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第48回、その① 松浪先生は去って行きました

2020年08月07日 | 「はね駒」松浪先生のお言葉

「松浪先生のお言葉」お久しぶりの更新です。松浪先生の出番は第48回を限りに終わります。(この後は回想シーンなど)お別れが寂しくて伸ばし伸ばし、更新が遅くなるばかりでしたが、いい加減にこの辺で しばしのお別れをすることにします。

まだ子供だと思っていた おりんちゃんの、松浪先生への思わぬ積極的で真摯な尊敬と愛情と、それに対する松浪先生の何かを秘めた強い眼差しが交錯して、思わずドキドキする展開になりました。

二人の心の内を物語るような、背景に流れる哀切な音楽が いっそう切なく響いて、二人の姿を見守る私達も心の動揺が止まらない。病に倒れた傷心の松浪先生の綺麗な寝顔が、この物語の行方を いっそう不安にさせる美しさでした。




前回、おりんは、病に倒れた松浪先生を心配し、先生宅で看病しようとするが、母には「人には節度というものが有る」と言われ、先生には「ここにいてはいけない。帰りなさい」と強く諭される。

松浪先生の家の前で、帰ろうとしない おりんを気遣う母の八重。

(り)母ちゃんが私に言いました。人には節度ってものがあるんだって。母ちゃんがここに来たら、きっと私を𠮟ると思います。ぶたれるかもしれません。ほんでも私はいいます。ぶたれても来ます!

(松)帰りなさい。

(り)先生!
親に背いてはいけない、お母さんのおっしゃることを大事にしなさい。


(り)先生!
わたし、今、親の言う事よりも先生の方が大事です。
先生、目をつぶって下さい。
そしたら私の事見えないでしょ。私、黙ってます。私何も言いません。見えなくて声も聴こえなければ、いないのと同じでしょ。

(先生の側から、離れて座るおりん。)

私はここにこうして黙っています。私はいません。先生、目をつむっていて下さい。ここには誰もいません。
(布団から起き上がる松浪先生。)

(り)先生起きてはダメです。ダメ!
あ、先生 ダメです。
(おりんの腕を掴む先生、切ないメロディーが流れる。驚くおりんを、じっと見つめる先生。)


(見つめたあと、我に返ったように)


(松)いない人間が手を出しちゃダメじゃないか。
再び、横になり目を閉じる。


(り)先生・・
(流れる切ないメロディーが、おりんの心の内を語るかのよう。)

そっと立ち去る、母の八重。
(八重)自分独りでおっきくなったような顔をして、エラそうに。


涙をこらえる母。



続く

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渚のラブレターバンド

2020年08月07日 | JULIE メモリーズ

8月2日の『中原秀一郎のミュージック写真館「TOKIOから40年、1980年代の沢田研二」』の中で語られていて、以下は おかしいと思った箇所

『沢田研二はTOKIOのリリースのタイミングで、これまで、バックバンドとして楽曲の製作から、ライブでレコーディングで共演していた井上バンドを解散。
80年からエキゾティクスを率いて活動していました。メンバーはベースでバンドリーダーの吉田建、ギターの柴山和彦と、安田尚哉、キーボードの西平彰、ドラムスの上原裕の5人です。』


正確には、井上バンドから80年にバンドは「オールウェイズ」に変わり、さらに翌1981年に「渚のラブレター」の時に「エキゾティクス」に変わりました。

J友さんから⇒『大人の事情があったそうですが、一時「渚のラブレターバンド」と称していたのは、TVで「渚のラブレター」を披露する時に、命名が間に合わなかったからだとジュリーがTVで話していたそうです。「バイバイジェラシーバンド」はスポンサーの事情ですが、「夜ヒット」のDVDに収録されているのはラッキーです。』

ついでに「吉田建さんは健さんではありません。お名前の由来はお父さまが、でぇく(大工)だったから」とお知らせを頂きました。訂正しておきますm(__)m

コメ欄には⇒『バイバイジェラシーバンドは、夜ヒットのスポンサーがライバル会社の化粧品会社の為に「渚のラブレター」が歌え無くてB面の「バイバイジェラシー」を、歌った為やったと思います😅夜ヒットのDVDの「バイバイジェラシー」歌詞がズタボロですわ😶』だそうです。

夜ヒットのDVD、わたしは もう長い事見てないです。

ジュリーは長い事、CMソングを歌う事に抵抗があったようですが、まさか「夜ヒット」で歌えないとは考えていなかったでしょうね。1981年5月頃

 

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