戦中派の私から若い方達への申し送りです。どのような事でも世論に流されずに自分の頭で考えましょう。
「高齢者不明・児童虐待問題を産んだ教育」という2010年8月の私の投稿の概略です。
8月15日のNHKの日曜討論で「高齢者不明・児童虐待」に関する討論がありました。
議論の中心は高齢者不明・児童虐待の問題に就いて、西部さんが日本から古来持っている家庭や地域の力を活用すべきだの主張と、新進の批評家とされる宇野常寛さんが地域や家庭の崩壊、格差社会の発生など、日本の世の中は変わってしまっているのだから、それを前提にして対策すべきだと言う主張の対立でした。
戦前派の私としては、勿論西部さんの意見に賛成で、今のような事態を招いた原因から対策を考えるべきだと思っています。
そのようなことを抜きにして、宇野さんの言うように現状をそのまま認めて、政府がこの問題解決にシステム的に取り扱う通りにすれば、膨大な人員と経費を要する一方、問題解決を遅らせる原因となっているプラバシー問題が立ちはだかるのは眼に見えています。 唯でさえ財政難に喘いでいる日本がこの底無し沼のような問題に金をつぎ込む余裕などない筈です。
[自分達の義務を放棄した子や親を生んだ教育]
日本は敗戦後、占領軍の政策により、神道や武士道など一時的に否定され、民主主義の考え方と所謂平和憲法が持ち込まれ、戦後教育もそれに準じて行われて来ました。
その際日本古来の美風(今日のテーマで言えば家族や地域の助け合い、親に孝行など)は何故か無視されて来ました。
然も悪いことに日本の宗教の中心となっていた仏教はすっかり衰えてしまいました。
その中で私の心に一番引っ掛かったのは当時の市販の教師用の指導要領書の記述の中で、日本国憲法には国民の権利の記述はあるが、それに伴う義務や責任についての規定はない とあることを発見したことです。
そしてその推薦の言葉に当時教科書裁判で有名だった著者の家永三郎さんの名前を発見して、妙に納得した気になったのを今でも覚えています。
彼の推薦の指導要領書には勿論義務や責任の字はは見つかりませんでした。
私は驚いて、他の生徒用の参考書を調べて見て、各所に義務や責任について書いてあるのを見て安心しました。
なお家永さん推薦の指導要領書を見たのが私のブログを始める原点です。
家永さん推薦の指導要領書に従い日教組、共産党の影響の強い全教に属する教師達は、権利重視、それに伴う義務や責任は軽視の教育が行われたことを示しています。
その結果がNHKが取り上げた子どもとしての義務を放棄した高齢者不明、親としての義務を放棄した児童虐待に繋がっているのです。
このような米国の日本の子どもたちの教育に対する方針は米国の陰謀だ、洗脳教育だと言う人達もいますが良いほうに取って言えば、今でも良く言われるように、米国人の自己責任の考えが強いこと、米国人の中にはまだキリスト教が強い影響力を持っていること、フェアプレイの考えが浸透していること忘れてそのまま、米国流の教育を持ち込んだのかも知れません。
然し日本が独立か勝ち取って以後、国は日本の実情や日本人の性情に根ざした、そして日本の美風を取り入れた教育に戻るべきだったのですが、戦後半世紀になる安倍さんの時代になっての教育改革に対して、反対する朝日新聞、道徳教育反対する日教組など抵抗があり、改革は遅々として進んでいません。 逆に言えば私が心配したような権利重視、義務・責任軽視の教育が一部で依然として進行している示しています。
それに対しての父兄の反応です。
私の場合で言えば学校でいくら偏ったまたは中途半端な民主主義教育を受けても、我が家だけは権利などより兄弟の思いやりの方が大事だと教えていましたが、敗戦のショックで如何に力が無かったかを覚えています。
幸い私達のような家庭が多かったと想像されること、日教組への反発する教師も次第に増えてきたようです。
然し敗戦の反省に立って、学校の教育に賛成した人も父兄も中には居ただろうし、ショックから子どもの教育は完全に学校任せにした父兄もいたと思います。
そしてその子どもが親になり、子どもを産み、その子がまた親になると言う2~3世代を経て、困った親や困った子が拡散し始めたのが、親をみない子ども、子どもを虐待をする親が増えてきた現状の多分大きな要因の一つのような気がします。
私は今こそ(実は遅すぎますが)親を見ない子ども、子を虐待する親がどうして生れたのか、日本の教育の在り方を見直しをする必要があると思うのですが。
日教組を支持母体とする民主党政権はどうするのでしょうか?
やはり若い評論家の宇野常寛さんの言うように、現状は仕方かないと諦めて(同じ義務・責任軽視教育に起因するモンスターペアレンツの発生、荒れる学級などの解決は置いたまま)にして、高齢者不明・児童虐待に特化したパチ当て政策だけで終わりそうな気がするのですが。
その結果がNHKが取り上げた子どもとしての義務を放棄した高齢者不明、親としての義務を放棄した児童虐待に繋がっているのです。
このような米国の日本の子どもたちの教育に対する方針は米国の陰謀だ、洗脳教育だと言う人達もいますが良いほうに取って言えば、今でも良く言われるように、米国人の自己責任の考えが強いこと、米国人の中にはまだキリスト教が強い影響力を持っていること、フェアプレイの考えが浸透していること忘れてそのまま、米国流の教育を持ち込んだのかも知れません。
然し日本が独立か勝ち取って以後、国は日本の実情や日本人の性情に根ざした、そして日本の美風を取り入れた教育に戻るべきだったのですが、戦後半世紀になる安倍さんの時代になっての教育改革に対して、反対する朝日新聞、道徳教育を反対する日教組など抵抗があり、改革は遅々として進んでいません。
逆に言えば私が心配したような権利重視、義務・責任軽視の教育が一部で依然として進行している示しています。
それに対しての父兄の反応です。
私の場合で言えば学校でいくら偏ったまたは中途半端な民主主義教育を受けても、我が家だけは権利などより兄弟の思いやりの方が大事だと教えていましたが、敗戦のショックで如何に力が無かったかを覚えています。幸い私達のような家庭が多かったと想像されること、日教組への反発する教師も次第に増えてきたようです。
然し敗戦の反省に立って、学校の教育に賛成した人も父兄も中には居ただろうし、ショックから子どもの教育は完全に学校任せにした父兄もいたと思います。
そしてその子どもが親になり、子どもを産み、その子がまた親になると言う2~3世代を経て、困った親や困った子が拡散し始めたのが、親をみない子ども、子どもを虐待をする親が増えてきた現状の多分大きな要因の一つのような気がします。
私は今こそ(実は遅すぎますが)親を見ない子ども、子を虐待する親がどうして生れたのか、日本の教育の在り方を見直しをする必要があると思うのですが。
日教組を支持母体とする当時の民主党政権はどうするのでしょうか?
やはり若い評論家の宇野常寛さんの言うように、現状は仕方かないと諦めて(同じ義務・責任軽視教育に起因するモンスターペアレンツの発生、荒れる学級などの解決は置いたまま)にして、高齢者不明・児童虐待に特化したパチ当て政策だけで終わりそうな気がするのですが。
そして現状はどうでしょうか。
・自殺が怖くて車内に火をつけて死刑になりたい人,その真似をする人
・同級生を包丁で刺す中学生
・俺の作品をパクったとして京都アニを放火し多くの人を死なせた人
私は前記の問題を取り上げた2010年より今の事態は遥かに劣化していると思うのですが。
「私のこれから」
本屋でもう直ぐ98になると言う佐藤愛子さんが面白くて色々考えさせる話を出して頑張っています。一つ下の私は何もできませんが、今までの現在の問題の投稿に加えて、子供時代から最近までの眼から見た現在の問題のヒントになりそうなことを書こうと思っていますので宜しくお願いいたします。
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