俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

謝罪

2016-05-09 09:23:42 | Weblog
 決して特定の国民を意識して書いている訳ではないが、謝罪とは要求して獲得すべきものだろうか。私個人としては謝罪も感謝も要求したことが無い。こちらから要求する迄も無く、相手が必ず自主的に謝罪するからだ。
 サミットを機にオバマ大統領が広島を訪問するらしい。この時に「平和団体」や右翼は謝罪を要求するのだろうか。そんなことは日本人として恥ずかしいことだ。謝罪するかどうかはオバマ大統領が決めるべきことであって他人がとやかく言うことではあるまい。
 済んだことは仕方がない。もしその加害者と被害者が同席すれば、加害者がすべきことは謝罪であり被害者がすべきことは許容だろう。加害者が「許せ」と要求し被害者が「謝れ」と要求するのは狂気の世界ではないだろうか。
 感謝も同様だ。感謝されれば嬉しいが感謝されなくても怒ることはあるまい。元々感謝されることを目的にして行動した訳ではないのだからたとえ感謝されなくても気にする必要は無かろう。
 日本の「謝罪外交」に批判的な人は少なくない。しかし私はそれで良いと思っている。謝罪を要求しない相手にこそ自主的に深く謝罪すべきだろう。1994年にマレーシアを訪問して例によって挨拶もそこそこに謝罪を始めた村山首相(当時)に対してマハティール首相はこう答えたそうだ。「いつまでも謝罪を続けるのではなく未来に向かって進むべきだ。」加害者側は要求されなくても謝罪し被害者側は許容する。これがまともな関係だろう。こんな美徳を見失った人が多過ぎる。
 もしスマホ自転車にぶつかられたら危険運転という行為を咎めるだろうが謝罪要求などしない。私の側に損傷があったなら損害賠償を求めるかも知れないが物損以外の補償を求めようとは思わない。
 謝罪にせよ感謝にせよどちらも感情に基づく。他人の感情を強制することなどできっこない。「喜べ」とか「悲しめ」とか命じられても実行できないように謝罪も感謝も強制できないし、強制しようとすれば却って反発を招くだけだ。
 「謝れ」という言葉にはクレーマーによる「誠意を見せろ」と類似した打算を感じる。謝らせることが目的なのではなく違った目的を持っていることが多い。
 仕事上、何度も苦情対応をした。まともな人が相手であればこちらが非を認めて適切な賠償を提案した時点で解決する。解決できないのはまともではない人が相手の場合だけだ。「すみませんでは済みませんよ、あんた。」と凄まれても困る。こちとしては態度を一変させて敵対的に対応せざるを得なくなる。そんな時には警察や弁護士などを使って解決を図ったものだが本来あるべき解決策とは懸け離れた例外的な対処だ。
 路上で喧嘩をしている人の多くは双方が相手の非を咎め合う。どっちもどっちの低レベルな喧嘩だ。どちらにも非があったとしか思えない。