戦前・戦中派の私から若い方達への申し送りです。どのような事でも世論に流されずにお互いに自分の頭で考えましょう。
今日は終戦の日だそうで最初に日露戦争当時と思われる「戦友の歌」と太平洋戦争の際の兄弟4人の動きを紹介します。
・「戦友の歌」
ここはお國を何百里、離れてとほき滿洲の、赤い夕陽にてらされて、友は野末の石の下、思へばかなし昨日まで、眞先驅けて突進し、敵を散々懲らしたる、勇士はここに眠れるか、ああ戦ひの最中に、隣にをったこの)友の、俄かにハタと倒れしを、我は思はず驅け寄って、軍律きびしい中なれど、これが見すてて置かれうか 、しっかりせよと抱き起し、假繃帶も彈丸の中、折から起る突貫に、友はやうよう顏上げて、お國のためだかまはずに、おくれてくれなと目に淚、後に心は殘これども、殘しちやならぬ此のからだ、「それぢゃ行くよ」と別れたが 、ながの別れとなったのか、戰ひすんで日が暮れて さがしにもどる心では 、どうぞ生きってゐてくれよ、ものなと言へと願うたに、空しく冷えて魂は、故鄕(くに)へ歸(かへ)つたポケットに、時計許ばかりがコチと、 動いてゐるもなさけなや、思へば去年船出して、おくにが見えずになった時。玄界灘で手を握り、名をなのったが始めにて、それより後(のち)は一本の、煙草も二人わけてのみ、ついた手紙も見せ合ふて 、身の上ばなしくりかへし、肩をだいては口ぐせに、どうせ命は無いものよ、死んだら骨を賴むぞと、言ひかはしたる二人中、思ひも寄らぬ我一人、不思議に命ながらへて、赤い夕陽の滿洲に、友の塚穴掘らうとは。くまなくはれた月今宵、心しみ筆とって、友の最後をこまごまと。親御(おやご)へ送る此の手紙、筆の運びはつたないが、行燈(あんど)のかげで親達の、讀まるる心おもひやり 、思はずおとす一雫(ひとしずく)
時代の違いで表現が異なりますがなるべく原文のままにしています。
「私の経験した太平洋戦争の現実」
私は一期下の連中も含めて四国の松山城内にある航空自衛隊に入営しました。中には私のいた八幡工業学校の同級生や小倉工業の生徒もいて何か知ったもの同士の気分でした。業務の内容は飛行機の部品の整備が主でしたが直ぐ止めになりました。多分飛ぶ飛行機が居なくなる?ので主な業務は軍隊のしきたりに慣れること。その一つが幹部候補選出の試験。幸い隊の中でトップの成績でしたが八幡工業の配属将校の「幹部に不適」の判定で失格。幹部候補生は場内に残留、その他は近くの台地の農耕作業に従事の為の兵舎行き。幸い幹部の方は私の不幸に同情して幹部の「戦友」つまり幹部の横で寝ることにしてくれ私の先輩の兵士が私を弄らないようにしてくれたのです。
そこで気付いたのは学徒動員で兵舎の将校になった人の将校マントの下でズボンも履かないままの毎朝の点呼。それに比べて時々周辺に隠した飛行機を取りに来る眼光鋭い将校。
その後しばらくして営舎から見る松山城下の営舎も爆撃の炎。私ども兵士の一分は今の鳥取空港の防備のために派遣されました。同空港も空爆にあったようですが、離れた位置の兵舎では軍服を着たままの待機ばかり。その内に廣島に特殊爆弾の報。間もなく日本敗退の報。そこで意外なこと発生。今で偉すぎて見たことのない将校が「米軍が来たら切り込みをする」と言って私ども兵士にトラックに米を積み込ませ、知らない民家の運びこむ。その内、部隊解散するので何でも持って帰れと指示。貧乏人の私の癖に面倒なことの嫌いな私は兵士の帯剣だけ腰に駅へ。汽車の中の異常な雰囲気。将校が元偉くても敬礼をすべきか否かと、ややこしい雰囲気の列車の中でやっと着いた下関駅。そこから見えるなんども登った北九州市の山々の懐かしいこと、僅か4ケ月した経っていないのに。小倉駅から汽車の便がないので、今の北九州市まで歩く。途中で検閲に会い帯剣を没収されたが4人のこどもの内私が一番先に家に帰着。次は飛行機學校に志願していた下の弟。秘密保持のためか後始末にてまどったか通信部門に志願していた上の弟。最後に中國に出征していた兄と全て帰る。
それにしても日露戦争の昔と太平洋戦争を比較すると考えさせられることばかりですね。
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