俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

幸福の総量

2016-05-06 09:59:17 | Weblog
 「最大多数の最大幸福」という考え方が正しいとは思わないが、世間では広く受け入れられているからこそ多数決も広く支持されているのだろう。私はこの考え方を好まない。これが少数者の犠牲を前提とするからだ。多数者の意向が尊重される時、少数者の意向は蔑ろにされる。多数者であるスンニ派の幸福はしばしば少数者のシーア派の不幸と表裏一体だ。
 そもそも幸福を基準にできるかどうかさえ甚だ疑わしい。カミュの「カリギュラ」にこんな言葉がある。「人は死ぬ。だから不幸だ。」簡潔過ぎてこれだけでは意味が分からないだろうから、ショーペンハウエルの言葉から、必ずしも正確ではない引用をして解説をする。「人生には様々な幸福がある。しかし人が最後に迎えるのは死だ。究極の不幸である死が避けられないのだから人生は幸福ではあり得ない。」
 こんな事情もあり私は幸福を基準にすることを諦めていた。しかし心境に変化が生じて「幸福の総量」を基準にできないものかと考えるようになった。
 多数者の幸福よりも幸福の総量のほうが重要だろう。これは少数者を犠牲にして多数者だけを優遇する教育よりも全体のレベルアップこそ重要であること、あるいは一部の人に貧困を押し付けた豊かさよりも社会全体が豊かになるべきだということとも似ている。多数者に迎合するよりも総量で考えたほうが包括的とも思える。誰の、ではなく総量としての幸福を基準にできないものだろうか。
 このことは意外と簡単に数値化できる。6割を占める多数者が1割豊かになって4割を占める少数者が2割不幸になるなら全体は2%貧しくなる(0.6×1.1+0.4×0.8=0.98)。これよりも全体が1%豊かになったほうがずっと良いと私は考える。全体の豊かさよりも多数者の豊かさが優先される社会は歪んでいるのではないだろうか。何でも多数決で決めようとする社会とは実は多数者のエゴが罷り通っているのではないだろうか。
 これまで私は老春を楽しむつもりで節制と蓄財に励み、100歳まで特に不自由無く暮らせるメドを立てたつもりでいた。ところが思わぬ病のために余命数か月と宣告されてしまった。私にはどんな余生が可能だろうか。誰もが考えることは、余生を少しでも楽しむことだ。しかし健康を害した私に可能な楽しみは余りにも低レベルだ。旨い物を食べることさえできない私が贅沢をしても少しも楽しくない。むしろ味覚を楽しめる人に美味しい料理を食べさせたほうが良いのではないだろうか?
 私の友人の父は晩年に私と同様に食べる能力を失った。彼は死の直前まで、親しい友人を招いて宴会を開き続けたそうだ。自分が楽しめない分、友人を少しでも楽しませたいと考えたのだろう。
 こう考えたら自分で楽しむよりも、最後に散々迷惑を掛けた親・兄弟に資産を残して少しでも楽をさせた方がずっと良いと思うようになった。
 幸福には不思議な性質がある。通常の資産を分割すれば一人当りの取り分が減るのに、幸福を共有すれば総量が増える。私の不幸と引き換えに幸福の総量を増やすことはできないものだろうか。この課題を解くことが私の最後のデーマではないかとさえ考えている。