まれた当時のことを憶えている人が次々にいなくなってしまうのが寂しい。幼い日々のことを思い出していると、なんだかセンチメンタルになっていけない。「四十、五十は鼻たれ小僧」という言葉もあるのだから、ここから奮起して進んで行こう。誕生日を迎える度に考えさせられる年齢になってきた。画像はトップが0歳の時、家で撮った写真。下は生まれて間もない頃、母親の実家で祖母に抱かれる僕。いずれも古いアルバムから。