普通のおっさんの溜め息

戦前派から若い世代の人たちへの申し送りです。政治、社会、教育など批判だけでなく、「前向きの提案」も聞いて下さい。

占領軍へも慰安婦

2007-05-17 06:17:04 | 韓国

私たちの英字新聞輪読会の資料に占領軍へも慰安婦の記事があったのでその日本語訳の概要を紹介する。

Occupation forces used 'comfort women'
(Student Times 5月11日)

降伏後、占領軍当局の黙認のもとに日本は占領軍の兵士のために戦時中と同じような慰安婦システムを作った。

記録によると1945年8月に、占領軍が日本に入ってくると共に、売春宿は競争のように開店した。

茨城県警の正式文書には、、
悲しい事だが、我々警察は普通の日本女性を護る為に、占領軍のために経験ある女性を用いて慰安所を作らねばならなかった。

日本の代表団が、降伏、占領条件を交渉する一日前の1945年の8月18日に内務省から命令が来た。

警察は直ぐに作業にかかり、売春宿は9月20日に営業を開始した。
警察と東京のビジネスマン(原文のまま)は政府の資金を受けた特殊慰安施設協会(RAA)のもとで売春宿のネットワークを作った。
と記されている。

最初のRAAの売春宿は、38人の慰安婦がいたが、高い需要で直ぐに100人まで増加した。
(彼女等が相手にした顧客の数とか料金など書いてあるが余りに酷い内容なので省略する。)

RAAの広報担当の記憶によると、急激な需要増のために、売春宿の経営者は認可を受けてない売春婦を広告で集めることを余儀なくさせられた。
(注:当時の日本にはまだ公娼制度があり、ライセンスを持った女性は性病予防のため定期的な検診を受けさせられていた。)

一人の女性がRAAに応募したが、慰安婦以外の職が無いと告げられ、それに応募する事をを勧められた。
彼女は売春宿が開店の数日後自殺をした。

1945年の終わりに、占領軍の兵士の数がピークの35万に達した時、RAAの売春婦は7万人に達した。

それに対してある歴史学の教授はその数は立証するのは難しいが、RAAは全体の一部に過ぎず、正式のシステム以外に働く女性はそれ以上の可能性があると言っている。

売春宿の存在が明らかになることは、帰国した占領軍を困った立場にすると言う懸念があった。

それで1946年の3月にマッカーサー将軍は、全ての売春宿と慰安所をオフ・リミットにし、RAAは直ぐに潰れた。
(つまりこの文書によると、1945年9月にRAAが発足し、そこで働く売春婦の数が1945年の終わりに7万にまで膨れ上がり、翌年の3月に潰れたことになっている。)

 同教授は言っている。
マッカーサーの最初の心配は多分モラルの問題では無かったのだろう。
何故なら、それまでに米軍の兵士の1/4は性病に罹っていたから。

全国的なオフ・リミット政策により15万人の女性が仕事を失った。
(ここでいきなり15万の数字がでてくるが、同教授は非公式な慰安婦や街娼を含めて言ったのか?)

その大部分は非合法に兵士達にサービスを提供し続けた。
彼女らの多くは極貧で性病を持っていた。(AP)

私達は戦後の工場の復旧に忙しく、私の家や工場とも占領軍の基地と遠く離れており、占領軍兵士相手の街娼がいたのを知っている位だ。
そのため、この文書の慰安婦の数などの内容の正否や、文書自体への意見についてコメント出来る立場にはないので、資料の内容をそのまま紹介するのに留めて置く。

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2 コメント

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Unknown (fuyuneko)
2007-05-17 09:24:51
慰安婦は戦時中はどこの国でもあったわけであり、日本がとやかく言われる筋合いはないわけです.戦時中の性犯罪を防ぐための「犯罪抑制装置」の一つみたいなものですから.占領下に慰安所がたくさんできたのもこの抑制装置が機能することを期待したわけですから.ベトナム戦争時も同じ.慰安所が運営されているときには、お客の兵士は無防備になるので、入り口には兵士が警備に当たっていたわけです.「戦争の暗部」として本来は兵士の名誉のためにも表に出さず、研究者の間で研究すべき対象を日本バッシングのために表にさらした半島、中共.自分達にも非があるネタでバッシングすると火の粉が降り注ぎますぞ!
返信する
fuyuneko さんへお礼 (mutouha80s)
2007-05-18 21:22:21
たびたび貴重なコメントを頂きました有り難うございました。
今後とも気づきの点が有りましたら、ご遠慮なくご指摘下さい。
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