昨日、伊吹山のお花畑をハイキングした帰りの高速道路の車中、毎土曜日に放送しているABCラジオ「中原秀一郎のミュージック写真館」の特集は
「TOKIOから40年、1980年代の沢田研二。」えッ!ジュリーの特集!ラッキ~ 隣で運転中の旦那が、良かったね~っと笑っております。
土曜日の夕方5時頃に車に乗っていたら、必ず聴いているこの番組。流れるのは懐かしの名曲から、いま流行りの曲まで、パーソナリティーはどうやら私よりは少し上の年齢らしい。前にブログに書いた「24枚目の曲・ヤマトより愛をこめて」はこの番組で流してくれていた。(必ず、曲の作詞家、作曲家、編曲家、リリース年代まで詳しく紹介する)
番組内でいつも、人気アーティストを一人取り上げて特集する企画では、当然だけど すご~くそのアーティストを褒めるので、そこまで誉めそやすほど、凄いアーティトでもない。と思ったこともあったりして・・(^^ゞ
今回は1980年代前半のジュリーを取り上げたところが、他と違うと思う、この企画。マニアなファンなら番組で語られたことなどは、すでに知ってることが多いのだけれど、曲が影響を受けたサウンドまで語られたところが目新しかった。
ジュリーならば、真面目に耳を澄ませます!メモも用意して・・ ところが、道路交通情報がジュリーの歌声を度々邪魔をする、イラァ~ッ おまけに、わざわざ車内でメモったのに、ラジコで再び聴けるやないか、な~んだ。(聞き逃しは3日まで)
放送したその内容は、そこは間違えてる、と思う所もありました。
中原秀一郎のミュージック写真館
2020年8月1日
「TOKIOから40年、1980年代の沢田研二。」
「TOKIO♪」
この曲は1980年にリリースされたシングル。
作詞は糸井重里、作曲は加瀬邦彦、編曲は後藤次利
ジュリーの愛称で親しまれている沢田研二は
1967年、ザ・タイガースのボーカルとしてデビュー
現代も第一線で走り続ける、
トップアーティストの1人です。
TOKIOは沢田研二の代表曲、赤と白のパラシュートを
背負った派手な衣装と、当時の人気を集めていた
テクノポップサウンドで話題を集めました。
あの斬新な衣装はジュリーのアイデアで
当時の金額で250万円もかかったそうです。
沢田研二はTOKIOの大ヒットを皮切りに、次々と
話題のシングルをリリース、アーティストとして
新たなステージを迎えて、1980年代前半の歌謡界の
中心的存在として活躍しました。
そこで今日は「時代を変えた一曲、TOKIOから40年
1980年の沢田研二」と題して、1980年代の歌謡界を
代表するアーティスト、80年代ヒット曲を
聴いてまいりましょう。
お送りするのは「恋のバッドチューニング」♪
昭和55年、1980年にリリースされたシングルです。
作曲 加瀬邦彦、作詞は糸井重里。編曲は後藤次利
前の作品TOKIOから、わずか4カ月でリリースされた
シングルです。
TOKIOと同じスタッフで製作されました。
1960年代後半に、イギリスを中心に人気を集めた
グラムロックに影響を受けた1曲です。
沢田研二は白と黒のビニールで作ったスーツに
黒のサングラス、透明のギターを持って登場
途中でサングラスを取ると、瞳が青色になって
おりました~驚きましたね!
当時としては珍しいカラーコンタクトをつけていたんです。
ただし、まだカラーコンタクトの技術が
未熟だったため、長い時間つけているのが
無理だったそうです。
沢田研二はこの曲で、シングルの売上が
1000万枚を越える偉業を達成しました。
それではここで、沢田研二のプロフィールを
簡単に紹介しましょう。
昭和23年6月25日生れ、鳥取県出身
10代半ばから、京都や大阪を中心にバンドで活
動した後 上京、昭和42年、タイガースの
ボーカルとしてシングル「僕のマリー」
でデビュー、その後「シーサイドバウンド」
「モナリの微笑」など多くのヒット曲をはなちました。
昭和46年、タイガースの解散後、ソロアーティスト
として活動をスタート、
「時の過ぎ行くままに」「勝手にしやがれ」など次々にヒット曲を
リリースして、1970年代を代表するアーティストとして、
歌謡界を牽引。現在も第一線で活動を続けています。
私達の世代ではまさに永遠のスターですね。
今年、令和二年には、山田洋二監督のキネマ神様に
3月に亡くなった、志村けんの代役として
主演を務めることを表明して、話題を集めました。
次にお送りするのは沢田研二で「ストリッパー」♪
1981年にリリースされた沢田研二のシングル
作詞・三浦徳子(よしこ)作曲・沢田研二、
編曲・伊藤銀次です。
ストリッパーは当時テクノとともに、
アメリカやイギリスで人気を集めていた
ネオロカビリーから影響を受けたロックナンバー。
作曲はジュリー自身が手掛けています。
沢田研二は、この曲を自分の名義ではなく
ジュリー&エキゾティクスという名前でリリースしました
沢田研二はTOKIOのリリースのタイミングで
これまで、バックバンドとして楽曲の製作から
ライブでレコーディングで共演していた
井上バンドを解散。
80年からエキゾティクスを率いて活動していました
メンバーはベースでバンドリーダーの吉田建、
ギターの柴山和彦と、安田尚哉、キーボードの西平彰
ドラムスの上原裕の5人です。
全員、スタジオやライブで活躍するトップミュージシャンで
特に、吉田建と西平彰はともに作曲家・編曲家
プロデューサーとして、1990年代以降も多くの
アーティストを手掛けるようになっていきます。
次にお送りするのは「6番目のユウウツ」♪
1982年にリリースされたシングル、作詞は三浦徳子
作曲は西平彰、編曲は白井良明です。
同じ時期に人気を集めていた、デュラン・デュランや
カルチャークラブなど、イギリスの
ニューロマンティックに影響を受けた、
ダンサブルなロックチューン
サビの部分のハッハッハッという掛け声とともに
コブシを振り上げる振り付けが人気を集めました。
次にお送りするのは「晴れのちブルーボーイ」♪
1983年にリリースされたシングルです。
作詞は銀色夏男、作曲は大沢誉志幸、編曲は大村雅朗です
当時、人気を集めていたイギリスの
ニューロマンティックのバンドの
アダム・ジ・アンツに代表される
ジャングルビートを取り入れた一曲です。
この曲に合わせて演奏する時のセットは
ジャングルをイメージして作られ
沢田研二とエキゾティクスのメンバーは
軍隊のようなアーミールックで登場しました。
さて「時代を変えた一曲、1980年代の沢田研二」
最後にお送りするのは「背中まで45分」♪
1983年にリリース、作詞作曲は井上陽水、
1982年井上陽水が全曲作詞・作曲を手がけたアルバム
「MIS CAST」を製作。そのアルバムから
シングルにリリースされた、幻想的なバラードです。
チャートは最高20位と、大ヒットとは
なりませんでしたが、沢田研二の1980年代を
代表する曲として、現代も沢田研二の
多くのファンに愛されています。
この時間は1980年代の歌謡界を代表する
アーティストの、沢田研二をして紹介まいりました。
昭和55年のTOKIOからスタートして昭和58年の間に
12枚のシングルをリリースしました。
どの曲も楽曲はもちろんのこと、
ステージの演出や衣装、時代の最先端の
サウンドやファッションを取り入れて
新しい事に挑戦し続けた4年間でした。
その圧倒的なパフォーマンスによって
50年以上に渡る芸能の中でも、私達に
もっとも強烈な印象を残したのではないでしょうか。
1980年代前半は、元タイガースのジュリーを越えて
沢田研二という一人のアーティストが花開いた
時代だったのではないでしょうか
今までの殻を破るという事に、大胆に果敢に
挑戦した沢田研二、それを見事に成し遂げました。
改めて大きな拍手を送りたいですね。
この時間は「次代を変えた一曲、TOKIOから40年、1980年代の沢田研二」をお送りしました。
運転手が隣にいるので「6番目」で、ハッハッハッと ふり上げたいコブシを、振り上げられなかったのが残念でした。
影響を与えたという、アダム・ジ・アンツとか、デュラン・デュラン、カルチャークラブの名前がとても懐かしかった。パーソナリティの中原秀一郎さんは、昔はヤングリクエスト、ヤンリクを担当したこともあるそう。高校時代からずっと勉強もせず、夜中までヤンリクでジュリーの曲が流れるのを待ち続けた私には、あの頃の青春が蘇るようで懐かしいです。ヤンリクのお蔭で、幅広く洋楽も覚えました。
ただ、そこは間違っていると思ったのは、井上バンド解散後の80年のバンドは「オールウェイズ」次に「エキゾティクス(81~84年)」です。「オールウェイズ」は、吉田建さんが自ら経緯を語っていました。ジュリーのプロフィールでは、PYGが無視されていて、小さいことだけど気になりました。
80年代前半曲だけど「背中まで45分」は取り上げられないと思ったら、最後の曲が「背中まで45分」。幻想的な曲とのナレーションに、退廃的ではあるけれど、私はそういうイメージは持っていなかった・・、曲調やアレンジは確かに幻想的です。
横で旦那が「西川のりおが歌っていたな~」っと笑う。この私が忘れていたことを、なんであんたが覚えているのよ! よっぽど印象的やったんやな・・