俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

直進しない世界

2016-05-21 10:10:22 | Weblog
 一昨日(19日)放射線による治療が突然中断された。治療を待っていた私は予定時刻の10分前に主治医から治療の中断を告げられた。これは予想されていたことだった。放射線が肺の細胞を破壊する危険性は最初から危惧されており、危険な状態になれば中断または中止すると予め告げられていたからだ。
 しかし予想外の展開になった。中断する理由は悪化ではなく、主治医の想定を大幅に上回る治療効果だった。治療の状況を把握するために前日(18日)に実施したCTによる検査の画像を見ると、癌細胞も肺炎の症状も顕著に縮小していた。だからこそ治療方針の見直しが急務になった。
 私自身もその兆候を感じていた。先週から水分の摂取可能量が明らかに増えていたし、今週になってからは少量の固形物を食べることも可能になっていたからだ。普通に考えればこれは素晴らしいことだ。「治療不可能と思われていた癌が治癒に向かいつつある」と喜んで良い状況だ。しかしそう単純には喜べない。もし傾向があってもそれが持続するという保証などどこにも無い。
 私の病状は変動を続けている。発病直後の食べられない状態から徐々に回復した後、抗癌剤の副作用で再び食べられなくなった。抗癌剤の毒性が薄らいで食べる能力が回復しつつある時に再入院をして再び食べる能力を失ったがその後は一旦回復へと向かった。しかし病状の悪化に伴いまず固形物が、続いて液体さえ摂取困難になった。放射線治療の開始から約2週間を経て徐々に好転して現状に至っていたのだが、これまでの経緯から考えても直線的な回復は期待しにくい。諸刃の剣である放射線が摂食力を破壊するばかりではなく致命傷をもたらす可能性さえ考慮せざるを得ない。
 私の病状と同じように、世界の進展もまた直線的にではなく波型になったり循環したりするものだろう。我々は中学校で数学的帰納法を学んだ。これは数値nで成り立つ数式がn+1でも成立するなら任意の数値においても成立し得るという数学的事実だ。これは数学的には正しくても現実的には実証困難だ。世界は固定しておらず変動を繰り返しているからだ。
 今、好天であれば3分後も好天と予想できる。1時間後もやはり好天だろう。しかし3日後ならどうだろうか。好天であるとは言えまい。天気は直線的には進行せず流転を繰り返す。転機は必ず訪れる。
 直進を想定するのは人間に備わった悪い癖だと私は考える。株価が上がっている時には強気で下がっていれば弱気になる人はそんな悪癖に凝り固まっている。`What goes up must come down'(ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの`Spinnnig Wheel'より)のほうが正しいように思える。
 一時期「カタストロフィーの理論」が注目されたし、ニーチェは世界を循環するものと考えて万物の永劫回帰を説いた。私はこれらを信じる訳ではないが、盛者必衰は理(ことわり)だと考える。未来が現在の延長線上にあるとは考えにくい。断絶することはなかろうが、真っ直ぐにではなく右往左往しながらも辛うじて進展するものだろう。歴史は法則に基づいて進歩するものではなく試行錯誤を経てヨチヨチ歩きをするものなのではないだろうか。
 私の病気の話に戻るなら、良くなっているという現状は決して未来を保証するものではない。放射線という怪物が作り出す徒花(あだばな)ではないかと疑う必要がある。一か八かの治療に賭けた以上、失速の可能性は避けられない。人類は世界が直進するという幻想に捉われ易いからこそしばしば糠喜びをする。