長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

288.古寺巡礼(七)・京都 養源院から智積院

2017-04-25 20:06:53 | 旅行
3月15日。『京都古寺巡礼 聖獣・幻獣探訪の旅』2日目。この日の午前中は朝からJR京都駅前のホテルを出て、東山の三十三間堂を参拝した。スケジュールはここからまだ長いのだが三十三間堂でけっこうゆっくりとしてしまったので入り口を出たのが午後1時を過ぎていた。ここから右手に進み、2-3分の場所に次の目的寺院である「養源院・ようげんいん」がある。3月の平日の京都は本当に人が少なく静かな時が流れている。小ぶりな山門をくぐるとすぐに本堂である。

養源院は元々は天台宗の寺院だったが現在は浄土真宗の寺院となっている。文禄三年(1594年)戦国武将であった浅井長政の菩提を弔うために、長政の二十一回忌に長女・淀殿(幼名茶々)の願いにより、豊臣秀吉によって建立された。本堂は伏見城の遺構で、落城の時、德川方の鳥居元忠らが自刃した廊下が供養のためこの寺院の天井に上げられ「血天井」として有名になった。

僕の今回この寺院を訪れた目的はなんといっても本堂の大きな空間を占める襖絵「松図」と、いくつかの杉戸に描かれた杉戸絵「白象図」「唐獅子図」「犀図」といった絵画作品を観るためである。作者は桃山から江戸初期に活躍した敬愛する絵師、俵屋宗達(1570年頃~1643年頃)である。
入り口で拝観料を払い廊下に上がると係りの方が「少しお待ちください。後からみえた方と合わせて説明します」とのこと。しばらくしてから入り口付近にある「白象図」の説明となる。この宗達の杉戸絵ともひさびさの再会となった。正座をして見せていただく。シンプルで大胆な絵柄なので、それは覚えていたのだが杉戸の細かい質感は忘れてしまっていた。人間の記憶力というのも実に頼りないものである。それにしてもこの大胆な筆遣いの輪郭線と体色の白い胡粉とわずかな色彩による2頭の白象は何度見ても新しい。ある意味グラフィカル(版画的)な表現にも見えてくる。現代に通じる感性、表現だと思う。ノーベル物理学賞を受賞、日本の古典芸術に造詣の深い湯川秀樹博士がこの杉戸絵を観て宗達を「類まれなる天才」と評したことは有名な話。

白象としばらくにらめっこした後は廊下の奥の杉戸に描かれた「唐獅子図」。これも見事な作品である。宗達独特のうねる様なフォルムの唐獅子。そしてさらに白象が描かれた杉戸の裏面に描かれた「犀図」。犀とあるがこれは間違いなく麒麟である。この三対の杉戸絵の構成は、白象で来客を迎え、戸を開けると奥の正面の唐獅子が迎え、そして帰りに犀(麒麟)が見送るという工夫がされているのだそうだ。なるほど立体的に捕えると平面ながら動きが出てくる。この後、メインの障壁画「松図」と再会。この松も金箔地にタップリとして安定感のあるフォルムで描かれている。「豊かだなぁ…」思わず呟いてしまい、しばらく畳に座ったまま離れられなくなった。この後、狩野派筆による屏風絵、そして有名な「血天井」の説明を聞いてからお堂を出た。

午後2時前。養源院の庭の片隅に、ちょうど大きな木の切り株があったので庭仕事の人に一言挨拶をして持ってきたオニギリで遅い昼食をとる。今日はまだ先がある。早々と腰をあげて次の寺院へと向かう。すぐ隣に竜宮門の「法住寺・ほうじゅうじ」という寺院がある。後白河上皇を木曽義仲の焼き討ちから守ったと伝えられる有名な「身代わり不動明王」がご本尊なので、こちらにお参りしてから先に進む。南大門というこの地区の大きな山門を出て裏道を進むと東大路通という広いバス通りに出た。この通り沿いにしばらく歩いていくと本日の最終目的地としている「智積院・ちしゃくいん」に到着する。

智積院は真言宗智山派の総本山である。関東の成田山新勝寺や川崎大師平間寺、高尾山薬王院などもこの智山派に所属する。広い敷地内には大きな金堂、講堂、大書院などの建築が整然と建っていた。まず初めに金堂のご本尊である大日如来にお参りする。
この寺院での目的は収蔵館に展示されている桃山時代から江戸時代初期の絵師、長谷川等伯(1539年~1610年)一門が桜や楓などの自然を描いた障壁画(国宝)を観ることである。拝観受付を済ませ収蔵館に入るとやや抑えられた薄暗い照明に金箔地の障壁画が浮かび上がってきた。この時代の障壁画を代表する作品であり、まさに「絢爛豪華」を絵に描いたと言ってよい。中でも等伯父子の作品、「楓・桜図」は有名であり、木々の幹や枝の激しい動き、紅葉や秋草の写実性、空や池の抽象的表現、それら全てが融合して描かれていて見事というしかない。室内の4つの壁面に展示されていて、何度も何度も歩き回って観てしまった。
この障壁画は元々講堂の大きな空間に描かれたもので、現在、そちらには正確なレプリカ(模写)が設置されているということでそちらを観に向かう。講堂の障壁画の間に着くと艶やかな色彩の絵画が出迎えてくれた。確かに本物と比較すれば派手さがあるが、描かれた当時はこのように見えていたんだろうと推察できた。このあたりで閉館の時間16:30が迫ってきた。足早に名勝の池泉回遊式庭園や現代の日本画家が描いた屏風絵、襖絵などを観て回っているうちに閉館の合図の音楽が寺院全体に流れだした。
ここでタイムリミット。あわてて出口に向かい山門付近でちょうど来ていたタクシーを拾いJR京都駅へと向かった。今回もいつも通りギリギリまで粘って観て回ったのだった。

帰りの新幹線に乗車すると心地よい疲れが出てきた。その中で座席に着いて目を閉じると2日間で見て来た聖獣・幻獣たちの姿が闇の中に光を放って次々と浮かび上がってくる。来年以降制作する予定の絵本『シルクロード幻獣図鑑(仮称)』の構想がジワジワと結晶体となって固まってくるのであった。

画像はトップが宗達作の杉戸絵「白像」下が向かって左から同じく「白像」「唐獅子」「犀(麒麟?)」と養源院の本堂外観、智積院の金堂、長谷川等伯の障壁画(レプリカ)の一部、智積院講堂の五色の垂れ幕。


                    



287. 古寺巡礼(六)・京都 三十三間堂

2017-04-20 18:40:29 | 旅行
3月15日。京都古寺巡礼、「聖獣・幻獣探訪の旅」2日目。京都駅前の定宿としているホテルで朝食を済ませ、荷造りチエック・アウトを済ませると急ぎ足で京都駅へと向かった。本日の取材スケジュールはなかなかハード行となる。今日は東山の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)周辺で聖獣・幻獣を探して歩く予定だ。この周辺は「仏像ファン」にとっては「聖地」と呼ばれているようだ。仏教美術に限らず日本美術の名品にも出会えるスポットとなっている。

京都の寺院巡りはバス移動が主流のようだが、バスが苦手な僕はあくまで鉄道と徒歩移動にこだわる。JR京都駅から奈良線で東福寺駅まで南下し、ここで京阪電車に乗り換えて七条駅で下車。ここからはすべて徒歩。ただひたすら歩きます。3-4分で最初の目的地である「三十三間堂」の入り口に到着する。かなりひさしぶりの参拝となる。
僕の美術学校時代の恩師は和辻哲郎の「古寺巡礼」を愛読書としており、学生時代に僕たちゼミの生徒に「奈良、京都というのは人生の中で年代ごとに訪れるべきだ…年齢によって感じるものが変わってくるはずだ」と常々おっしゃっていた。最近この年になって寺院巡りをしているといつもこの言葉が浮かんでくるのだが、ようやくこのことが何を意味していたのか解ってきたような気がする。

国宝の三十三間堂は天台宗に属する寺院で、その歴史は平安時代後期の院政期まで遡る。もともとは広大な規模の敷地の一部であり、後白河上皇の信仰に基づくもので「蓮華王院」と呼ばれていたが、その本堂は創建当初より「三十三間堂」とも通称されていた。これはお堂の柱間の数が三十三もあるような長大な仏堂が珍しいのと、その数字によって、「観世音菩薩が三十三身に応現(変身)して衆生を救う」ということに基ずくということである。
順路に沿って進み、照明を抑えた堂内に入るとまず初めに千体の「十一面千手千眼観世音菩薩・じゅういちめんせんじゅせんげんかんぜおんぼさつ」の金色に輝く姿の圧倒的なパワーに驚嘆してしまう。しばらくぶりということもあり実に新鮮である。

インド・チベットから中国、朝鮮半島を経由して日本に伝来した「北伝の大乗仏教」ではタイやスリランカに伝わった「南伝の上座部仏教」とは異なり実に多くの仏・菩薩・天部の神々が存在する。その中で観音菩薩を崇拝する「観音菩薩信仰」はインドでもさかんであったもので、日本では「観音さま」として民間信仰となって親しまれている。
正しくは観世音菩薩、または観自在菩薩といい、その言語名は「アヴァロキテシュバラ」というが、文字通り「音(衆生の声)」を「観る(感じる)」菩薩であるから人間の苦悩する声を素早く察知し、その名号を唱えることにより救いの手を差し伸べてくれるという。さらに仏典によると菩薩というのは本来は悟りを得ていて仏界に上れるのだが人々を救うために地上に残っているのだというスーパーマンやウルトラマンのような存在なのである。
そして「三十三に応現する」というのは、いろんな人間の姿に変身して地上に待機していると説かれているのだ。ある時は国王であり、ある時は僧侶であり。ある時は長者であり、ある時は道行く普通の男女だったりする。つまり、あの人も観音様、この人も観音様、あなたも観音様というわけであるので地上に遍満しているということになる。

そういう、思想を知ってこの千体仏を改めて見直すと、なるほどとうなずける。そして千体の観世音菩薩がたくさんの顔と手を持ち、その手には一眼を有しているのだから、たいへんなパワー、無限の救いがあるということになるのである。平安当時の戦や飢饉、疫病が流行する中で、人々がどれだけ観世音菩薩に救いを求めたのかが伝わってくるのである。

お堂の端から端までゆっくりと移動しながら参拝者に並んで観て行ったのだが、千体物の最前列に間隔を置いてお祀りされている「二十八部衆」と「風神・雷神像」に目が留まった。鎌倉中期の作でいずれも桧材の寄木造りで表面が彩色され玉眼が入っている素晴らしいリアリズム彫像である。元々、二十八部衆は仏教以前の古代インドの神々であったが、仏説を聴くことを喜び仏教の信者を守護するようになったとされている。
一体一体を説明していくとたいへん長くなってしまう。その中の僕がもっとも好きな像である「迦楼羅王・かるらおう」の像が含まれていた。鳥頭人身で有翼の夜叉に表現される八部衆の一。横笛を吹き、右脚で拍子をとる音楽神として表されることが多い。
元々は古代インドのコブラを常食とする「金翅鳥・こんしちょう」とされ、これがガルダ神となり、迦楼羅王となる。中国を通して日本に伝来されると雅楽の舞踏にも登場し、それがカラスとなる。ガルダ~カルラ~カラスという変容である。バリに渡ると霊長ガルーダ(ガルーダ航空のシンボル)となり、こちらでも舞踏に登場する。また「カラステング」の祖先とも言われている。

結局、一度ではぜんぜん観足りなくて、お堂を2往復してしまった。ここまででもすごい密度である。このまま帰宅しても良いぐらいなのだが、このエリア、まだまだ先が長い。入り口を出てお堂の周囲を一周してから午後一時過ぎ、次の寺院へと歩き始めた。
画像はトップが「迦楼羅王」像、下が向かって左から同じく迦楼羅王像、風神・雷神像、十一面千手千眼観世音菩薩、お堂の中尊、千手観音菩薩坐像(国宝)以上、寺院解説書より転載。三十三間堂の屋根と外観。

                




286. 古寺巡礼(五)・京都 妙心寺周辺

2017-04-14 19:40:12 | 旅行
先月14日。大阪の画廊での版画のグループ展オープニングの翌日から、ある仕事の取材を兼ねて京都の古寺巡礼に出かけた。関西に来る前に家で計画していた時には、一年半ぶりの関西だったので日頃、ご無沙汰している関西地域の取扱い画廊への挨拶の合間に回ろうと思っていたのだが、回りたい寺院のタイムスケジュールを計算していたら全く時間が足りそうにない。今回は京都での『古寺巡礼』と取材に徹することに決定した。

というわけで大阪の心斎橋のホテルで早い朝食を済ませてからチエックアウト、地下鉄とJRを乗り継いで京都駅に向かった。京都駅で下車、昼の弁当を買ってから山陰本線に乗り継いで花園駅へ向かう。ここからは徒歩。ただひたすら歩きます。今日の目的地は京都五山の一つで臨済宗の大本山、妙心寺周辺を回って歩く。
ガイドブックで調べたところ花園駅を下りて妙心寺とは反対方向に向かい2-3分のところに律宗の「法金剛院」という寺院があり、ここに藤原時代の代表的な阿弥陀如来坐像(重文)があるということで最初に行って観ることにした。境内に入ると池のある美しい庭園が現れた。極楽浄土にならって作られたという庭園は四季を通じて桜、菊、紅葉などの名所となっていて古くから西行法師を始め多くの貴族たちの歌題となってきたということである。
その他、境内には古い擦り減った石仏が多く点在し、これを観て回るのも楽しかった。西御堂という落ち着いた佇まいのそれほど広くない御堂に入ると正面に御本尊の阿弥陀如来坐像が現れた。瞼を半分閉じ穏やかな表情をしている。光背の彫刻もとても繊細な彫刻が施されていて美しい。全体にとても気品のある仏像である。参拝者は僕以外、誰もいない。静かなお堂の中で仏像と一対一で向かい合い、しばらく座って眺めていた。阿弥陀如来は僕の生まれ年、亥年の守り本尊でもある。

随分ゆっくりしてしまった。先は長いので法金剛院を出て元来た道を反対方向へと歩いていく。12分ほどで妙心寺の山門に到着する。こちらはさすがに大本山である。門をくぐると広大な敷地に大伽藍が広がっている。12:00を過ぎていたので広い境内の隅のベンチで昼食をとる。古寺巡礼する時は少しでも時間が惜しいので外の食堂などには入らない。いつもこの調子である。昼を済ませてからまず周辺の塔頭寺院を拝観し禅宗特有の枯山水の庭を観て回る。ここでも拝観者はまばらであり冬から3月頃までの京都はねらい目だなと思った。

さて、ブログの始めに「ある仕事の取材」と書いたが、実は来年以降の話になるのだが出版社への企画が通って絵本の制作を進めることになっているのだ。そのテーマが『シルクロード幻獣図鑑(仮称)』として、大陸から我が国に伝わった幻獣たちの龍、鳳凰、麒麟、唐獅子などをモチーフとした内容とする予定となっている。京都の寺院は建築や障壁画、彫刻などにこれらの幻獣・聖獣たちが数多く登場し、まさにメッカとなっているのだ。

ここ妙心寺でぜひ観たい幻獣がいる。それは僕の敬愛する幻想文学者、澁澤龍彦氏がその著作「澁澤龍彦の古寺巡礼」の中で写真と共に紹介している狩野探幽筆の江戸時代の天井画『雲龍図・うんりゅうず(重文)』である。そして円形の中に描かれたこの龍は観る方向によってさまざまな表情に変化するというのである。「ますます興味津々、是非一度観てみたい」。受付で拝観チケットを購入すると「解説付きでご案内しますので15分後にもう一度ここに来てください」と言われた。
ブラブラと周囲を散策してから集合時間通りに戻ると5-6人の人がベンチに座って待っている。すぐに案内役の女性が出て来て出発。僧侶の浴場などを見学してから「法堂」と呼ばれる大きなお堂に入っていく。「この先の天井に雲龍図が描かれています」と案内された広間の高い天井を見上げると力強いタッチの墨線で描かれたダイナミックな構図の龍が出現した。直径4-5mはあるだろうか、圧巻である。探幽の「どうだ!」という声が聞こえてきそうである。しばらく見上げて感心していると「少しずつ移動しながら眺めてみましょう、龍の動きが変化して見えますよ」との解説。他の参拝者の後ろについてゆっくりと歩いていく。確かに観る場所によって雲の中を回転しているように見えたり、天に向かって登って行くように見えたりさまざまな姿に変化していくのである。「う~ん、不思議だ」。

すっかり龍に魅せられて御堂を出ると2時を過ぎていた。まだ閉門までは時間があるので、中心伽藍からさらに奥の塔頭寺院を順番に回り、障壁画や枯山水の庭を時間の許す限り観て回ったのだが残念ながら『雲龍図』のインパクトに優るものは観られなかった。
閉門時間ギリギリまで歩いて回り南総門を出て元来たルートを花園駅まで戻った。今日の宿は京都駅前の定宿ホテルである。夕食は「京ラーメン」。京都駅周辺は知る人ぞ知るラーメン店激戦区なのである。コクのあスープのラーメンを食べ、また明日からの「京都幻獣探訪」の旅を続けることにしよう。

画像はトップが『雲龍図(重文)』。下が向かって左から同図のアップ、法金剛院庭園、『阿弥陀如来坐像(重文)』、庭園の石仏、妙心寺伽藍風景、退蔵院の枯山水庭園、屋根瓦の麒麟?、庭園の石。