俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

厳密な学

2016-05-11 09:37:01 | Weblog
 「厳密な学としての哲学」はフッサールの著書だがこの本によって哲学が厳密な学になったとは思えない。人文系の学問は本質的に厳密な学たり得ない。
 科学が厳密な学たり得るのは実験と再現という手法が可能だからだ。同じ条件を設定すれば同じ原因が同じ結果を招く。このことが科学的な証拠となって、客観的かつ普遍的な事実として承認される。
 人文系に限らず社会学系もまた厳密な学たり得ない。経済学において過去と同じ条件を作ることは不可能だ。株価の暴落の原因は様々かつ多様であり、同じ条件が再び発生することは絶対に起こらない。政治学においても同じことが言える。
 実験できるということが科学の優位性だ。議論が分かれれば適切な条件を人工的に作って実験をすればどちらが正しいか一目瞭然だ。空理空論を弄ぶより遥かに建設的だ。
 実験不可能な科学分野では統計が活用される。気象については膨大なデータが蓄積されているからデータに基づいてある程度正確な予想が可能になる。しかし地震や噴火のデータは余りにも乏しく到底データベースとして活用できるレベルに達していない。だから地震予知は現時点では科学の名を騙るオカルトにしかならない。これほど貧弱なデータに基づいて地震予知ができると主張して3,000億円もの研究費を分捕った自称科学者は詐欺集団であり、予算を付けた役人も含めて責任が問われるべきだろう。
 私が心理学に見切りを付けたのは統計に対する不満が大きい。社会心理学であれば統計的事実は有効だ。しかし個人心理学にそれが流用されれば納得できない。例えば人が描く動物の絵は90%が左向きだと言う。この事実は人を大衆として扱う場合には有効なデータではあろうが個人心理学にとっては必ずしも重要とは思えない。多分、顔から描き始めることがこの原因であり90%がそうするという事実よりもこのことのほうが個人心理学にとっては重要と思える。
 残念なことに医学もまた科学のレベルに達していない。データは大量にあるのだが殆んどが曖昧なレベルに留まっており、因果を特定できるレベルには達していない。これは人体実験をできないことが大きな原因だろう。ネズミには有効な治療が人間にも有効という保証は無いし、人の個人差を考えるなら人体実験を欠いた治療は心許ない。決して好ましいこととは思わないが、人権意識を極端に欠いた中国の医療が世界の最先端を歩むことは決して遠い未来のことではあるまい。
 日本の医療レベルは決して高くない。風邪症候群に対する治療法でさえ不充分だ。精神疾患への対応に至っては世界最低レベルであり入院患者の数だけが世界最高だ。
 本来科学を目指すべき日本の医療がオカルトに留まっているのは、まるで茶華道の徒弟制度のように時代遅れのドンが学会を支配していることが主因であり、厚生労働省や製薬業界との癒着が副因だろう。また大スポンサー様の顔色を窺うばかりのマスコミの責任も決して軽いものではあるまい。人の生死を左右する医学が低レベルに留まっていることは全く残念だ。
 医学に過剰な期待をすべきではない。過剰に期待をすれば贔屓の引き倒しになる。医学は決して厳密な学たり得ない。目標とすべきなのは気象学のような統計に基づく実学だろう。だからこそ現在横行しているデータの捏造とは逆に、データをありのままの事実として受容する謙虚さこそ求められるべきだ。