私が17日に「日本が第二次大戦で負けたことの功罪」と言う問題含みのエントリーについて、私のような小ブログに関わらず多くのコメントをいただきました。
その批判的なコメントの中には、私のブログの趣旨と変わらない意見や、私が他のブログで書いている意見とほぼ似たものがかなりありました。
本来なれば折角のコメントに私の考えを記すべきですが、細かい点は除いて大筋は同意見だと言うことで失礼をします。 (コメント頂いた方でもし宜しければ、最近の私のエントリーの最近の10日分でも、また斜め読みでも覗いて見て頂けれは幸いです。)
そのコメントの中で下記のような「腰抜け外務省」さんのコメントに就いて補足させていただきます。 (なおコメントを拝見すると「腰抜け」とはご謙遜で大変しっかりしたお考えをお持ちの骨のあるお方のようです。)
軍部の暴走を止められなかった、という点には全く賛成ですが、それに加えて、国民世論、マスメディアの暴走も止められなかったという点もあるのではないでしょうか。
5.15事件の際に全国から集まった助命、減刑の嘆願は百万を超える数であったと記憶しております。
私は軍部にのみ開戦の責任を押し付けるのは如何かと思いますが。
ちなみに昭和維新の歌ですが、現代日本に全く当てはまり、且つこのような気概を持つ国民、青年が少なくなったことが残念でなりません。
私は第二次世界大戦の遠因は世の不況を余所にした、政治家の権力闘争や豪商達との結び付きが5.15事件、2.26事件を引き起し、それが引き金で軍事政権成立、開戦に繋がったと思っています。
だから青年将校に暴挙にも隠然たる国民の支持あったのは、私が例に上げたように、「汨羅の淵に波騒ぎ」の歌が子どもにも歌われていたから判ります。
投稿者の指摘されるように国民世論は青年将校側についたのです。
確かに当時の国民世論は俗に言えば「連戦連勝、それ行け行けドンドン」の風潮があり、青年将校だけでなく、軍部(正確には関東軍を中心とする)の暴走を支持する方向でした。
然しそれを導き抑えるのが政治家であるべきで、中には敢然と軍事政権に反発した人も居ました。
然し多くの政治家たちは肝心の国民から見放されていたので、世論を導くどころか、軍人出身の首相が続くのを止めきれずに、次第に日本が軍国主義国家に変わっていったのだと思います。
「・・・外務省」さんはマスメディアの暴走にも触れておられます。
私も今までマスコミ批判のエントリーを何度もしましたが、当時の新聞には同情すべき点もあります。
満州事変前(当時の首相は民政党の若槻さん)の新聞まで言論の自由が厳しく統制されていたわけではありませんでした。 5.15事件、2.26事件での軍部を批判に対し軍部の弾圧に逢い、多くの新聞はその主張が変化し始めたたそうです。 (これには読者の軍部支援の傾向が新聞の右傾化?の後押ししていたと思います。)
1936年に弾圧的な企画調査、新聞・出版・放送の指導・取り締まり、対外宣伝、検閲、文化宣伝などを行う内閣情報局が発足。(当時の首相は海軍の岡田啓介さん)
満州事変後政府主導で、主要な新聞社による国民精神総動員中央連盟が設立され、それからは例の有名な大本営発表に続きました。(以上日本の戦時中の新聞 参照)
つまりかなり良心的の新聞もあれよあれよと言う間に軍人が率いる政府から無理やりに(例えば軍に反対する新聞社には紙の配給停止を匂わされるなど)戦争賛美の方に引きずり込まれた面もあることは認めてやるべきです。
そして 「屍のゐないニュース映画で勇ましい」、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」で有名な反戦作家の鶴彬など、反政府、平和主義者は次々に投獄されて行きました。
当時子どもだった私も、政党の演説会には全て警官が立ち会い、彼らが見て不穏当の発言があれば、「弁士中止」の指令を出すなど政治家の活動にも軍事政府の関与があったことと言う大人達の噂話を聞きました。
そして当時の新聞の報道がまた世論を作り、ずるずると世界大戦に突入したものと思います。
その状況は現在の一党支配の中国、北朝鮮、それより厳しくないが同じく一党支配のシンガポールの新聞の殆ど全てが御用新聞であること、反政府側の人達の主張は外国でしか聞けないことと良く似ています。
大不況・世論・(権力闘争に明け暮れる)政治家・新聞(今ではそれにテレビ)と並べて見るとなんだか、環境は大きく変わりましたが、今の日本と軍人が権力を握る前の日本と余り変わらないような気がします。
「・・外務省」さんの言われるように、国民・政治家・軍・新聞の全てに責任があると思いますが、私は政治家のあり方に先ず問題があり、次には言論統制で国民やマスコミを締めつけても、関東軍の暴走を抑え切れなかった、そして米軍の総合的軍力の判断を誤った軍に問題があったと思っております。
私は全て自由である日本、そしてシビリアン・コントロール下にいる自衛隊のことを考えると、残るのは国民・政治家・マスコミです。
それだけに、特に選挙を前にして、残る3者ともなお一層戦前以上に考えねばならぬことが多いような気がします。
つまり不戦日本でも、経済の縮小、貧困化、社会格差発生など「じり貧」になることはあるかも知れないからです。
このブログを、より多くの人にも見て貰いたいと思っています。どうぞご協力をお願い致します。
↓
政治ブログランキングへ
*注記:気概を持つ国民
「・・・外務省」さんはまた、「昭和維新の歌ですが、現代日本に全く当てはまり、且つこのような気概を持つ国民、青年が少なくなったことが残念でなりません。」と書かれていますが、青年将校だけでなく当時の日本には、壮士と言われる多くの民間人が国内や満州・蒙古・中国などで今で言うボランティアで(その方向ややり方の善し悪しは別として)活躍していました。
その中で有名なのは、国家主義結社「玄洋社」の設立者の頭山満さんや宮崎滔天さんで、中国建国の父と言われる孫文、終戦時日本軍と戦った蒋介石などを匿ったり支援をしました。
その為かどうか判りませんが、蒋介石は戦後の賠償を放棄し、その恩義を感じているかなりの親中派、親台派の政治家の存在など、現在の日本にも大きな影響を与えています。 (なおこれにに加えて日本に留学した周恩来の影響もある程度あるのでしょう。)
有名無名の壮士達の活躍が如何に盛んだったかと言うことは、私たち子どもまで彼らが伝えたと言う「ショッコーセンメルセンメンロンヤー」などチンプンカンプンの歌を歌っていたことからも判ります。
なお現在でも多くの日本人が現地の人達への救援、支援活動をしているそうですか、所謂壮士と言われる人達の活動はどちらかと言えば政治的、軍事的な色彩が強かったようです。
拙文をお取り上げ頂き、お恥ずかしい限りです。
”壮士”と言われる人たちは、小物から、大物までいたようですが、頭山満さんや、宮崎滔天さんのような(お会いしたことはもちろんありませんが)、日本国を思い、東亜を思い、広く世界がいかにあるべきかを思い、かつ懐の深い、大海、泰山のような人物が、現在の日本のどこを見回してもいないような気がするのですが。私の視野狭窄、不勉強かもしれませんが、残念でなりません。
彼らの人的魅力が孫文や、2人のボースなどを引き寄せ、それぞれの建国、独立の拠点に日本を選ばせた一因ではないでしょうか。
「1年先を思えば稲を育てろ、10年先を思えば木を育てろ、100年先を思えば人を育てろ。」という言葉をどこかで聞いたことがありますが、お受験の勉強だけでなく、司馬遼太郎の言う所の「持ち重りのするほどの自己」をもった人間を育てる”学問”が求められているのではないでしょうか。
再びの駄文、失礼を致しました。