6月23日の沖縄慰霊の日、遠くの地から黙祷を捧げました。これからもこの日がくれば、沖縄の人たちと一緒に戦争の犠牲となられた方々のご冥福を心からお祈りし、黙祷を捧げ続けたたいと思います。
先日、テレビ番組で、沖縄にある慰霊碑の実態調査が初めて行われたとありました。その数は440、うち1割に当たる39の慰霊碑が管理できていない状態とありました。今は管理されている他の慰霊碑も早晩管理ができなくなるのではともありました。
地域ごとに管理されているそうですが、管理されるみなさんが高齢となられた事と、若い人たちが遠くへ出て行き、狭い地域に後を継ぐ若い人が少なくなったためやむを得ず放棄されているといいます。
時の流れは早いもので悲惨な沖縄戦の苦しみや悲しみも時とともに風化しています。当時、沖縄戦争を体験した人も、今は沖縄県民の17%だとありました。戦争を知らない世代が増えているのです。
碑には、顕彰碑、記念碑、慰霊碑、歌碑などたくさんあります。ほとんどは台座の上に碑文を刻んだ主柱が載っています。その碑の下には資料等を入れているものあります。碑についてのわたしの知識はそのくらい、時にそれらの碑を興味を持って見つめるだけでした。
戦争当時、大部分の沖縄県民の皆さんが嵐のように飛び交う砲弾の雨をくぐり抜け、兵と一緒に南へ南へと追いつめられて食糧も医薬品も尽きる中、やっとの思いで近くのガマ(自然の洞窟)に隠れたそうです。米軍は掃討のためにそのガマの中に誰がいようとお構いなしに、手榴弾を投げ込み、かろうじてガマを出てきた人がいれば火炎放射器の火を浴びせたそうです。
沖縄復帰後に1フィート運動などで集められたフイルムには、その時のようすが生々しく写しだされています。
沖縄の慰霊碑にはガマやその付近で集められた身元の分からない戦没者の多数の遺骨が納められているとありました。地域の人たちが心をこめてその碑を守ってこられたのです。
テレビで初めてそのことを知りました。私の知る碑とは全くその意味合いが違っていました。はずかしくなりました。沖縄の慰霊碑は多くの戦没者のお墓だったのです。
暗い戦争の悲惨な思いを伝えるガマ。戦没者を悼む本土の碑とは全く趣の異なる沖縄の多くの慰霊碑。しっかりと守る。心から平和を願う私たち日本人の証しだと感じました。
私たちは平和を願い、その証しとして沖縄の慰霊碑をしっかりと守り続けなければなりません。
最後にお願いです。過去の戦争の責任の一端は国にあります。慰霊碑を守る。沖縄の心を守る。わずかな費用でできることです。狭い地域の住民に委ねるのではなく、行政での対応を切にお願いします。
それは、日本国民全員の義務でもあると信じています。