長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

413.『コロナ禍の中、ハマっていること』その二・伝説のJAZZマン

2020-09-05 18:35:32 | JAZZ・ジャズ
前回に引き続き、半年を過ぎたコロナ禍の中でハマっていることの第二弾である。

僕がモダン・ジャズを聴き始めて44年が経った。高校二年の春頃、座席が前後だった友人(以後、仮にK君とする)に半端ではない「ジャズ通」がいた。当時の高校生がレコード(LPの時代)で聴いている音楽と言えば,その多くが軽音楽のフォークかハード・ロック、あるいはポップスだったので、このK君の存在は興味深かった。少しだけジャズに興味を持ち始めていた僕はこのことを知っていたので、ある日の休み時間にK氏に思い切って尋ねてみた「ねぇ、モダン・ジャズを聴くなら何から聴けばいい?お薦めのLPを教えてよ」。すると「解った」と一言。翌日には大きな手提げいっぱいにLPを持って来てくれた。「これ長島に全部貸すから聴いてみて、気に入ったらテープにダビングしてみてよ」と気前よく大切なコレクションの1部を貸してくれた。20枚以上はあったと思う。マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、アート・ブレイキー、ミルト・ジャクソン、キャノンボール・アダレイ、…そしてフリー・ジャズのセシル・テイラーなんて難解なジャズまで入っていた。そして自宅に大切に持ち帰って片っ端から無我夢中で聴きまくった。「こんな音楽あったのかぁ…何か大人の世界に1歩入れたみたいだな」そしてハマった。ビギナーズ・ラックである。

この日以来、ずっとモダン・ジャズを聴き続けてきた。コロナになってまず音楽で思ったのは好きなジャズを「まとめ聴き」すること。引きこもりには打ってつけの音楽である。しかし、ただ聴くのでは面白くない。何かテーマを決めて聴こうと考えた(真面目だなぁ)。思いついたのは以前から気になっていた「ジャズ・レジェンド」。その定義はこうである「ジャズマンにとって伝説とは?才能やテクニックが優れていても何某かの理由により演奏活動ができなくなってしまったプレーヤーたち」そしてその目安としては残されたリーダー作品(アルバム)が1枚以上、10枚程度を目安として選出して聴いていくこととした。

自分のコレクション、ジャズの専門書、ネットなどを通して調べ始めていくと、この基準に当てはまるジャズ・メンが、居るは居るは…あっという間に20人以上が選出できた。そのほとんどは1950年代~1970年代の初めに集中していた。そして演奏活動を続けられなくなってしまった理由というのが、また十人十色なのである。例えば、天才奏者として鳴り物入りでデビューし、将来を期待されながらも不慮の事故や病気等で惜しまれつつも早世してしまったジャズマン、ハードな演奏活動に耐え切れず中途挫折してしまったジャズマン、契約したレコード会社の企画内容が自分の表現と合わずに失望し辞めてしまったジャズマン、ジャズの演奏以外にもさまざまな能力があり他の仕事に転職してしまったジャズマン、評論家先生のセクハラに遭い引退してしまったジャズウーマン…等々、いやはや調べだすと実に様々な理由があり、奥が深い。そして思い浮かべるとその理由などは小説家や詩人等の文学者や画家・彫刻家等の芸術家のレジェンドとも共通した部分が多く興味の尽きることがなかった。

という訳で自分のコレクション+持っていなかったジャズマンのアルバムはAmazon等のネット・ショップで購入して聴いた。しかしこうした謂わばマニアックで希少なアルバムは現在CDであっても廃盤となってしまっており、中古で入手したものがほとんどであった。ようやく手に入れたその『伝説のジャズマン』たちの極上の1枚を工房に籠もって聴いていると、なんともしみじみとして感慨深い感情が沸いてくるのである。そしてその音の背後にある情念のようなものまで聴き取れるような気がしてくるのだった。

画像はトップが『伝説のジャズマン』のアルバム・ジャケットの1枚。下が同じくアルバム・ジャケット4枚。


         

372. 今年はビル・エヴァンス生誕90周年

2019-06-15 19:17:59 | JAZZ・ジャズ

今年はモダン・ジャズ界のピアニストの巨匠であるビル・エヴァンス(1929年-1980年)の生誕90周年の節目の年にあたる。

ジャズ・ピアニストの中でもとりわけ人気の高いピアニストということもありジャズ関係者の間では年間を通してさまざまな企画が催されている。中でも実録映画『BILL EVANS TIME REMEMBERED』は東京でも上映されとても話題になっている。"ジャズピアノの詩人" "ショパンに匹敵すべき作品" などと称され、ジャズ界のみならずロックミュージシャンやクラシックの演奏者にも影響を与えた演奏活動は素晴らしい内容である。

以前ブログでも触れたが、僕自身はというと17才から初めてジャズを聴き始めたのだが聴き始めから30代ぐらいまではどちらかというと黒人ピアニストの演奏に魅かれていた。例えばウィントン・ケリーやソニー・クラークのブルージーな演奏やマッコイ・タイナーのアフリカの大地を連想させるアグレッシブな演奏などである。
その頃はエヴァンスの音は何かクールで白人特有のリリシズムのように聴こえていてあまり興味を持たなかったのである。但し天才ベーシスト、スコット・ラファロと共演した名曲「ワルツ・フォーデビイ」を含む『リヴァーサイド4部作』だけは好きで聴いていた。それが、音楽の趣味は年齢と共に変わるもので40代半ば頃からはエヴァンスの音が心に響き始めて今日までずっと聴き続けているのである。

先月発売された隔月発売のジャズ雑誌『ジャズ批評 209号』の特集が「ビル・エヴァンス生誕90周年」だったので買って読んでみた。いろいろと興味深い記事の中でさまざまなジャンルのジャズ・ファンによる「私が選ぶビル・エヴァンス3枚」という記事があった。これがなかなかおもしろい。選者によってこうも好きなアルバムが異なるものかと楽しんで読めた。そこでこのブログを通じて以下に「僕が選ぶビル・エヴァンス3枚」を上げてみることにする。

①:"Bill Evans,From Left To Right:" パーソネル:ビル・エヴァンス(P,el-p)サム・ブラウン(g)エディ・ゴメス(b)ジョン・ビール(el-b)マーティ・モレル(ds)マイケル・レナード(arr,cond)オーケストラ 1969年、1970年、ニューヨーク&サンフランシスコ録音

②:"STAN GETZ & BILL EVAS" パーソネル:スタン・ゲッツ(ts)ビル・エヴァンス(p)ロン・カーター、リチャード・デイヴィス(b)エルヴィン・ジョーンズ(ds)1964年、ニューヨーク録音

③:"Bill Evans wiyh Philly Joe Jones / GREEN DOLPHIN STREET" パーソネル:ビル・エヴァンス(p)ズート・シムズ(ts)ポール・チェンバース、ロン・カーター(b)フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)1959年、1962年、ニューヨーク録音

①はエヴァンスがアコースティックとエレクトリックのピアノの双方を駆使しオーケストラをバックに得意のリリシズムを表現した人気盤。ジャズ・ボッサの名曲「ザ・ドルフィン」を収録。
②はモダン・ジャズ界のロマン派、2人による「奇跡の共演レコーディング」と呼ばれている名盤。バックにはベースに若き日のロン・カーター、ドラムスに巨匠、エルヴィン・ジョーンズなど当時の強力なリズム陣を迎えて二人のスリリングなアドリブプレイを引き立てている。
③はエヴァンスのアルバムの中では地味なものだが、こうした渋いスタンダード集にこそ、その魅力が光ると言うべきリラックスした快演集となっている。

以上、ブロガーのジャズ・ファンの皆様、機会があったら是非この僕が選んだ3枚を聴いてみてください。「駄作のないエヴァンス」なのできっとその魅力ある音を楽しめることでしょう。

画像はトップがビル・エヴァンス生誕90周年を特集したジャズ批評誌。下がそれぞれ僕が選んだエヴァンスのCDアルバムのジャケ。


   

 

370. 久々にジャズのライブ・ハウスに行く。

2019-05-25 18:33:32 | JAZZ・ジャズ


4/12~5/6に開催していたしていた千葉県市川市の公立美術館、芳澤ガーデンギャラリーでの個展会期中、地元のジャズ・ライヴハウス「h.s.trash」に3回通った。

市川という街は僕の生まれて育った故郷であり、途中東京で下宿などもしたけれど20代後半まで住んでいた。久々に個展の打ち合わせや個展会期に行ってみると「浦島太郎状態」でもあるのだが、実家があった場所や子供のころ遊んだ場所、母校などがとても懐かしく思われた。そして10代の後半からお酒とジャズにはまってからはいろいろなお店に通ったのだった。僕が通った1970年代の後半から1980年代の市川はジャズがさかんな街でもあり、往時、勢いのあった頃は13件以上のジャズ関係のお店があったのだった。それが現在では4軒程に激減してしまいライヴを行っている店は今回ご紹介する「h.s.trash」と、もう一軒のみ。まさに隔世の感ありと言ったところである。

最初にこの店に入ったのは今から実に40年前のことになる。当時、美大浪人をしていて、その浪人仲間と2人で重い店のドアを開けたのである。なぜかジャズ屋の扉と言うのはみんな分厚くて重たい。確か記憶では友人の下宿で一杯飲んできた勢いだったように思う(まだ未成年だったのにねぇ、もはや事項だろう)。その頃はライヴハウスではなくてカウンターのある「ジャズ・バー」的な雰囲気の店だった。カウンターに二人で座るなり当時、雇われ店長だったK氏に年齢と今何をしているのかを尋ねられ「浪人生のクセにこんな店に来るなーっ!!」と怒鳴られてしまった。この時にかかっていたLPが忘れもしないトランペットのテッド・カーソンのリーダーアルバム " ジュビラント・パワー " というアルバムだった。なんと形容したらよいか思いつかない、それまで聴いたことがないブリリアントな音だった。このK氏の一言とカーソンのLP、そして店内の「大人な雰囲気」が気に入ってしまい以後、不定期に通ったのだった。

そして何年か通う間に店長や店員の方々も入れ替わって行った。その都度に「本当のマスターはどこにいるの?」と尋ねると「今、インドからネパールを旅しています」とか「アフリカに取材旅行に行っています」とか「北欧に出かけています」といった答えが返ってきた。さらに「マスターはいったい何者なの?」と尋ねると「本人は旅人と自称しています」などと言う答えが返ってくるのだった。ここのマスターは変わり者である。まぁ、「ジャズ屋のオヤジ」というのは大概変わり者である。僕がこの店に通い始めてリアルマスターに会えたのは結構、時間が経過してからのことである。以来、僕は陰でこのマスターのことを「フーテンのクマさん(本名がオオクマさんだから)」と呼んでいるのである。

以前はシンプルに「trash・トラッシュ(がらくた)」という店名で場所も今とは異なりJRの駅をはさんで反対口にあった。このお店も今年で開店45周年を迎えたのだという。そういうこともあり先月と今月にお店に3回顔を出し、ライヴも2回聴きに行ったのである。

先月行った1度目はベテランのサックス奏者、佐藤達哉氏と若手の注目ピアニスト永武幹子さんのデュオ。ソニー・ロリンズの名曲からスタートしたライヴ演奏はテナーとソプラノという2種類のサックスを使い分ける佐藤氏の円熟したパワフルなプレーと、この店のマスターが「天才肌」と太鼓判を押す永武さんのバド・パウエルを連想する音がスリリングに絡み合い素晴らしい内容だった。永武さんの弾きながらメロディーを歌うところがまたパウエルっぽくてカッコいい。

今月初め2度目はヴォーカルの井手理夏さんとベテランのベース奏者、大西慎吾氏、ピアノの杉山美樹さんのライヴ。井手さんのハスキーなヴォイスは相変わらず心地よく素敵だった。最近ではジャズとロックの融合したヴォーカルを目指しているとのことでビートルズやエリック・クラプトンの曲のカヴァーなども聴かれて嬉しかった。大西氏のズシリと重く渋いベースと杉山さんのスインギーなピアノもとても心地よかった。

久々にかつて「古巣」だったお店に通って懐かしくもあり、まだ頑張って営業していることが嬉しくもあった。

東東京方面、千葉方面にお住まいのジャズ・ファン、音楽ファンのブロガーのみなさん、是非一度、週末のライヴに出かけてみてください。お店の詳細は以下のとおり。

ジャズ ライヴハウス " h.s.trash " 千葉県市川市市川 1-3-20 tel:047-323-5066 http://red.zero.jp/h.s.trash 

画像はトップがお店の看板。下が向かって左からお店の看板、2回のライヴのようす、店内の僕とマスター等。



               








349. トロンボーン・JAZZ を聴く日々。

2018-11-17 18:11:03 | JAZZ・ジャズ
土曜日の午後は音楽の話題。そして絵画や版画を制作する最中に聴いているBGMの話題である。

これまで40年以上、聴き続けてきたJAZZだが、50才前後を境目として同じJAZZでもそれまで聴いてきた激しくアグレッシブな演奏ではなくシットリマッタリ?系の演奏へと趣味が変わってきたという話は以前にした。

例えば、最近ではビル・エバンスのピアノ曲やジョー・パスのギターソロ曲などを聴いていることもご紹介してきた。その流れでここ数か月間ではまっているのが『トロンボーン』による演奏なのである。
管楽器はモダン・ジャズの花形と言えるが、煌びやかなトランペットの音や激しくブローするサックスの音に比べると同じ管楽器と言っても決して華やかな存在とは言えない。だが、他の管楽器には真似することができないゆったりと伸びやかな音の魅力があるのである。そして1950年代には「3管セクステット」という6人編成のスタイルも確立しているのである。つまりトランペット、サックスにトロンボーンを加えた3管編成にピアノ、ベース、ドラムスというリズム・セクションによるゴージャスな編成である。この形式、ファンキーやハード・バップと言われたモダン・ジャズスタイルの中でさかんに演奏され、数多くの名盤が生れたのである。

話は変わるが、20代後半まで住んだ千葉の街にジャズのライブハウスがあった。小さなお店だったが、ここにはピアノの山下洋輔、アルト・サックスの坂田明といった当時売れっ子のプレーヤーたちがライブ演奏に来ていて、30代頃まで、よく通っていた。その中に日本を代表するトロンボーン奏者の向井滋春さんがいた。ライブを聴きに行って終了後に同席してお酒を飲みながらお話しする機会があったのだが「トロンボーンは日本人には向いていない楽器なんだよ。何故かと言うと欧米人よりもリーチが短いのでスライド管を目いっぱい延ばす動きに苦労するんだ」ということを言っていて興味深かった。向井さん自身もリーチは短い方だという。それでもライブハウスで聴いた演奏はいつも素晴らしいものだった。その時、僕は「コンプレックスを情熱によって克服した人間は強い」と妙に納得できたのをよく覚えている。

さて、肝心の推薦プレイヤーと推薦盤である。1人目はやはり1950年代~1960年代にかけてのこの楽器のパイオニアとも言える名手、J.J.ジョンソン。『トロンボーンのディジー・ガレスピー』などとあだ名もついているほどの華やかな演奏スタイルである。推薦盤はその華やかさとは少し違うが、ワン・ホーン・カルテットによる『ブルー・トロンボーン』(
CBS)がこの楽器の伸びやかな音の特徴を生かし、リラックスした好アルバムとなっている。

もう一人もJ.J.とほぼ同時代のプレイヤーだが、ファンキーなムードの演奏を得意とするカーティス・フラー。推薦盤はテナー・サックス奏者で名コンポーザーとして知られるベニー・ゴルソンと組んだジャズ史に残る名盤中の名盤『ブルース・エット』(サヴォイ)である。ゴルソン作曲の名曲<ファイヴ・スポット・アフター・ダーク>や表題曲の<ブルース・エット>などのベテランコンビならではの快演を聴くことができる。

ちょっと、長くなったが、ブロガーのみなさんも是非、秋の夜長にトロンボーン・ジャズを聴いてみてください。


画像はトップがJ.J.ジョンソンのポートレート。下が向かって左からJ.J.ジョンソンの推薦盤『ブルー・トロンボーン』、カーティス・フラーの推薦盤『ブルース・エット』、同じくカーティス・フラーの1970年代録音の『クランキン』の各CDジャケット。


      







335.ジョー・パスを聴く日々。

2018-06-23 19:02:48 | JAZZ・ジャズ
土曜日の午後はいつも音楽の話題。そして絵画や版画作品の制作中に聴くBGMの話題でもある。

以前の『ジャズ』カテゴリーのビル・エバンスの投稿の時のも書いたのだが、音楽の趣味は年齢によって本当に変化するのである。ジャズに関しては、これも前回書いたけれど、若い頃はジョン・コルトレーンやオーネット・コールマンなど激しい「音のカオス」のような音楽が好みだったのだが、50代に入った頃から御多分に漏れずシットリとしたスロー・テンポの曲へと移行してきたのである。

今回ご紹介するのもそうしたミュージシャンのうちの1人、ジョー・パス Joe Pass(1929年~1994年)というギタリストである。アメリカのジャズ・ギタリストで、我流だが、卓越した超絶技巧により彼よりも後進のギタリストに多大な影響を与えた一である。特に1970年代からはギター1本だけで演奏、録音されたアルバムが多く、モダン・ジャズ界におけるギターという楽器の可能性を最大限に追求したことが高く評価され、日本でも多くのファンに人気を得たことで知られている。
また、オスカー・ピーターソン(ピアノ)、エラ・フィッツジェラルド(ヴォーカル)、ズート・シムズ(サックス)など、いわゆるジャズの巨人たちと多く協演・録音したことも有名である。

梅雨の最中、制作の最中、雨の音に耳を傾けつつスタンダード・ナンバーが得意だったジョーのシンプルなフレーズの中にも優雅ないぶし銀の美しさが輝いているソロ・ギターを聴いていると、なんともしみじみとしてきてつい筆を運ぶ手を休めてしまう。その多くのアルバムの中でも特に1973年に録音され話題となった名盤『ヴァーチュオーゾ・VIRTUOSO』の深みのある音色と風格さえたたえたソロ・プレイにはシットリ、ウットリしてしまい時間が経つのを忘れてしまうほどである。

モーツアルトから一日が始まる僕のBGM。梅雨の中、一日の制作が一段落した夕方の時間帯にかけるCDはジョー・パスのギター・ソロである。今日も戸外の雨のシトシト音と調和する演奏を聴くことにしよう。


画像はトップがジョーの代表作で名盤の『ヴァーチュオーゾ』のCDジャケット。下が向かって左からサックスの巨人、ズート・シムスとのデュオアルバム『ブルース・フォー・トゥー』、僕のジョーのCDコレクション。


   

315. Bill EVANS  ビル・エヴァンスを聴く日々。

2017-12-28 17:24:49 | JAZZ・ジャズ
毎日の絵の制作のおり、朝から夕方までBGMをかけ続けている話は繰り返し投稿してきた。最近ではクラシックを聴くことが多いのだが、同じジャンルばかり聴いていると飽きもくる。食事と似ていて、たまには別の種類の料理も食べて観たくなるというのが人情というものだ。

この半年ぐらいは朝のモーツァルトに始まって夕方までクラシックにドップリと浸かった後、夜のマッタリとくつろぐ時間帯にジャズ・ピアノなどを聴いている。中でもよく聴くのが今回ご紹介するビル・エヴァンス Bill Evans(1929-1980)のアルバムである。エヴァンスは1950年代から始まるモダンジャズを代表するピアニストの1人として有名で、ドビュッシー、ラヴェルといった19世紀印象主義のクラシック・ピアノに影響を受け、印象主義的な和音、スタンダード楽曲を題材とした創意に富んだアレンジと優美でエモーショナルなピアノ・タッチを取り入れたインター・プレイといわれる演奏を続け、後進のハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットなど多くの才能あふれるスター・プレイヤーに大きな影響を与えたことでも知られている。
代表的なアルバムはリヴァーサイド・レーベル時代に録音された天才ベーシスト、スコット・ラファロとの共演で知られる「リバーサイド4部作」である。その中でも特に名盤として名高い『ワルツ・フォー・デビイ』はこの時代のジャズを代表するアルバムで表題曲はロックやポップスなどにもアレンジされ今でも人気が高い。

僕は高校時代からジャズを聴き始めて40年が経ったが、実は上記代表作は別としてエヴァンスのアルバムをあまり聴いていなかった。マイルス・デイビスのリーダー・アルバム『カインド・オブ・ブルー』にサイドとして参加した時のクールで抑制の聴いた音、自身の多くのリーダー・アルバムに聴かれる抒情性といったものにあまり興味が持てなかったのである。僕がジャズ・ピアノ、いやジャズという音楽に長い時間求めていたのはもっと、情念的でソウルフル、ブルース感覚豊かな音だった。たとえばピアノで言えばバド・パウエルに始まりウィントン・ケリー、ケニー・ドリュー、マッコイ・タイナーといった黒人プレイヤーによる演奏。あるいはピアノ以外だったらジョン・コルトレーンやオーネット・コールマンのような激しく音のカオスの中にグイグイと引きこまれるようなタイプの音楽に強く惹かれていたのだった。
ところが、音の趣味というものも御多分に盛れず年齢と共に変化してくるものである。50才前後を境として、もっとシットリと情感を持って聴かせてくれるものが良く聴こえてきたのである。いろいろとシットリ・ジャズを聴いている中でピアノの代表選手がこのビル・エヴァンスというわけである。

最近、エヴァンスの曲だけでなく「人」についても興味を持ち、いろいろとネットで調べている。エヴァンスという人はリリカルでエモーショナルなピアノ・タッチから創造するに幸せで明るい音楽家人生を送ったものかと思い込んでいた。ところが1950年代のマイルス・コンボ時代からヘロイン、コカインなどの薬物乱用で心身共にボロボロであったようだ。特に70年代後半からは、自らが原因を作ったとされる内縁の妻、エレインの自殺や肉親として、音楽の理解者として絆の深かった兄ハリーの自殺と2人の自殺が原因でエヴァンスの破滅志向がエスカレートしていったようである。

1980年9月11日。ニューヨークのライブハウス「フアッツ・チューズデイ」に出演。演奏中に激しい体調不良となるが主催者側の演奏中止要請を振り切ってしばらく演奏を続けた。しかしとうとう演奏できない状態となり、自宅に戻り親しい友人、知人によって看護されたが容体が悪化、市内の病院に搬送され同9月15日に死去した。享年51才。プレイヤーとしては円熟期、惜しまれる死であった。

このことを知ってから数多く残されたエヴァンスの名盤を聴いていくと、それまでとは違った「人」「顔」が浮かび上がってくる。リリックでエモーショナルな輝くようなピアノ・タッチの音と音の織り成す美しいタペストリーの陰にプレイヤーの繊細さや奥深さが見え隠れし、さらエヴァンスの精神的な苦悩のようなものまで感じ取ることができるのである。

冬の寒い間、しばらくは「エヴァンス熱」が続きそうである。

画像はトップがリヴァーサイド・レーベル時代の名盤『ポートレート・イン・ジャズ』のCDジャケット。下がその他の名盤ジャケットのうちから3枚。



      



  

253.『ジャズ喫茶という文化』 その二 -札幌編- 

2016-07-20 18:23:11 | JAZZ・ジャズ

北海道の放浪旅(そーだっけ?)は、さらに続く。先月27日、朝から夕方まで野幌森林公園を野鳥を探して徘徊した後、一度札幌のホテルに戻った。今晩は一人なのでシャワーを浴びて一休みしてから地下鉄に乗って「すすきの」まで夕食に出ることにする。

そーだ、今日は有名な「ラーメン横丁」に行って、道産子ラーメンを食べることにしよう。すすきのに到着、地下鉄の階段を上って外に出ると中心街。派手な電飾のネオンサインがピカピカと眩しい。ラーメン横丁のゲートをくぐってお店を物色。もちろんどの店がどんな特徴の味なのかさっぱり解らない。こういう時は行き当たりばったりが一番。ということで一番奥に近い店の暖簾を「えいっ」とくぐった。座席についてメニューから「味噌ラーメンと焼き餃子をください」と定番を注文し、辺りを見回すとサイン色紙が一面に張ってある。僕の目の前を見ると、なにやら見かけたようなローマ字が目に入ってくる。名前は判読しずらいがプロ野球のセ・パのチーム名が書いてあった。よーく見るとごひいきのチームの選手のものもある。ここはパの「北海道日本ハムファイターズ」の本拠地札幌ドームが近い。おそらくペナントやセパ交流戦で試合に訪れた選手がここに立ち寄ったのだろう。「いや、これだけサインがあるということは球界で評判のお店なのかもしれない」などと勝手に想像を膨らませるのでした。肝心のラーメンと餃子、さっぱり系で美味。満足して夜の街に出た。

まだ、宿に変えるには早い。ここでまた独り言、「きれいなお姉さんが横に座ってくれるお店でも探すか」 いや…やめておこう。一人旅、年甲斐もなく、うっかり地元の事情を知らずに入ってボったくられるのが関の山だ。ここで一つ閃いた。「そうそう最近また盛り返してきたジャズ喫茶通い、札幌にも名店が残っているかもしれないから探してみよう」ということに決定する。今はほんとに便利な時代である。ここでスマホの登場。「札幌・ジャズ喫茶」で検索するといくつか出てきた。ドラえもん状態。その中で『1971年創業の老舗ジャズ喫茶 すすきののBossa』というコピーが目に留まった。ジャズ喫茶の黄金時代の1970年代から続く老舗である。興味津々である。きっと期待に応えてくれるに違いない。ということで決定!! 地図をチエックして歩き始めた。

お店は大通りに面した解り易い場所にあり、極度の方向音痴の僕でも反対側の歩道からすぐに看板を見つけることができた。黒地に赤文字のなんともジャジーな看板。ワクワクする気持ちの高まりを抑えられない。足早に階段を上り2階に上がると、これまたありがちな重々しいドア。ゆっくり開けて中に入ると、さらにありがちな薄暗~い照明。そのアンダーグランドな空間に4ビートのジャズが大音響で流れていた。客は平日のためか2人。空いている席に着いて生ビールを注文。居心地がすこぶる良い。店の中を観察すると置かれている静物や貼ってある写真・ポスター類のセンスがとても良い。すぐに寡黙そうな、お姉さんが生ビールを運んで来てくれた(空いているしね)。うまい!ここまで来て日中の「森林歩き」の疲れがどっと出てきた。失敗したラーメン横丁をこの店の後にするんだった。そーすればもっとビールがおいしく飲めたのに…。

さて、ここからジャズ喫茶のセオリーどおり、何かアルバムをリクエストしなければ。せっかく北海道に来ているのである。北国の夜に似合う曲をリクエストしたい。「あれでもない、これでもない…そうだっ!あれだ、あれしかない、あれに決定!」決定するや否や、すっくと席を立ち、つかつかとレコードのコーナーに移動。ちょっとボクサーの具志堅洋行に似ているマスターに「あの…リクエストはできますか?」といつものように切り出した。背後には大きな本棚のようなLPレコードのコレクションである。その数4000枚以上とか。「ええ、どうぞ」というお返事。「アートファーマー・カルテットの”To sweden with love(和題:スウェーデンに愛をこめて)”のA面をお願いします」とリクエストした。このアルバムは1964年に北欧を訪れたトランペットの詩人、アートファーマーがスゥエーデンに古くから伝わるトラディショナル・フォークの数々の美しいメロディーに心惹かれて吹き込んだものである。潤いを含んだ北欧のメロディーと、ファーマーが奏でるフリューゲルホーン(柔らかい音の出るトランペット)が実にロマンチックな響きで伝わってくるものだ。いろいろなジャンルのジャズを聴いてきたけれど、最近は年齢のせいか「心に染み入って来る音」がいい。

ここでまた独り言「北国の夜にぴったりの選曲だなぁ…」と自画自賛し、詩人ファーマーの心の奥深く微染み入る音に涙するのでした。すっかり心地よくなってきたところでボチボチ宿に帰る時間帯となった。ここでお開き。最後にかかっていたのは、好きなベーシスト、ロン・カーターのリーダーアルバムから名曲”ノー・ブルース”が送り出してくれた。ほろ酔い気分で繁華街の喧騒の中を歩いて行くと頭の中ではまだ北欧の美しいメロディーが響いていて、思わず口笛で真似をしてみるのでした。また札幌に来ることがあったら、少しレトロで落ち着いたBossaに立ち寄ることにしよう。画像はトップがBossaのレコードコーナー。下が向かって左からすすきのの電飾看板、ラーメン横丁の入り口ゲート、Bossaの看板と店の中のカット3枚、今回リクエストしたアートファーマーのCDジャケット。

 

                   

 

 

 


249.『ジャズ喫茶』という文化

2016-06-17 18:08:58 | JAZZ・ジャズ

僕がジャズを聴き始めたのは高校3年の春、たまたま同級生で席が前後だったKというジャズ狂いの友人からジャズのLPを20枚ぐらい借りたことがきっかけだった。当時の心境など書けばブログ1回ぐらいのボリュームとなりそうなので追ってご紹介することにする。と、いうことは今年で39年間聴き続けて来たことになる。もうすぐ40周年。何か節目にお祝いをしなければ。

この時から25-30才ぐらいまで、よく通ったのは今回のテーマ『ジャズ喫茶』だった。ジャズは音楽のジャンルの中でもクラッシックに並び膨大な量のアルバムが出されている。その森に一旦踏み込むと、なかなか外に出られなくなってしまうのだ。なので、ビギナーには入門編として最初にどんなものから聴き始めてよいやら皆目見当がつかない。専門誌なども読んで参考にするのだが、いくら評論を読んだところで音であるから実際に聴いてみなければ良し悪しなど解るはずもない。そこで頼りになるのがジャズ喫茶というわけである。当時の東京には手元の資料によると、ありがたいことに250件以上のジャズ喫茶が存在していた。つまり、「街中を歩けばジャズ喫茶にあたる」という勢いがあった。良く通ったのは山手線圏内と総武・中央線沿線のお店だった。

そもそもこのジャズ喫茶の定義とは「客にジャズ・レコードを聴かせることが主目的の喫茶店」ということになるのだが、その歴史は古く1930年代まで遡るようである。その当時、東京などの都会で流行していた「音楽喫茶」と呼ばれるものが起源になるらしい。広い雰囲気の良い店内に通称「レコちゃん」と呼ばれる美女がレコードを掛ける係として立っていて訪れた客の音楽のリクエストに答えSP盤をかけていたということだ。最もこの頃は曲目はジャズに限らずさまざまなジャンルのものを掛けていたということである。そして今のようなタイプの店が勢いづいてきたのはアメリカのジャズ・ミュージシャンが来日し、コンサートツアーが開かれ始めた1950年代半ば頃からということだ。

そして、ジャズ喫茶は我が国固有の文化であるという。もっとも、ジャズ音楽の本家であるアメリカでは当然、ライヴハウスでの生演奏が主体である。日本に旅行で訪れた音楽好きの欧米人はジャズ喫茶に入ってビックリするらしい。高級なオーディオ機材がセットされ、客は店内で私語を慎み腕を組んで神妙な顔つきでスピーカーから流れる大音響のジャズを聴くことに集中している。コーヒー一杯で何時間もこの状態をキープし聴き続けている…こんな不自然とも言える特殊な空間は自国には存在しないのだろう。僕自身はこの空間がとても好きで20代から30代まで足繁く通ったものだ。都会の真ん中で一人になりたい時、店の人が何も言わずに放っておいてくれるのもありがたい。

そんなジャズ喫茶だがバブル期を境として衰退期に入ってしまう。原因としてまず考えられるのは「当時の若者のジャズ離れ」である。ジャズが精彩を欠いた一つの古典音楽となってしまったこと。それから、ウオークマンやインターネットの普及によるオーディオ離れ。これらが数多く存在していた店に打撃を与え、街の中から次々に姿を消して行ったのである。つまり音文化の「絶滅危惧種」となってしまったのだ。何とも寂しい話である。この衰退減少の頃から僕自身も自然に気持ちが離れていったのも正直なところである。

ところが最近、ジャズの雑誌を書店で立ち読みし、昔通っていたお店が何件かがんばって営業し続けていることを知った。今月に入ってから、その中で最も思い出深い店である四谷の老舗『いーぐる』に都内に仕事で出たおり、かなりひさびさに訪れてみた。ここはJR中央線「四谷駅」より大通り沿いに歩いてわずか1-2分のところにある。39年前に訪れた当時と店のある場所がまったく変わっていない。入口から、これも変わらない狭い螺旋階段を地階のお店に降りて行くと確かに懐かしいジャズの匂いがしてくる。重いドアを開けると大音響のジャズが聴こえてきた。午後の早い時間帯だったので店内のお客さんは5-6名だった。テーブル席に着くと若い店員さんがやってきて、オーダーを尋ねられたので昼間のメインの「アイスコーヒーとチーズケーキのセット」をたのんだ。さすがに40年近くの歳月が経過しているので内装は新しくなっていたのだが、全体のレイアウトは当時の記憶のまんまであった。

ジロジロと店内のようすを見回しているうちに懐かしさと嬉しさが混じる感情が込み上げてきて抑えきれない。思わず立ち上がってカウンターまで行き、「あのぉ…リクエストは受け付けていますか?」と昔のように言ってしまった。すると先ほどの若者が「はい、アルバム名は?」と聞き返してきたので、とっさに「セロニアス・モンクのミステリオーソをお願いします」と頼んだ。するとさらに「A面ですか?B面ですか?」と来た。この時、心の中で(「今時まだLP盤なんだ!感激だなぁ」)と呟いてしまった。「エ、A面でお願いします」と答えるやいなや、体中に鳥肌がたつのを感じた。そそくさと席に着き、リクエストしたアルバムがかかるのを耳をそばだてて、じっと待つ。すると3枚目ぐらいに掛かった。1958年N.Yの「ファイブ・スポット・カフェ」でのライブ録音。僕が「20世紀の大偏屈ピアニスト」と呼んでいるセロニアス・モンクのカルテットによるノリノリの演奏である。テナー・サックスは「リトル・ジャイアント」の異名を持つ小柄な大物ジョニー・グリフィン。ゴリゴリ吹きまくるタイプのテナー奏者である。「いいなぁ、こんな時間と空間ほんとにひさしぶりだなぁ」曲を聴いているうちにだんだんと昔の記憶が甦って来た。「そういえば偶然だが、初めてこの店でリクエストしたのもモンクの『ブリリアント・コーナーズ』という名盤だったなぁ」。

アルバムが2曲目に入った時、現在掛けているレコードのジャケットを展示している正面のスタンド(こういう決まり)に別のテーブルで静かに聴いていた中年女性が歩いてきて裏面のデータを確認し始めた。アルバム名はもちろんのこと、メンバーや録音データなどをチェックするのである。これもジャズ喫茶ならではの光景だが、自分がリクエストしたアルバムを他のお客さんが確認する瞬間がとても嬉しいのである。なぜかというと、その良さを認めた、あるいは気になってしまった、という証明だからである。この時、数人が入れ替わり確かめたりすると、それはもう優越感なのである。

理屈ではなく、なんとも幸せな気分にひたって随分長居をしてしまった。コーヒータイムは6時まで、ここで店内の照明が暗くなりアルコールタイムに変わる。ジャズ喫茶からジャズ・バーに変身するのである。と、いうことでこちらも復帰第1回目はここまででお開き。またの来店を心に誓い元来たように螺旋階段を上って夜の街に出た。

画像はトップが螺旋階段途中のポスター。下が向かって左から四谷駅前風景、螺旋階段のポスター2点、店内の様子2点、夜の店の入り口、トレードマークをデザインした夜の看板、モンクのCDアルバム「ブリリアント・コーナーズ(左)とミステリオーソ(右)」